薔薇の皇帝 09

042

「陛下ぁ」
 甘ったるい声で、ジュスティーヌがロゼウスの右脇に侍り腕をとる。
「皇帝陛下!」
 弾んだ声で、ルルティスがロゼウスの左腕にしがみつく。
「いやあの……放してくれる?」
「いやです」
「いやですわ」
 チェスアトールでの学者会議が終わってから最近の皇帝領はいつでもこの調子だった。皇帝ロゼウスの愛人を目指す二人が、暇を見つけてはまとわりついている。
「もう! 二人とも! お父様から離れてよ! いちいちべたべたべたべたと! 私のお父様よ! 離れて離れてぇー!!」
 様子を見かねたアルジャンティアが病弱侯爵と変人学者を強制的に父親から引き離した。非力なジュスティーヌはもちろん、ルルティスも身体的には普通の人間なので、ヴァンピルの力まで行使してきた歳下の少女にあっさりと投げ捨てられる。
「お父様!」
 二人を引き剥がして、代わりにアルジャンティアはロゼウスの胸元に飛び込む。娘を溺愛しているロゼウスも、やれやれといった表情ながら彼女をしっかりと受け止めた。
 そうして見事皇帝の腕の中をキープしてから、アルジャンティアはさきほどちぎって投げた二人の方をくるりと振り返った。
「べー」
 舌を出して挑発すると、ジュスティーヌとルルティスが顔色を変える。妬ましそうな半眼で年甲斐もなく少女を睨んだ。
「くっ、なんて羨ましい!」
「いいでしょう、その宣戦布告、受け取りましたよ!」
 三人の間で、ばちばちと火花が散る。
「ああもうまったく……」
 同じ部屋の中、この光景を見ていたローラが溜息をついた。リチャードがくすくすと笑う。
「皆さん楽しそうですね」
 今日は仕事休みの一日だ。とは言っても基本的に無趣味な面々なので、休みとなると集まってお茶を飲むくらいしかすることがない。
 漆黒の調度が重苦しい部屋の中、しかし住人たちの空気はどこまでも軽く明るい。最近ジュスティーヌと同じくロゼウスのおっかけと化したルルティスの姿も、慣れてしまえばたいしたことはない。
「何をはしゃいでいるんだか」
「まぁ、暗くて息苦しいよりは良いんじゃないか?」
 とりなすように言ったリチャードに、複雑な顔で頷くのは先の発言をしたローラではなくエチエンヌの方である。
「そうですね……でもまさか、学者先生がああなるとは思いませんでした」
 いつも通り真紅の騎士服を着た彼は、お茶の用意をしながら呟いた。この面子で皇帝に何かが起こるとは思えないので、護衛としては気楽なものである。
 もっとも、何か以上の「何か」なら今この瞬間にも現在進行形で起こっているのだが。
「一体何があったんだろう。ローラ知ってる?」
「いいえ。全然」
「リチャードさんは?」
「あの学者会議の間も、何か特別なことがあったようには思えなかったが……」
 三人は首を捻った。わからない。この状況の原点がさっぱりわからない。
「まぁ、いいでしょう。今更理由の一つや二つ知ったところで、あの学者先生を止められるとは思いませんし」
 そこでこの会話は終わりになった。そうですね、とか頷きながら、二人もお茶を飲み始める。
「あれ? ところで、こんな時に真っ先に怒りだしそうな人はどうしたの?」
「え? ああ、フェルザード殿下ですか? 何かさっき下の方に向かってましたけど」
「下?」
 この部屋は皇帝の居城の二階部分にある。ここより下というと一階だ。あるのは厨房と謁見の間、ダンスホール、使われていない聖堂に大きな図書館と、中庭。厩舎。そこから兵士たちの舎にも行くことができる。
「門の方に向かっているみたいでしたけど。誰か迎えにあがったのでは?」
「あの方がわざわざお出迎えにあがるような方がいたかしら。皇帝以外に」
 外の入口の方にフェルザードが向かったという話を聞き、彼らは首を傾げた。だが、理由に見当もつかない。フェルザードは皇帝領にいるだけでなくエヴェルシードの王子としての仕事もほとんどこなしているので、ローラたちには理解できないことも多い。
「まぁ、いいわ。騒がしくなくて」
「ローラ……」
「でもローラの言う通りですよ、エチエンヌ。あの三人に更にフェルザード殿下が加わったら、私たちで止め切る自信がありますか?」
「う、そ、それは……!」
 無理である。本気になったフェルザードはロゼウスですら止め切れない上に、一度半殺しどころか九割八分くらい殺されているのだ。どう考えても無理である。
「アルジャンティア、そろそろこっちに来なさい」
「あ。お母様、はーい」
 娘は母親がいうと素直に長椅子に座る彼女の隣へと寄って来た。これであと二人。
「侯爵! ルルティス先生! もうその辺にしましょうよ!」
 エチエンヌが呼びかけるが、アルジャンティアがいなくなった途端ロゼウスのところに突進した二人は聞いちゃあいない。
「あれ? ゼファー」
 そんなとき、突如としてロゼウスとアルジャンティアが顔を上げた。二人は扉の方を向く。
「ああ……ようやく来たのか」
「え? 殿下を呼んだのか?」
 ロゼウスの呟きにエチエンヌが反応する。自分を蛇蝎のごとく嫌っているエヴェルシード第二王子をロゼウスがわざわざ呼びつけるなんて珍しい。
「いや、呼んだのは実はゼファードの方じゃなくて――」
「うわっ! 何だよこの空間! 何その羨ましくないハーレム!」
 言いかけたロゼウスの言葉は、訪問者の第一声に終わりを持っていかれた。
 仏頂面の客人に、片手を軽く上げてロゼウスは挨拶する。
「久しぶりだな、ゼファード」
「呼びつけておいて久しぶりも何もないだろ。俺はお前と、顔を合わせたくなんてないんだからな!」
「こらこら、ゼファー」
 二人の客人を伴って背後から現れたのはフェルザードだ。彼がわざわざ誰かを迎えに行っていた理由がわかった。溺愛している弟がやって来たなら、自分で迎えに行くくらいするだろう。
「ゼファード? って、まさかエヴェルシードの王太子殿下ですか?!」
 ロゼウスにくっついていたルルティスが顔をあげた。くせで眼鏡を直そうとして、もうないことに気づいて中途半端に指を下ろす。扉の近くに立つ、自分と同じ年頃の少年をじーっとじーっとじーっと見つめる。
 波打つ青というよりは藍色の濃い髪はシンプルな飾りで顔の横でまとめられていて、ジャスパーに近い髪型だ。瞳は橙色を縁取るように淡い黄色が輝く朱金。顔立ちはフェルザードと確かに似ている部分もあるが、どちらかと言えば従兄弟くらいの親戚と言われた方がしっくりくる程度の容姿だ。
 それでも、兄とはまた違った雰囲気のかなりの美少年だ。
「な、なんだよお前は!」
 あまりにも熱い視線で見つめられたためか、ゼファードが怯む。ルルティスの容姿自体にも驚いていた。何せ実の兄とそっくりで色違いの人間が目の前にいるのだ。
「あ、申し遅れました。私はチェスアトール学院出身の学者で、ルルティス=ランシェットと申します。現在皇帝領においては皇帝陛下の伝記を書かせていただこうと思い滞在しております」
「伝記? こいつの?」
 天下の皇帝をこいつ呼ばわりし、ゼファードは目を丸くする。そんな顔をすると幼い部分が目立って、綺麗というより可愛らしい。
「俺はゼファード=スラニエルゼ=エヴェルシード。聞いてわかる通りエヴェルシードの第二王子だ。でも! 俺は王太子じゃないからな!」
「ゼファー、まだそんなわがままを……」
「どっちがわがままなんだよ! いきなり『皇帝陛下の愛人になります』とか言って城を飛び出した王子の言う事じゃねぇええ!」
 これぞ世界各国に有名なエヴェルシード王子の逸話である。
 第一王子でありもちろん王太子であったフェルザードは十年前、何の因果か皇帝に惚れこんで王位継承権を放棄し国を飛び出した。
「君だって国を出たんだ。お互い様だろう」
「兄貴が馬鹿なことしなきゃ、俺が国を出る必要なかったんだよ!」
 そして継承権は第二王子ゼファードに譲られたはずなのだが、弟は弟でそんなこと知らないとばかりに家を飛び出した。挙句に――。
「だからって何も魔術師にならなくても……」
 エヴェルシードのゼファード王子は魔術を学んでいると有名だ。
「わぁ! 魔術師! へぇ! 凄いんですね! 私は身近に魔法学を学んでいる人間はいても、本物の魔術師はいなかったので大変興味があります!」
瞳をきらりと輝かせ、ルルティスは新しい玩具……もといゼファードを見つめる。噂のエヴェルシード王太子で勇者で魔術師のゼファード王子。一度会いたいとは思っていたのだ。
 その様子を見ている他の面々は裏でこそこそと話していた。
「ちょっと、また見つけてしまったわよ。ルルティス先生が、次の獲物を」
「最近僕たちを追いかけるのも成果が上がらないからってちょっと大人しくしてたのにね」
「え? あれで大人しくしてたの? 私、いろいろ聞かれたわよ」
「アルジャンティア様も? まぁ、わたくしもですわ。どうせ薬を飲んで寝ていなければならなくて暇でしたから、いろいろお話してしまいましたけど」
「話したんですか?! え、何を? 恐ろしいんですが……」
「……」
 ローラ、エチエンヌ、アルジャンティア、ジュスティーヌ、リチャードと口を開いていき、最後のロゼウスは言葉も出ない。
「ところで――」
 と、ここでこれまで部屋に入って来てから一言も発していなかったもう一人が声をあげた。
「さっさと本題に入りたいんだけれど」 
「ほぇ」
 ゼファードの連れらしきもう一人は、金髪に緑の瞳の青年だった。
 ルルティスは彼を見て首を傾げる。
「シルヴァーニ人? いえ、でも何か違うような……」
「な、何? 誰だよ君は」
 一瞬ぎくりと動揺を見せた彼は、しかしすぐに立ち直ってルルティスを睨みつけた。しかしその瞳こそが、今度は驚愕に見開かれる。
「――リダ―」
 ほとんどを音のない声で呟いた名前は、小さすぎて人間の耳には聞きとれなかった。
「アドニス? どうかしたのか?」
 ゼファードが不思議そうな顔で連れに問いかけた。どうやらこの金髪の青年の名前は、アドニスというらしい。
「あ、いや。その……君のお兄上にとてもよく似てるって」
「そうだよな。お兄さ……兄貴にそっくりな人間なんて初めて見た」
 ゼファードはアドニスの口にした理由にあっさり頷くと、ようやく今回の目的を思い出したかのようにロゼウスへと向き直った。
「それで、何の用なんだよ! 突然呼び出すなんて!」
 敵意をむき出しにして皇帝へと召喚の理由を問いただす。
「いやぁ、ちょっと顔が見たいかなぁ、なんて」
 嘘だな、と周囲は明らかにそう思った。あの顔は何か含みのある顔だ。
が、ゼファードはあっさりと信じたようだった。
「このど腐れ皇帝が! てめーみてーな権力頼りの暇人と一緒にすんな!」
 せい、と蹴り出した脚は武の国の王子らしく見事な動きだったのだが、ロゼウスにあっさりといなされて終わった。
「どうでもいんですけど、止めないんですかフェザー殿下」
「え? どうしてですかランシェット。可愛い弟と麗しの皇帝陛下が『絡む』のを見ていて私は楽しいですよ。ウサギとハムスターがじゃれあっているみたいで」
 兄は、兄らしさの欠片も見せない身勝手さで言った。
「まぁまぁ、ゼファード、落ち着いて」
 金髪の青年が連れを宥める。彼の方がよほどゼファードの兄らしく見える。
そしてエヴェルシードの麗しき王太子殿下は、腰に手を当てて皇帝へと指を突きつけた。
「アドニスが一度皇帝領を見てみたいとか言わなかったら、絶対に来なかったんだからな!」
「うん、来てくれてありがとう」
 ロゼウスがへらっと笑って礼を口にすれば、ゼファードは怒りの矛先を持っていき損ねたのか、顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせている。
「もう。相変わらず騒がしいわね」
「アルジャンティア!」
「ゼファードうるさい。いつも怒ってばっかりだし。用がないなら帰ってよ」
「お前の親父に呼ばれたんだっての!」
 姫君にぷいと顔を背けられ、ゼファードがますますいきり立つ。
 その様子にルルティスはぴんと来た。
「はっはーん。そういうことですか」
「え? ルルティス先生、どうかしたの?」
「あれですよ。姫君と王太子殿下」
「ああ、いつも喧嘩してるよ。それがどうかしたの?」
 エチエンヌは耽美な見た目とは裏腹に朴念仁だった。これが四千年間も生きて来た男の発言とは思えない。
「えーと……」
「気にしなくていいのよ、先生。若い者たちなんて、どうせなるようにしかならないわ」
「そうそう。青少年の青春のきらめきをあたたかく見守りましょう」
「ぬるく、の間違いじゃないですの?」
 他の面々はどうやらルルティスの言いたいことをとっくに御存じのようだった。きゃんきゃんとそれこそ子犬のように言い合うアルジャンティアとゼファードを「ぬるく」見守っている。
「で、何の用だよロゼウス」
 アドニスが溜息と共に皇帝に尋ねた。ルルティスは驚いたが、彼が何か言うよりも早く、ゼファードが疑問を口にした。
「あれ? アドニス、お前ここに来たことないんだろ? それに、ロゼウスに会ったこともないって」
「ええ?」
 ルルティスはあからさまに不審を表に出した。皇帝にあったことがない? 今の態度はどう見ても知り合いのそれだ。アドニスという青年は、エチエンヌやローラたちと同じくらい皇帝にとって古い付き合いの人間かと一瞬睨んだのだが。
「そ、それはその……! ほ、ほら! 普段どこぞの放蕩魔術師王子とつるんでるから、ついうっかりいつもの癖が出ちゃっただけだよ!」
 かなり苦しい言い訳の上に、首筋に汗をかいている。
「そっか。そうだな。もともとアドニスはエヴェルシードに来たこともあるし、王族とかに慣れてるもんな」
 どう考えても百人中九十九人は納得できないような説明で、残りの一人であるゼファードは納得してしまった。
 短いやり取りしか見ていないが、これでだいたいのゼファードの性格がルルティスにはわかった。なんて素直なんだエヴェルシード第二王子。
「そういうわけなんだよ! 失礼しました皇帝陛下! それでは向こうでお話しましょう!」
「ああ。そうだな……どうせゼファードは俺と魔術の話なんかしてくれないだろ?」
「誰がお前なんかと」
「じゃあアドニスとやら、お前に聞くしかないな。こちらだ」
 ロゼウスは苦笑気味にゼファードを見遣ると、アドニスを連れて部屋を後にした。
 もしかして今日皇帝が全ての執務を休みにすると決めたのは、アドニスと会うためだったのだろうか。
 ゼファード相手には否定していたが、ロゼウスとアドニスはどう見ても知り合いだ。それに彼はシルヴァーニ人の外見をしているが、とてもシルヴァーニ人らしくはない。
 ルルティスがちらりと他の面々を見ると、フェルザードとジュスティーヌは何の反応もしなかった。ただし、ローラ、エチエンヌ、リチャードの三人は曖昧な笑みで応えた。
 彼ら三人が反応するということは、やはりアドニスは彼らの知り合いなのだろう。
「だから! いつも言ってるでしょ! お父様を馬鹿にするなんて許さないわよ!」
「うるさいファザコン! その歳になってもお父様お父様わめきやがって!」
「まぁああ!」
 何はともあれ、皇帝領はまた騒がしくなりそうだった。