薔薇の皇帝 06

029

「陛下ぁ~皇帝陛下~」
「だから、頼むから、丸一日耐久取材はやめて―!!」
 宮殿にいつものやりとりが響き渡る。
 またしても厨房に隠れていたロゼウスが見つかったらしく、城の裏手からどたばたと駆けてくる音が聞こえた。階段の細い手すりをロゼウスがひとっ飛びで乗り越えたかと思えば、ルルティスはいつの間にか先回りするための城のショートカットを発見していたようで、「そんな馬鹿な!」という叫びが聞こえた。
 どこにいても騒ぐ声が聞こえるのは城の構造がどうなっているのか、と言うよりも追う者と追われる者が城中を駆け巡っているのが原因らしい。つい先日は二人とも拉致されててんやわんやの状態だったとは思えないその様子に、エチエンヌは溜息をついた。
「いいの? あんたあの人の騎士なんでしょ? 守らなくて」
「だってローラ、命の危機じゃないし」
「まぁね。もう一種恒例のレクリエーションよね」
 吹き抜けの上階の手すりに身を預け、双子は逃げる皇帝と追う学者を見物していた。戻ってすぐ、ハデスに身体を治療されたロゼウスが元気いっぱいで気を使う必要がなさそうなことは、あの騒々しい声を聞けばわかる。
「強いて言えば、そろそろロゼウスを仕事に戻さないとリチャードさんの血管がブチ切れるくらいじゃない?」
「じゃあ別にどうでもいいわね」
 ローラはリチャードの扱いが酷い。というか彼女は全般的に誰に対しても酷いが。
「ちなみにフィルメリアの事後処理から戻ったはずのフェザー殿下は?」
「……逃げた」
 ルルティスの「取材させて!」攻勢にはさしものフェルザードも鬱陶しがって雲隠れを決めたようだ。
 多少騒がしいが、ようやく皇帝領にいつもの光景が戻ってきた。
 学者拉致に次いだ皇帝拉致事件は、とにもかくにも幕を下ろした。
 しかし、ゼイルはいまだ逃亡中で、それとなく各国に手配を済ませたが発見の報はない。シャーウッド伯爵の周辺を調べたが、めぼしい情報は出て来ないようだ。
 珍しくフェルザードが渋い顔をしていた。彼の性格上、一度終わったはずの事件をこうして蒸し返されるのはすこぶる気に入らないらしい。
 その彼の手を紙一重で何とか逃れ続けているゼイルは、確かにあらゆる分野での実力が備わっていたのだろう。それこそ、皇帝の騎士にも相応しいだけの実力が。
 嵐の予感がする。
「……あんまり気にするんじゃないわよ、エチエンヌ」
 姉の言葉に、エチエンヌは顔を上げた。
「ゼイル=トールベリの行動は結局のところ、責任逃れなのよ。傍にいたなら守れたはずの主を守れなかった。その現実に向き合うのが辛くて復讐に逃げているだけ。あれは一種の自己愛よ」
「ローラ……でも」
「あんたはあの時シェリダン様を守れなかった自分を赦すために、今ここでロゼウス様に仕えているの? 逆でしょう? 私たちは赦せないから、今ここにいるのではない?」
 ローラの、姉の言うことは確かに正しい。エチエンヌはかつての主君を守れなかった自分を悔いているから、この場所にいる。最初は確かにそうだった。今は違うかもしれないけれど。
「復讐に走って自滅するのは本人の勝手だけれど、セィシズ=ロンバークの死に関してロゼウス様が責められる謂れはないわ。あの男は、それだけの罪を犯したのだから。しかもある意味皇帝の命を聞かずにほぼ独断で手を下した直接の殺害者であるフェルザード殿下の行動を知りながらロゼウス様に恨みを向けてくるあたり、まったく歪んでいるとしか言いようがないわね」
「ローラ……」
 姉は辛辣だ。
 だがエチエンヌにはゼイルの気持ちもわかる気がするのだ。確かにロゼウスを傷つけたあの男は赦せない。しかし。
 今度こそ、と言っていた。
 主を失った自分の、ロゼウスにはもう一人の主になって欲しいのだと。
 彼はやり直したかったのだ。悲しい現実に、無限の後悔をしている。
 やり直したいという切なる願い。
 しかしそれすらも、裏を返せば、「やり直せる」と考える傲慢でしかないのか。
 エチエンヌにはわからない。取り戻せるならば取り戻したい、今も。
 だが確かに姉やフェルザードに何度も諭された通り、ゼイルがロゼウスを二度目の主として戴きたいというのは何か違う気もする。
「失ってしまったものは取り戻せないのだから、諦めるしかないのよ。諦めないならば、一人で永遠に悲しんでいればいいんだわ。それなら誰にも迷惑はかけない」
 そう言うローラ自身は、まだ悲しみ続けている。シェリダンを失ったことを。
 その一方で彼女もまた、ロゼウスの傍にいることを自らの意志で選びとった。初めこそ無理矢理だったが、今は自身の意志で皇帝の傍にいるのだと。そうでなければ彼の子どもなど産みはしないだろう。
 そしてローラは吹き抜けの上階から、眼下を元気よく、皇帝を追いかけて走りまわっているルルティスの方へと視線を向けた。
「あるいは取り戻せるかもしれないものに対しても、みっともなく縋りついたりしないで、ただ耐え続ける人もいる」
 皇帝領に全員が戻った後、ルルティスを皇帝領まで迎えに来たマンフレート、もともとの発端である彼がルルティスの傍にいないことに対し、彼らは当然事情を尋ねた。
 エチエンヌとフェルザードが血塗られた屋敷を見て考えたことと、その答は大きくは違わなかった。
 ルルティスはマンフレートに対し、弁解しようと思えばいくらでも弁解できたはずだろう。ルルティスの経歴はどうやら余程特殊なようで、どうやっても楽に生きてこられるはずはなかったようだ。その辺りを受け入れてしまえば、マンフレートの世界も変わっただろう。
 だがルルティスは、かつての教え子の価値観や世界を変えてまで彼の理解を得ることを選ばなかった。
 自身の真実の姿が受け入れられないものであるなら、離れていいと。彼はマンフレートを追いはしなかった。
 レッセンフェルの屋敷で大暴れしたルルティスは、もしもその責任を負えと皇帝から命じられたならば、受け入れるような顔をしていた気がする。
 結局フィルメリアでの拉致に関してロゼウスは、ルルティスは一方的な被害者ということでけりをつけたようなのだが、そちらも完璧に解決したとは言い難い。
 だがルルティスの場合、どんなに深い傷をその胸の内に抱えようと、その痛みに一人で耐えることを選んだ。
 その強さが純粋に羨ましいと、エチエンヌなどは思う。いや、エチエンヌだけではなく、ロゼウスもリチャードも……。
「あの人を見ていると、どうしてかシェリダン様を思い出すわ」
 ぽつりとローラが呟いた。
「ローラも?」
「ええ。どうしてかしら? それほど似ているわけではないのに。確かにお顔はそっくりだし、瞳の色も同じ。でも性格は……」
 常に敬語喋り、時々崩れると一人称「僕」の……そんなシェリダンはかつての部下的にとても想像し辛かった。あの研究にかける妙なバイタリティも理解できない。かつての主君であるシェリダンも弾けるところは妙に弾ける人だったが、ルルティスとは方向性が違う気がする。
「違うわよね」
「うん、違うと思う」
 それでもどこか、もっと深い部分で、本質的なものが似ているような気がする。
「皇帝領がまた賑やかになるわね」
「そう言えば、来月にアルジャンティアも戻ってくるんだっけ」
「ええ」
 カルマインに名目上留学中の、ロゼウスとローラの娘の名を出して、エチエンヌは確認する。フェルザードも戻ってきたし、ルルティスが新たに加わり、アルジャンティアもいる。自分たちのような見た目だけ若人ではない実年齢も本当に若い人々が加わって、新たな風を吹き込むようだ。
 しかし嵐の予感がする。
 長い時を生き過ぎて、もはやどんなことにも心動かされることの少なくなった皇帝領の住人達。しかし十年前にやってきたフェルザード、今度のルルティス。新しい顔ぶれが参入したことで、何かが動きだし始めている。
 それは幸福の予兆か、あるいは終焉への引き金なのか。
「エチエンヌさん! ローラさん!」
 階下から少年学者に呼ばれた。物思いを断ち切られ、かつて人形と呼ばれていた双子の姉弟はそっくりな表情で視線を向けた。
 こちらへと呼びかけるルルティスは、満面の笑みだ。
「お二人とも、取材させてくださいよー!」
「謹んでお断りいたします」
「僕もです」
「えー!」
 笑顔の裏に癒えない傷を、明るさの影に暗い闇を、柔らかな心の中に溶けない悲しみを抱え、それでも生きていく。

 ◆◆◆◆◆

「僕は……今まで独りで生きてきた。これからも独りで生きていく」
 血塗れの屋敷で思い知った。改めて、自分は異端者であるということを。
「独りで生きていくしか、ないのだから」

 帰る場所はない。迎えてくれる人も。
 これまでずっと独り。これからも、独り。

「本当の忠誠なんて、僕には誰も何も言える資格はないんです。だって僕は、シェリダン様を裏切った!」
「あなたがシェリダン=エヴェルシード王の忠臣であるかどうかは、僕にはわかりません。でも……あなたは、薔薇の皇帝ロゼウス=ローゼンティアの忠臣なのですね」
 かつての主君を救えなかったと嘆くエチエンヌ。けれどルルティスにとっては彼すらも何処か羨ましい。
 ルルティスには誰もいない。裏切る前に、そこまで信頼する相手も、信頼してくれる相手もいない。
 ――触らないで!
 ――ご……ごめんなさい。ごめんなさい、ルルティス、ごめん……。
 誰にも期待することはできない。そんなことは無理だと。
 大事な人はいつも、ほんの少し心を許した瞬間に手を離されてしまう。ルルティスの生き方を、全て受け止めてくれる人なんて、いない。

 だから誰も愛さない。

 仕える主を持たず、守るべき騎士でもなく、守られるお姫様でもなく。
 親もいない友人もいない。誰も、いない。
 帰る場所はない。
 ずっと、ずっと……。
 エチエンヌの硝子の馬の背に一緒に乗って皇帝領に戻ってきた時も、その思いは何ら変わらなかった。
 皇帝陛下は一応助けてくれたけれども、そこに特別な感情を期待するのは間違っている。ただの一臣民が、たまたま目に留まって恩恵を受けたからといって、その慈悲に自惚れるなどと。
 期待をしすぎないように、そしていつでも自惚れることはないように。

 誰かに愛してもらえるなどと、思わないように。

 ルルティスはいつもそう、己に戒めている。
 夕暮れの皇帝領で、ローラとリチャードが彼らを待っていた。
 漆黒の居城を包み込む深紅の薔薇の花園に、静かに降り続ける雪。
 降りてきた彼らに声がかけられる。
「おかえりなさい、ルルティス先生」
「おかえりなさい」
「え……」
 名指しで迎えられて、ルルティスは柄にもなくうろたえた。
「あのままチェスアトールに帰ってしまうのかと思ったわ」
「御無事のようで、何よりです」
「お迎え任務完了!」
「はいはい。エチエンヌ、あんたはさっさとアレイオンを厩に戻してきなさいよ」
「はーい」
 二人は横で手綱を握っているエチエンヌに関しては放置だった。彼らの態度に、ようやくルルティスは、彼らが待っていたのは自分なのだと気づく。
 奥の城からも人影が出てきた。一足先に戻ったはずのロゼウスだ。治療はすでに終わったのだろうか。ジャスパーに何か怒られているようだからきっとまだなのだろう。けれど彼は、どこか怪我しているらしい身体を押して出てきたらしい。――何のために?
 深紅の眼差しが向けられ、その美しい面がふわりと微笑み唇を開く。

「おかえり、ルルティス」

 帰る場所などない。迎えてくれる人もいないのだと……。

 だけど今は。 
 いつかまた失うのかもしれないけれど、せめて、今だけは。

「……ただいま戻りました」

 この暖かさを噛みしめていたいと心から願った。

 《続く》