薔薇の皇帝 09

043

 彼は再びその手を罪に染めた。
 土を掘る音が止み、夜の墓地に静寂が響き渡る。痛いほどの空気の沈黙の中、スコップを投げ出して穴深く埋められた棺の横へと彼は降り立つ。
 風は乾き、中の土も同様だった。ぼろぼろと崩れやすく、湿っている箇所は稀だ。だからこそ一人で掘れたという現状もあれば、砂となりかけた土をかきだすのこそが大変だったという思いもある。
 この国では火葬が厳禁だった。乾いた土を掘りその中に棺を埋め、墓標を立て死者の心が安らぐよう願うのはどこも同じ。しかし葬送の方法には国ごとに違いがある。土葬、火葬、風葬……。カウナードではつい百年程前までは風葬が主だった。最近土葬が流行り出したのは他国の影響を受けてのことだろう。 しかしそれは彼にとっては僥倖であった。
「セィシズ様……」
 亡き主君の墓を暴きながら、ゼイルはその名を呼ぶ。夜の墓地で墓荒らし。犯罪以外の何物でもない。
 これは盲目の忠誠だ。大切な人のためと言いながら、大切な人の墓を暴く。
 全てはあなたを取り戻すため。
 棺の釘を専用の釘抜きで抜き、再び使えるようまとめておく。
 鍛えた体にも、本来大の男数人がかりでやるような作業には骨が折れる。額に滲んだ汗を、袖で拭いとった。 
 そして彼は棺の蓋へと手をかける――。

 ◆◆◆◆◆

 ロゼウスは《アドニス》を連れ、自らの部屋の一室へと向かった。人気のない事を確認して扉を閉めると、さっさと長椅子へと向かったアドニスへと声をかける。
「自分で秘密にしろと言ったくせに、迂闊すぎるんじゃないのか」
 皇帝領に来ても気負った様子が微塵もなく、尊貴と呼ばれる身分の者を前にしても物怖じした態度を見せないアドニス。
 彼が自らの顔の前あたりでさっと腕を振ると、見る間にその姿が変わっていく。
 陽光の明るい金髪は闇の如き黒へ、翡翠の瞳は黒曜石へ、青年の顔立ちは少年へ、白い肌は若干黄色がかった肌へ。
 ロゼウスはその名を呼んだ。
「ハデス」
 金髪の青年アドニスとして振る舞ってい少年、彼こそが冥界の王ハーデースと同じ名を持つ大魔術師、ハデス。
 その容姿はルルティスが指摘した通り、シルヴァーニ人らしきものではない。しかし美女美男が多いと呼ばれるシルヴァーニ人に負けず劣らずの、それなりに整った容姿はしている。
「うるさいな。お前らがあんまりにも騒がしいからつられただけだよ」
 彼は不機嫌そうに前髪を払うと、黒い瞳でロゼウスを睨む。
「それで、何の用なんだ。わざわざゼファーに手紙まで出して僕を呼びつけるなんて」
 ゼファードとハデスがここまでやって来たのは、ロゼウスのその手紙で呼び出されたからだった。表向きゼファードに宛てられた手紙からは、しかしハデスに皇帝領に来いという暗喩が無数にちりばめられていた。
「この前の話の続きか?」
 前回皇帝領にほぼ強制的に召喚された際は、負傷したロゼウスの治療を命じられた。その時に話していたことをハデスは思い出す。あれからまだ一カ月も経っていない。
「ああ」
 ロゼウスは頷いた。
「俺の身体の一部を持っていった奴がわかった。やはりゼイルだった」
「ふーん」
 気のなさそうな相槌を打ちながらも、ハデスの耳だけはしっかりと皇帝に向けられている。
 魔術に関する領域は、この《冥府の王》ハデスの預かる場所だ。その平衡を崩そうという輩に対して、彼は容赦しない。
「それで?」
「ゼイルは俺の身体を魔力の足しにするために取り込んだらしい」
「取り込んだって……あれを?!」
「…………」
 治療をした際どうしても聞かざるを得なかったために、ハデスはゼイル事件の時にロゼウスがどういう目に遭ったのかだいたいのところを知っている。
 当然、そこから連想してゼイルがロゼウスの何をどうしたかまで、不幸なことにわかってしまった。
「……そんな気持ち悪そうな顔をするなよ。俺の立場がないじゃないか」
「お前の立場なんて最初からないも同然だ。けど……本当か? それ、そのゼイルとかいうのが、お前の力を取り込んだって」
「本当だ。結構はっきりわかるもんなんだな。自分の一部が誰かの中にある感覚っていうのは」
 ロゼウスは唇を噛んで、先日の学者会議でゼイルと顔を合わせた時のことを思い返した。
 主を一途に慕い続けるあまり、狂気に走った悲しい青年。復讐という仮初の目的さえ失った彼はもうなりふり構わなくなっている。
「厄介だな」
 話を聞いたハデスが爪を噛む。
「お前みたいに力の強いヴァンピルは、それに反して自分で自分の中の魔力を取り出すことはできない。しかし人間がその力を取り込んだなら、お前が制御できない部分まで使いこなすことができるかもしれない」
 この世界で最も魔術に詳しい男は言う。
 蘇った死者であると言われる吸血鬼の一族は、その身体を魔力によって維持している。その魔力の量が多い程力の強い吸血鬼になるが、それは自身の身体能力のほとんどを魔力で支えているのと同義であるから、魔力を消耗する魔術と呼ばれる技はほとんど使えない。使えばその分、身体機能に支障が出る。
 人間はそれとは事情が違う。人間は肉の器に魔力を溜めこんでいるだけなので、使えばもちろん消耗するが、また魔力を溜めることができる。この時、魔力が例えゼロとなっても、身体機能に影響は出ない。
 ロゼウスの身体は多くの魔力を含むが、ヴァンピルである彼自身はその魔力のほとんどを使えない。使えばその分身体が欠損する。しかし、人間であるゼイルがロゼウスの魔力を自分の器に余分に取り込むことはできるのだ。
 今回だってロゼウスの身体の一部が切り離されたからこそ、ゼイルはそれを取り込むことができるようになったのだ。取り込まれてしまった箇所はそのままロゼウスの身体にとっては欠損を意味する。その後ハデスが自らの魔力と生み出した血と肉で補ったが、欠損は欠損である。
 治療のために自らの膨大な魔力のほとんどを持って行かれたハデスは知っている。皇帝と呼ばれる人間の身体にどれだけ大きな魔力が眠っているのか。
「まさかその相手も、だからってお前を頭から丸かじりしようとはしないだろうけど」
「……やめてくれ」
「下手にヴァンピルを喰えば力が増す、なんて思われたら困るな。魔術師たちの間で一斉にヴァンピル狩りが起きるぞ」
「それだけは何としてでも止めてみせる。それに……ゼイルはそういう人間じゃない」
 彼が欲しいのは魔術による名声でも、それによって得られる富などでもないだろう。
 彼が望むのはただ一つだけ。
「じゃあ、何」
 尋ねるハデスにロゼウスはつい先日届けられたばかりの情報を口にする。
「チェスアトールで盗まれた資料の幾つかは、錬金術と薬草学の本だったらしい」
「錬金術……まさか、人間製造か?!」
 魔術に詳しくないロゼウスにはその貴重本の目録を告げられてもゼイルが何のためにそれらを盗んだのかよくわからなかったが、ハデスはすぐに思い当たったようだ。
「人間製造?」
 首を傾げて聞き返すと、難しい顔をしたハデスが衝撃のためか、多少早口で説明した。
「錬金術には、人造人間を作る方法がある。しかしそれには莫大な魔力が必要だ。魔術にしろ錬金術にしろ、基本は質量保存の法則に沿った上での形状変化と状態変化だ。つまり何かを作り出すには、それと等価の代償が必要となる」
「等価の代償?」
「つまり、ここに氷の塊を作りたいとする。その時、手元に水があるならそのままそれを凍らせればいい。けれど水がなかったら、どこかから持ってくることが必要となる。大きな氷を作るには、やっぱりたくさんの水が必要となるだろう。そして、この世界のどこにも水がなくてそれでもお前が氷を作りたいとする。だとしたら代償は、お前の身体に存在する水分だ。からからのミイラになるぞ」
 子どもに言い聞かせるような説明に、ロゼウスはようやく理解した。
 無から有は生み出せない。それがこの世界の絶対の原則だ。
「魔術は万能だ。だが世界は有限なんだ。そして人は万能ではない。だからできることに限りがある」
 ゆっくりと、噛んで含めるようにハデスが言う。
「でも……それなら人間を作るなんて無理じゃないのか?」
「お前がそれを言うのか、皇帝。お前は《彼》を蘇らせることができないだけで、死者をも生き返らせることができるのに」
 冷めた瞳でハデスが口にした。ロゼウスは思わずムッとする。
知識と実践の間には大いなる溝がある。そして知識が欠落したまま、奇跡を起こすという皇帝の力により全てができてしまうロゼウスには、ハデスの危惧するこの問題の根本がわからない。ゼイルの事情を知るロゼウスにもわからない問題が、外から話を聞いただけのハデスにはわかるというのも癪な話だ。
「人を生き返らせるということが罪だというのは、俺にもわかってる」
「ならそれで十分なんじゃないのか。皇帝。そういう倫理的な側面と技術的に実現できるかどうかの問題は別だからな。お前には人を生き返らせる力がある。だがそれは必要ないことだとわかっているから、おまえはやらないんだろう」
 それが「できる」のと実際に「やる」ことは違うのだ。
「お前はその辺りを上手く考えることができないようだから補足しながら説明しておこうか。まずは復活の概念について――簡単な復活なら、人はいつでも使っている」
「復活?」
 ハデスの言葉を聞いてロゼウスは思わず、よく新興宗教の教祖が行うような復活の御業! とかなんとかいうのを思い浮かべた。その考えは読まれていたのか、ハデスが違う、と真っ先に制してくる。
「魔術的用語の復活というのは、必ずしも大がかりな奇跡ばかりを言う訳じゃない。例えば人が怪我をして、時間が経つとそれが治る。これも一つの復活だ」
「一度損傷したものが元に戻るからか?」
「そうだ。そして死体に死者がとりつき動かすのも広義の意味では復活だ。生命活動の停止により一度失われたその肉体の動作が再び行われるようになったわけだからな」
 一つ二つ例を聞けばロゼウスにも、ハデスの言いたいことの意味が呑みこめてきた。
 復活と言うのは、何も完璧な死者蘇生のことをいうのではない。一度失われたり傷ついたりした部分が何かにより補われて再び存在するようになった、それら全てを復活というのだ。
 そして、この意味での復活には段階がある。
「同じ死者の復活でも、死体にまったく関係のない魂が入り込んで一部動作復活するのと、死体に本人の魂が入り込んで復活するのとでは完成度が違ってくる。死者の蘇生というのは、この完成度をどこまで上げられるかが鍵となる」
「最終的な目標が、肉体も魂も備えた完全な人間の復活というわけか」
「そうだ。だがそれは言葉で言うほど簡単なものじゃない」
 確認の意味を込めたロゼウスの問いにハデスは頷く。
「倫理的な思考は一切無視して、今現実にできることだけ考えてみようか。例えば人間一人の肉体を構成する要素を、お前は知っているか?」
「いや、わからないが……」
「単に人間の《肉体》を作りたいだけならば、大きな街でその辺の店を数件回れば材料全部揃うぞ」
 その答にロゼウスは愕然とした。
「人間といったって所詮は自然物。その辺の鉱物や植物に含まれるものと同じ部分が多々あって不思議はないだろ? 何せ人間の死体は土に還るんだから」
「ああ……」
「つまり、肉体だけの復活であれば、理論上すでに完成していると言っていい。お前らヴァンピルの超再生も一種の復活。お前らが膨大な魔力により人間を蘇らせるのも、一種の復活だ。多少理論がおざなりでも、魔術というものの万能性がその理論を補う」
 だが、とそこで一度ハデスは言葉を切る。
「魂の復活は、そう簡単にはいかない」
 ロゼウスたち吸血鬼の死者蘇生能力も似たようなものだ。死者をそのまま蘇らせようとすると膨大な魔力がいるが、死人返りと呼ばれる傀儡人形を作るのには、それほど力はいらない。そして死者を蘇らせるには、死んですぐ蘇生を行うしかない。
「一度完全に魂がこの世を離れてしまった人間の復活はそう簡単にはいかない。魂なんてものは、人間の計算で作りだせるほど単純なものではないからだ」
「皇帝が死者を完全な形で蘇らせることができるのはどうしてだ?」
「それは、魂を直接《天の板》から引きずり出しているからだろう。皇帝はこの世の万象の情報を取り出せるんだから、皇帝という権利で直接正しい数式を見ていることになるんだよ、理論上は。お前はその計算の意味を教えられず直接やり方だけを知っている状態だ」
 これまで長々と喋り倒したハデスは、ごほん、と一度咳をして喉の調子を整える。内密の話だけに、誰かにお茶を持ってきてもらうわけにもいかない。
「まぁ、長くなったが……とりあえず、そのゼイルとやらがどれだけ大きな魔力を手に入れたとしても」
 どんな魔術に頼っても、錬金術に頼っても。
「死んだ人間を完全に復活させるのは不可能だ」
 それが肉体だけでなく、魂まで完全に兼ね備えた人間ならば尚更。
「だから僕たちは、ただ《その時》を待てばいい」
「……」
 ハデスの言葉に、ロゼウスは一瞬、痛みを堪えるような表情をした。
 彼がゼイルにしてやれるようなことは何もない。一度は牙をむいた敵を案じるなど馬鹿げたことかもしれない。けれど。
 黒枠の窓の外を見る。
 皇帝領には今日も、憂いの雪が降っていた。

 ◆◆◆◆◆

 ゼイルは複雑な計算に没頭していた。
 部屋の隅には、幾つもの「人間の残骸」が積まれている。全てが同じ体格、同じ顔の少年の山。ただ少しずつどこか違っている部分があって、それがゼイルの納得に繋がらなかった。
 主・セィシズの墓を暴いて取り出した肉体の情報を使い、生前の姿に近い身体を作り上げる。
 その作業は今はすでに完了し、納得のいくものができあがった。あとは肝心の魂だ。
 だがそちらはどうにも上手くいっていない。一度二度、作り上げた人造人間は不完全な化け物だった。
「あとは何が必要だ……セィシズ様の魂の情報、まだ入力していない情報は……」
 特殊な紙に、これもセィシズの身体から作り上げた特殊な血を使ったインクで複雑怪奇な数式や言語の合間に言葉を書きつける。
 本来はゼイルの扱う分野ではないような知識も、彼は執念の一言で学び直した。学者になれたほどの頭脳の全てを注いで、ゼイルは主の復活を目指す。
「学者に不可能などあってはならない。真実を繋ぎ合わせれば、いつか必ず辿り着けるはず……!」
 赤黒く鉄錆の匂いのするインクが魔術式を書きつける。
 セィシズが本当に復活するために必要な情報、この世の常識や彼の記憶、怒った時悲しんだ時の反応、家族へと向ける表情、ゼイルへと向ける表情……覚えている限りのそれを、ゼイルは一心不乱に魔術式として書きつける。
 これが完成すれば、再び彼に会える。そのためなら、どんな罪を犯しても後悔しない。
 酷使しすぎた指先が血を流す。それすら気にもとめないゼイルは、すでに狂気の淵にいた。