024
ドガン、バキ、グシャァ!
『きゃぁああああ!』
『逃げろ!』
『いやぁ、お願い助けて!』
『俺は違う、あんたに危害を加えるつもりなんてない! 命令されてやっただけなんだ! 助けてくれ!』
『殺さないで!』
破壊音と、何か柔らかいものが潰れるような音、液体が飛び散るような音。
あまりの恐ろしさに、マンフレートは両手で耳を塞ぎ、蹲っていた。広い部屋の中央で、床に直接座り込んでいる。
「母さん……父さん……助けて……怖いよ……セイア、マイナ、ロツト……」
そうして縮こまっても、聞いているだけで恐ろしげな音は耳に入ってくる。悲鳴が途中で途切れるのは、一体何故なのか。音は一度遠ざかり、また近づいてくる。
ガラスや陶器の割れる音、木材が砕ける音。それだけでも恐ろしいのに、わけのわからない音が絶え間なく続く。
「うう……ルルティス……」
心細くて、両親や身近な人々の名を次々と挙げた。
チェスアトールを発ち、皇帝領で首尾よくルルティスと合流できたはいいものの、マンフレートは彼と一緒にフィルメリアで突然貴族らしき謎の男に拉致された。その上ルルティスと引き離され、一室に閉じ込められてしまった。
見回してみると、そこはとても豪華な部屋だった。目玉が飛び出るほど高い家具が惜しげもなく置かれ、有名な芸術家の絵画が飾られている。
ただ、人質を閉じ込めるためだけにこんな部屋を使うなんて、一体どういうことだろうか。マンフレートには拉致犯の思惑がさっぱりわからない。
手足を縛られたりはしなかったものの、外側から鍵をかけられてしまっては同じことだ。窓もはめ殺しで逃げ場がない。この部屋は一階なのでその気になれば窓から脱出できるだろうが――不用意に硝子を破るなんてすれば手の方を怪我してしまうと、以前ルルティスが言っていた。普段硝子を蹴破るような悪戯をしたこともない少年が、いきなり見知らぬ貴族の屋敷の窓を破って逃げることなどできない。
それにルルティスの安否はまだ知れないのだ。ここでマンフレートが暴れることが、不利になるのであれば――。
「僕は、どうしたら――」
頭を抱えて蹲る。
暗い部屋の中、燭台すら置いてない。聞こえてくるのは怖い音ばかりだ。
「……マンフレート君?」
そして扉の外側から声がかけられた。
◆◆◆◆◆
「案外簡単にいきましたね」
「そうだね」
エチエンヌとフェルザードの二人は道を歩いていた。出来るかぎり不自然に見えないよう、しかしスピードそのものは走っているのと変わらない早歩きだ。
人の通る道をいつしか外れ、山の中に分け入る。この森を抜ければ、レッセンフェル侯爵とやらの別荘があるらしい。
「貴族というのは愚かだよ。権力があるから、目下の者に対しては多少計画がずさんであろうと構わないと思っている」
丈の高い草をかきわけながら、フェルザードがそう言った。
「話の通じない個人的な恨みだったりこちらの顔もわからないような山賊相手だったらどうしようかと思ったけれど、これなら話は簡単に済みそうだね」
「フェザー様、いいんですか? そんなに簡単にご実家の権力を使ってしまって」
エチエンヌの問いにも、彼は笑って答える。
「皇帝陛下の御為なら。それに権力が通じない場合は相手の首根っこ直に引きぬいてもいいよ」
「……それはやめてくださるとありがたいのですが……」
やると言ったことは本当にやりかねない。それがこのフェルザード=エヴェルシードである。
「見えてきたね」
彼らの視線の先には、貴族レッセンフェルの屋敷があった。
◆◆◆◆◆
「マンフレート君?」
扉の外からかけられた声に、マンフレートは顔を上げた。驚きと喜びに顔を輝かせる。
「ルルティス!?」
「良かった、無事だったんですね! 扉の前から離れて、今開けるから!」
理由はよくわからないながらも、マンフレートはルルティスの言う通りに扉から離れた。
直後、破壊音がして扉が真っ二つに割れた。衝撃から顔を庇ったマンフレートは、そろそろと目を開ける。
「ルルティス!」
そして大好きな元家庭教師に駆け寄ろうとして――
「……!」
凍りついた。
◆◆◆◆◆
「マンフレート君?」
かつての教え子の姿を探して屋敷中を探しまわっていたルルティスは、鍵のかかった一室を見つけた。中には人の気配がある。
他でもない自分が破壊しまくった屋敷だが、まだ手をつけていない一角もあった。屋敷の隅の人気のない物置隣のような部屋には、足を踏み入れていない。
「ルルティス!?」
呼びかけてみると、名前を呼ばれた。紛れもないマンフレートの声に安堵する。声の調子からすれば、酷い怪我をしている様子や精神的に弱っているようでもないようだ。
「良かった、無事だったんですね! 扉の前から離れて、今開けるから!」
マンフレートに警告しておいて、ルルティスは扉から適度に距離をとった。
扉の一番弱い部分――蝶番を狙って蹴りを放つ。木製の扉は派手な音を立てて、見事に吹っ飛んだ。
木切れがぱらぱらと落ちる中、ルルティスは元教え子の無事を確認する。
「マンフレート君……」
「……!」
しかしルルティスの姿を見たその瞬間、少年は青ざめて凍りついた。
「……ルルティス?」
そこでようやくルルティスは自分が今どんな格好をしているか気づいた。
真っ赤だった。いつもの服も、亜麻色の髪も。
全てが返り血に染まっている。
おまけに屋敷の中は、この平和な時代では、数少ない戦場を知る兵士でさえ目を背けたくなるような有様だ。
これまで無我夢中だったルルティスもようやく冷静に頭が回り始めた。
「お、お前……その格好……」
よろよろと部屋の外まで出てきたマンフレートは、廊下の奥の屋敷の惨状に気付いて腰を抜かす。
「ひっ……」
目の前の深紅に染まったルルティスと、この屋敷の惨状。捕まえられた自分たちがこうしているというのに、扉が破壊される音がしても誰も駆けてくる気配すらない。まさか、まさか。
ルルティスには怪我一つなく、元気そうだ。いつもの眼鏡こそかけていないものの、どこかから出血している様子もない。
答は一つしかなかった。
「ルルティス……これ、お前が……?」
これまで穏やかなチェスアトールで暮らしてきた少年にこの状況は刺激が強すぎた。がたがたと震え、青ざめながらルルティスを見つめる。
「ひと、人を殺すなんて――……!」
助けに来たルルティス相手に、咎めるような視線を送る。漂う死臭に胃の奥が疼くのを感じながら、吐き気を堪えて涙目になった。
ルルティスはまるで叱られた子どものように目を伏せた。けれど自分がやるべきことを思い出し、マンフレートに手を差し伸べる。
「その……ごめんなさい。マンフレート君、でもとにかく、ここから脱出を――」
その手も血まみれだ。
「触らないで!」
マンフレートが悲鳴をあげてようやく、ルルティスははっと気づく顔になる。視線を落とした自分の両手は血に濡れて真っ赤だ。それだけならまだしも、肉片までこびりついている。
「あ……」
悲鳴を上げたマンフレートも、自分がしたことに気付いたようだった。たとえどんな様子だとしても、ルルティスは自分を助けにここまで来てくれたのに。
だが純粋な少年の心にこの状況は耐えられなかった。
驚き、次に悲しむようなルルティスの顔を見て、胸が張り裂ける。
「ご……ごめんなさい。ごめんなさい、ルルティス、ごめん……」
琥珀の瞳からぽろぽろと涙を零しながら謝罪する。しかし全ては手遅れだ。
「……マンフレート君」
静かな声でルルティスは語りかけた。
「……あのね、帰らないとは言ったけれど、僕は、君が皇帝領まで迎えに来てくれた時、本当に嬉しかったんです」
その声は哀切な別れの響きを宿している。
「今まで誰にも……そんな風に心配されたことなかったから。だから……嬉しかった……雇ってくれた一年間も、引きとめてくれたことも、迎えに来てくれたことも……」
「ルルティス、おれ、俺は今でも――」
ようやく顔を上げたマンフレートの前で、しかしルルティスは優しく微笑んでいた。怒っているわけではない。けれど彼の表情にあるのは、すでに誰も覆すことのできない諦めだ。
「人殺しと一緒にいるわけにはいかないでしょう? けれど僕は、こういう生き方しかできません」
教科書を読み上げるように穏やかに彼は言う。聞き分けのない子どもを諭すように。
「ルルティス!」
「あなたが悪いんじゃない。でも私たちの道は交わらないから――だからここで、お別れです」
生きる世界が違うのだと。
チェスアトールにいた一年間、穏やかなあの場所では気づかせずにいることができた事実。
いくら普通の人間の振りをしたって、ルルティスの身はもう汚れきっている。人殺しの手も、自ら売春で使い込んだ身体も。
罪を犯したこともない普通の人々と並んで生きていけるはずなんてなかったのに。
もう、終わりだ。
「さようなら。マンフレート君。今までありがとう……」
「ルルティス、おれ、おれ……ごめん、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめん……」
床に伏して泣きだすマンフレートの声から離れるように、ルルティスは歩き出す。
別れのショックもあるし、あの状態のマンフレートをどうやってチェスアトールにまで送るかという現実的な問題もある。億劫な心がそれでも一息つきたくて、惨劇の広間に戻る。
深紅の血は今やどす黒く染まり、死臭が濃い、生きている者の気配のない部屋。
けれど今この瞬間だけは、マンフレートといるよりも落ち着いた。
人の命の感じられない、死が支配する空間でしか心安らぐことしかできないなんて狂っている。
だけれどルルティスにとっては、それが当然だった。
「誰もいない。何もない」
ルルティスは自分の身の上を思い返す。
「帰る場所はない。迎えてくれる人も」
綺麗なものに縁はない。周り中敵だらけ。
世界の全てが自分を憎んでいる、なんて思うのは馬鹿げている?
しかし数年前までの彼は、本当にそのような生活をしていた。家もない少年が有り金抱えて路地裏で一晩寝ていて無事でいられるほど世界は甘くない。金を盗まれるだけならまだしも、気まぐれに犯されたり運が悪ければ殴り殺されるなんて当たり前の状況。それを逃れるには、金を持っていそうな相手に媚びて一晩相手をするしかなかった。
元から街にいるわけではないから、他の誰も力になんてなってくれない。
「何もない、誰もいない」
思い出そうとすらしなかった、思い出す必要のなかった過去の記憶が蘇る。
「帰る場所なんて、ない。迎えてくれる人なんて……」
思い出したくなかった。
過去なんて、思い出したくなかった。
過去に逃げることができる人間は幸せだ。その過去は今より幸せなのだから。過去から逃げ出せる人間も幸せだ。過去よりも今や未来が幸せなのだから。
ルルティスには何もない。未来は当たり前にはやってこない。今を生き抜かなければ、明日を迎えられない。
そのためにはいくらだってこの手を血に汚す。
そのために人から嫌われようと、蔑まれようと、構わない。
そうしなければ生きていけなかったから。
――だが、生きていくために仕方のないことの全てが、生きることを保証してくれるわけでもない。
自分が生きていくために他人を犠牲にしてきた。それが仕方なくても、それしか方法がなくても。
その報いは、きっといつかこの身に降りかかる。
「僕は……今まで独りで生きてきた。これからも独りで生きていく」
ああ、わかっている。ずっとわかっていた。
「独りで生きていくしか、ないのだから」
この身はあまりにも罪深い。
ルルティスの頬を一筋の涙が伝う。惨劇の舞台でそれを作り上げた少年が流す雫は、それでも透明だった。
そして彼は、広間のすぐ外の気配にも気付いていた。
一人は全く動じる様子もなくただタイミングを測っているだけだが、もう一人は明らかに戸惑ってどう動いていいのかわからない様子だ。くす、と小さく笑って、袖で軽く涙をぬぐい外へと声をかける。
「遠慮せずに入ってきたらどうなんです? エチエンヌ様、フェルザード王子殿下」
半ば破れかけた扉の向こう、明け方の景色が見えている。金の頭と蒼い頭が覗いていた。
「もっとも、この屋敷は僕のものでもなんでもありませんし、今この場所はすごく入りにくい場所になっていますが」
「本当にね」
のほほんと言葉を返したのはフェルザードだった。彼は王子にしては行儀悪く、しかしある意味エヴェルシードらしく自ら破れかけの扉を蹴り破って完全に破壊する。
「うわー、派手にやったものだねぇ。いい腕だ。うちの軍にスカウトしたいくらいだよ」
惨劇に怯むことなく、むしろ褒めるような口調でフェルザードはそうコメントした。斜め後ろでエチエンヌが絶句しているのとは本当に対照的だ。
屋敷だけではなく、ルルティス自身も真っ赤なのである。これで驚くなと言う方が無理だ。もっとも、フェルザードは笑顔だが。
「あ、あの、学者先生、そのー……」
かける言葉が見つからないエチエンヌが舌を空回りさせる間に、その煌びやかな美貌に似合わない町人風の服を着たフェルザードがさっさと話を進める。
「迎えに来ましたよ。ルルティス=ランシェット先生」
「迎え……」
思い当たることがないというような顔をルルティスはした。
その表情に二人は、破れた扉の隙間から先程僅かに覗いていた横顔と、微かに聞こえてきた声を思い出す。
独りで生きていくしかないのだから。
張り詰めた横顔をしていた。
しかしそんなこと関係ないとばかりに、フェルザードは話を進める。
「皇帝陛下が、あなたをお助けして来いと」
「皇帝陛下が……」
その名を出した瞬間、どこか捨て鉢な雰囲気を漂わせていたルルティスの瞳に光が戻る。
ああ、彼にとってもあの方は『支え』なのだとフェルザードは思った。
「あなたが何をどう思おうと関係ないんです。この世はただ、薔薇皇帝の意志により動かねばならないのだから。陛下があなたの存在を所望するなら、私はあの方の臣下として愛人として、あなたを皇帝領に連れ戻すだけです」
「戻ってもいいのですか? 私はそれほど皇帝領に歓迎されている様子でもなかったようですが」
押しかけてきたくせに変なところで遠慮するルルティスである。いや、遠慮をするのではなく、ただ自分の状況をしっかり把握して事実を確認したいだけかもしれない。
「陛下があなたなんぞ皇帝領にいらないと言えば、すぐにでも追い出して差し上げますよ。今はとにかく、――帰りましょう、皇帝領に」
フェルザードは手を差し伸べる。
身にまとう色彩こそ違えど良く似た顔をした二人は、数歩の距離を残したまま向かい合った。フェルザードは待っている。ルルティスが自分からこの距離を埋めるのを。
「学者先生、ルルティス先生さ……その、戻ってきなよ。なんだかんだであんたがいないと、僕らいまいち調子でないんだよ」
エチエンヌも言葉を添える。
「僕は……」
ルルティスが歩き出そうとした、その時だった。
『フェザー王子、エチエンヌ!』
どこからか声が響き渡った。
「はれ?」
あまりの不意打ちに、ルルティスは思わず足を止めて間抜けな声を上げる。驚いた顔をしているのはエチエンヌとフェルザードだ。周囲を見回して声の出所を探す彼らの視線が、ほぼ同時に上を向いた。
つられてルルティスもその方向を向く。
「あ、あの時皇帝陛下が会話してた白コウモリ!」
窓からぱたぱたと入りこんだ小さな生き物の姿を見つけて、思わずルルティスは指さし叫んだ。しかし驚くのはこれからである。
「ジャスパー王子!」
「あなたが出てくるなんて、どうかしたのですか?」
「……はい?」
今何と言いました、とルルティスが尋ね返す前に、白蝙蝠がその姿を変える。
短い白銀の髪に、瞳と同じく深く紅い宝石を飾った美しい少年。兄である皇帝とよく似た面差しの――。
「あああああ! ジャスパー王子殿下!?」
ルルティスは仰天した。
先日皇帝が蝙蝠相手に会話していた時は何が何やらと思ったものだったが、その相手は弟のジャスパーだったのだ。彼にこんな能力があるなんて初耳だ。
しかし好奇心旺盛なルルティスも、今はその興味深い能力について呑気に取材している場合ではなかった。
突如この場に現れたジャスパーは、血まみれのルルティスの姿にも気付かないほど動揺している。
「皆さん、大変なんです、お兄様が……」