薔薇の皇帝 06

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「さて、問題です。ここはどこでしょう?」
 崩壊した城から引きずり出されたのは、何も慈悲を与えるためではない。むしろその逆、建物の倒壊に巻き込まれて死ぬなどというこの場では比較的楽な選択肢を選ばせるのではなく、徹底的に自らの手で傷めつけなければ気が済まないという襲撃者の趣味だ。
 持ち手の身長よりも大きいという大剣を軽々と背に担いで、目の前に悪魔でもこれほどの威圧は出せまいという凄味のある笑顔で立っているのはフェルザード=エヴェルシード王子だ。
 辺りを見回すに、城のすぐ外の庭だ。白い手に引き掴まれ、崩れ落ちる城から引きずり出されたゼイルは目の笑わない笑顔のフェルザードを睨みつけた。彼にとっては主君セィシズの直接の仇であるフェルザードこそが、因縁の敵だ。
 ゼイルの隣に転がされているシャーウッドが、図らずもフェルザードの質問に答える。
「ひ、ひぃいいいい! ここは地獄か?!」
「正解です。冥府の王もかくやというような裁きを下して差し上げましょう」
「それではここはあなたに任せるべきでしょうね、フェルザード殿下」
 ゼイルたちを運んできたジャスパーが、すっと彼らの背後から離れる。本格的にここからはフェルザードによる残虐ショーの始まりのようだ。
 ジャスパーから皇帝拉致の報を受け、ルルティス奪還組はすぐさま動き出した。まずはエチエンヌが人の血の匂いを嗅ぎ取る能力がある馬、元はロゼウスの作ったゴーレムだという「アレイオン」を呼びだした。
 ロゼウスの血の匂いを頼りに辿り着いたのは、意外にもレッセンフェルの屋敷からそう離れていない、フィルメリア国内の廃れた城だった。シャーウッドは周到なゼイルの入れ知恵で、皇帝を拉致した際には自らの所領ではなく、他国の城を借りていたのだ。
 居場所さえわかれば、彼らの行動は早い。エチエンヌがロゼウスを回収し、ジャスパーがゼイルとシャーウッドを引きずり出し、フェルザードが退路を断つという強引な方法で敵の首元にすでに刃をかけた。フィルメリア国内での煩雑な書類作業はルルティスが引き受けた。後で書類地獄だが、それを口実にルルティスはちゃっかりと再び皇帝領に戻る気だ。
 そして今のこの状況がある。
 ゼイルはフェルザードの得物である大剣を睨んだ。恐らく、先程城を「斬った」一撃は彼が放ったものだろう。世界最強との呼び声高い、エヴェルシードのフェルザード王子。武芸はもちろん適性が低いにもかかわらず簡単な魔術すら覚え、その扱い方の上手さでどんな敵を相手にしても引けをとらない。そんな彼にとっては、大剣に僅かな魔力を付与して城を斬るぐらい朝飯前だろう。
戦闘能力という点においては、人並み以上の実力を持つゼイルでも太刀打ちできない。
「思い出しましたよ、ゼイル=トールベリ。あなたは十年前の、あの《愚かな》セィシズ=ロンバークの部下、あの時の馬車の御者ですね」
 明るい色をしているのに冷たい氷のような瞳が、地に伏すゼイルを見下ろして蔑む。
「我が主君を愚弄するな!!」
 咄嗟に、ゼイルは身を起こし剣を抜いていた。その程度の反応など予想していたフェルザードは顔色一つ変えず、やすやすと大剣で受け止める。
「愚弄? 真実でしょう? あなたの主は私にこれだけ言われることをした。皇帝陛下を命の危機に晒した」
「もとはあなたのせいだ! あなたが皇帝陛下の愛人になどならねば、我が主も……!」
「……話にならんね、貴様」
 フェルザードはあえて傷がつかないような方法でゼイルを一度吹っ飛ばす。
 再び地に倒れ伏した彼の喉元に切っ先を突き付けて、鼠を嬲る猫の笑顔を浮かべて宣言する。
「皇帝陛下をお守りするのが《碧の騎士》エチエンヌの役目ならば、尊貴の身に仇なす愚者に鉄槌を下すのはこのフェルザード=エヴェルシードが役目! 殺してくれと懇願したくなるような拷問の果てに生きたまま切り刻み摩り下ろして、蚯蚓の餌にでもして差し上げましょう!」
「では私はその一部始終を克明に記録し、後世にゼイルさんの悪名をしっかりと刻むことにしますね!」
 フェルザードの鬼のような宣言にルルティスが追い打ちをかけた。
 そんな様子を、少し離れた場所から見ている面々の反応は複雑だ。
「……エチエンヌ。僕たちは救援を呼んだんですよね。あとあの人、昨日まで自分も囚われの身でしたよね?」
「……ええ。そうです。そのはずです、ジャスパー王子」
「まるで大地の奥底から悪魔王を召喚したみたいになっているのですが」
 ジャスパーの言う通り、凄い状況だった。フェルザードの悪魔のような笑みに加え、今はルルティスが「あなたがたに比べれば土を肥やすだけまだ蚯蚓の方がマシかも知れませんね」などと毒舌を吐いている。
 しかしジャスパーもエチエンヌも、特にゼイルたちに同情はしない。彼らは、してはならぬことをしたのだから。
「表面上は怪我はないみたいだけれど、大丈夫? ロゼウス?」
「お兄様、ご無事ですか?」
 ゼイルの確保(殺す気満々の二人に見えるが、一応当初の打ち合わせではその予定)はフェルザードたちに任せ、エチエンヌたちは攫われていたロゼウスの容態をまず確かめる。
 世界最高の力を持つのが皇帝だが、そこには複雑な条件や規則がある。特にロゼウスは即位に関して精神的な問題が大きい皇帝だ。
 彼は個人的に、皇帝としての責務以外で他者に無闇に力を振るうことを己に禁じている。その範囲は厳しく、ロゼウスは己の身を守ることにすら、皇帝の力は使わない。
 だからこそ、エチエンヌがその身を守るためにいるのだ。だが……。
「目的が目的だったから、怪我してなければ無事とも限らないな。中の方は」
「あ、や、やめろエチエンヌ!!」
 怪我をしていてもロゼウスの性格上言えるはずがないと知っているエチエンヌは、さっさとロゼウスの服をめくった。そして「それ」を目撃し、凍りつく。
「何、これ?」
「エチエンヌ?」
 逆側にいたために患部を見ることのなかったジャスパーが、硬直しているエチエンヌに声をかける。だがエチエンヌは聞いていない。
「ロゼウス、お前これ……ゼイルさんが……?」
 ロゼウスは目をそらす。それが無言の肯定だ。
「……ジャスパー様、すぐにハデス卿を呼んでください。大至急」
「わかりました。連絡します」
 震えを抑えた低い声での依頼に、ジャスパーは一大事と見てとり何も聞かずに行動を開始した。
 エチエンヌは腰の剣を抜く。
「フェルザード王子!」
「何ですかエチエンヌ? 今更この男に情けをかけようとでも?」
「違います。代わってください」
 十年前に愛人になったということはつまり、皇帝領の面々と十年の付き合いがあるということだ。心優しいとまでは言わないが、必要以上に残酷なことのできない常識人であるエチエンヌの気性をよく知っているフェルザードは、少年騎士のその言葉に目を瞠った。
「その男を倒すのは、僕の役目です」
「……わかりました。任せます」
 エチエンヌの本気を見て取って、フェルザードはゼイルに突き付けていた切っ先をのける。代わりと言うように、隙を見てこの場から逃走しようとしていたシャーウッドの首根っこを掴んで拘束した。
 エチエンヌはゼイルと対峙する。
「《碧の騎士》のご登場ですか?」
 ゼイルが皮肉に唇を歪めた。
 双方とも主に仕える部下。だがその現状は、大きく異なっている。
 十年前のことを思い出す。後に《碧の騎士》事件と呼ばれるようになった、あの事件のことを。
 ロゼウスを拘束したセィシズの馬車は、走っている途中で落石の被害に遭った。
 目的地の街までもうすぐ近くに来ていて、不運だったとしか言いようがない。岩が直撃し、馬車は大破。見る影もない無残な有様だった。
 しかし、その時はまだセィシズは生きていた。何故ならロゼウスが彼を庇ったからだ。
 岩に潰されて全身の骨が砕ける重傷。普通の人間だったらとっくに死んでいる。それでも彼は、自分を拉致したセィシズを庇った。
『セィシズ様!』
 ゼイル自身深手ではないが幾つかの小さな岩に打たれるという余波を受けていて、すぐには動けなかった。そこに駆け付けたのが今回のように、エチエンヌとフェルザードだった。
『ロゼウス! おい、ロゼウス! しっかりしろ!』
 エチエンヌは必死にロゼウスに呼び掛けるが、瀕死の傷を負ったロゼウスは反応がない。
 そこで彼は、傍から見れば何を考えているのか、自らの腕を剣で切り裂き血を流した。その血をロゼウスの唇にあてる。
 ローゼンティアのヴァンピルにとって、人間の生き血は何よりの活力を与える。一滴の血で一週間は何も口にしなくても平気なのだ。エチエンヌの腕から流し込まれた紅い雫は、ロゼウスにとって秘薬となる。
 白い瞼が震え、皇帝は目を覚ます。
『エチエンヌ……』
『……!』
 騎士は彼を腕の中に強く抱きしめる。その光景は、落石による破壊音に驚いて街道へ出てきた街の人々の目には、恋人同士の抱擁にも見えた。
 自らの腕を切り裂いてまで皇帝の目を覚ますために必死になる騎士の姿は、絵物語のように、皇帝のために全てを捧げ切っているように見える――――。
 そして人々に伝えられる《碧の騎士》の表向き美しいエピソードの裏では、フェルザードによるセィシズの粛清が行われていた。
 自らの前に突き付けられた剣。セィシズは抵抗しなかった。
『自分が何故殺されるかはわかっていますね。セィシズ=エイベルハム=ロンバーク』
 フェルザードはセィシズを見下ろしながら言う。
『皇帝陛下の臣たるもの、主君に危害を加えることは言語道断。あなたに、陛下の民たる資格はない』
 セィシズは何も言わなかった。ただ無言で頷いた。
『反逆者として生きる覚悟があるのなら、まだ見込みもあろうというもの。けれどあなたはできないでしょう? 皇帝陛下の大切な民であるというその一欠片の愛さえ失うことに、意義を見いだせないでしょう?』
 フェルザードの言葉は厳しいが、声の響きは憐れむかのように優しかった。刃を突き付ける者と突き付けられる者、裁く者と裁かれる者、これがそのまま、フェルザードとセィシズの差だった。敵わないと、セィシズにはわかった。
 そう、彼にもわかったのだ。皇帝の愛が。男として、恋人としては決して見てもらえない。けれど民としては、これ以上なく愛されていた。命懸けで庇ってもらえるほどに。
 これほどに愛されているのに、他に何を望もう?
『陛下が身を呈して助け出したあなたです。せめてもの慈悲として、私がその首を刎ねましょう。陛下にあなたを手にかけるようなことは、させますまい』
 セィシズの瞳から一粒だけ、透明な雫が零れ落ちる。
 皇帝に危害を加えた犯罪者、その汚名は免れない。けれどそれは結果的であって、彼が皇帝を憎んでそうしたわけではない。
 だからこそここで、フェルザードに裁かれるのだ。皇帝の手によって忌まわしき反逆者として処断されるのではなく、民として愛されたまま、その身を傷つけてしまった「過失」の罪を贖うのだと。
 ――ごめんなさい。
静かな言葉は、フェルザードとロゼウス以外の耳には届かなかった。ロゼウスもヴァンピルの聴覚で、その言葉を聞いていた。
 それが聞こえなかったのは、フェルザードによってセィシズの首が刎ねられた瞬間にようやく駆けつけたゼイルだ。
『セィシズ様、セィシズ様、セィシズ様――――!!』
 主に従っただけの彼は罪に問わない。ロゼウスならそう言うに決まっている。誰もがわかっていたから、その時ゼイルを捨て置いた。彼に処罰を加えるつもりはないが、表立って助けもしない。セィシズを殺した以上、そんな資格もない。
 犯罪者として、セィシズがそれほど貶められたわけではない。淡々とした死亡報告が実家に届いたのみ。彼が罪人だと知っているのは一部の人間のみ。
 けれど十年経って、セィシズの部下であったゼイルがこんなことを仕出かすとは、誰もが思わなかった。
 回想は終わり、現在へと思いを戻す。
 エチエンヌはあの時気にも留めなかった一人の少年の姿を思い描こうとして、失敗した。思い出せるのは、せいぜい相手が金髪だったことくらい。エチエンヌのシルヴァーニ人特有の金髪とは違う、カウナード人の淡い金髪。十年前のゼイルは、今のエチエンヌの姿と同じくらいの年齢だったはずだ。
 同じ年頃の、同じ金髪の少年。だが片方は皇帝の騎士として名誉を受け、片方は仕える主を失った。
 何故、とゼイルは思ったのだ。
 何故、私と彼はあんなにも違う。私はずっと主君の傍にいたのに、主君と離れて深手を負わせたあんな男が騎士と呼ばれる。
「何故、何故あなたなどが!」
 どうしてこんなにも、自分と彼は違うのだ。
 睨みあうエチエンヌとゼイルには、今や十年もの差ができている。あの時から変わらぬ美しい皇帝に仕える、若々しい少年騎士。かたやゼイルは主を失って十年、ただ無為に年を重ねた。
 この世の様々なものを恨みながら、復讐だけを願って。
「あなたが何故騎士という言葉にこだわるのかがようやくわかりました。知ってしまったからには、もうあなたをロゼウスの傍に置いておくわけには行きません……あいつを守るのは、僕の役目ですから」
「守る? 何を根拠にそんな絵空事を? あなたは主を守れてはいないではないか! 十年前も、今も!」
 叩きつけるようなゼイルの言葉に、口を挟まないままフェルザードが反応を見せる。見た目に怪我はなくとも、やはりこの男は皇帝陛下に何かをしたのだ。
「一番大事な時に傍にいなかったくせに、何が騎士だ!」
 ゼイルがエチエンヌに斬りかかった。常に手放さなかった剣を持って踊りかかる。エチエンヌは細剣でそれを受け止める。
 体格差は歴然としているし、エチエンヌは本来剣士ではない。しかし四千年も生きていれば、剣技の一つも覚えると言うもの。実力は互角だろう。その上ゼイルは負傷している。
 自らが攻撃をするその動きにさえ体力を削り取られていく彼は、エチエンヌが何をするまでもなく、己で己を弱らせていく。
 決着がつくまでにそう時間はかからない。
 十数撃も剣を合わせてはいない。しかし体力が尽きたゼイルは、地面に片膝をついた。
「何故、なんだ……何故、いつも……」
 戦えない状態となってまでも、彼は喘ぎながら誰かにそう問いかけている。
「ゼイルさん……」
 見下ろすエチエンヌの碧い瞳に浮かぶのは、一抹の寂しさだった。彼の姿は、過去の自分とよく似ている。
 大切な主を守れなかった、彼のために死ぬことすらできなかった自分自身と。
「セィシズ様がおられない世界など……守るべき主もない私など……」
「……あなたは」
「私にもう一度機会をくれ。今度こそ、今度こそあの方を、守るから……皇帝陛下……!」
 切れ切れの言葉はもはや文章としては意味をなさない。しかしその場にいた者には感覚としてわかる。帝国の民として、最後には皇帝に縋らざるを得ない己の意思が。
 仕える主を失ったゼイルは、主君の代役をロゼウスに求めた。殺せはしない相手への復讐のために、どうすれば自分の魂が満たされるかを考え続けた。
 セィシズの受けた苦しみをどうやって雪ぐのか、ゼイルのこの胸の虚ろをどうやって満たすのか。
 あの時、主が果たせなかった夢、《皇帝》を手に入れれば、何かがわかるのだと思っていた。
 だが結果は今も昔も……届かない。
 死者を追い求めて、狂ってゆく心。
 それに水どころか、氷の柱を刺して射殺したのはルルティスだった。
「馬鹿なことを言ってるんじゃないですよ」
 この場ではシャーウッドを除いて唯一、十年前の事件に関係のない人間だが、だからこそルルティスの言うことはひたすら正しく、そして残酷だ。
「ゼイル=トールベリ卿。あなたは忠臣を気取りながら勘違いしているただの愚か者だ。傍にいて守れば、それが愛で忠誠だなんて笑わせる」
「ルルティス」
 思わず声を挟んだのは、今日も昔も被害者のロゼウスだ。けれど少年学者の名を呼んだだけで、後の言葉は続かない。
 わかっている。十年前に真に決着をつけなかった、これはロゼウスの罪。誰かがゼイルに言わねばならないことだ。誰もそうしないからルルティスが肩代わりしているのだ。
「おかいこにしてくるみこんで、何でもはいはい諂って聞いていればそれが愛情だなんて……そんなの馬鹿げている。そんなの、自分が相手に嫌われたくないから、自分が相手からの評価を落としたくないから上辺だけとり繕っているその場しのぎにすぎない」
 この事態がロゼウスの罪ならば、それを引き起こしたゼイルの罪をルルティスは突き付ける。
「本当に忠臣を名乗るなら、主が道を踏み外そうとしたときには止めて見せろ! あなたには主と同じものを見て、難しい現実に一緒に立ち向かって、不興を買おうとも本当に主のためになることをする義務があったはずだろう! ゼイル=トールベリ!」
 ゼイルが目を見開く。
 皇帝を拉致すると言うセィシズの計画を止めずに加担したゼイル。主のために、命令ならば何でも聞いて、その望みを全て叶えればそれで立派な部下なのだと信じていた。
「本当の忠誠ってのは、主のためなら耳に痛いこともちゃんと言うことでしょう! その場しのぎの上辺だけ取り繕って破綻したくせに、その責任を他人に押し付けるな! 真実を追求するべき学者ともあろう者がみっともない!」
 ルルティスはとくに部下道を語っているわけではなく、ただ単に学者として許せなかったようだ。
「あなたには、主に嫌われる覚悟があるのですか? ゼイル=トールベリ卿。主から嫌われても憎まれても、主のためになる行動をとる覚悟が。たとえその忠誠が報われずとも、ただ主の《本当の》幸せのために尽くすことのできる覚悟が」
 本当の幸せ。
 本当の愛情。
 例え報われずとも、ただあなたのことを、思う――――。
「機械のように言うことを聞くだけなら、あなたがその人の部下である必要はない。あなたにしかできないことをするのでなければ、他の人間が部下だって構わないじゃないですか。あなたは何か、あなただからこそ主のためになることをしたのですか?」
 ルルティスの言葉に、ゼイルは答えられなかった。
「ゼイルさん」
 エチエンヌが口を開く。
「僕は――」
 かつての自分とよく似た青年に、何か言葉をかけたかった。具体的に何を言えたかなんて、そんなことはわからない。ただ言わずにはいられなかったのだ。
 しかしそのエチエンヌの言葉を、阻む者があった。
「何をしている! ゼイル!」
 フェルザードに拘束されているシャーウッドが叫んだ。硬直状態で負けの見えている状況に、耐えられなくなったようだ。
「さっさとこの場にいる者たちを殺せ! 何のために高い金を払い面倒な手続きを経て、お前を雇ったと思っている?! 皆殺しにしてしまえ!」
 もうゼイル自身にそんな力が残っていないことが分かっていないのか、シャーウッドは自分本位な言葉を狂ったように叫ぶ。否、狂っているわけではなく、これがこの男の本性と言うだけだ。
「お前のくだらない復讐につきあってこうなったんだ! 責任はとってもらうぞ!」
 その言葉に、ゼイルの青い瞳に一瞬で地獄のような怒りが燃えた。
 フェルザードに抑えつけられ、無駄な足掻きながらも暴れるシャーウッドにゼイルが声をかけた。
「シャーウッド伯」
「さっさとやってしま――――え?」
 一瞬後には、シャーウッドは脳天から縦にまっすぐ切り裂かれていた。
「ゼイルさん、何を!」
「我が主を愚弄する者は、誰であろうと許さない。この復讐を、汚す者は……!」
 一瞬前までは共犯であったはずのシャーウッドを殺したゼイルは、僅かに回復してきた体力でその場からの離脱を試みた。いつの間にかその手には、移動用の魔道具がある。準備さえしておけば一瞬で別の場所に移動できるという道具だ。もともとそれを使って皇帝領から脱出したのだろう。
「逃がすわけには……!」
 フェルザードがシャーウッドの死体を投げ捨てて動き出すが、対応がほんの少し遅れた。動揺に足を止めてしまったエチエンヌもだ。
 しかしその一瞬で、身体は動かないながらもゼイルに働きかけた人物がいた。ロゼウスだ。
「ゼイル!」
 一度は背を見せたゼイルの横顔を見た瞬間、ロゼウスの中で何かがかちあったのだ。外れていた最後のパズルのピース。ジャスパーの腕に縋りながら叫ぶ。
「お前、ロンバークに子どもの頃から出入りをしていたという、主家の子どもたちのお守役だろう! イェシラの言った――……!」
 開かれた魔法陣に消える一瞬、振り返ったゼイルの顔が驚愕に歪んでいる。その唇から言葉が零れ、途絶えた。
「あなたが、イェシラ様の――――」
 その昔カウナードが酷い水不足に悩んだ時期、一人の少女が故郷の村を救うために隣国へ水乞いに出かけた。弟はカウナード人とセレナディウス人のハーフで、だから協力を得られるはずだと言っていた。
 彼女の弟が、セィシズ。本来ローゼンティア人と相性の悪いカウナード人だが、姉からローゼンティア人に助けてもらった話を何度も聞いて、まだ見ぬ皇帝に憧れを抱いていた。
 ゼイルにとってロゼウスは、もつれあった様々な因縁の相手だった。主君の姉を救った恩人でもあり、主君が愛し、そして彼が殺される原因となった人物でもあり。
 絡み合った糸はほどけないまま、その一端を握るゼイルの姿だけがこの場から消え去る。
 後に残ったのは悔しげなフェルザードと、呆然とするエチエンヌ、ロゼウスを心配そうに見つめるジャスパー、憂い顔のロゼウス、シャーウッドの死体。
 血臭を運ぶ乾いた風が彼らの頬を撫でていった。