薔薇の皇帝 05

023*

 皇歴七〇〇〇年。
 一国が血に染まり、その名と共に滅びた。因習にとり憑かれた狂信者の国だと皇帝はかの国を断じ、国民を皆殺しにした。
 その際のことである。
「いない?」
 率いてきた兵士からの報告に、ロゼウスは眉を潜めた。つい先頃の大虐殺を目にしている兵士は、自分が皇帝の不興をかったのかと顔面蒼白になりながらも報告を続けた。
「は、はい。現在三十人の兵士を捜索にあたらせておりますが、皇帝陛下が仰ったような子どもはどこにも。他に数名の少年少女を保護しましたが、そちらの中に該当の人物がいらっしゃらないかご確認していただければ……」
「ふむ。まぁ、私の証言も曖昧だったしな」
 割合整った顔立ちだったが全身返り血にまみれ、幼さゆえに性別の区別もつきにくかった子どものことを考える。
 滅ぼした国の国民は皆殺しにするが、彼らに奴隷として買われ虐げられていた人間までは殺すこともないだろう、と。皇帝は残った人々の保護を兵士たちに命じていた。とある貴族の屋敷の中、震えていた子どもがその中にいた。
「まぁ、そのうち見つかるだろう。見つからずとも……おそらく、そう悪いことにはなるまいよ」
「はぁ、そうですか」
 普通そこは心配してしかるべきだろうと兵士は思ったが、皇帝はあえてそこまで執拗な捜査を強制しなかった。国民の死体の山の中からまったく関係ない生き残りの人々を引っ張りだし、滅びた国を後にする。
 皇帝には未来が見える。全てではないが、一部は見える。一部しか見えないので、その条件を絞る。
 ロゼウスが見る未来とは、逆恨みで無関係な民を大勢巻き込むような、将来的に防ぎようのない大犯罪をおかす者の未来だ。そういった人物がいるのであればあらかじめ罪の芽を断っておくが、そうでない場合は放置する。死を選ぶのも、他者の手を借りず家に帰りたいと願うのも本人の自由だからだ。
 一つのことはわかるが、他のことはわからない。皇帝などそんなものだ。つまり、普通の人間と何一つ変わりはしない。己にとっての狭い視野の中でしか物事を判断できず、救えない者までその手に救おうとするほどお人好しではない。
 だが、もしも。
 もしもこの時、ロゼウスが姿を消した子どもを最後まで追いかけていたのなら。
 その後の彼らの運命は、大きく変わったかもしれないのだ。

 ◆◆◆◆◆

 一時の救いを得ても、何も変わりはしない。
 捜索の兵士たちの目をかいくぐり、少年は国を離れた。
 自分がどこから来たのか、もともとどんな暮らしをしていたのか、もはやさっぱり覚えていない。
 フィルメリアでサデュケニィス=レッセンフェルから、他国の別の貴族に売られた後の話だ。買われた先の貴族が皇帝に殺され、フィルメリアから回収の手が伸びる前に逃げだしていた。
貴族の屋敷から服だけを持ちだして道を歩く。無一文でこれからどうしようというところだったが、幸か不幸か彼の顔は目立ちすぎた。
国境さえ越えて隣国の大き目の街に入ってしまえばこちらのもの。
「おや、どうした坊や。こんなところにそんな格好で、一人で」
 男は貴族だった。穏やかな声で話しかけてくる。
「どこかに親はいるのかい?」
 いない。親も家もない。
「ならば、私と共に来るかい?」
 悪い遊びをしたがる人間はいるもので、そういった者を必要とする人間もいるということか。酒、美食、女。あらゆる遊びを経験した男にとって少年ともまだ言えない年頃の幼児を抱くことなど、禁忌でもなんでもなかった。
 生きるためには必要なことだと、少年は男の手を受け入れる。さすがに汚れたままの身体に触りたいものはいない。侍女たちの手でぴかぴかに磨かれた。
「驚いたな。見違えたよ」
 男は大層喜んだ。幼児を抱くことにも慣れているらしく、金と共に用意していた服を一着そのままくれた。
「君は大層可愛らしい。成長すればさぞや美しくなるだろうな。私にそっちの趣味はそれほどないけれど、上手くやればもっといいパトロンを見つけられることだろう――そう……上手くやることだ」
 男は最後に、そう忠告した。
 孤児の生活などそう良いものになるわけない。そのまま身体で金を稼ぐ日が続く。
 上手くやれ――。その言葉が耳に離れないまま、男に、時には女に――身体を売る。
 中には孤児の命などどうでもいいと思っているような輩に目をつけられることもあって、幾度か危ない目にも遭わされた。顔の良さは時と場合によって有利にも不利にもなった。粗末な身なりをしていても人の注目を集めざるを得ない。
 けれどもう、最初の頃のようなことは嫌だった。
 フィルメリアでわけのわからないことを言いながら自分を殴った男、その後もっと乱暴な人間からどんな目に遭わされたとしても、あの男が一番怖いという思いは変わらない。フィルメリア人の男と、彼が自分を売った滅びた国の男。彼らのことは思い出したくもない。
 何度か危ない目に遭ううちに、少年は自らの非力さを知った。
 あまりにも狭く、薄汚れた世界に自分はいる。
 力が欲しかった。せめて自分の身を守れるだけの力。もはや自分は汚れているなどという感覚もない。そうしなければ生きていくことができなかったから。
 生きていくために汚いことをするのに、理由などいらないと考えていた。幼い子どもはそれに異を唱える感情など持ち合わせてはいない。
どんな卑怯な手段もとれる。貴族の寝所、まともな人間なら口に出すのも憚られるようなこともやった。
生きていけるならばなんでもいい。
 師と出会ったのはそんな時だった。
 師と言っても彼がそう呼んでいるだけ、元は傭兵崩れのチンピラだ。
 酒場で因縁をつけてきた他の客を意気揚々と殴り飛ばしたその男は、男色の幼児性愛者だった。
 腕っ節が強いだけに乱暴なその男は、元は無理矢理彼を襲おうとしたのだ。小さな男の子が好きで好きで仕方ないという男にとって、少年は格好の獲物だった。
 路地裏に引きずりこまれ、服を破かれる。
「ま、待って! 交換条件!」
「ああん?」
 四肢を抑えていた男が顔をあげ、酒臭い息と共に不満の声が漏れる。
「やっていいから、僕に喧嘩を教えて!」
 犯すだけ犯したら騒がれる前に殺すつもりだったのだと後に彼は語った。
 だけどその言葉が面白いから試しに引き取ってみたのだと。
 男は彼を引き取り、体術を教えた。代わりに彼は男に奉仕した。これまで貴族たちに身体を売ってきた経験で、娼婦並の房事の技術がある。
「お前は本当に呑みこみがいいなぁ」
 格闘技を習うようになってしばらくした頃、うっすらと筋肉のついてきた腕を撫でながら、男は幼い少年の口で奉仕を受けながら満足げに呟く。
「だがあんまり今のうちから筋肉をつけすぎるのも問題だ。身体が育たなくなっちまうからな。格闘技なんかやらなくたって、身体さえ育てば人並みの男はビビるもんだ」
 こくりと喉を鳴らして白濁液を呑みこんだ弟子の頭を撫でながら、男は病んだ瞳で笑う。少年は口の端から垂れた一滴を拭った。
「だがお前は、そんなに育ちそうもねぇな。その顔でマッチョなんて洒落にもならねぇ。今が一番可愛いってのに」
「……僕は出来る限り強くも大きくもなりたいですけど……ふぁ、あ」
 男の手が少年の股間に伸びる。つるつるとしたまだ無毛の場所を撫で、その下に指を伸ばす。
「ガキはみんなそう言うな。年とってからお前みたいなお嬢ちゃんヅラがどんだけ重宝するか知るんだ。女は綺麗な顔が好きだからな」
 未発達な性の象徴を指先で弄びながら師は独り言のような呟きを繰り返す。
「ん……んん! や、ぁ……」
「お前も育っちまうのかな。その顔を捨てて」
「あ、……はぁ、ん!」
「俺を置いて……」
 男は少年を自分と向かい合わせ、膝の上に抱き上げた。前を弄りながら、後ろにも指を伸ばす。つぷん、と潜り込んだ指が、小さな穴をゆっくりと広げていく。
「は……うぁ……、ああ、あ……」
 男は中をかき混ぜ、少年の感じる部分を探す。何度も重ねた身体だ。すぐに良いところを探り当てた。
「ヒァ!」
 これまでより一段高い声があがる。
「あ、あ、そこ……いい……」
 悦楽になれた身体は、本来排泄のための直腸を弄られても、その異物感をすぐに快楽へと変えていく。
「ん、んん、もう……」
「さぁて、じゃあ挿れてやるか」
 まだ十にもなっていない少年の身体に、巨躯の男が容赦なくその一物を捩じりこむ。
「あっ――――」
 内壁を抉る熱いものの感触に、少年は言葉を失う。
 男は少年を貫いたまま、その耳元に口を近づけ何かを囁こうとし、
「……」
結局やめた。代わりのように、淫らな熱にうかされる少年に声をかける。
「まったく、お前は本当にいい身体してるよ。その性格も、顔も――本当に、都合のいい」
 あとは二人とも言葉を交わすことなく、ただそれぞれの快楽を貪ることに集中した。

 ◆◆◆◆◆

 男のもとで格闘技を習いながら、徐々に少年は他のものにも目を向け始めていた。
 はじめは料理や掃除、洗濯。それまでその日暮らしを続けていた少年には、どれも必要のないことだった。店で買った生の素材をかじり、服はぎりぎりまで使ってから捨てる。
 性欲処理のついでにやれと言われた料理の腕が本当に駄目駄目だったため、師がこれまでどんな暮らしをしていたのかと少年に問いただしたのだ。そして素性を聞いて絶句した。
 とにかくこれでは使いものにならない、と男は格闘技だけでなく、生きていくのに必要な一通りのことを少年に教えた。
 ひとたび学べば、少年は自力でどんどんものを覚えていく。師である男を簡単に追い越した。
 一つ二つ得意なものがある程度ならば男も気に留めなかっただろうが、ある日彼は自らの弟子の物覚えが良すぎることに気付いた。試しに少しだけ文字を読める程度の学の男が簡単な読み書きを教えると、弟子の少年は数カ月後には、学者にも難解だと言う街の遺跡の古代語を自力で読み解いていた。
「お前は相応の支度さえできりゃあ、学者向きなのかもな」
「学者」
「そうだ。なんでもこの世の真理の全てを解き明かす機関に属する人間をそう呼ぶらしいぜ」
「それ、とっても面白そうです!」
 師と弟子の関係は、三年近く続いた。彼らの始まりを知らぬ者たちから見れば、それは穏やかな日々を送っているように見えただろう。男は少年に格闘技を教え、本を与え。少年はその例に家事を始め男の身の回りの世話をする。
 しかし始まりは、男が少年を犯し殺そうとしたことであり、少年が男に身体を自由にさせる代わりに格闘技を教えろと言ったことであり。
 幸せに終われるはずなど、なかったのだ。

 ◆◆◆◆◆

「それがお前の答か」
 酒瓶片手に、男は余裕を失わずに口を開いた。
「それなりに目をかけてやったつもりだったが、それがお前の答なのか」
「ええ。お師匠様。これまでどうもありがとうございました。だから――」
 少年の手には小さな銃がある。
「死んでください」
 当たり前の頼みごとのようにそう口にした。
「俺らはいつからこうなった?」
「最初から。最初から、捻じれていたんです。ただそれを認めたくなくて、……幸せな振りをしていました。僕もあなたも」
「そうだったな。俺たちは所詮ホモで幼児好きの強姦魔とその被害者だ」
 男はまだ中身の残っている瓶を逆さにして酒を呑んだ。この世で最後の一口をじっくりと味わう。
 その余裕すぎる態度に眼差しを揺らして、少年は言った。
「ここから、何も言わずに見送ってくださるなら、命までは……」
 少年は男のもとで体術を習う間に近所の店の手伝いなどして金を貯めた。数カ月は喰うに困らない金額。それを持って、彼は今夜この街から逃げる。
 表向き良い師弟関係を演じながら夜毎身体を重ねる。その不毛に歪んだ関係を断ち切りたいと願った。
 取引を仕掛けたのは自分だけれど、こんなことを望んだわけじゃない。肌を重ねるたびに自分が欲しかった物は何なのか、少なくとも今のこの状況ではないことに気付いた。
 もともと、数か月程度護身術程度の格闘技を習ったら出ていくつもりだったのだ。二年以上も留まったのは計算外だった。
 その長い期間に、二人の間で何かが変わり始めた。初めはただの取引だったはずの関係が、どんどん妄執めいた、底なしの泥沼のようなものに変わっていく。
 男にとって、少年は弟子でも愛人でもなかった。もっと深い感情を呼び起こさせる何かだ。そして少年は男に対し、親愛と憐れみを抱くようになった。
 だから、離れるしかなかったのだ。
 少年の申し出に対し、男は首を振ってそれを断った。むしろこのやりとりを楽しむかのように、いつものようにふざけた態度で言う。
「殺せよ」
「!」
「俺から逃げるなら、俺を殺すなら、どうせなら殺していけ」
「僕は」
「お前の都合など関係ない。お前はどうあっても俺を捨てる気なんだろう。ならどう言ったって同じ事だ。俺にお前を失わせるくらいなら殺してくれ」
 少年は男がいては生きていけない。彼との生活には何もない。変わりばえのしない日常が続くだけで、穏やかさを得ることはけしてない。
 だが男の方は、少年がいなければもはや生きてはいけない。
「人を撃つ時にはどこを狙えばいいか、教えただろう? お前は銃より剣の方が得意だったが」
 引き金に指をかける。
「なぁ、お前――名前はなんていうんだ?」
 最後に、こんな最期になって。
 男はそう聞いた。
「……わかりません。覚えてない」
「そうか」
 男はずっとそれを聞かなかったし、少年は言わなかった。
 閉ざされた世界だった。
 まるでたった二人だけの。だから相手の名など必要なかったのだ。
 少年も男の名を知らない。
 つまり二人の離別は、そういったところからもたらされるものだった。
「ないなら俺がつけてやろう。これが最後の餞別だ。――ルーティス」
「意味は?」
「知らねぇな。俺の弟の名だ。昔々、お前ぐらいの年頃に死んだ、な。だがそのままってのもいただけないか」
 RURTIS
 人差指で空中に文字を書きながら男は言う。
「そう、真ん中のRを魔術式に読んで――『ルルティス』。これでどうだ」
「ルルティス……」
 少年は不思議そうに繰り返した。初めて味わう音の連なりを自らの唇で確かめる。
 そしてまだ一つ、聞いていないことを思い出した。
「お師匠様……あなたの名前は?」
「ラシェット」
 ラシェット、と少年は唇の中で繰り返す。そしてしばし考えた後にこう言った。
「ならば僕はこれから、『ルルティス=ランシェット』と名乗りましょう。あなたを殺したことを、一瞬たりとも忘れず背負っていきましょう」
「ああ。そうしてくれ」
 銃口の狙いが男の額に定まった。
 そして男は酒瓶を投げ、両手を広げる。
「お前との生活、楽しかったぜ。ルルティス」
 発砲音と共に血が飛び散り、永遠のような静寂の後に、男の大柄な体が倒れる音がした。
 後には火薬の匂いだけが漂う。

 この瞬間、少年はルルティス=ランシェットとなった。

 ◆◆◆◆◆

 血の道を歩いている。
 それは彼自身が作った道だ。
 いつもいつもいつも、綺麗に生きていくことなどできない。師を殺して学院に逃げ込んだ後も、汚れ仕事と完全に無縁ではいられなかった。
 もっとも、こんな世界では誰も人殺しと本当に無縁でいることなど難しいのかもしれない。遺跡を調べて盗掘者と戦いになったこともあるし、それくらいなら誰だってやっている。
 けれどそれと自分のやっていることは別だと思えた。
「ひ、ひぃ! いやぁ! 助けて! お願い、命令されただけなの! 旦那様に言われただけで――」
 レッセンフェルの屋敷に仕えるメイドの一人が涙を浮かべて命乞いする。
 それを聞きながら、聞いてはいるがルルティスは意に介していなかった。全ての言葉は言葉として耳に届かず、女の細首を素手でへし折る。
 薄い肉の下から掌に伝わる骨の折れる音。
 それに何の感慨も嫌悪もなく、返り血だらけのその姿で歩く。
 庭の手入れ用の鍬や鋏を持って斬りかかってきた屈強な従僕たちは師に習った体術で一掃し、無力な女たちは追い詰めた兎を狩るように殺していった。誰も生かしてはおかない。この屋敷に、あの男に関わる者すべて。
 サデュケニィス=レッセンフェル。あの男こそ、全ての元凶。
 また一人、痩身の気弱そうな男の頭蓋を石壁にぶつけて砕いた。飛び散った血と脳漿に、一人のメイドが悲鳴を上げて腰を抜かす。憐れなそのメイド自身は、首を絞めて殺した。
 屋敷中が鮮血で染まる壮絶な惨劇の現場となった。はじめに逃がしたシャルロが何とか使用人たちを逃がそうとしているが、それでもかなりの数の被害者が出た。
 人々を殺しながら歩くルルティスは何も考えてはいない。
 ただ、呼吸するように人を殺す。殺戮こそが己の全てであるというように。
 胸の内側で誰かが叫んでいる。
 “何故……“
 懐かしい声。その昔、暗闇の中で導いてくれた。
 “どうして……私は……この人生まで……”
 一番古い記憶は、泣いている女の人。次の瞬間、どこか高いところから落とされ、水の中に落ちた。
 普通であれば死ぬような状況。
 だがこの声が、胸の内側から響いてくる声が問いかけてきた。
 “生きたいか?”
 “お前が生きたいというならば、私は……”
 もしもあの場所で死んでしまえば、昔に感じたような苦痛はなかっただろうか。もしもあの場所で死んでしまっていたら、今この時のような虚無的な殺戮衝動に支配されるようなこともなかっただろうか。
 何もない。誰もいない。
 どこにも帰る場所などないのに、どうしてこんなにも煩い蠅が纏わりつく。
 頭が痛い。気持が悪い。
 血の匂いが濃い。でもそれは全て自分で作った肉塊から流れている。
 ――眩暈がする。
 “呪え”
 誰かが叫んでいる。耳に通りよい澄んだ高い声。それでいて、音ではなくその奥の威厳により人に聞かせるような重厚感を持っている。赤ん坊の頃は判断できなかったが、今ならわかる。これは自分とさほど変わらないような年頃の少年の声だろう。
 あの日、ルルティスに生きたいかと問いかけたその声が叫んでいる。
 “呪え、この国を、この世界を!”
 それは彼の想い。そしてルルティスの想いだ。
 生まれてすぐに両親と引き離され、苦痛と屈辱の日々に押し込まれたルルティスの憎しみ。
 “我が名は憎悪、我が名は殺意、我が名は――”
 その名は破壊、その名は破滅。

 “我が名はエヴェルシード!!”

 ――エヴェルシード?
 一瞬だけ、ルルティスは正気に戻った。今、彼は何と言った? そもそも彼とは呼んでいるが、この内側で叫んでいる声は何なのだ。
 二重人格、などと言ったものではないのは明らかだ。本で読んだ症例と違う。
 ならば何?
 いつもこの声の存在を意識しているわけではない。むしろ普段は忘れ去っている。だから人に話したこともない。今の今まで存在しないかのように忘れていた。
 正気になったついでに、大事なことを思い出した。
「あ……皇帝、陛下」
 自分はルルティス=ランシェットだ。そう思い直した途端にルルティスの中に様々な感情が去来する。その中で最も大きいのは、まだメモ程度にしか出来上がっていない『薔薇皇帝記』のこと。
 そこに描かれる、皇帝のこと。
「皇帝陛下……」
 悪夢の日々から、一時的にとはいえ自分を救いだしてくれた人のことを想う。あの方がいたから自分はここまで来られた。彼自身はおそらくこんなちっぽけな存在を救ったことも知らないだろうまま、けれどその存在は、ルルティスにとっての救いだった。
 胸の内側で荒れ狂う声。落ち着き始めたルルティスの精神とは裏腹に、声の主はまだ嘆き悲しみ、そして世界を深く呪っている。昔は聞いても意味がわからなかった言葉の多い彼の言葉も、今ならわかる。
 “何故! 何故、どうして”
 “どうして私はそんな形でこの世に生を受けた”
 “母を嘆かせるためだけに、彼女を追い詰め殺すためだけに、生まれたかったわけじゃない! 決して存在を望まれないとわかっているのに、あんな形であの二人のもとに、誰が生を受けたいと思うのか”
 “ああわかっている! 呪われた生だ! 呪われた命だ! だがそんなものを私が望んだとでも思うのか!”
 “誰もかれも私を侮り蔑む! 口では都合のいいことを言っておきながら、腹の内では私を追い落とすことばかりだ! 誰も私のことなんて必要としていない! 父上だって!”
 “ならば私の生きる意味は何だ! 何のために生まれてきたんだ! 望まれてすらいないのに。父が欲しいのは私ではない。私の上の母の面影だ。だから”
 “滅ぼしてやる! 壊してやる! 私をとりまくもの、全て!”
 “私を救う者なんて誰もいない!”

 “我が名は憎悪、我が名は殺意、我が名はエヴェルシード!!”

 ――叫びが刃となってルルティスの胸を突き刺すようだ。
「痛い……」
 痛くて痛くて、血の代わりに何かが溢れだしそうだ。
「陛下……」
 自然と、助けを求めた。いくら救いをかの人は自分にとって都合のいい救い主などではない。こんなところに現れてくれるはずもないのに。心は彼に縋らざるを得ない。
 だが脳裏に白銀髪の、深紅の瞳の美しい吸血鬼皇帝の姿を思い浮かべた瞬間、ぴたりと胸の中の嵐が病んだ。
 “……ああ、そうだ……”
 胸の中の声が戸惑う気配が伝わってくる。
 “ああ、そうだ……違う……”
 ――何が違うの?
 ルルティスは問いかける。声の主は聞いてはいない。彼と会話など成り立たない。
 けれどぽつぽつと零される言葉は、その問いに対する答えのようだった。
 “呪われたこの存在が救われることなんて、ないと思っていた。けれど、私は確かに救われた。彼によって救われた。
 ――彼?
 “初めて意味を持って生き、意味を持って死ぬことができた”
 “存在自体が罪の子だとしても、呪わしい生まれだとしても、生まれてきて良かったと心から思えた”
 “彼が愛してくれたから”
 “その存在自体が、私の光だったから”
 同じだね、とルルティスは思った。
 ルルティスが皇帝に感じる想いと、その声の主が「誰か」に対して感じる想いは。

 あなたがいたから、ただそれだけで救われた。

「陛下、陛下……」
 “****、私の――”
 声がようやく沈黙する。
 長い間ルルティスの中にいて、乖離しながらも同調する精神。嘆く声はようやく収まった。
 あなたは誰?
 その問いに声はいつも答えてはくれない。分かっていてもう一度聞いた。
 ――あなたは誰?
 すっきりとした頭で辺りをもう一度見回すと、そこは惨劇の場以外の何物でもなかった。
「ああ……」
 血まみれの両手を見下ろしながらルルティスは呻く。
 これは間違いなく、自分が行ったことなのだ。濃厚な血臭にすでに鼻は麻痺しているし、高価な調度も粉々となっている。そして生きている人の気配はなく、死体ばかりが転がっている。
「あ、眼鏡……」
 いつもかけていた分厚いレンズの眼鏡がどこかにいってしまった。すでに罅が入っていたものだが、捨てるつもりなんてなかったのに。あれはラシェット師がくれたものだから。
 誰もいない屋敷の惨状を見回しながら、ルルティスは大事なことを思い出した。
「あ! そうだ、マンフレート君は!?」
 この屋敷まで一緒に連れて来られたはずの少年の身柄だ。完全にルルティス方の事情だったのに巻き込んでしまった。早く解放してやらなければ。
 一種のトランス状態であったとしても、彼までこの手にかけていないことはちゃんとわかっている。そして使用人の何人かは連れて逃げたシャルロも、これ以上ルルティスと顔を合わせるのを避けるためにマンフレートのことは置いていっただろう。彼を取り返すという目的であの状態のルルティスに追いかけられたくはないはずだ。
 血まみれ姿のまま、ルルティスは屋敷中の部屋を探しまわった。