薔薇の皇帝 06

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 ゼイルは逃亡し、共犯のシャーウッドは死んだ。あの後、ジャスパーもロゼウスの状態を聞いたらしく、血相を変えて皇帝領に戻ると言いだした。
 他の面々にも特に異論はない。むしろここ数日、色々あり過ぎて疲れたところだ。ルルティスは拉致され、レッセンフェルの屋敷で一暴れし、そしてマンフレートと別れた。フェルザードとエチエンヌはそんなルルティスを助けに来た直後に皇帝誘拐の報を聞き、丸一日かけてロゼウスを捜し出した。「怪我」を負わされたロゼウスは言うまでもない。
「皆さん! 適当に戻って来てくださいね! それでは!」
「ちょ、ジャスパー王子……!」
 だからと言ってこれはやり過ぎだ。
 兄の容態を知って静かにとり乱した弟は、自分だけ移動用の魔法陣でさっさと皇帝領に戻ってしまった。
「僕たち、どうやって帰るんですか……?」
 帰る方法は確かにあるが、この置いていき方はないだろう、とエチエンヌは呆然とする。
「仕方がありませんね」
 ふぅ、とわざとらしく溜息をついて、フェルザードが事後処理を買って出た。
「今回の一連の騒動の原因は私にもあるわけですし、フィルメリア側との事務的なやり取りは請け負いますよ。ついでにランシェットの暴れた方も片づけてきます」
「すみません、殿下……十年前のことの原因云々はともかく、任せてもいいですか?」
「ええ。アレイオンがいればエチエンヌとランシェットの二人は今日中には戻れるでしょう? 私は愛しの皇帝陛下のために、一肌脱ぎましょう」
 一人、諸々の片付けを終えてから備え付けの転移魔法陣で帰ると約束し、フェルザードとエチエンヌたちは別れる。
 エチエンヌは硝子の馬、アレイオンの背にルルティスと二人乗りし、街の上空を雲に紛れて飛んで帰ることにした。
「うわー、本当に空飛んでる……」
 前で手綱を握るエチエンヌの腰につかまったルルティスは、家々どころか城まで豆粒のように見える高度でも好奇心できらきらと瞳を輝かせていた。確かに滅多にできない経験ではあるのだが、「怖い」とか「落ちたらどうしよう」とか考えないのがルルティスだ。つい自分だけが乗っている時のくせで宙返りなどしてからエチエンヌが焦るのだが、ルルティスはきゃっきゃと喜んでいる。肝が座り過ぎだ。
 この世界、科学力はまだそれほど発達していない。世界最高の移動技術は列車だ。それも完全な科学技術の結晶ではなく、主に動力という点で魔術に頼っている。《黒の末裔》と呼ばれる古来からの被差別民族の地位向上を兼ねてロゼウスが数百年ほど前に計画した科学と魔道の融合は革新的な技術の進歩を世界にもたらしたが、その選択肢が一本道である限りそれ以上の発展は難しいとも言える。
 もしも世界が魔道を必要とせず、科学だけで発展することができたならば、どうなるのだろう?
 それは一つの希望だ。世界中でも極僅かな魔道の才を持つ者に頼らずとも、使い方さえ覚えれば誰もが使える道具が簡単に作れるということ。
 しかしその一方で、技術の発展は人々に不幸をもたらすのではないかと皇帝は危惧している。神や魔物と言った、そして魔道の術者と言った他者の協力を必要としない技術は、制御を間違えれば大きすぎる力で人々を傷つけることにもなる。
 例えば、近年開発された「銃」という武器。
 まだ構造的にも製造、使用に関しても大きな制限はあるが、あの武器がもたらす発想は危険なものだとロゼウスは考える。
 これまでの主な武器である剣に関しては、たとえそれを持ったところで幼児が大の大人を殺傷することは難しかった。しかし銃と言う道具は、引き金を軽く引くだけでそれを可能としてしまうのである。
 行為としてそれが行えても、その重さを背負うことができるのか?
 無理だろう、というのが現皇帝、ロゼウスの考えだ。人間の世界で生きるヴァンピルとして、誰よりも自らが制御しきれない大き過ぎる力で大切な人を殺してしまった過去を持つロゼウスだからこそ、そう思う。
 世界は混沌の上にあり、いつも不安定だ。だが人は不平等の上で平等の夢を見ている瞬間が一番幸せなのかもしれない。
 簡単な力で人を殺せる武器は、女子供や弱者が犯罪に遭う被害を減らすことができるだろう。その一方で、これまで加害者になるはずのなかった人々を、簡単に贖えない罪の道へ引きずりこんでしまうかもしれない。
 それに、人々の心が魔道や神への畏怖から離れ、完全に平等な世界を実現しようとしたら、どうなる? 
 魔術的才を持つ者が多く生まれる《黒の末裔》、それに今は帝国の一員として数えられるローゼンティア人やセルヴォルファス人、セラ人などの魔族までも、人は認めなくなるのではないか……?
 前に進まなければ、そう考える一方で世界の発展を担う皇帝の胸には躊躇いがある。
 私たちはどこへ行くのか。
 どこへ行くべきなのか。
 皇帝の責務は重く、悩みは深く、彼を取り巻く環境は複雑で、痛みは減ることがない。
「ねぇ、学者先生」
「うわ、フェルガンテ城があんなに小さく……は? え、あ、はい。何ですか? エチエンヌ様」
「エチエンヌでいいよ。僕、もともと奴隷だし、様とかいう柄じゃないし。エチエンヌって呼んでよ」
「じゃあ私のこともぜひルルティスと」
「……そうだね、ルルティスせんせー。あのさ……」
 エチエンヌは何か言いたげな様子で口ごもった。
 すでに時刻は夕暮れを迎えていた。西の空が茜色に染まっている。
 それだけ聞けば普通の夕刻の風景なのだが、今の二人と一頭は空の上だ。アレイオンの駆ける広い広い、果てしない上空で、世界の西の果てにある皇帝領を目指しているのだ。真っ赤に燃えている太陽を目指して走っているようにすら見える。
 普通に生きていれば一生見ることができないだろう景色に、ルルティスは興奮状態だ。空を飛ぶ技術はこの世の人型のどんな種族にもなく、魔術でさえ、転移魔術で一瞬で移動することはできても、こんな風に空を遊泳することはできない。
 しかも自らの力で飛んで行かねばならない鳥や蝶などと違い、馬の背に乗っているだけなので体力的にも楽だ。ルルティスは非常に現金なことを考えた。
 もっとも、だからと言っていつもこの恩恵にあやかりたいとも考えないのがルルティスなのだが。己の翼で飛ばないと言うことは、いざ振り落とされても文句が言えないということ。大部分の鳥類に比べて強靭な足を人は持っているのだから、歩けるうちは自分の足で大地を踏みしめて進むことが大切なのだろう。
 そんなことを考えているルルティスの耳に、エチエンヌの躊躇いがちな、けれど決意を秘めた声が届く。捕まった腰からも、彼の緊張が伝わってきた。
「あのさ……懺悔、していいかな」
「ゼイルさんことですか?」
「ことっていうか、なんていうか……」
「最初からかなり気にしていましたね。皇帝領の誰よりも。直接的に関わることではなくとも彼を見ていて、何か連想されることでもありましたか?」
「何でわかんの?!」
「それが人の性ですから」
 思わず振り返ったエチエンヌに、ルルティスはにっこりと笑って見せる。そのままで続けた。
「私は聖職者ではありませんから、本来告解を聞く立場にはありません。でもそんなことはすでにお分かりでしょうから、聞いてほしいことがあるなら聞きますよ? でもいいんですか? 私に迂闊に《物語》を聞かせると、二、三年後には本になって出回っているかも知れませんよ?」
 気遣っているのか脅迫しているのかよくわからない様子でルルティスはそう言った。エチエンヌは反応に困りつつ、それでも頷いた。
「うん……いいんだ。むしろ僕は……僕だけじゃなくロゼウスも、皆も、それを望んでいるのかもしれない。先生が、僕たちの過去を、罪を、これまで語ることのできなかった真実を、ちゃんと記録して残してくれることを」
 これまでルルティスをそれほど積極的には皇帝領から追い出さなかったロゼウス。孤児であるというルルティスの過去やその性格的に追い出すことは難しい人物なのだが、ロゼウスが本気でルルティスを追い出したいと言えば、それは簡単に叶っただろう。
 けれど、皇帝はこの学者を手元に置いた。
 真実を伝えるために。
 語るべきことを語らなかったという後ろめたい想いが、彼らの中にはある。
 その真実の中心にいるのは、シェリダン=エヴェルシード。
「前にシェリダン様のこと、少し話しましたたよね……」
「ええ。あれは確か、ゼイルさんが来てすぐのことですよね」
「うん、ゼイルさんを見てて、僕は昔のことを思い出した。あの人によく似てる人を、知ってるんだ」
 その人物の名はクルス=ユージーン。 
 エチエンヌたちと同じく、生前のシェリダンの部下だ。
 エチエンヌは視線を正面へと戻す。紅い、紅い夕陽が燃えている。エヴェルシードはよくこの夕陽に例えられる。
 ルルティスはエチエンヌの腰につかまりながら、その話を聞く。前を向いている彼の声は耳に直接届くと言うよりも、むしろ風の中に紛れてしまうそれを拾うようだ。
 もしも声が目に見えるのであれば、風の中に何か透明なものが流れていて、それがきらきらと悲しく輝いているのではないかと、ルルティスは思う。
 世界は見たくても見えないものに溢れている。
 そして見たくないのに見えてしまうものにも溢れているのだろう。
 エチエンヌが語るのは、そういう話だった。
「四千年の昔、一人の少年がいた。彼の名は、シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。三五八代目のエヴェルシード王」
「三五八代……有名なのは、むしろ三五九代の名君と呼ばれた大女傑カミラ王、その次の三六〇代アールフレート王あたりですよね。すみません、歴史学者のくせにエヴェルシードの歴史には、それほど詳しくなくて」
「ううん。いいんです。それが普通っていうか……話が早くて、むしろ助かるよ。そう、カミラ様はエヴェルシードの王となった。本来なら、王となることはない人間のはずだったんだけど」
 エヴェルシードは武人気質というその恐ろしいまでの弱肉強食主義から、今でも男尊女卑思考を貫いている国だ。身体能力で比べてしまえば、どうしても女性は男性に劣る。一部の例外もないではないが、そういった人間は稀だ。エヴェルシードではそのために、女性の王位継承権はないも同然である。直系の王族に女性しかいないのであれば、それを殺して先代王の兄弟などが玉座に着くのは当たり前という国。
 その国で、カミラと言う名の女王が誕生したのは、その時王族が彼女しかいなかったからだ。彼女の兄こそが、ロゼウスの最愛の人であり、エチエンヌ、ローラ、リチャードの主君であったシェリダン=エヴェルシード。
 たったの十七歳でその生涯を閉じた少年王。
 亡くなった時は王ですらなかった。彼は自らの死を知っており、エヴェルシードの王ではいられないとわかっていたので、自らが愛した王国を妹姫であるカミラに託した。
 そこに至るまでには、紆余曲折があった。シェリダンは父王が街娘だった母親を強姦した生まれで、そのために母が自殺したので自らの出生を嫌い、世界を憎み、エヴェルシードの玉座に執着して父王を殺しながらも、自らの王国を憎んでいたという過去がある。しかしその感情はロゼウスとの出会いの中で揺さぶられ、自らの抗えない死という現実を知った時に彼に残ったのは、王国と、自分と長く敵対していた妹姫への愛と信頼だったと言う。
 その辺りのことまでエチエンヌはルルティスに語りはしないが、それでもシェリダンが複雑な状況にいた人間だと言うことはなんとなく伝わったらしく、ルルティスは静かに話に聞き入り、時折質問してくる。
「自らの死を知り妹に王位を……でも何故、そのシェリダン王は御自分の死期を知ることができたんですか?」
「……《大預言者》《冥府の王》、魔術師のハデスって人、知ってます?」
「あの高名な大魔術師ですか? えーと、確か第三十二代デメテル帝の選定者ですよね」
「そうです。シェリダン様はあの人と親交があったんで、聞いたらしいんです。御自分が死ぬこと、それが避けられないことだということを」
 エチエンヌの声が沈む。
「カミラ姫が女王に、そして大名君になったのは、ご自分があの国をシェリダン様から信頼して託されたという自覚があったからだ。女だからというだけの理由で何度も玉座を奪われそうになったし、一度は本当に危なかったんだけど、それでも彼女は女王の地位を守りぬき、そしてまた自身の息子に王位を託した」
 その息子は、それこそ語れぬことの最たるものであるが、カミラとその兄であるシェリダンとの子どもだ。シェリダン自身は子どものことをまったく知らずに逝った。
 エヴェルシードの直系王族は七千年間途絶えていない。つまり、今の王族は間違いなくシェリダンの血を引くということになる。今のエヴェルシード王族、例えば。
「ちなみにフェザー殿下は、顔立ちがシェリダン様そっくりなんですよ。髪や目の色は少し違うんですけど」
「え? あ……つまり、皇帝陛下がエヴェルシード人をよく愛人にしてるっていう噂は、まさか」
 今回の事件にも大きく関わった、愛人問題の鍵の一つであるフェルザード。彼の容姿は、ロゼウスの琴線に触れるものだ。
 彼がシェリダンに似ているから愛人にしたのかと言えば、ロゼウスは否定しきれない。それも理由の一つにはある。もっとも、こちらももっと複雑でややこしい問題が裏にあるので、ただ顔が似ているからフェルザードを傍に置いているわけではないのだが。
「そう。やっぱり薄くても血が繋がってるから、時々こうして似た人が現れるんです。フェザー様みたいに瓜二つってことはさすがに初めてだけれど、面影があったり性格が似ていたりってことはしょっちゅうですよ」
 しかし似ているだけで、シェリダンそのものだと思える人間に出会ったことはない。四千年経っても。人の性格は本当に人の数だけ違いがあるのだと肌身で感じる。
「ついでに言わせてもらいますが、僕たちは先生の容姿もすっごく気になるんですけど! そのお顔……シェリダン様に似てます……」
 エチエンヌの言葉に、ルルティス自身は首を傾げる。
「はれ? そう言えば、私とフェザー殿下って少し似ていますね。髪の色が違うんで、印象がまったく違ってきますけど」
 そう、何故かこの時代はフェルザードだけでなく、ルルティスというまったく無関係の他人にまで、シェリダンとよく似た容姿の人物が現れた。
 しかも、確かに髪の色の違いは大きいが、瞳の色はルルティスとシェリダンはまったく同じだ。
 しかしそこに関しては単なる偶然だろうと今は脇に置いて、エチエンヌは話を進めることにした。
 黙っていても、もうこの状況では話は進まざるを得ないのだ。エチエンヌは肝心なことを話していない。聞いている人間がそれに気付かないはずはなく、聞き手が歴史学者であるルルティスならばなおさらだ。
「……あの、エチエンヌ」
 ルルティスが躊躇いがちに切り出した。
「私の知る史実では、カミラ女王は十六歳ですでに玉座についています。それ以前に玉座を譲られたということは、そのシェリダン王は、かなり若くして亡くなっているということになりませんか? それに、元は彼の部下であるというあなた方がこうして陛下の部下として生きているのに、何故その方だけは、一緒に不老不死として生きていらっしゃらないのです?」
 それは、当然思い付いてしかるべき疑問だった。
「……できなかったから」
 愛していたと言うのであれば、生き返らせればいいではないか。何故そうしない。できるはずだろう。吸血鬼としても、皇帝としても。
 答は、《薔薇の皇帝ロゼウス》、彼の存在そのものにある。
「シェリダン様の死が、ロゼウスが皇帝として在る理由だったから」
 一般には知られていない「こと」がある。規則とも法則とも呼べない、だが一つの真実。
 皇帝は、己の愛した者を生き返らせてはいけない、生き返らせることはできないという。
 だが、今回のゼイルの忠誠やセィシズがロゼウスに向けた想いのように、「愛」の定義など本来曖昧なものだ。一体どこでそれを測るのか。これが自分の愛だと、言おうと思えばどんなものでも愛だと言えるのではないか。
 しかしロゼウスは、薔薇の皇帝ロゼウスに関してだけは、それはできなかったのだ。
「シェリダン様を殺したのは……僕たちの主君を殺したのは……僕が本来憎むべきその相手は……ロゼウスだ」
 エチエンヌの言葉に、ルルティスは息を呑んだ。
 エチエンヌの話では、ロゼウス帝はシェリダン王を愛していたのではないか? なのに、何故?
「死んだ人間は、生き返らない。だからこそ、命はかけがえがない。それを知るために……定められていたことなんだって」
「なん……ですって?」
「ロゼウスが完璧な皇帝になるためには、ロゼウス自身の手でシェリダン様を殺すことが必要だったんだって。それが運命だと、神の采配だと……だから、シェリダン様が“死んで”初めて皇帝として成り立つロゼウスは……だから、シェリダン様だけは、生き返らせることができないんだって……」
 シェリダン=エヴェルシード。
 それはこの世に薔薇の皇帝を生み出すための礎。
「ルルティス先生は、自分にとってどうでもいい人間とか、憎い相手を殺して命の大切さだとか、そういうの考えられる」
「いいえ」
 ルルティスは即答した。倫理的にはどんな人間の命でも大切、とか言うべきところなのかもしれないが、個人的な実感としてはそんなことは考えられない。口ではいくらでも大切だと言えるし、本当はそう言うのが正しいとも思っているが、ならばそれを守れない自分は悪魔でいいと思うくらいには、ルルティスの手は汚れている。つい先日も人を殺したばかりだ。
「そう……憎い相手や、どうでもいい人間の命じゃ駄目なんだ。ロゼウスが最も愛している、自分の命より大切なシェリダン様の命を失うことでしか、薔薇の皇帝は完成しなかったんだって」
 世界にとって唯一の皇帝を完成させるために、
 世界で唯一の、だがその時は王でもなんでもない、ただの少年の命を奪わせる。ただの人間ではあるけれど、ロゼウスにとって誰よりも大切な相手の命を。エチエンヌたちのかけがえのない主君を。
 主君の仇は、主君が死んだ原因は主君が愛していたその相手。細部は異なるがそれだけ見れば、まるで今回のゼイルの事件のようではないか。ルルティスはようやく、エチエンヌが何を言いたいのかわかった。
 エチエンヌが過去を思い出したというのも当然だ。もっとも、ロゼウス本人が手を下したシェリダンとは違い、ゼイルの主君セィシズを殺したのはフェルザードなのだが。
 ゼイルがこだわった騎士の名。主を守る部下。
 主を守り切ることができなかった、騎士。守るべき者は失われた、もう誰を守ることもできない腕のない騎士。
「ルルティス先生はさ、ゼイルさんに言ったよね。本当の忠臣なら、ちゃんと主に厳しいことも言えって」
「そんなようなことは言いましたね。少なくとも私はそう思っていますよ。誰かの部下になったこともないくせに偉そうな物言いだとは我ながら思いますが」
 ――本当に忠臣を名乗るなら、主が道を踏み外そうとしたときには止めて見せろ! あなたには主と同じものを見て、難しい現実に一緒に立ち向かって、不興を買おうとも本当に主のためになることをする義務があったはずだろう!
「主と部下に限らず、どんな関係であっても、相手のためを本当に思うなら時には厳しいことも言って差し上げるべきだと私は思っています。……けれど世の中には自分の価値観を押し付けているだけとか、余計なお節介とか、的外れな忠告だとか、いろいろありますからね。本当に相手のためになることを言うのは難しいですし、だからこそそれは、まったくの他人、例えばゼイルさんにとっての私なんかではなく、その人が本当に大切だという関係同士で言うべきことだと私は思っていますよ」
 相手のことを知らない人間が何かを忠告しても、的外れや世界の違う人間に自分の価値観を押し付けているだけということが多い。
 だからこそ真の忠告は、親しい者の言葉でなければ駄目なのだ。それが愛とか忠誠と言うものなのだと、ルルティスは思っている。誰も言わないことであれば第三者が言うしかないのかもしれないが、それでは例え正しい意見だとしても、本当に心に響くことはないだろう。
 ゼイルは止めるべきだったのだ。十年前に、彼の主を。傍から状況を聞いているだけのルルティスにも、セィシズの行動は暴挙としか思えない。
 しかしエチエンヌは言う。
「僕ね……本当はゼイルさんの言い分もわかってた。僕も、同じだったから」
 四千年間、口に出せなかった想いをエチエンヌは口にした。
「先生は強いね。その基本的に自分勝手に見えて、相手のための厳しさがわかってるところ、まるでシェリダン様みたいだ。でも僕はそんなに賢くも、強くもなれなかった。だから……シェリダン様を失った」
 主君がエヴェルシード王として全ての後ろ盾を失った時でさえ、エチエンヌには彼を信じてその言葉を聞くことしかできなかった。信じる、なんて身勝手なことだ。エチエンヌは自分の決定権をシェリダンに預けてしまっただけだ。そんな愚か者だから、主君の心の変調にも気付くことができなかったのだろう。
 双子の姉であるローラは意見を伝えていた。ロゼウスにもう関わるな、と。そのローラでさえ止め切れなかったのだ。エチエンヌが何を言ったところで事態は変わらなかったかもしれない。そんなことくらいで意見を変えるほど意志の弱い主でもなかった。だが、それでも。それでも。
「僕はシェリダン様に命を救われた奴隷だから、ただあの人に従うのが全てだと思ってた。ローラも同じだし、リチャードさんも立場的には似たようなものだった」
 だがそんなものは真の忠誠ではないと、今回ルルティスが、何を知らずとも……いや、知らないからこそ、公正なる絶対の真理として断罪した。その公正さ自体もルルティスの意見に偏ってはいるわけだが、少なくとも彼の考え方はエチエンヌよりシェリダンに近いようだ。だから今回エチエンヌは彼に告白する気になった。
「シェリダン様が、主君が愛した相手だから、たとえ主君を殺した仇であっても僕らはロゼウスに仕える道を選んだ。でもシェリダン様の部下の中には、その道を選ばない人もいた」
 それが、クルス=ユージーン。
 世間的には、薔薇の皇帝ロゼウスに反逆した大逆人として有名だ。だが彼がシェリダンを殺された復讐としてロゼウスに戦いを挑んだことは知られてはいない。彼はただロゼウスと言う皇帝を認めないために反逆したのだと伝えられる。
「あの、クルス=ユージーン卿ですか……!」
「そう、あの人は、シェリダン様に心酔してた。けれど侯爵様だから、最後はエヴェルシードを頼むって言われて、連れていってもらえなかった。自分の知らないところでシェリダン様がロゼウスに殺されて、彼はロゼウスへの復讐を決意した」
 ――呪われよ! 薔薇の皇帝! 僕はあなたを、絶対に許さない!
 彼にとっては、ロゼウスがシェリダンを愛していることなど関係がなかった。どんな理由があろうとも、ロゼウスはシェリダンを殺したのだから。
 そしてもう一人、理由など関係ないという人物がいた。
 それは、シェリダンを殺したロゼウス自身。
 クルスはロゼウスのそんな思いを知らず、ただユージーン侯爵として薔薇皇帝に戦いを挑み、負けて殺された。彼のしたことは、遠回しな後追い自殺とも言えるだろう。
「今でも考えるんです。あの時、どうするのが一番正しかったんだろうって」
「クルス卿とあなたの、どちらが正しかったということですか? それに今回のゼイルさんも……」
 真の忠義とは、本当の忠誠とは何なのか。
「それもありますし。僕ともあの人とも違う道はなかったのかって。だって結局は僕もユージーン候も、主君を守れなかったのですから」
 主の死後の身の振り方など、主の命を守れるかどうかに比べれば些細なこと。その意味では、エチエンヌもクルスも、そしてゼイルも、誰も忠臣などではないのかもしれない。
 あの時、本当はどうすれば良かったのだろう。何度も繰り返し同じ問いが胸を巡る。
 例えばハデスの言う予言の内容を知っていて、ロゼウスがシェリダンを殺すのだと知っていれば、エチエンヌがロゼウスを殺してしまえばシェリダンは生き残ったのではないか。そのために世界は次代皇帝を失って滅びるのかもしれないが、エチエンヌにとって、世界などどうでもいいものだ。積極的に滅びてしまえとは思わないが、自分と主が死ぬまで存在すればそれでいいくらいのもの。
 けれどシェリダンの命がそれで助かったとして、その後はどうなる。
 シェリダンはロゼウスを愛していた。ロゼウスがそうであるように、恐らく自分の命よりも。彼は自分に与えられる死を知っていたのだ。その上でそれを避けるような行動をとらなかったということはつまり、彼にとって自分の命よりも、ロゼウスの命が大切だったということではないのか。
 そのシェリダンが、ロゼウスを失って永らえても幸せになれるとは思えない。そんな生に、果たして意味はあったのだろうか。
 愛していたのだ。
 シェリダンはロゼウスを、ロゼウスはシェリダンを。
 愛していなければ、ロゼウスはシェリダンを生き返らせることができたはずだった。真実彼を愛してしまっているからロゼウスは彼を、彼だけは冥府から取り戻すことができない。なんて皮肉なのだろう。
 そしてエチエンヌは。
「僕……ロゼウスを殺そうとしたことがある」
「――――え?」
 すでに幾つも衝撃的な話を聞いているというのに、それ以上に驚くことをまたしてもルルティスは聞かされた。
 シェリダン王やクルス卿の話など、言っては悪いがルルティスにとっては過去のことで、どんなに驚愕のエピソードを聞いても所詮は絵物語並の驚きに過ぎない。だがロゼウスもエチエンヌも、二人が今現在どんな日常を過ごしているかもルルティスは知っている。
「ロゼウスは本当は、皇帝になんてなりたくなかった。もともとそんな野心なければ、シェリダン様を殺して手に入る玉座なんてそれこそ願い下げだった。だけど予言の通り、状況的にほぼ“事故”とは言え自分の手であの方を殺してしまって……だからロゼウスは、狂いかけた」
 毎日毎日、狂ったように自殺を繰り返すロゼウス。自殺を「図る」とは言えない。彼は本当に自殺したのだ。ただ、皇帝としての使命がそれを赦さない。皇帝は次の皇帝に代替わりするまでは不老不死なのだ。
 手首を切り、首を吊り、完全に心臓が止まっても、また息を吹き返してしまう。自殺未遂なんて生易しいものではない。ギロチンで首を斬りおとしても、くっついてしまうのだ。獣に喰われて肉片すら残らずとも、その獣の腹を突き破る形で再生してしまう。身体を消滅させれば事実上の死となることもなく、完全にこの世からその細胞の全てが消滅しても神がまた彼を作り上げる。それが不死たる皇帝の苦しみ。
 それなのにロゼウスは、己を殺すことを繰り返す。シェリダンを殺した自分自身が赦せなくて。不死になっても身体が苦痛を覚えないわけではない。それでも彼は自殺を繰り返す。息をしている時間よりも、死んでいる時間の方が長い。
 堪え切れなくなったのは、エチエンヌの方だった。
「自殺を繰り返しながら、それでも死ねないロゼウスが哀れで……自分で自分に無限の苦しみを与えながら、決して救われないあいつが可哀想で……だから、殺そうと思った」
 月の綺麗な夜だった。その日もいつものように日中狂ったように自殺を続けていたロゼウスは、疲れきって寝台で眠っていた。
 青白い月の光の中、眠る皇帝はただ美しかった。その美しさを、彼自身が望んでいないことは知っている。
 この美しさも、流れる涙も、指先に触れる冷たい体温も、全部が作りものだったらいいのに。
寝室に忍び込んだエチエンヌはロゼウスの細い体の上に馬乗りになり、首を絞める。指に全霊の力を込めて、首の骨を折る。
 それでも皇帝は死ねない。目を覚ましたロゼウスが、驚愕の表情でエチエンヌを見ていた。なぜ、と、その唇が何かを言いかけた。
 指を離すと早速塞がろうとするその喉の傷を無理矢理動かして問いかけてくる。
 ――エチエンヌ、なんで泣いて――。
 その驚いた顔が今でも忘れられない。
 死にたいと願う彼を、殺して楽にしてやりたかった。
「僕は……シェリダン様の部下なのに!」
 ロゼウスが死にたい死にたいと願う。何度も己の肉体を痛めつけ殺す。それが哀れだった。見ていられなかった。だから殺そうとした。
 けれどその瞬間、エチエンヌは気づいてしまったのだ。
 ロゼウスはシェリダンの仇なのだ。シェリダンのことを想うならば、ロゼウスが自殺を願う方が良いはずだった。自分の主を殺しておいて罪の意識に囚われもせずのうのうと生きるなんて赦せない。だからせいぜい苦しめばいいと。
 それとエチエンヌがロゼウスを殺そうとした感情とは、まったく別の想いだった。エチエンヌはシェリダンを殺した復讐のためにロゼウスの死を願ったのではない。
 殺そうとしたのは、死なせてやりたかったのは、ロゼウスのためだ。シェリダンのためではない。
 自分はシェリダンの部下なのに。
 ロゼウスはシェリダンの仇なのに。
「僕は……もう、本当はシェリダン様の部下を名乗る資格なんてないんです」
 シェリダンの復讐ではなく、ただロゼウスのために彼を殺そうとしたその瞬間から、エチエンヌはシェリダンの「忠臣」などではなかった。その行動は、決してシェリダンには繋がらない。彼の仇を憎んだわけでもなく、彼が愛した相手を守ろうとするわけでもなく。
 エチエンヌがその時見ていたのはロゼウスだ。ロゼウスの苦しみだ。知っていた。彼がシェリダンを本当に、愛していたことを。だから――。
「本当の忠誠なんて、僕には誰も何も言える資格はないんです。だって僕は、シェリダン様を裏切った!」
 大恩ある人を、誰よりも大切だと思っていた人を、裏切った……。
「エチエンヌ」
 ルルティスは彼にかける言葉が見つからない。ふと気づけば、もう眼下には皇帝領が近い。
 シェリダンを裏切ったのだと言うエチエンヌ。だけれど、ルルティスにはまったく違うものが見える。
 眼下に広がる皇帝領の景色、漆黒の宮殿に深紅の薔薇の花畑、そして降りやまぬ雪。それが皇帝の心象を現した風景だと、心まで暗く凍てついているのだと言われるその景色が、ルルティスには深い悲しみの現れと見えるように。
 だから彼は、そのままを告げた。
「あなたがシェリダン=エヴェルシード王の忠臣であるかどうかは、僕にはわかりません」
 けれどこれだけは確かなことだ。
「……あなたは、薔薇の皇帝ロゼウス=ローゼンティアの忠臣なのですね」

 ◆◆◆◆◆

 月の綺麗な夜だった。
 青白い月の光の中、眠る皇帝はただ美しかった。その美しさを、彼自身が望んでいないことは知っている。
 この美しさも、流れる涙も、指先に触れる冷たい体温も、全部が作りものだったらいいのに。
 そう願うのは、かつての主君のためではない。今寝台で眠りにつく、主君の仇のため。
 けれど、できるはずもなかった。
 皇帝は殺せない。誰よりも、そんなこと知っているはずのに。
「エチエンヌ、なんで泣いて――」
 馬鹿だな、と。
 自分はなんて愚かなのだろうと。
 いつだって賢くなんてなれない。事が起こる前に正しい判断をして、最上の結果を得ることができない。後悔ばかりだ。
 エチエンヌにできるのはただ願い、誓うことだけ。
「死ぬな」
「エチエンヌ……」
「死ぬな。生きてくれ」
 同じものを見て、一緒に現実に向かい合って、そうして時には反目したりずけずけと言いたいことを容赦なく言ったりしながら、それでもずっと傍にいるから。
 離れてしまうかもしれないけれど、完璧には守れないかもしれないけれど。そうしたら、必ず迎えにいくから。
 そうやって、今度は主君に全てを預け切りの魂のない人形になるのではなく、ちゃんと自分の意志で、心で、お前の幸せを守るために戦い続けるから。
 それは願い。それは祈り。

「僕がお前を守る。だから生きろ。生きてくれ!」

 この世界の神が何を考えているかなど、エチエンヌには知りようがない。
 しかし少なくともその神の代行者は、エチエンヌの祈りを聞き届けた。
「……うん」
 小さく頷いたロゼウスは、それ以来確かに、無闇に自殺を繰り返すことは少なくなった。