薔薇の皇帝 08

039

 結局真相は闇に葬られ、全ての罪は「窃盗犯」ゼイルが被ることとなった。
 ゼイルはヨアヒム=ライナー殺害と共に、ハーラルト=ヒンツの配合表窃盗の疑いも被る。後者が彼の仕業ではなく、殺されたヨアヒム自身の罪だったと知る者は少ない。
 そして真実を知る者たちは口を噤んだ。
 学者会議の終了は二日ほど延び、その間にヨアヒムの葬儀が行われた。数日前には彼をどうしようもない男だと怒鳴りつけていたゴットロープが、肩を落としていた。
「ランシェット君」
「クレメンスさん」
 ルルティスに話しかけて来たのは、ユラクナー出身の学者クレメンスだ。彼は人に話声の聞こえない距離まで離れて、ルルティスに尋ねた。
「……言わなかったんですね。教授のこと」
 彼は真実に気づいた者の一人だ。
「あなたこそ」
 ルルティスの言葉に、クレメンスは微笑む。
「あの方の罪を暴いても、何にもなりませんから。私の研究の足しにもなりません。あなたはどうなんです? 歴史学者さん」
「私は……」
 丘の上の白い墓標を眺めながら、ルルティスは言った。
「私は真実を求め、真実のみが歴史に記されることを望みます。けれど、世界の全てが真実である必要はないと思っています」
「あなたの大事な人があなたを裏切っても? あなたがあなたの大事な人を裏切っても?」
 クレメンスの問いかけは残酷だが、その表情は穏やかだ。
「ええ。私は私のために、私が知りたいから真実を求めるのです。それが誰を幸せにしても、不幸にしても。だから他の誰かが、私が、嘘をつくことに呵責は覚えません」
 ヨアヒムに罪がないとされたのは、学者たちの多くが彼を信じていたからだ。
 学者たちの間では、このような推測がなされた。きっとヨアヒムは、ゼイルがハーラルトの配合表を持っているのに気付き、それを取り戻そうとして殺されたのだろう、と。
 それは真実ではないが、その推測で困る者は誰もいない。ヨアヒムはすでに死んでいるし、ゼイルは殺人の上に強盗の罪が重なったところで、あの性格では今更気にも留めないだろう。
 死んでしまったヨアヒムに教えてやりたい。あなたはほんの少しの間世話をしただけの生徒たちに、こんなにも信じられているのだと。けれど彼はもうレテ川の向こうへと渡ってしまった。
 ルルティスはそっと息を吐いた。そして不機嫌な顔つきで、隣にいるクレメンスを振り返る。
「ついでに言っておきますが、今回私が真実を言わなかった中に私の大事な人はいません」
 ハーラルト相手に大事な人などという言葉を使われると寒気がする。後の人々も、顔や名前は知っているがそれだけの他人。ただの知り合い程度だ。
「青春っていいですねぇ」
 スキンヘッドの大男は、極悪な顔立ちを人が良さそうな笑顔にすると、くすくすと笑いながら去っていった。意味不明だった。
「まったく……」
 一人になったルルティスは再び墓標へと視線を戻す。
 丘の上に広がる青空に白い雲、そのコントラストの延長に真っ白な墓標が建つ光景はヨアヒムらしかった。今でもあの軽い口調で不真面目に酒でもかっ食らいながらひょっこり顔を出しそうな気がする。
 ――ん? ああなんや君、孤児なんやて? じゃあわしと一緒や。仲良うしよう。
 初めて声をかけられた時のことを思い出した。彼には家族がいなかった。家族を作る事もなかった。一生を研究に捧げる、学者らしい学者だった。不真面目そうに見えるが、あの性格で学院でも彼は生徒たちに慕われていた。
 それでも彼は孤独だったのだろう。人に認められない学者ほど惨めなものはない。
 真実を追求する者が学者だと言ったって、結局その学者も社会の中で生きている以上世間の評価と無縁ではいられない。他者の作った言語で論文を書くのに、自分一人だけが理解していても意味はない。
 もう、何を言っても彼には届かない。そこは永遠の無音に包まれた深淵。彼は自らそこに足を踏み入れたのだ。
 そしてたぶん、ゼイルも。
 愛して必要として、けれど失った。裏切られた。
 そんな人たちに自分が何を言えるだろう。
 命をかけてでも復讐したい相手も、取り戻したい相手もいない自分に。
「そろそろ戻るぞ、ランシェット」
「はーい」
 呼ぶ声に答え、透けるような青空に別れを告げた。

 ◆◆◆◆◆

 その頃、ロゼウスはフィルメリアの国王と妾妃から相談を受けていた。
「ルルティスをくれ? 国王が人身売買とは感心しない」
「御冗談を、皇帝陛下。あの少年はきっと恐らく、十年前に行方不明となった私たちの息子なんです!」
「ですから返してほしいと!」
 予想された答に、ロゼウスは顔色を変えないまま少し考える素振りを見せる。そして問う。
「だったらどうして、それを私に言う」
「え?」
「ルルティスの身柄は、ルルティス自身のものだ。彼は自ら皇帝領に訪れ、滞在している。私が無理矢理彼を城に閉じ込めているわけではない」
 ルルティスはロゼウスのものではない。
 だからフィルメリア王と妾妃は、話を通すならまず真っ先にルルティスと話すべきなのだ。なのに何故こんなところで無関係な皇帝なんぞと顔を合わせているのか。
 はっきり言って時間の無駄以外の何物でもない。
「初めは彼を知っているというシャルロに説得させようとしました」
「誘拐犯の説得を大人しく聞く人質はいないと思うが」
「誘拐……ですが、彼は本当に、私たちの息子を探し出せるかもしれないと考えレッセンフェルに協力していただけで」
「だったらそれは、そこまできちんとルルティスに伝えなければ意味がないことだろう。彼はノイドガルテ公爵も誘拐犯の一味だと思っているんだぞ。あの拳銃乱射を見ただろう」
 言いながらロゼウスは、正直あの場面を見たからこそこの二人は自分に話を「通してもらおう」としたのだろうと考えた。上級貴族相手にいきなり拳銃を乱射する相手でも、皇帝が言えば話を聞くかもしれないと。薔薇の皇帝は世間には恐れられているが、よほど理不尽なことをしない限り多少の無茶は認める人物だと王族階級には知れている。彼が真剣に怒ることなど滅多にない。だがルルティスはどんな人物なのか、この二人にもわかっていないのだ。
「それにお前たちは聞いていなかったのか? ルルティスは両親などいらないと言っていたではないか」
「ですが、あの子は確かに私たちの息子です!」
 妾妃の言葉にロゼウスは顔をしかめた。母親とは何年離れていても、自らの子どもがわかるものらしい。実際に生まれた直後に攫われた我が子と十年以上後に再会してその存在を確信した母親の話なども聞く。だが……。
「ちがうよ」
「え?」
「お前はあの子を産んだだけ。あの子の《母親》ではない」
「何を……」
 絶句する妾妃と、息を呑みやりとりを見つめる王。性格だけならば、この二人はとてもルルティスの親などとは思えない。
 この妾妃がどんな人物なのかなど、ロゼウスは知らない。
 王に取り入って権力を得るために息子である少年が必要なのか、それとも本当に我が子と再会したいだけなのか。
 どちらにしても。
「お前はあの子を産んだが、《ルルティス=ランシェット》の母親ではない」
 皇帝は言いきった。
「彼が自分の息子だと主張するなら、どうして直接話をしない? 銃で撃たれてでも彼を説得する気はないのか?」
「それは……」
「そして彼が自分たちの子だとわかったらお前たちはどうする? ルルティス=ランシェットの十年を否定して、フィルメリアに連れ帰る気か? 彼が王族になることを拒んだらどうするつもりだ? それでもお前たちは、自分の息子としてルルティスを愛せるか? 愛せるならば、今の歴史学者として生きているルルティスを認めることができるならばお前たちはルルティスと話せばいい」
「……」
 国王とその妾は押し黙った。
「ルルティスはルルティスだ。彼は私のものではない。――そしてお前たちのものでもない」
 新たに部屋に入って来た人物にも、ロゼウスは目を向けて問いかけた。
「そうだろう、グウィン」
「ええ……俺もそう思います」
「マクミラン、お前まで……!」
 フィルメリア出の神学者の青年は答えた。
 グウィンは学院を卒業したばかりの平民の学者なので、これまで宮仕えをしたことがなく国王の妾妃の顔など知ることがなかった。今回学者会議のために妾妃と引き合わされて、一番驚いたのは彼だったかもしれない。
 このグウィンと競っていたバルフォア子爵も、王の愛人と顔を合わせたことはなかったという。フィルメリアにレンフィールドやロスヴィータのような身分の高い貴族の学者がいれば、ルルティスのことはもっと早く知れていただろう。王妃どころか、他国の王の愛人の妾妃の顔を知る者は少ない。
 グウィンは自国の王とその妾妃を彼なりの論理で説得する。
「国王陛下! ランシェットさんは……今、皇帝陛下のお傍にいることが幸せなんです! もしも陛下たちが、あの人を無理にフィルメリアに連れ帰るつもりならやめてください!」
「マクミラン」
「ランシェットさんは学者として立派で、本当に立派で……あの人は学者として生きることが生きがいなんです。あの人から学者としての生き方を奪ったって、あの人自身も周りも不幸になるだけだと思います」
 グウィンの言葉を聞きながら、ロゼウスはふいに瞼を押さえた。
 白昼夢、それも予知夢だ。皇帝としての力が、彼の中に勝手に未来の光景を流しこんでくる。ロゼウスには予知夢を受け取るような適性はないから、これは余程の事だ。
 

 ――王宮が見える。この景色はフィルメリアだ。知の王国と呼ばれる古王国の、古びた威厳のある王宮。
 
 ――赤い空間が見える。赤いのは血だ。血ぬられた剣を引っ提げている少年。亜麻色の髪の……あれはルルティス。しかしその瞳の色は朱金ではなく琥珀だった。

 瞳の色は年齢によって変わるというから、それでだろうか。厳しい顔つきの彼は今より少し年上で――「彼」に似ている。瞳の色が変わって持っている色彩自体は遠くなったのに、その造作はそっくりだ。……この世の何も信じてはいない冷たい瞳。

 ――「裏切り者!」と誰かが叫んだ。青い髪の綺麗な青年。これはフェルザード。彼が何かを言っている。涙ながらに誰かを責めている。

 でも上手く聞きとれない、会話の相手は誰だろう。

 ――憂い顔の女が見える。あれは今死にかけているはずの女じゃないか? これは未来の光景のはずなのに、不思議な事に、すでに余命を宣告されたはずの彼女は未来の方が健康そうだ。

 ――お兄様。

 血の沼の中で弟が笑う。
 

「皇帝陛下?」
 グウィンの案じるような声で我に帰った。
「大丈夫ですか? お加減でも悪いのですか?」
「ああ。いや……大丈夫だ。ちょっと立ち眩みがしただけだ」
 そう言ってロゼウスは瞼から指を離した。このせいで途切れてしまった話をそのまま終わらせるため、こちらの様子を伺っているフィルメリアの王と妾妃に声をかける。
「フィルメリア王、私に言えるのは一つだけだ。今のお前たちには、ルルティスはついていかないだろう」
「皇帝陛下」
 眉を下げる国王に、ロゼウスは先程予知夢で見た光景に出てきた女の名前を出した。
 あの予知夢が現実になるのか、それとも運命が変わるのかはわからない。だが。
「それでもお前たちが諦めずに彼を望むと言うのなら……セリカレンディエーナを大切にしてやれ」
「は?」
 突如として出された名前にフィルメリアの王は驚いたようだった。
 セリカレンディエーナとは、フィルメリア王の最初の子ども、今ここにいる妾妃との間にではなく、王妃との間に生まれたフィルメリア国の後継姫だ。
 しかし彼女は身体が弱く、現在死に瀕している。フィルメリア王が王妃の代わりに妾妃を連れているのも、それに関係がある。身体の弱い一人娘しか産めなかった王妃を見限り、この妾妃を王妃の座に据えて後継者、できれば王子を産んでもらおうと国の重鎮の大部分が考えているのだ。フィルメリア王もすでにいい年なので、今現在十年前に行方不明となった王子などが現れれば、まず間違いなく次代の王に決定だ。
 単純に考えて、フィルメリア王としてはセリカレンディエーナが死に、ルルティスが王位についてくれた方が都合がいいのだ。病弱な姫君よりも、自力で学者の地位を得た王子の方が、実力も安定感もある。そして愛してもいない王妃との間に生まれた娘のことを、彼はさほど気にしていないらしい。
 しかしそう簡単に行くかな、とロゼウスは思った。
「あの姫を大切にしてやれ。今の私に言えるのは、それだけだ」
「はぁ……」
 フィルメリア王は納得しかねる様子で生返事をした。ロゼウスはそれにかまわず、グウィンを連れて部屋を出る。
 フィルメリアの未来は、フィルメリアに住む者たちが決めること。そしてルルティスの未来はルルティスが決めることだ。
 ロゼウスには何もできない。それが罪であれば皇帝の判断で裁くことができるが、罪とも呼べないことを、勝手に断じることはできない。
 王と妾妃がルルティスにお前は私たちの子だと告げるなら、それはそれでいいだろう。その先の展開は、ロゼウスの関知することではない。
「親子というのは大変だな、グウィン」
 自らも娘を持つ親であるロゼウスが言った。グウィンは気まずそうに相槌を打つ。
「ええ、そうですね。陛下」

 ◆◆◆◆◆

「……ってめちゃくちゃ入りづらいんですけど」
「入らなければいいじゃないか」
「そうですね!」
 ルルティスはやけになってハーラルトの言葉に頷いた。
 つい先程、目の前の部屋からロゼウスとグウィンが出てきた。確かついさっき合流したはずのフェルザードが先に皇帝陛下に会いに行きますとか言っていたような気がするが、どうやらすれ違ったようだ。
 中での会話はほとんど聞こえなかった、もう終わりかかっていたからだ。しかしなんとなく予想はつく。
「あの妾妃と私はそんなに似ていますか」
「似てる」
「そっくりだよ、ルーティ君」
 ハーラルトが腕を組んで深く頷き、レンフィールドがいつも通り無表情で肯定した。
 ルルティスの溜息を合図に、三人は踵を返した。別の場所で時間を潰すこととしよう。
 食堂でお茶をもらって一息つく。ここならばロゼウスが来ることはあっても、フィルメリア王たちが来ることはないだろう。高貴な王侯貴族はこんなところでお茶をせず、高いお茶を使用人に買いに行かせるものだ。ここに約一名「好奇な」王子、正確には好奇心の強い王子が普通に庶民のように安いお茶を呑んでいたりするが。
「ランシェット、お前どうするんだ? 行くのかフィルメリアに」
 ハーラルトが尋ねた。ルルティスが気にせずとも、これだけの人がいればフィルメリアの妾妃とチェスアトール出身学者が瓜二つであることに疑問を持ち声をかける者の一人や二人いておかしくない。証拠こそないが、ルルティスにもとっくに、理由はわかっている。
 しかしそれとこれとは別だ。
「行きませんよ。まだ皇帝陛下に関する書物を書き終わっていませんから」
「ああ。《薔薇皇帝記》って奴だね。完成したらぜひ読ましてくれ」
 レンフィールドの言葉に頷きながら、ハーラルトとの話を進める。
「まぁ、お前は王子って柄じゃないしな」
「すいませんねぇ。下品で」
「そういう意味じゃない」
 いつもの皮肉のやりとりが始まると思ったのに、ハーラルトは思いがけない強い調子でその言葉を否定した。
「お前は他人を信用しない、何でも一人でやる、そして周囲に壁を作っているだろう。誰も信頼しない人間が、多くの人間を動かす王になんかなれるもんか」
 彼ら以外はいない食堂からぱったりと音が消えた。
「どういう意味です?」
 ルルティスは平然を装うが、今日のハーラルトはいつもと違って別の意味でしつこい。
「学生時代、お前はなんで売春なんかしてた。なんで僕みたいに、貴族の後援者を探さなかった」
「それは……」
 誰かに頼りきりになるのが嫌だったからだ。
ルルティスはそう言おうとした。しかしそれよりも早くハーラルトが言う。
「そこまで人を信じるのが怖かったからじゃないのか」
「怖い?」
 この、自分に、怖いもの?
 ハーラルトがこれみよがしに溜息をつく。
「苦労に苦労を重ねて助けてくれる人を探して、それでも駄目だったから顔で男でも女でもだまくらかして金をせびろうと言うんなら僕には文句も言えないさ。だがお前は違う。最初から、誰も信用なんかしてなかっただろう。無償で後援してくれる人間なんかいないって、そう思っていただろう」
「それは……そうじゃないんですか? あなただって、メイフェール侯爵に支援してもらう代わりに彼女の薬を作っているんでしょう」
「ああ、そうだ。だがお嬢様にはそれを断ることもできた。あの方が信じてくれたから今の僕はここにいる。そして僕もあの方の信頼に応えたいと思っている」
 だが、と彼は続ける。
「お前は違うだろう。お前は誰も必要としていないんだろう」
「――」
「金で体をやりとりするのはただの欲望だ。お前は肉欲は知っていても、約束を守るとか恩に報いるとか、そういう誠実な人の感情を信じてはいないだろう」
 そんなの、当たり前だ。
「だとしたら何なんです? 確かに私はそんなもの信じておりませんが、それでこれまで問題などありませんでした。このやりとりに意味などあるとは思えませんね」
「本当にそう思っているのか?」
 ハーラルトの言葉にルルティスはムッとする。平民とはいえ両親揃った一般家庭の幸せなお坊ちゃんに、自分の何がわかるというのか。
「まぁまぁ二人とも」
 険悪になりかけた空気を救ったのはレンフィールドだった。しかし彼の場合救った次の瞬間に地に叩き落としたりするので油断はできない。
「仲がいいのもそれくらいにしてくれないか。でないとおにーさん、寂しくて拗ねちゃう」
「「誰がこれと仲がいいんですか!」」
 案の定とぼけた調子で言われた言葉に、ルルティスとハーラルトは声を揃えて反論する。
「まぁそれは置いといて、そろそろ部屋に戻った方が良くはないだろうか。人が増えてきたし」
 レンフィールドのこの言葉により、三人はとりあえず解散した。また明日、帰る前に声をかけあうことになるだろう。
 彼らと長い話をする気もない。学術的な問題に関しては語り合うが、でもそれだけ。
 ルルティスは部屋へと戻り――損ねた。
「何やってるんです? フェルザード殿下、メイフェール侯爵閣下」
 フェルザードとジュスティーヌがロゼウスの部屋の前に貼りついていたのだ。自室に戻る途中の道なので、嫌でも目に入る。ちなみに向こう側ではジュスティーヌを探しに来たらしいハーラルトも呆れていた。
「アルジャンティア様とローラ様といるからって部屋を追いだされたんですわ!」
「はぁ……親子の語らいくらい放っておいてはどうですか?」
 そっとしておくという言葉が出ないのがルルティスである。
「いやいや、でもあの三人だと何を話すのか興味あるじゃないですか」
 上品な笑顔で盗み聞きという下品なことをしているフェルザードが、笑顔でルルティスと、駆けつけたハーラルトをも手招きした。
「……僕は部屋へと戻ります。侯爵閣下、お加減が悪くなるようでしたら人を寄越して下さい」
 額に青筋を浮かべたハーラルトが、慇懃な礼をして去っていく。それを一度見送ってから、ルルティスを含めた三人は扉に耳を貼り付けた。
微かな声が響いてくる。
「でも……のですか? おし……て差し上げな……」
 これはローラの声だ。続いてロゼウスの言葉。
「だけど………………には、決めることはできない」
 ほとんど何を言っているのか聞きとれない。
「ところで、お父様、ちょっと待ってくださる?」
 甲高くてどこでも通りやすいアルジャンティアの声が聞こえたと思った次の瞬間、彼らが耳を貼り付けていた扉が開いた。内開きだったために、三人は部屋の中へと雪崩れ込む。
「――何をなさっていらっしゃるのかしら、三人とも」
 ローラの声が冷たい。氷点下だ。
「あー」
 ロゼウスは曖昧な表情で彼らを眺めた。
「さっきの話聞こえてた?」
「いいえ。残念ながらほとんど」
 さっさと起きあがったフェルザードが答える。
「ランシェットなんて今来たばかりですし」
 位置的に運悪く二人の真下になって押しつぶされたルルティスが、その姿勢のままでロゼウスを見上げる。
「そうか……それならいいんだが」
 どう見てもこの状況は良くないと思いますよ陛下。
 そんな心の声を呑みこみ、ジュスティーヌとルルティスはロゼウスに助け起こされる。後ろの方でフェルザードがしまった立ち上がってしまったなどと何か呟いているのは気にしないでいよう。
「どうした? ルルティス」
 じっと見つめているとロゼウスに尋ねられた。ルルティスは緩く首を振る。
「いいえ」
 ただ少し、考え事をしていただけです。
「そうか。ならみんな食堂にでも行こう。昼食をとってから皇帝領に戻ることにした。ジュスティーヌ、お前も行くのだろう?」
「よろしいのですか?! 嬉しいです!」
 ジュスティーヌが喜び勇んでロゼウスの腕に抱きつき、苦笑しながらもロゼウスがそれを支えて歩いていった。フェルザードとローラがぞろぞろとその後について歩く。
「もう、メイフェール侯爵ってばずるい!」
 父親にひっつき損ねたアルジャンティアが拗ねて口を尖らせる。その様子が小さな子どものようで微笑ましくて、ルルティスは思わず声をかけていた。
「アルジャンティア様は本当に皇帝陛下がお好きなのですね。やはり娘として愛されているからですか?」
 聞きようによれば皮肉じみた言葉かもしれない。ルルティスには家族がわからないから。けれどアルジャンティアのように誰から見ても父皇帝から溺愛されている少女にそのような皮肉を投げても普通は伝わらないだろう。額面通りに受け取るはずだ。
 事実アルジャンティアは額面通りにその言葉を受け取った。だがその後の反応はルルティスの予想とは違うものだった。
「ううん。私、愛されてなんかないわよ」
 台詞の内容からは考えられないほどに毒のない表情で、ごく当たり前のことのようにアルジャンティアは言った。
「私は生まれたその時に、いらないからって殺されそうになったもの。愛されてるから生まれたわけじゃない。お父様もお母様も仕方ないから私を愛してるだけなの」
 ルルティスは絶句した。
「アルジャンティア様、それにランシェット、早く行きますよ」 
 部屋を動いていない二人をフェルザードが呼びに来た。はーいと返事して、アルジャンティアがまず歩きだす。
ルルティスは、呆然としてその華奢な後ろ姿を見送った。