031
その日、皇帝領は局地的に、空が落ちてきたかのような混乱に見舞われた。
「陛下の愛人ってどうやってなるんですか?」
この一言によって。
「はっ?」
「な……」
「えっ?」
「ちょ、まさか……」
ちょうど執務や訓練など、それぞれの仕事の合間の休憩時間だった。一同集まって広いホールで、レースのクロスがかかったテーブルの上におやつを広げていたところである。
顔を合わせているのは今更説明する必要もないいつものメンバーだ。皇帝ロゼウス、その護衛役エチエンヌ、その双子の姉であるローラ、帝国大宰相リチャード、エヴェルシードの第一王子フェルザード、選定者ジャスパー、そしてルルティス。
銀が苦手な吸血鬼皇帝のために金製品の食器が眩しい輝きを放って並ぶ中、チェスアトールの押しかけ学者ルルティス=ランシェットはこう言った。
「私も陛下の愛人になりたいんですが」
ガシャン!
ちょうどお代わりを配られたばかりのカップをフェルザードが取り落とす。カップは金ではなく、値段こそ高いが普通の陶器だったため見事に割れた。
美貌の麗しいエヴェルシードの第一王子は、ロゼウス恋しさに王位継承権を放棄してまで皇帝領にやってきた「皇帝の愛人」だ。元祖押しかけ愛人と言ってもいいだろう。その愛人1号は、ルルティスに射殺すような鋭い眼差しを向ける。
「どういうことでしょう? ランシェット」
「ちょ、フェザー殿下、抑えて抑えて」
この中では一番気が弱い……常識に近い感覚を持っていると言っていいだろうエチエンヌが、慌ててフェルザードを止めに入る。武力で知られるエヴェルシードの、それも王族ともなれば何事も力で解決しようとする傾向が強い。
かつて現皇帝ロゼウスさえ半殺しを通り越して虫の息ほどの瀕死にした相手にエチエンヌが敵うわけはないのだが、それでもついつい馬に轢かれる覚悟で止めに入ってしまうのがエチエンヌである。
もはや状況は午後のお茶どころではない。本日のおやつを手作りしたローラが、これからさきの混乱を思って溜息をついた。
「せっかく作ったのに……」
「ああ、ごめん」
ロゼウスの手元の皿では、フォークの加減を間違えて苺のショートケーキがすでに「ケーキだったもの」と化している。白い生クリームが苺の果汁で紅く染まっている無残さが生々しい。
フェルザードの手元で割れたカップから零れた紅茶に、侍女が慌てて飛んでくる。純白のこれも高いレースのテーブルクロスがオレンジがかった茶色に染まってしまった。こういうものを見るたび、税金で買っている装飾品なんだからもっと安いものを買えとうるさいのがローラだ。慣れ親しんだ貧乏精神は四千年間皇帝のもとで生きてきても直らないらしい。
しかし彼女の言い分はもっともで、高いものを使う割に皇帝領では調度品から日用品まで、破損被害が絶えない。
そう、こんな風に――
ドガシャン!! バリン!!
大理石の二十人掛けのテーブルが宙を飛ぶ。
「ちょ、殿下!」
相手は身分の高い王子にも関わらず、思わずローラが叱責を飛ばす。このホールは城の外郭の一部で、硝子張りの窓から外の景色が見えることが売りの場所だ。吹っ飛んだテーブルに、窓硝子が全て被害に遭う。
すでに金食器やテーブルクロスなど比べ物にならない被害総額だ。テーブルに「ちゃぶ台返し」をかましたフェルザードと彼を抑えようとして羽交い絞めにしながらも止め切れなかったエチエンヌ以外の全員が、食器と料理を避難させていた。
ローラもジャスパーもリチャードも、両腕に複数個の皿やらカップやらポッドやらを乗せている。ちなみにロゼウスは、フェルザードの側で割れたカップの後始末をしていた侍女を助けていた。
フェルザードがテーブルをぶんなげたその瞬間に思わず食器を避難させる他の面々。おやつのケーキに被害は出ていない。全てが一瞬の出来事だったと、後に助けられた侍女は語る。全てが無駄に高度。意味もなく超人的。その無意味さこそ皇帝領の真骨頂。
傍迷惑な人たちである。
「……ここは危ない。もういいから、避難していなさい。普通の人間には危険だから。みんなにもしばらくこの部屋に入るなって言っておいてくれ」
「は、はい」
若くて働き者の侍女は人間業じゃない暴挙を目にし、皇帝に優しい言葉をかけられていろいろと泣きたくなりながらホールから退散、もとい避難した。ロゼウスは基本的に女の子には優しい。可愛い子相手にはもっと優しい。皇帝の愛人志願の二人は忘れているようだが、ロゼウスは基本的に女好きだ。
「危ないなぁ。いきなり何をなさるんですか、フェルザード殿下」
大理石のテーブルを投げ付けられるという、普通なら死んでいるとか言う前にまずそんなことできる人間はそうそういねぇという大胆な攻撃を受けた当の本人であり、この現状の元凶でもあるルルティスはそう言った。ケーキの最後の一口を食べ終え、紅茶を一口呑む。憎たらしいほどにマイペースだ。
「それは君が私を怒らせるからですよ」
「ただ陛下の愛人にさせてくださーいって申し上げただけじゃないですか」
「私の目の前でそんなことを言うとはそれだけで十分いい度胸です。殺してくれと言うようなものですよ」
フェルザードは嫉妬深い。
むしろ愛人にさせてと言ったくらいで普通なら死亡確実の攻撃を人間離れした力で仕掛けるあたり、もはやその嫉妬は嫉妬などという域を越えている。美貌、身体能力、頭脳とおよそ人が羨む全て能力を持って生まれてきたと人に言われる彼は、その代わり性格が悪いことでも有名だ。なまじ自らが完璧だと信じている分、よほどの人物でなければ他人が自分より優れているなどとは認めない。
愛する皇帝の寵愛を得ることに関してならば、尚更酷くなる。
そして、例えこれほどの嫉妬深さと知られていなくても、「普通」エヴェルシード第一王子フェルザードと、同じ立場で張り合おうと思う人間はいない。一般人にとって、フェルザードは素で怖いのだ。
フェルザードが愛を捧げ続けるロゼウスも、世間的には殺戮皇帝である。男色とかそういう前に、雲の上の人間の考えることはよくわからない、と思われている皇帝領の面々であった。
つまりはそのフェルザードと、ロゼウスを巡って争うことのできるルルティスも只者ではない。
「何を言っておられるのです、殿下。身分の高い方が愛人の十人や二十人囲うなど普通のこと。ルミエスタの国王陛下など、近頃二百人目のお妃を迎え、三十八人目の王子が生まれたらしいではありませんか」
好色で有名な王の事を持ちだして反論するルルティス。
「ルミエスタ王のことなど、私の皇帝陛下とは何の関係もありませんね!」
「ええ、ですから、決めるのは皇帝陛下だと申し上げているのですよ。あなたに文句を言われる筋合いはございません」
ルルティスとフェルザードは睨み合う。どうでもいいが、この二人、正真正銘人種的にもかすりもしない赤の他人のくせに、顔立ちがよく似ている。だからこそフェルザードは、眼鏡を外せば自分とよく似た美形のルルティスをここまで警戒するわけだが。
キッと眦を吊り上げた二人は、くるりと視線を別の方向へと向けた。渦中の人でありながらこれまで無視され続けていた皇帝その人の方へと。
「「皇帝陛下!」」
「な、何っ」
普段はどんな強面の男に脅迫されても人形じみた美貌を微々たりとも揺らさぬ皇帝が、引きつった怯え混じりの顔で応える。
「陛下! どうなんですか! ランシェットを愛人にするのですか?!」
「皇帝陛下! 愛人にしてください! フェルザード王子のことはこの際どうでもいいですから!」
ロゼウスに向けて言い放つと、二人はまたしてもお互いをねめつけ合う。
「……で、どうなさるのですか? ロゼウス様」
この大惨事にも動じず、テーブルではなく自らの膝に金の皿を置いて十二皿目のケーキを食べ終えたリチャードが冷静に尋ねた。このくらいで驚いたり戸惑ったりしていてはロゼウスの側近く仕えることなどできない。
「今ここで即座に返答しないと、被害が拡大するのでおやめくださいね、ロゼ様」
こちらも淡々とリチャードのお茶のお代わりを入れていたローラが冷たく言い放った。世間的には彼女も皇帝の愛人の一人と数えられているのだが、ローラ自身は子ども一人産んだ男のことなどどうでもいいらしい。
「別に私は今更あなたが愛人の百人や千人抱えようと気にしませんから」
「ろ、ローラ……」
「早くなんとかしろよ! ロゼウス!」
愛人問題にはノータッチだが、この部屋の片づけを思うだけで胃が痛いエチエンヌはそうロゼウスを急かした。
「え、ええと」
「覚悟を決めた方がよろしいですよ。お兄様」
「ジャスパー、お前まで……」
「他の方々でしたら僕も止めに入りますが、この二人の場合は無理です」
どんなに兄大好きな弟でも、フォローできない問題というのはあった。
「ううううう」
全員に返答を迫られ、問題の二人には睨みつけられ、ロゼウスは進退きわまるのを感じた。人間の数倍頑丈で病気などしないようなヴァンピルの身体でも、胃が痛いとはこういうことを言うのかと四千年間生きて初めての感覚に遭遇する。
「そ、その前にちょっと待って」
「「何ですか?!」」
今のロゼウスに、皇帝の威厳というものは欠片も存在しない。
「ルルティス……お前は何でいきなりそんなことを言いだしたんだ? まさか俺が好きというわけじゃないだろう?」
そもそも話はそこからだ。問題の所在を正すために、ロゼウスは極基本的な話に戻る。
「え? ああそうですね。今現在のフェルザード殿下と同じように陛下を愛しているかと言われれば、それはまぁ違いますが」
ルルティスはあっさりとそう口にした。
「学者先生……」
ロゼウスとは別の意味で胃を痛めているエチエンヌがしくしくと崩れ落ちる。
じゃあどんな理由でこんな騒ぎを起こしたのか?
「私は現在皇帝領にお世話になっておりますが、その見返りのようなものをほとんど払っておりません。ですから、そっち方面でお役に立とうかと」
「…………」
一同は押し黙った。
「……なんていうか、それって……」
ローラが何か言いたげに口を開き、結局また唇を結んだ。
「ルルティス先生の半生がわかるようなお言葉でしたねぇ」
リチャードがそうコメントし、お茶を傾ける。ちなみに彼はまだケーキを食べていた。
フェルザードはがっくりと地面に崩れ落ちていた。殺気と怒気がいっぺんに消えてしまったようだ。
「ええと……」
言葉に迷うように眉間に指をあてたロゼウスも、仕方がないとでもいうように溜息をついた。
「ルルティス、お前による俺という人物の認識に、何か凄い誤解があるようなんだが」
「何かお気に障るようなこと申し上げましたか?」
ルルティスはきょとんとした顔で首を傾げる。やわらかそうな亜麻色の髪が、さらりと揺れた。朱金の瞳がロゼウスを見ている。
頭はいいが、彼はまだ子ども。精神的には若いままとはいえ四千年を生きてしまった皇帝たちや、フェルザードよりも随分と幼い。しかもかれの人生はたったの十五年ですでに数奇と言っていいようなものだ。
「俺は別に、自分の側近くの美形を片っ端から愛人にしているわけではないよ。もちろん、借金の片に美少女や美少年を差し出せ、なんてことをやったこともない」
「そうなんですか? でも世間の噂ではエヴェルシードに……」
「噂は所詮噂だ」
「でもロゼウス様の場合は完璧に日ごろの行いですよねぇ」
十五皿完食し、ようやくおやつを終わりにしたリチャードが言った。余計な事を、とロゼウスのこめかみに青筋が浮かぶ。
リチャードの言う事も、ルルティスの言う事も確かに一つの真実ではある。好色な人間ほどではないが、ロゼウスも禁欲的な人物ではない。ただでさえ永い時間を生きているのだから時折寂しくなって、人間の「愛人」という存在に縋ってしまう時期もある。
けれど、少なくとも嫌がる相手を無理矢理手篭めにしようと思ったことも、実行したことも一度もない。
そして自分を愛していない相手のことも。
「……俺は、俺を好きでもないのに、ただ皇帝だからという理由で近づいてくる人間は好きじゃないよ。どれほど魅力的な相手でも、それが理由なら愛人にしようとは思わない」
「陛下」
「後片付けの指示は頼む」
「かしこまりました」
リチャードにあとのことを預け、ロゼウスは風通しがよくなり過ぎた室内から出る。
「待って下さい、皇帝陛下」
なびく白銀の髪を追うように、ルルティスがあとについてきた。残りの面々は苦笑しながらもホールの片付けに残っているのだろう。先の展開が読めたからか、フェルザードも追ってはこなかった。
ロゼウスは中庭が望める回廊の端で立ち止まる。黒曜石のような艶のある黒い石でできた皇帝の居城は、ローゼンティアの王城を基本としていた。明かりを灯さねばどんな部屋でも薄暗い上に、中庭があるために明かりをとりつけないこの回廊は、昼間は床半分に暗い影が落ちている。
決して晴れることのない薄曇の空から、温度も重さもないただ白いだけの雪が降って来る。一見して見れば陰気な光景。しかし全てが白く輝いているような皇帝の美貌を、この漆黒の居城はますます映えさせる。
「皇帝陛下!」
自分よりもわずかに小柄な背にルルティスは声をかける。
「あの……すみませんでした」
そう言ったきり、言葉が続かない。
ルルティスの言った言葉は、もしもロゼウスが本当に愛する者しか抱かない人間であれば無神経だと非難されるべきものだろう。けれどフェルザードが「愛人」を名乗る通り、ロゼウスは誰かに操を立てて人と肌を重ねないような人物ではない。ローラとの間には、ルルティスと一つしか歳の変わらない娘までいる。
だからどう言っていいかわからなかった。
「ルルティス」
知りたいから、近づきたいから、だからルルティスはここに来た。皇帝のいます場所、この皇帝領へ。けれどこの気持ちは確かに、フェルザードがロゼウスに向けるような想いとは違うこともまたわかっている。だが、この事を述べて、更に彼を知りたいからもっと近づきたいと思った時に、ルルティスには「愛人」という言い回ししか思い浮かばなかった。
目の前にいる人物に対する感情に、はっきりとした名前をつけられないのがもどかしい。
「はぁ……」
ロゼウスが溜息をついた。回廊の手すりに身を預け、軽く笑ってルルティスの方を見る。
「別に、お前が何を言いたいかはわかってるよ。そう気にしなくてもいい。お前のようなタイプは珍しいけど、貢物として女だの美少年だの送って来る相手はいくらでもいるんだから。慣れてるよ」
ロゼウスとしては、ただちょっと気が抜けただけだ。
先日のゼイル事件の反省もあって、今度からそう簡単にはよく知りもしない人間を近づけるなと決意したばかりだった。そこに不意打ちのように愛人という言葉が出てきたから、柄にもなくどきりとしたのだ。
人を愛するということは難しいから。
ルルティスがまだロゼウスに対する気持ちを持てあましているように、ロゼウスもルルティスを自らの中に、どのような立ち位置で収めればいいのか考えあぐねている。これまでロゼウスのことをもっと詳しく知りたいからと皇帝領に押し掛けてきた物好きな学者なんていない。彼だけだ。
フェルザードもロゼウスにとっては珍しい立ち位置の相手だが、それは彼の立場と能力によるところが大きい。フェルザードと同じような理由で皇帝領にやってくる人間ならこれまでも数知れずにいた。手元に置いたこともあるし、取り合わずに返したこともある。……セィシズのことだってそうだ。
人よりも長い寿命を持つヴァンピルは他国の人間とほとんど交わらない。彼らは人と生きる時間の長さが違うから。そのヴァンピルよりもさらに長い時間を皇帝と言う立場を与えられたことによって生きてしまったロゼウスは、ローラたちのようにもともとの仲間とそれ以外の人間との間にどうしても壁を作らずにはおれない。
人とは誰しもそのようなものだと言うのは簡単だ。その言葉は確かに真実である。しかしその真実がわかったところで、もてあました感情まで制御できるわけではないのが、ロゼウスの永遠の問題だ。
だからロゼウスは、いちいち戸惑い、考えながら人と触れ合う。いっそ数日で枯れてしまう切り花のように他者を目にしたそのまま愛せてしまえば簡単だろう。人の命が花の命と同じようなものだと。けれど恐らく、そういった人物は《皇帝》などにならないだろう。
フェルザード=エヴェルシードは薔薇皇帝の愛人。それには理由がある。
けれどルルティス=ランシェットと言う人物は、まだロゼウスの中で明確な居場所を与えられていない。古くからつき従うエチエンヌたちも、フェルザードとも違う。ルルティスはこれまでロゼウスが関わって来た人々はまったく違う立場に存在する人間だ。
「皇帝陛下……」
「ルルティス、《愛人》という既存の言葉と枠組みで、己を簡単に定義しようとするのは感心しない」
「!」
ルルティスが朱金の瞳を見開いた。どうやら図星だったらしい。
「……何かを不安に思っている?」
「いいえ」
今度は即答だ。質問に比べて回答が速すぎる。
ロゼウスは苦笑した。
「別に愛人にならないからって、お前をここから追いだしたりはしない。食事代程度は払っているわけだし。そう気負う必要はない」
「でも……皇帝陛下」
「何を焦っているんだ?」
重ねて尋ねる声に、ルルティスが小さく俯く。
先日の事件では、お互い酷い目にあったものだ。同時に別々の相手に誘拐されていたので詳細は知らないが、それ以来ルルティスの態度が変化したのにロゼウスは気づいていた。
何かがあった。だが「何が」ルルティスの心の琴線に触れたのかまでは掴めない。普通の人間なら誘拐されれば怯えるだろうが、そんな普通の神経を持った人間は誘拐犯を素手で殺しまわって自力で脱出したりはしない。
ならばルルティスが気にしているのは別のところだろう。だが他人に何かを要求することはできても、信頼して頼ることができないルルティスは、先程の素早い返答のように、いざとなればロゼウスの手を振り払うのだろう。
愛人になりたいというのは、そもそも踏み込まないための距離作り。権力者にとって肉欲を発散するための身体の関係だけがある相手というのが、一番後腐れがないから。
近付きすぎれば離れた時に相手も自分も傷つく。だから、最初から踏み込まない。
人の心を複雑にするのはいつも、単純な利害では割り切れないことばかりだ。
「私は……」
何かを口にしかけてまた、ルルティスは言葉を呑む。いつもの陽気さと強気が嘘のように、言いにくそうだ。
「……言いたくないなら言わなくていい」
そしてロゼウスは、自分のこれも相手に踏み込まないための距離作りなのだとわかっていた。
相手を一見気遣うようでいて、本当は傷つきたくないのは自分の方。痛みを踏み越えなければ得られない絆もあると、知っているくせに。
やはり自分は臆病なのだ。
「俺にとって、お前は特別なんだ。良くも悪くも。これからその距離がどう変化していくはわからないし怖いけど、そんなに焦って、何も変化しない場所に己を押し込めないで」
一度利害関係を結んでしまえば、その後のことに悩まなくてすむ。利害と言っても欲に駆られてそれ以上のものが欲しくなると言うような立場ではないから、余計やりやすいように見えたのだろう。
「何故そんなに焦っているの?」
ロゼウスはもう一度そう尋ねて、ようやくルルティスから答を得られた。
それは恐らく本当に彼の心に刺さる棘とは別のものだろうが、一つの理由ではある。
「……もうすぐ学者たちの会議でこの場所を離れるから、いない間に変なことにならないかと少し不安で」
「……ルルティス」
短い沈黙ののちにロゼウスは言った。
「俺は皇帝だから、三年に一度の学者会議にも出席するんだけど」
「ええっ?! ……あ、そういえば!」
取り越し苦労、そんな言葉が二人の頭に浮かんだのだった。