薔薇の皇帝 08

038

「――それではこれにて、皇暦七〇〇七年の学者会議を終了します」
 ゴットロープの閉会の言葉が終わった瞬間、会場から一斉に拍手が沸き起こった。
 学者たちも見学の王族たちも、誰もの顔に「やりとげた」という達成の表情が浮かんでいる。三日目の正午ちょうど、ようやく今年の学者会議は終わりを告げた。
「今日は何事もなくて良かったわ」
「ああ。殺人事件もテロ騒動も何もなかった」
「平和って素晴らしい」
 もはや学者たちは意地であった。伝統ある会議を、「たかが」殺人事件やテロリスト乱入で中断するわけにはいかない。学者というのは例え世界の終わりを眺めながらでも論文を読み自らの研究を発展させるべき生き物だというのが彼らの矜持である。
 もちろん世間一般には理解されない考えだろうが、本当にハードだったこの三日間につき合わされた者たちは一種の奇妙な連帯感により、会議の終了を温かく見守っていた。
 本当なら今日、三日目の午後はこれまでの討論で決着のつかなかった問題について話し合う時間だったのだが、横槍が入って意地になったというのか、学者たちはすでに各々の担当時間内にそれは会議をしているのか? それとも言葉と言う名の武器で力いっぱい喧嘩をしているのか? と言える熱い議論を十二分に展開していたので、わざわざ予備の時間に議題を滑り込ませる必要はなくなっていた。
「これからも帝国の学問の繁栄を願い、各自精進することをここに誓い、本日は解散としましょう」
 学者代表のレンフィールドが最後にそうまとめた。ホールの中心部に用意された席を立ち、彼らはそれぞれの部屋へと戻る。
 表向き会議は終了したが、ここですぐ故郷に帰る者は誰もいない。本来ならば今日の午後も会議に費やされる予定であったこともあり、皆が帰宅は明日以降としていた。今日の夜には打ち上げめいたパーティーもある。
「レノーレ! フィロメーラ! 買い物行くで買い物!」
「メラニー、何そんなはしゃいでるのよ」
「だってここは経済と食の国チェスアトールやで! ビリジオラートと違って利益優先じゃなく世界各国からいろんなものが集まるから楽しいんやもん。これまでの鬱憤晴らすにはやっぱ買い物やろ!」
「私そんなお金ないわよ。レノーレは?」
「お金はあるけど買う気はないわよ。交通費だって国が出してくれたものだし」
「メラニーの値切りに任せましょうか」
「そうね」
「ほな行くで!」
 会議が終わって肩の荷を下ろしこれから観光を楽しもうというもの、せっかくだからチェスアトールの学院に寄って施設を見ていこうと思う者、学者たちは様々だ。
 一方ゴットロープやヨアヒムと言った会議の主催者側、学会幹部たちは、これから後始末が待っているため自由時間は少ない。
「ルルティス」
 ホールから出てきたルルティスを、ロゼウスは呼びとめた。
「皇帝陛下」
 ぱっと顔を輝かせたルルティスだったが、彼の背後にもう一人別の人物を見つけて立ち止まる。
「えと……アルジャンティア様?」
 白金髪にアレキサンドライトのような赤と緑の瞳を持つ少女は、兄妹にも見える容姿の父親の影からルルティスをじーっと見つめている。いや、睨んでいる。
「わ、私に何か御用ですか?」
「ぷん」
 問いかけたルルティスの前で、アルジャンティアはあからさまに顔を背けて見せた。
「例のあの話を誰かが――たぶんフェルザードあたりが、したらしい……。それでこの調子だ」
 あの話。ルルティスがロゼウスの愛人になりたいと言ったことか。そりゃあ娘としては父親の愛人になりたいと言い出すような相手を快くは思わないだろう。
(フェザー様、人を体よく使って……)
 実際アルジャンティアは皇帝の愛人として世間に知られるエヴェルシード王子とも仲が悪いようだった。同じように皇帝への愛を語るジュスティーヌとはどうだか知らないが、女同士笑顔で棘を刺し合っている可能性もある。フェルザードは自分へのその恨みがましい視線の矛先を逸らすためにルルティスを利用したのだろう。
(ま、いいですけど)
 その程度の睨みで怯むようなルルティスではない。殊更笑顔で、アルジャンティアに対応する。
「姫君、これからお茶などいかがですか? ゆっくりお聞きしたい話もありますし」
「残念だがそれは後だ、ルルティス」
 もてあました自由時間を皇帝の娘への取材で有意義に使おうとしたルルティスに、皇帝本人が制止をかける。
「陛下?」
 アルジャンティアへの取材を阻止したいと言った様子ではなかった。ロゼウスはどこか言いにくそうな様子でルルティスの顔を真正面から見つめると、ふいに視線を逸らして新たにホールから出てきた人物の名を呼んだ。
「ロスヴィータ」
「会議は終了しましたね。陛下。これで皆が動揺して会議ができなくなるということもないでしょう」
 思わせぶりなその言葉は、ロゼウスとロスヴィータが何かを掴んでいることを示している。そしてこの二人が関係し、あえてルルティスに知らせようとすることなど一つしかルルティスには思いつかない。
 先日の殺人事件に関することだ。
「皇帝陛下」
 不安げに見つめるルルティスに、ロゼウスは静かな眼差しを送った。見慣れた憂い顔で、皇帝は人気のない角の部屋を指し示す。内密の話があるという意味だろう。案の定皇帝は言った。
「……ルルティス、お前に伝えなければならないことがある」

 ◆◆◆◆◆

 コンコン、と扉がノックされた。
 ヨアヒムは自らそれを開けに行く。学院であれば自分の研究室に来るのは生徒たちか同僚の教師くらいで、それよりもお偉いさんはわざわざこちらを尋ねてくることなどなく呼び出してくる。だがこの劇場では身分の高い誰かが突然尋ねてくるかもわからない。何か問題事が起きた時には、ゴットロープに次ぐ責任者、副長である彼のもとに情報が届けられることもあるのだ。
 机の上で整理していた資料を手早く片付け、まとめて引き出しに放りこんで訪問者の目に触れないよう気を付けてからノックの相手を迎えた。
「おや、ランシェット君か」
「こんにちは。ライナー教授」
 扉の外に立っていたのは、かつての教え子であり今回の会議の参加者の一人、チェスアトール学院出身のルルティス=ランシェットだった。
 亜麻色の髪に朱色がかった金の瞳が珍しい少年だ。学院にいる時もその見た目の良さで目立ってよくからかわれ、自分に喧嘩を売って来た相手はそれ以上に倍返しで叩きのめしていた問題児である。優秀な生徒とはすなわち優等生ということではない。
「こんな時間にどうしたんや? 何か問題でもあったんか?」
「ええ、少し」
 言いながらルルティスは扉を閉めて、室内にずかずかと入り込んできた。ヨアヒムを素通りして、部屋の窓に手をかける。
「何を……!」
 あまりに自然な動作と素早さに止める暇もなかった。
 ルルティスの細い指先に触れられ、窓は当たり前のように簡単に開いた。隠していた蝶番を、張り紙の下からルルティスが見つけ出す。
「やっぱり……」

 ――そう言えばこの劇場の警備ってどうなっているんですか?
 ――王族の方々が何人もいらっしゃるために、その護衛の方々はいたるところにいた。そもそもこの劇場の造り自体、正面のエントランスからしか出入りできないようになっている。
 ――え? でも各自の部屋の窓からとか。
 ――全室はめ殺しだ。

 ルルティスの脳裏に蘇るのは、先日の会話だ。この劇場の客室の窓は全室はめ殺し。
 だが、実際にこの部屋の窓はこうして開いた。しかも見た目には他の客室の窓と何ら変わりなく見えるように偽装されている。
「あなたがユラクナーの兵士を殺したんですね、ヨアヒム=ライナー教授」
 吐息のようなルルティスの問いかけに、ヨアヒムは一切の表情を消して、逆に尋ね返した。
「――何故、わかったんや」
「皇帝陛下のおかげです。それと、ロスヴィータさんと」
「皇帝陛下とノスフェル家の令嬢?」
「ええ。二人ともローゼンティア人です。あのお二方は、この前の歌劇の際に、音の流れと反響から、ここの空調がおかしいことに気づかれたのです」
 かつてこの劇場で同じように歌劇を鑑賞したことがあるロゼウス。この劇場に立ち寄ったのは初めてでも、同じタイプの劇場でいくらでも歌劇を見たことのあるロスヴィータ。人間より聴覚に優れた、二人のローゼンティア人。蝙蝠を使い魔とするローゼンティア人の聴覚も多少彼らに似ているらしい。すなわち、音の反射を巧みに聞きわけるのだという。
 二人は先日の歌劇鑑賞の際に、この部屋だけ音の反射率が他と違うことに気づいた。空気をまったく通さないはめ殺しの窓と、どんなに鍵をかけてもわずかな隙間から風が漏れる窓は違う。ローゼンティア人の耳はそれすら聞きわける。
 それが、偽装のためにヨアヒムが正式ではない手順で無理矢理開けた窓なら尚更だ。
「ヒントになったのはレンフィールド王子の考えです。あの方は、自分には動機があるけれどアリバイがあるから疑われないのだと言いました。それは逆に言えば、当日出かけたことと、エントランスを通らなければ建物内に入れないと言う認識さえ崩せれば他の方々にも殺人は可能だったということ」
 ゴットロープはこの劇場の客室の窓は全室はめ殺しだと言っていた。だがそれを全員が確認したわけではない。
 事件の起きた時刻はちょうど人が少なく、劇場のあちこちにいる護衛の数も少ない時間帯だった。人目を盗むことは、それなりの技術があれば容易だ。
「あなたの部屋が位置的に有利だから、あなたの部屋の窓に細工をして事件を起こした別の犯人がいる、ということも考えました」
 恩師の罪を暴くことに重い表情をしたルルティスが、けれど躊躇わずに言葉を重ねていく。
「しかしこの劇場で会議が開催されると決まったのは、そう早い時期ではありません。もともとチェスアトールにいた人間でなければ、窓に細工をすることはできないでしょう。……先程、全員にここ数カ月の行動を尋ね、そのアリバイを確認してきました。それにこの部屋を使いたいと言ったのは、あなた御自身だそうですね」
 建物に細工をする機会があった人物となれば、殺人に関与できる人間の数はかなり限られてくる。ヨアヒムだけでなくゴットロープたち学会の幹部は会場を用意するために、他の人々より早い段階でこの劇場に出入りして様々な調整をしていた。
「この劇場は一年ごとに施設の設備を確かめます。去年確認した担当は、確かに全室はめ殺しの窓だったと証言しています」
 だからと言ってヨアヒムが即座に窓に細工をしたと言いきれるわけではない。だが彼のもとには恐らく、もう一つの証拠がある。
 ルルティスは机に近づいて、引き出しごと中身を引き抜いた。
「やめ……!」
 落ちた引き出しの中身は軽い紙の束。ひっくり返る寸前に、ばらばらと宙を舞ったその中から一枚をルルティスはさっと引き掴む。

 皇歴七〇〇七年会議用資料 図四 配合表
 ハーラルト=ヒンツ

 ハーラルトの几帳面な字で、紙にはそう書かれていた。例え劇場の窓への細工をどのような言葉で誤魔化したとしても、この動かぬ証拠は誤魔化しようもない。
「何故ですか……」
 震える声でルルティスは尋ねた。
「何故、あなたがそんなことを……」
 推理と言えるほどのことはしていない。確証と言えるほどの証拠もない。だが数々の状況証拠からヨアヒムが犯人だとしか考えられない。皇帝もその考えを否定しなかった。だがどうして、何故、彼はそんなことを?
 ヨアヒム=ライナーはチェスアトール学院時代の、ルルティス=ランシェットの恩師だったのだ。軽率に疑いたくなどない。でも……。
 ヨアヒムは深く溜息をついた。机にもたれかかり書類の散乱した床を眺めながら言う。
「君は相変わらず優秀やなぁ……。物を考えるのも欠片をつなぎ合わせるのも得意で、駆けずり回って資料を集めて、自分から危険に飛び込むのもためらわんで……」
「ヨアヒム先生」
 昔、生徒だった時代と同じようにヨアヒムを呼ぶ教え子に、彼はついに告白した。
「そうだ。わしがあいつを殺した。そして、学者たちの誰かが疑われるように仕組んだ。……本当はルミエスタの王子をハメるつもりやったが、皇帝陛下がアリバイを証言したら誰も異を唱えられん」
「何故……」
「憎かったからや。権力と学者としての栄光、両方を持つ人間がな」
 その目は無言で今回の出来事に対する含みを語っている。
「……あのユラクナーの人は、あなたに何をしたんです」
「国王様も知らなかったようやが、あれは元学者や。わしの後輩や」
 そう言えば殺された兵士はかなりの歳だったなとルルティスは思い出した。ユラクナー王自体がそれなりの年齢なので側近とかそういうものなのだろう。だからあれほど王は怒っていたのだ。
「君らほどに才能のある人間にはわからんやろうなぁ……どんなに学問を学んでも、世に出れば役に立たないことも多い。知識は超一流でも政治に口出して暗殺される学者も仰山おる。身分で差別されて、招かれておきながら何もさせてもらえないこととかもなぁ」
「権力者への恨み……あなたが憎んでいるのはユラクナー王ですか?」
 ヨアヒムは答えなかった。だがここまで聞けば、彼とユラクナーの間で何かがあったのだろうことはわかる。
 チェスアトールは比較的自由な国だ。他国の民も文化も際限なく受け入れる。だが他の国はそうではない。
「なんでも良かったんよ。なんでも。こんなジジイの二十年も三十年も前の恨み事など、君には何の関係もないやろ」
 暗にこれ以上語る必要はないと言う態度でヨアヒムはそれ以上己が殺人を犯した動機を説明することを拒否する。
「……ですが、学会には関係があります。あなたの企みで危うく窮地に陥ったハーラルトにも」
「クレメンスはわしがやったとわかっておったみたいやな。だが奴は口を噤むことを選んだ」
 クレメンス=ゼノワはユラクナーの物理学者だ。その彼が事実に気づき、それでも黙っていたということは自国の者にとっても、ユラクナー王は良い主君ではないということだろうか。そう言えば彼が自分の主君であるユラクナー王を嗜める姿をルルティスも目撃していた。
「真実を明らかにするか? ランシェット君。わしを皇帝に突き出すか?」
「……自首しないんですか? ヨアヒム先生」
 ヨアヒムは首を横に振る。
 そのくらいならば、突き出されて裁かれる方がマシだと。
 身分がなくとも、優秀な学者であれば免責されることがある。その時には、死んだユラクナーの兵士とヨアヒムの存在価値というものが問われることとなろう。
「わしは何年勉強しても、君のようにはなれんかった。天才という人種にはな。十代で学位をとるなんて無茶や。だが君もハーラルトもガッティ=レミユもノスフェルの令嬢も、その無茶を平気でやりよった」
 言うヨアヒムの目元に影が落ちている。
「君らが羨ましい。学問の神に愛された君らが。こんな醜い嫉妬、君には一生わからんやろうなぁ……」
「わかりますよ」
 反射的にルルティスはそう口にしていた。ヨアヒムを慰めるつもりも、追従する気もない。だが嫉妬と言われて、自分にも思い当たる言葉がある。
「どんなに努力しても努力しても、届かない。私には届かないその場所に、軽々と足を踏み入れる人がいる。その世界を硝子越しに一歩離れて見るしかできない自分が辛い……」
 そして、嫉妬する。自分では辿りつけないその場所にいる人々に。
「……」
 ヨアヒムが再度溜息をついた。
「君たちが帰ったら……落ち着いたらわしも身の振りを決めるわ」
「ヨアヒム先生」
「まったく若い子の真っ直ぐさは、この年になると堪えるわぁ」
 君が羨ましい、ともう一度老人は言った。
 だがその内容はこれまでの嫉妬や羨望とは違う、ただただ純粋な憧れの視線だった。
「わしはわしが疑われた時、君がヒンツ君の疑いを晴らそうと努力したようにわしを信じてくれる友人なんて一人もいなかった。わしは自分を信じてくれる相手を生涯で一人も作れんかった。……君らが羨ましい」
 ルルティスは言葉を失う。
 別にルルティスとハーラルトは仲が良いわけではない。それでも少なくとも、互いがどんな人間が知り、信じ、認めることはできる。
 だがヨアヒムはそうではなかったのだという。
 彼はヨアヒムのことを何も知らない。かつて何があって今回あの兵士を殺したのかも、結局説明はしてくれなかった。信用されていない。そして自分もたぶん、彼を信用しきってはいなかった。だから確証がなくとも状況証拠だけで部屋に踏み込み、彼の罪を暴くことができた。
 そうすることで彼の潔白を信じたかったという意味ももちろんある。けれど今は何を言っても、ヨアヒムには言い訳にしか聞こえないだろう。
 彼は賭けをしたのだ。賭けをしているのだ。
 自分の犯した罪で疑われた人々を、しかし信じてその疑いを晴らそうと努力してくれる人がいるのか。
 自分がこれから裁判にかけられる時、学者としての実績を考慮されて免責されるのか、それとも人ひとり殺して赦せるほど大した学者ではないと斬り捨てられるのか。
 自分一人では答の出ない賭けを。
 少年は、かつての恩師の部屋を後にした。

 ◆◆◆◆◆

「そうか……ライナーは全てが終わってから、と」
「はい……」
 ルルティスはロゼウスにだけは、ヨアヒムの言葉を伝えた。
「ならば待とうか。彼が心の整理をつけるのを」
「ありがとうございます」
「別にお前が礼を言うことでもないよ」
 夜には会議が無事終了した打ち上げの宴会が行われていた。ヨアヒムの姿はない。事後処理という名目で欠席しているらしい。
 それを除けば、概ね和やかに時は過ぎていた。学者たちは仲の良い数人同士で集まったり、ビリジオラートとフィルメリアの国王夫妻と話したり、恐る恐る皇帝やエヴェルシードの王子に話しかけに来たり、議題とは関係ない分野の討論を繰り広げていたりする。
 立食式のパーティーで、彼らは皆で同じものを食べている。その方が自由度が増すからだ。国王などは本来専用に調理されたものを食べるのだろうが、皇帝がこれでいいと言っているのだから誰も反論はできない。
 皇帝に出される食事だと調理人たちも知っているため、腕によりをかけている。その皇帝自身は、あまり食が進んでいない様子だったが。
「陛下、ワインをどうぞ」
「ああ。ありがとうフェルザード」
「陛下、このお料理はいかが? とてもおいしいですわよ」
「ありがとうジュスティーヌ。でも先程食べたよ」
「お父様! このお菓子とっても可愛いです! 砂糖だけで出来ているんですけど、お父様のお口にも合うと思いますわ!」
 はい、あーんと娘に言われてロゼウスは口を開く。その様をジュスティーヌが悔しげに見ている。ロゼウスは娘に甘い。甘すぎる。一人娘のアルジャンティアを、目に入れても痛くない程に溺愛している。
「そういえばですね、」 
 アルジャンティアが父親に何かを言おうと口を開いた時だった。
 ガシャン、と何かが割れる音をした。それも花瓶を不注意で割ったと言うレベルではない。硝子窓が割れたような、大きな音。
「何事?!」
「賊です! 陛下!」
 護衛の兵士が口にした陛下が、国王たちを表しているのか皇帝を呼んでいるのかはわからない。
 だが彼らは一斉に入り口を見て、そして駆けだした。音はホールの外で起きた。護衛の兵士たちが叫んだということは何かがあったのだ。
 ロゼウスとフェルザードの二人が真っ先に現場に辿り着いた。剣を下げた金髪の男と、その足元に倒れ臥す老人。赤い血だまりがじわじわと広がっていく。
「ゼイル?!」
「ヨアヒム先生!」
 ロゼウスは加害者の名を呼び、一歩遅れて駆けつけて来たルルティスは被害者の名を呼んだ。倒れた老人はぴくりとも動かない。その手に何かが握られている。そしてゼイルも何か紙切れらしきものを手にしていた。
「――これはこれは」
 感情のない目でゼイルは言った。
「お久しぶりです、皇帝陛下」
「ゼイル、お前――」
 かつて自身を拉致した男を前に、ロゼウスは言葉を失った。ゼイルの身に感じる魔力がおかしい。これは――。
「カウナードの!」
 後ろの方で誰かが叫んだ。これはハーラルトの声。そう言えば彼とゼイルは同じ薬草学者、薬学者だ。存在を知っていてもおかしくはない。
「まさか、チェスアトールの学院に入った賊とは」
「私のことですよ、ハーラルト=ヒンツ。この国は民族の坩堝ですから、様々な資料が手に入る。それにあなたの研究成果は私の目的に役立つ」
 目のいい何人かが、その時それに気づいた。ゼイルが半分だけ掴んでいる破れた紙切れ、残り半分はヨアヒムの遺体の手の中にあるそれは、ハーラルトの配合表。
「な……なんでこんなことをっ!」
 ロゼウスを背に隠しながらエチエンヌが尋ねた。ゼイルは薄く笑ってそれに答える。
「必要だったからですよ。我が主を生き返らせるために」
「――なんだと?」
 その言葉にロゼウスは目を瞠った。
死者を生き返らせる? ゼイルは何をやろうとしている?!
 しかしロゼウスがそれを問い質すよりも、リチャードがゼイルに斬りかかる方が早かった。
「皇帝に仇なす逆賊! 覚悟っ!」
「待てリチャード!」
 驚いたことに、リチャードの剣をゼイルは軽々と短刀で受け止めた。力の向けられる先をそらし、後方に跳んで離れる。
「何っ?!」
「ゼイル、やはりお前……」
 理由はわからないが、ゼイルの魔力があがっている。それが身体にまで影響を及ぼし、彼に常人ならざる身体能力を与えていた。
 ――非常に嫌な予感がする。
 かつてこれと同じような現象が起きた。ロゼウスが誰よりも知っている。自らの身に起きたことだからこそ、知っている。
 ある人物を喰い殺し、ロゼウスはその身に宿る力を己が物とした過去を持つ。
 だが、ゼイルがそれをしたということは。
「あなたのおかげです、皇帝陛下。《ごちそうさまでした》」
「た……」
 ロゼウスは卒倒しかけた。
「うわー! なんで攻撃もされてないのにいきなり倒れてるんですか陛下!」
 ルルティスに抱き起こされぺしぺしと頬をはたかれて我に帰る。
「おおお、おま、おま、お前……っ!」
 事情のわからない他の面々は何故皇帝がこれほど動揺するのかわからずに怪訝そうな顔をしている。ロゼウス以外の事情を知る面々も、先程のやりとりだけでは細かいことがわからなかったらしく、不思議そうな顔をしている。
 人魚の肉を食べれば不老不死になるという伝説を思い浮かべればわかりやすいだろうか。古今東西、食した別種族の力を己が物とする話は枚挙に暇がない。
 だが、今回は食べられた部位が問題だった。ゼイルがもし本当にロゼウス「身体の一部」を食して能力をあげたのだとすれば、それは……。
 眩暈を起こして倒れそうになりながらも、ロゼウスは何とかこらえてゼイルと向き合った。吸血鬼にとっては至高の蜜である赤い血が流れているこの現場は、皇帝の身体にとっては酷く悪い。
「お前は何を考えている? ゼイル」
「もちろん、我が主のことを」
 そう言って彼は懐から小さな丸薬を取り出すと、彼らに向けて投げ付けた。
「みんな目を塞いで!」
 ハーラルトの声に彼らが目を塞ぎ思わず床に伏せると、この場から離れるゼイルの足音が聞こえた。
 異様に目に沁みる煙に、ゼイルが投げたものは催涙弾だと知れる。足音が遠ざかっていく。
「くそ……!」
 催涙弾は強力で、普通の薬品は聞かないヴァンピルのロゼウスでも目を開けていられない。そのように調合したということだろう。
 彼らが目を開ける頃にはもちろんゼイルの姿はなく、ただ冷たくなったヨアヒムの死体が静かに横たわっているだけだった。