040
予定外に長く波乱万丈だった学者会議がやっと終わり、彼らは皇帝領へと戻って来た。
ジュスティーヌが少しの間皇帝領に滞在すると言うので、行きに比べて帰りは人数が多い。ロゼウスの娘のアルジャンティアも普段から皇帝領と留学先のカルマインを行き来しているようで、普段は男だらけの空間に女性が増えて華やかだ。
疑いをかけられたハーラルトのことや、ヨアヒムの死、そして再び彼らの前に姿を現したゼイルのことなど様々な問題が積み重なっているが、それでもひと時の安息を彼らは求めた。
平穏な日々にはいつか終わりが来る。そのことを知らぬような面々ではない。
だがその穏やかな皇帝領で、また一つの大きな問題が持ち上がろうとはロゼウスは予想していなかった。そう、予想外で予定外で意外で存外だった。
まさかこんなことになろうとは……。
皇帝領に戻って来てから三日後のことだった。外は雪景色だが城内はあくまでも麗らかな午後、それはまたしても全員が一部屋に集まるお茶の時間に起きた。
「皇帝陛下」
ルルティスの呼びかけに、紅茶のカップを口元に寄せていたロゼウスはそれをテーブルの上に置いて彼を見返した。なんか先日もこんなパターンがあったような気がするなどと思いつつ、表面上はいつもの顔でルルティスに尋ね返す。
「なんだ?」
にっこりと、可愛らしい笑顔を浮かべてルルティスは爆弾発言を落とした。
「私を陛下の愛人にしてください!」
室内の空気が一気に氷点下まで下がる。それはもう、全員が凍りつくほどに。
「……ランシェット?」
こめかみに盛大に血管を浮かせつつ、それでも笑顔でフェルザードが発言者の名を呼んだ。ちなみにその笑顔には、“ぶっ殺す”と書かれている。
「ま、待てフェルザード」
先日はこの王子のちゃぶ台返しにより料理を台無しにされた恨みでじとりと彼を睨むローラの視線に危険なものを感じ、ロゼウスはまず真っ先にフェルザードを制した。その上で、ルルティスに声をかける。
「ルルティス、前も言ったが、俺は愛もない愛人とかそういうのは……」
冷静を装いつつ、ロゼウスも相当混乱しているらしい。言葉がおかしくなっているのだが、自分では気づいていないようだ。
「身体だけの関係とかそういうのはちょっと……」
「はぁ」
「へぇ」
ローラとジャスパーがロゼウスを白けた眼差しで見つめた。あからさまなその態度に、ロゼウスも半眼で二人を睨む。
「……そこ、何か文句でもあるのか」
「いいえ」
「別になんでもありませんわぁ。ロゼ様のお好きになさってくださいませ」
一方ルルティスはロゼウスの言葉に数秒何か考えているようだった。
「身体だけの関係でなければいいんですよね」
「あ、ああ」
引きつりながら答えるロゼウスに向かい、ルルティスは心なしか先程よりうるうるした瞳を向ける。
……何か嫌な予感がする。
ロゼウスは背筋に伝う汗を意識しながらそう思った。何か、何か嫌な予感が。前にこれを感じたのはいつだったか。カルマインの貴族の少女が陛下愛してます! と跳びついてきた時? それとも当時のエヴェルシードの王太子が王位継承権を放棄して皇帝領に押し掛けてきた時か?!
「えっと、あの、ちょっとこういうのは私も経験がなくて恥ずかしい、のですが……。皆さんもいますし。でもどうせすぐに知れ渡るんですものね。隠れてこそこそなんて公平じゃないですし……」
その思わせぶりはなんだ。
「皇帝陛下……」
ほんのりと目元を朱に、頬を薔薇色に染め、大きな瞳を濡れたようにうるうるとさせながらルルティスはロゼウスを見つめた。
もともとの顔立ちが良いのでそれほど違和感はないが、それでも彼の紛う事なく男らしい一面を知っている一同としては若干引く、そのうら若き乙女のような態度は何?!
「あなたが好きです」
ロゼウスは凍りついた。エチエンヌも凍りついた。アルジャンティアも凍りついた。フェルザードは怒りを滾らせた。ローラは始まったかと思った。ジャスパーは溜息をついた。ジュスティーヌが息を呑んだ。リチャードはおやつの十皿目をおかわりした。
それぞれの胸にそれぞれの波乱をもたらした当の本人ルルティスは、ロゼウスを熱心に見つめて返答を待っている。
「る、ルルティス……悪いが私は……」
「そんなことを仰らずに! 何なら試してからでも!」
――試すって何を?!
「そりゃあナニをでしょうねぇ」
この事態にもまったく動じていないリチャードがのほほんと紅茶を飲みながらそう言った。彼はロゼウスをまったく恋愛対象として見ていないので、誰が彼をどう思おうがさほど動じないのである。ましてやルルティスの場合、十年前フェルザードが来た時のように王位継承権放棄などのごたごたがあるわけでもなし。
「いいじゃないですか。新しい境地を試すのも。今までの愛人たちにはいなかったタイプですし」
「リチャード?! お前、他人事だと思って!」
「他人事です」
宰相は皇帝の恋愛事情、ましてや寝台の中の事情などどうでもいい。
「私は許しませんよ!」
そこでついに耐えきれず声を上げたのはフェルザードだった。先日のようにテーブルを投げたりはしないが、射殺すような眼差しでルルティスを睨みつける。
「たかが学者風情が皇帝陛下となど!」
「学者風情とは失礼な仰りようですね! 決めるのは皇帝陛下であって、私が学者だろうと関係ありませんよ!」
それはそうだが、問題はそこではない。
「な、何故いきなりそんなことを……」
「好きだから、じゃいけませんか?」
小首を傾げるルルティスは愛らしい。例えロゼウス自身より背の高い男だとしてもその仕草は可愛らしい。だがそれとこれこそ別だ。
ロゼウスは前回の騒動から今日までの間にルルティスに好かれるようなことをした覚えは一切ない。さっぱりない。断言できる。
だが……ルルティスの態度を見ていると、どうも愛人になることを目当てに口から出まかせで好きだと言ってみたようではない事が一番気になる。
こんなときは……。
「さよなら!」
逃げた。
「あ、陛下!」
「逃げるんですか?!」
ロゼウスは逃げた。なんというか、あのままだとルルティスの勢いに押されて承諾してしまいそうな感じだったので。
「待って下さい陛下!」
ルルティスがロゼウスを追いかける。
「陛下、ランシェットなんかを愛人にするのはやめてください!」
「フェルザード王子?! なんかって何ですかなんかって!」
フェルザードがルルティスを追い抜かして走って行く。
「陛下! 何年もあなたを追いかけ続けたこのわたくしを差し置いてこんな子どもを本当にお傍に置く気なのですか?! 陛下ぁ!」
「め、メイフェール侯爵は走っちゃ駄目ですよ!」
「そうですまた倒れたら困りますわ!」
同じく駆けだそうとしたジュスティーヌのことは、エチエンヌとアルジャンティアが慌てて取り押さえた。身体が弱く心臓に欠陥がある貴族令嬢をあの人外どもに合わせて全力疾走などさせるわけにはいかない。死んでしまう。
「大変なことになりましたね」
のほほんというリチャードのカップに、ローラが紅茶のおかわりを淹れた。
「兄様ってば……」
ジャスパーが深く深く溜息をついた。その吐息には呆れ以外にも諸々何かが宿っていそうである。
「でもまぁ、要するにいつも通りってことですよね」
「そうね。いつも通りね」
ルルティスがロゼウスを追いかけ回す光景なんて皇帝領ではもはや珍しくもなんともない。追いかける内容が取材目的から愛人志願に変わっただけだ。
「今日も平和ね」
誰もがこれが束の間の平和だということを知っている。だからこそ、彼らはこのひと時の安息の日々を楽しむことにした。
◆◆◆◆◆
――お前は誰も必要としていないんだろう。
ハーラルトの言葉が頭の中で蘇り、ルルティスは一度立ち止まった。
ここは中庭を望む回廊。先日ロゼウスと話をしたのもここだ。
男の声が頭の中で追いかけてくる。思い出したのは学者会議の途中でシャルロの顔を見てしまったせいか。ずっと忘れていたはずの、封じた記憶だったのに。
――かわいい*******、お前は誰も愛せないし、愛さなくていいんだよ……。
忌まわしい男の声がいとおしむように追いかけてくる。それは彼にかけられた呪いだ。
全ての過去を振りきるようにルルティスは学者となることを求めた。父の顔も母の顔も自分自身の事さえも知らない。自らの空白の記憶を埋めるため、世界の「歴史」を辿る学者となり、真実を求めた。それがルルティス=ランシェット。今の自分。
だがそれも、言ってしまえば虚しい行為なのかもしれない。真実を追い求め、けれど求めるほどに世界から遠ざかる。誰をも幸せにしない世界の真実など求めて深みに落ちていき、もう、何の音も届かない。誰かの言葉も、自分自身の言葉さえも。
私はこれでいい。今の自分以外――いらない。
――ルルティスはルルティスだ。彼は私のものではない。――そしてお前たちのものでもない。
愛とか恋だとか、信頼だとか、そんな思いは知らない。わからない。
でもあの時、好きだと思ったのだ。
美しい蝋人形のようなその面の裏に、深い悲しみを抱いて他者に触れることすら恐れるようにそっと触れるあの人が。
陛下。あなたの言葉は、無音の深淵にさえ美しく響く。
「好き、です。皇帝陛下……あなたが」
誰もいない場所、聞く人もいないのに勝手に言葉は零れ落ちる。
この場所にいたいと、強く願う。いつかこの場所を離れなければいけないのだと思った時、初めて切なさできりきりと胸が痛んだ。
思いがけずシリアスしていたところ、頭のすぐ上からフェルザードの声が降って来た。
「陛下! ちょっとどこまで逃げる気なんですか?!」
二人は思ったよりも近い場所にいたらしい。城の中央部に位置する中庭が望める二階の廊下を、ロゼウスとフェルザードがばたばたと行き過ぎる。今にもフェルザードがロゼウスを捕まえそうだ。
下の階からルルティスは呼びかけた。
「皇帝陛下!」
「え? あ、ルルティス! フェザー、お前のせいで見つかったじゃないか!」
「知りませんよそんなの!」
そう言って彼らはまた、ルルティスから離れようと逃げ出しはじめる。きりのない鬼ごっこが再開された。
騒がしい光景を目にしながら。ルルティスの口元に自然と笑みが浮かぶ。
「待って下さいよ! 陛下!」
愛しい人と手強いライバルの後を追い、少年学者は駆けだした。
《続く》