第2章 十六夜薔薇と碧の騎士 04
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あの青い青い瞳を、どうして忘れられるものか。
「皇帝陛下、わたくしはあなたのことを……」
為政者として言えば、突出して何かに優れているわけではない。けれど無能というわけではなく、つまりは普通の青年だったのだと思う。そこそこ綺麗な顔をしていた、セレナディウス人の容姿に瞳だけがカウナードのオアシスのように青いセィシズ=エイベルハム=ロンバーク。
一目惚れなのだと言われた。一目見た瞬間、背筋に痺れが走ったのだと。彼は皇帝ロゼウスを愛した。
そしてそのために命を落とした。
十年前のことだ。
その頃、ロゼウスはエヴェルシードへの訪問を終えたばかりだった。そしてかの国でも、本来王位を継ぐべき第一王子がロゼウスに血迷って愛人になりたいと言い出したばかりだった。
問題の第一王子はフェルザード=スラニエルゼ=エヴェルシード。
それまで品行方正、才色兼備で知られた王子は、しかしあと数年もすれば玉座に着くだろうと言う段階になって大きな問題を起こした。視察に出向いた皇帝を迎えた際、同性にも関わらず彼に求婚したのだ。
この世界、同性愛者も数多いるが、一般的とはもちろん言えない。二大宗教は同性同士の結婚を認めてはおらず、普通同性で結婚することはありえない。同性愛に対する反応は地域的な差が激しいが、それを差し引いたところで、玉座を継ぐべき第一王子に世界唯一の皇帝との結婚を許す法はない。
どちらかが異性であればまた別だっただろう。特に武の国エヴェルシードは女性の継承権が低いので、フェルザードが王子ではなく王女だったならばエヴェルシード王国も喜んでとは言わないが、差し出したに違いない。
だが、フェルザード王子は男だ。皇帝ロゼウスも、本人が男性との恋愛遍歴を隠しもしない上に女性めいた容貌をしているせいでわかりづらいが、貴族階級以上でははっきり男だと知れている。
ところが、フェルザード王子はそんな瑣末なことはどうでもいいと言わんばかりに、世間の常識も評価もまったく意に介さなかった。エヴェルシードの王太子であるから皇帝の元に侍れないのだと言われれば、王太子としての権利を弟王子に譲渡し、継承権を放棄してまで皇帝の「愛人」として名乗りをあげてしまった。その速さは余人どころか皇帝本人にすら介入を許さぬ電光石火であった。フェルザード王子は早速皇帝領に赴きロゼウス帝の傍近く侍ることを希望し、またそれを許された。
このように、同性であっても「薔薇皇帝」の魅力に囚われる者は往々にしている。
むしろその数は決して少なくないと言えよう。ローゼンティア人特有の、人形めいた美貌に女性めいた華奢な体つき、そしてどこか憂いを帯びた瞳が、彼を目にする者たちを狂わせるのか、女性からの人気もあるが、同じくらい男性からも求愛されるのが薔薇の皇帝ロゼウスである。
セィシズは言ってしまえば、そんな人間の一人だった。四千年も生きているロゼウスからしてみれば、珍しくもない話。
だがセィシズ本人にとっては、それは一生に一度の恋だったのだという。家を継いだ証として目通りを願い、ほんの少しの時間声をかけてもらい、優しい笑みを向けてもらっただけ。彼がロゼウスを愛するには、その程度の時間で十分だったのだと。
文字通り、彼は恋に狂った。一目見た皇帝が忘れられず、皇帝領に求愛に赴いた。まだ二十歳になるやならずやといった年頃の清廉潔白な青年だ。ましてや一目惚れの初恋ともなれば、相手を手に入れたいだの、結婚して法的に拘束してしまいたいだの、身体を重ねたいだの、そういった具体的な欲望があったわけではない。ただ皇帝に対し愛を告白し、それを受け入れてもらえればそれだけで十分幸せだったのだ、彼としては。
しかし、ロゼウスはそれを拒絶した。
「悪いけれど……俺はお前のものになってやるわけにはいかない」
「何故ですか?! 私が同性だから? 違いますよね? 陛下は現にエヴェルシードの王子殿下をお傍に置いていらっしゃる。なのに何故、何故私はあなたのお傍に侍ることが許されないのですか?! 皇帝陛下!」
この頃、すでにフェルザードがロゼウスの傍にいた。それが事件の一つの歯車。
同性でありながらフェルザードを傍に置いている。それは皇帝が同性愛に拘らない、男と情を交わすのを厭わない性質だという救い。
それなのに、フェルザードは半ば無理矢理愛人として押しかけておきながらその座に見事収まり、セィシズは受け入れてもらえなかったという絶望。
現実はセィシズの見たばかりの夢を無残に引き裂いた。初めての恋で叶いそうもない大望を抱き、それが報われるかと期待した直後に突き落とされた青年は、正気ならば犯すはずもない暴挙に出る。
「どうしても、私の愛は受け入れてくださらないのですか?」
「セィシズ、お前は……」
「他には何もいらないのです。家の権力も名誉も。ただあなたさえ……陛下さえいてくだされば、私は……」
腹心の部下であるゼイルの手を借り、皇帝を宮殿から攫ったセィシズはロゼウスを拘束したまま馬車に乗せ、屋敷へと連れ込もうとしていた。
傍に置いてもらうことが許されないなら、攫うしかないのだと……。まともにものが考えられる状況ではなく、他人の忠告を彼は聞き入れなかった。
馬車の中で向かい合いながら、口までは塞がれていないロゼウスはセィシズを諭そうとする。
「こんなことをしたって、お前が虚しくなるだけだ」
「そんなことはありません! 傍に……こうして傍にいれば、変わるものはあるはずです!」
とはいえセィシズの言うその方法は拉致監禁なのだが、それに関してはロゼウスも文句をつけるわけにはいかなかった。昔、それこそ皇帝になる前、とてもよく似た理由で自分を攫った相手のことを考えてしまうから。
けれど彼とセィシズは違う。
「どうしてですか……何故私では駄目なのです……?」
ロゼウスの縛られた腕に縋りつきながら、彼は言う。
「あなたの言うことは何でもします。常に傍にいて、欲しいものはなんでも用意いたします。逆らいません、何でもお言いつけください、陛下のためならば、何でも捧げられます。だから……!」
「セィシズ、それは違う」
傍に居させてほしい、ただそれだけを繰り返す青年の言葉にロゼウスは反応した。
「彼」と、四千年前に自分が愛した少年と目の前の青年は違う。それを証明する一言。
かつてロゼウスを愛し、そしてロゼウスも愛した少年はもともと強引な方法でロゼウスを攫った酷い男だった。そして彼は、そんな自分の酷さを知っていた。
愛を得られない環境にあった彼は、愛されないと知っていて、自分が選んだのは間違ったやり方だとわかっていてそれでも愛を求めた。ロゼウスが彼を拒絶し続けた間は、愛されずともただ傍にいてくれればそれでいいのだと、彼自身が向けた愛情を、報われないからと言って翻すことはなかった。
――もう、いい。お前が決して私を愛することはないというのなら、それでも……。
――お前が私を愛さずとも、私はお前を愛している。
愛情というものは、自分が相手に向けたからといって相手からも等しく返るとは限らない。
セィシズにはその覚悟がない。相手からの拒絶を受け入れる覚悟が。そして彼にとっての愛情とは、相手のためを思って厳しいことも告げ、どんなに遠く離れていても最後には迎えに来るような愛情ではなくて、ただ傍近くで甘やかしてくれるというものらしい。
セィシズはすでに幸せを知っているのだろう。彼がそんな愛情をロゼウスに向けるのは、自分自身の愛情が常に報われないと言う状況を経験したことがないからだ。
だからこそロゼウスは思う。
「……お前のそれは、愛ではないよ、セィシズ」
「そんな、陛下! 私は本当に……!」
「勘違いをしているだけだ。ゆっくりと自分の心に向きあってみるといい。お前が本当に愛しているのは、報われたいのは誰なのかを」
常にセィシズの傍にいて、セィシズの言うことを何でも聞いてくれて。彼が愛しているのはそういう人物のはずだ。彼が本当に大切なのは、彼のすぐ近くにいる人物のはずだ。
「考えてみるんだ。お前が一番苦しい時、悲しい時、本当に辛い時に力を貸してくれたのは誰なのかを。お前が一番大変な時には、誰の名を呼ぶ? ……それは私ではないだろう?」
「それは……でもそれは、これまで私はあなたにお会いしたことがなかったから……」
「いいや。きっとこれまでも、これからも一緒だよ。私はお前の支えにはなりえない」
「……これまでに私の得た愛と、陛下に今感じている想いは必ず一緒でなければならないのですか? これまで感じたことのない類の愛情を、あなたに抱いてはいけないのですか?!」
「それは……」
最後の一押しというところで、ロゼウスはいつも詰めが甘い。特にこういった個人の価値観や心の問題に関しては、一概にこれがこうだと言えないことから、自分の論を相手に提示まではできても、強要はできない。
自分の言うことは全て正しいのだと、自分は正しい事を言うのではない、自分が言うことこそが正しいのだと、皇帝としてはそこまではったりをきかせられれば良いのかもしれないが、ロゼウスにはできなかった。
「私は……あなたが好きなんです。好きなんです……」
祈るようにセィシズはロゼウスの手をとり、縋る。その想い自体は嘘だとはロゼウスも思わない。だが彼は重大な勘違いを、釦の掛け違いをしているように思える。
そしてやはり皮肉なことに、その思いは彼より先にロゼウスへと求愛してきたフェルザードには感じたことがなかったもの。あの強引すぎる程に強引な王子は、少なくともセィシズのような考えで皇帝の傍に居たいと考えたのではなかった。それが二人をわけた。
フェルザードと先に出会っていなければ、セィシズにももっと甘い態度をとったのだろうか?
ロゼウス自身が己にそう自問しているからこそ、毅然とした態度で彼を拒絶することができない。目の前の青年が犯しているこれは、紛れもなく罪だ。そう強く断じることができない。
あるいは、それはロゼウス自身の罪だったのかもしれない。
馬車はゆっくりと地面を走っていた。やましいことがあるもので、できるだけ人目のある道を避けて通る。そして人目のない場所というのは、本来滅多に使われない場所と言うことだった。
滅多に使われない場所にはそれ相応の理由があるものだ。不便、あるいは危険。
そして皇帝を拉致したその馬車が通りかかったのも、そう言った道だったのだ。
その道は当時、数日前の雨で落石が起きやすくなっている狭い道だった。
◆◆◆◆◆
「……さすがにお前でも、ここまでやるとは思わなかったぞ、私は」
シャーウッド伯の呆れた声がする。
「そうですか? ですが残酷でなければ復讐とは言えないでしょう?」
ゼイルがその言葉に応えている。
麻酔で気を失っていたロゼウスは、ゆっくりと目を開けた。部屋の様子が変わっている。それに背中が暖かい。誰かに抱きすくめられている。
「う……」
「お目覚めですかな? 皇帝陛下」
ロゼウスが目覚めたと知って、腕の力を強めたのはシャーウッドだった。シャンデリアが明るい、この部屋はどこかの城の一室のようだ。寝台の上で、ロゼウスはシャーウッドに抱きかかえられていた。
「ゼイル……シャーウッド……お前たち……」
「無理をなさらぬ方が御身のためですぞ、陛下。先程に何があったか覚えておいでかな?」
シャーウッドの言葉に、気を失う前の出来事が急速に脳裏に蘇ってきた。ロゼウスはこの二人に犯され、そして……。
「!」
慌てて股間を確認しようと思わず服に手を伸ばすが、ゼイルにその腕を抑えられる。
「おやめになった方がいいですよ。陛下。もう少ししてからでないと、ショックを受けるでしょうからね」
「だ、誰がそんなことをしたと思って……」
ずるずると身体から力が抜け、ロゼウスは背後のシャーウッド伯の膝の上に再び体勢を変えて抱きかかえられる。
ロゼウスはまた着替えさせられていた。凌辱の際に破かれた紺色のドレスから、純白の絹の寝巻を着せられている。またもや女性ものだが、今の状態ではその方が傷口に触らず、都合がいいのかもしれない。
腕には華奢な銀の腕輪がいくつもはめられていた。一見すると装飾品にしか見えないが、銀の純度が手枷より高いらしく、脆そうに見えても外すことができない。
おかげで体力はもちろん気力まで尽きてしまった今、猫の子のように大人しくシャーウッド伯の腕の中に抱きかかえられる羽目になる。
「さすがにこの身体は、他人には見せられないでしょうね」
平然と言い放ったゼイルの言葉に、ロゼウスはキッと彼を睨みつける。
「……切り取った方は?」
「私が《保管》しておりますが」
「返せ」
「なんのために?」
「繋ぐ。まだあれからそう経っていないだろう。ならできる」
吸血鬼は身体の一部を切断されても、切り離された部分が残っていてきちんと切断面を揃えれば繋ぎ直すことができる。
「……ならばなおさら、お返しするわけにはいきませんね。私がいただいてしまいましょう」
「いただいてって、あんなもんどうする気だよこの変態! もうヤダ! 耐えらんない! 返せ!」
長い間生きているおかげであらゆるアブノーマルなプレイに付き合わされたことのあるロゼウスだが、さすがに自分の切りとられた性器を他人が持っているというこの状況には怖気が走った。皇帝としての虚勢が剥がれ、支配者としての彼の顔しか知らぬものからすればいささか子どもっぽいような口調でゼイルを責める。
「そう嫌がっていただけるなら、ますますお返しするわけにはいかなくなりましたね」
ゼイルがくす、と小さく笑う。
「どうせならこの場に持ってきて差し上げましょうか? 目の前で切り刻んで差し上げれば、あなたをもっと苦しめることができるでしょうか?」
「~~~~~~~ッ!?」
すでにロゼウスは涙目だ。
「……ゼイル。さすがにそれは悪趣味が過ぎる」
ロゼウスと同じくらいげんなりとした調子で、シャーウッド伯が止めに入った。
「見ている私の方も辛くなりそうだからそれはやめてくれ」
「だったら次はどうします? 皇帝陛下が二度と男に抱かれるなんて考えられなくなるようにするのに。……そうですね、今度は貞操帯でもはめて、鍵でもかけますか? そうすれば鍵を外すためにいちいち、陛下は我々と顔を合わせざるを得ませんね。鍵を隠してしまえば、迂闊に我々を殺すこともできないわけです」
人に見せられない場所へ虐待を加え、その上でロゼウスの弱みを握るという当初の目的のままにゼイルは言葉を連ねていく。更に彼は部屋の隅からまた怪しい箱を持ちだしてくると、その中身を広げ始めた。
ロゼウスの顔が引きつる。様々な形の貞操帯がその箱には収められていた。ゼイルの趣味かシャーウッドの趣味かは知らないが、コレクションでもあるまいし、そこまで揃えることもないだろうというような量だ。
「いっそ尿道も肛門も全てを封じる型の貞操帯を利用すれば、排泄にもいちいち許可が必要ということになりますね」
「ゼイル!」
「御心配せずとも、私は陛下の騎士として皇帝領に赴いたのですから、いつでも傍におりますよ。あなたは毎回、もよおすたびに私に哀願すれば良いのです、出させてほしい、と」
引きつり、青ざめていくロゼウスの顎を指で掬い、無理矢理顔を上げさせてゼイルは続ける。
「もちろん、貞操帯を外した一瞬の隙を衝かれては困りますから、その時にはまた銀で拘束させていただきましょう。あなたは自分で出したものを片づけることもできず、常に私に見られながら排泄して、尻を拭うのすらも私に頼まねば生きていけなくなるのです」
「もう……もう、やめてくれ。黙って……」
顔を横へと逸らそうとしたロゼウスの行動を許さず、ゼイルは細い顎を掴む指に力をこめる。
「いいえ。黙りません。どうやっても殺せないのであれば、あなたには苦しんで、苦しんで、苦しんで苦しんで生きてもらわねばなりませんから。我が主の苦しみの分まで」
青い瞳は底冷えのする冷たさで燃えている。
「私はあなたのために、仕える主を失ったのです。ですから代わりにあなたがこれから、私の主となってください、皇帝陛下。いつでもお世話して差し上げますよ。もちろん湯浴みも着替えもこの身体を他者になど触らせることはできないでしょうから、全て私がして差し上げます。碧の騎士など、もういらないでしょう?」
そうして最後ににっこりと笑う顔はまさしく狂気。
「……あー、ゼイル。その案は結局採用ということなのか?」
共犯であり立場上は上のはずだが、すっかりゼイルに主導権を握られているシャーウッドがようやく口を挟んだ。
「名案だと思いますが?」
「確かに弱みは握れると思うのだが……うむ……」
そこまで変態ではないと言いたげなシャーウッドの目線を気にもせず、ゼイルは話を進める。
いきなりがばりと、ロゼウスの着ている夜着の裾をめくった。
「な、何を……!」
「異常な回復力ですね。すでに傷口が塞がっている」
包帯を外された場所は、切断面を薄い皮膚が覆う形で回復してきている。再生力の強さもここまで来ると仇になる。ゼイルはロゼウスのものを切り落したまま、繋ぎ直す気はないようだ。
「とりあえずこちらで十分でしょう。シャーウッド伯、陛下の足を広げてさしあげてください」
「やめろ!」
ゼイルは早速ロゼウスに貞操帯をはめる気のようだ。箱の中から一つを探し出し、シャーウッドに指示を出す。
シャーウッドは銀で力を失ったままのロゼウスを背後から羽交い絞めにした上、足を広げたあられもない格好にさせる。夜着をの裾を大胆に広げ、ゼイルが無理矢理その身に貞操帯をはめようとする――。
ガシャン!
その時、部屋の窓が突如として割られた。
「まさか……」
振り返ったゼイルが驚愕して目を瞠る。部屋が広いので破片の被害こそ出なかったものの、それ以上の衝撃が彼らを襲う。
飛び込んできたのは、まるで硝子細工で作られたような青く透き通った馬だった。その背には、深紅の衣装を身に纏い、細剣を腰に刷いた人影がある。
皇帝を守る《碧の騎士》。
「ロゼウス!」
「エチエンヌ!」
伸ばされた腕を夢中でロゼウスは掴んだ。
エチエンヌはゼイルとシャーウッドの手を打ち払い、ロゼウスを硝子の馬の背に抱き上げる。手綱を乱暴に掴むと、再び窓の外に飛び出した。
それが合図だった。
次の瞬間、城は真っ二つに「斬られた」。