薔薇の皇帝 09

045

 好奇心は猫を殺す。

「意外だな。学者って言うからもっとひ弱かと思っていた」
「あなた方エヴェルシードほどではありませんが、このくらい造作もありませんよ」
 結局好奇心には打ち勝てず、ゼファードとルルティスは地下へと向かっていた。人目を忍んで、こっそりと影の中を歩く。
「なんでここまで人目を忍ぶ必要があるんですか?」
「俺はあの部屋に近づいちゃ駄目だって言われてるんだ。言いつけを破ったなんて知られたらお兄様に殺される……!」
「お兄様って……」
 ゼファードは本気でフェルザードに怯えているようである。兄弟間の力関係がそれはもうあからさまだ。皇帝であるロゼス相手にガンガン言える人間でも、実の兄が怖いらしい。
「だから、あくまでも行動は隠密に。万一誰かに見つかって地下に向かってましたよとか報告されてもアウトなんだ。ここは慎重に行くぞ」
「はーい」
 ルルティスとしても面倒事は避けたいので異論はなかった。フェルザードと正面からやり合うなんて冗談じゃない。構えをとった瞬間には急所を刺されていそうな相手なのだ。敵に回したと感じる暇もなく始末されていそうだ。
 人の多い厨房脇の廊下を抜けると、人気の少ない図書館前に出る。そちらには向かわず通り過ぎて、滅多に使われないという聖堂の裏手に回る。
「えっと……どこだったかな……この辺りなのは確かなんだけど」
 皇帝の居城に備え付けられている聖堂は、今は物悲しく寂れていた。ロゼウスは宗教に興味がないらしく、神を崇めているところを誰も見た事がないという。そのせいでラクリシオン教やシレーナ教等の教会勢力から反感をかっているらしい。
 神こそが皇帝を指名するのに、指名されたはずの皇帝が神に興味を持たないとは不思議だ。ルルティスは常々そう思っているのだが、ロゼウスの真意は知れない。
 純白の石造りの聖堂は、崇める人間もいないのに荘厳な佇まいで二人を迎えた。装飾的な外観の美しさに、ルルティスは思わず目を奪われる。
「うわぁ……綺麗。あ、これ、色硝子を直接はめ込んでいるんですね」
 ステンドグラスの製法には古今で流行りや発展がある。昔は硝子自体に色をつけて一枚一枚はめ込んで絵を描きあげていたのだが、近年では透明な硝子に後から絵を描く方法が主流となっている。この方が効率は良くなったらしいが、昔のように職人が一枚一枚色硝子をはめ込んでいった時のような味わいは、もう近年のステンドグラスでは出せないそうだ。
 古いステンドグラスは着色料の金属酸化物に不純物が入っていることと、硝子の表面が平面ではなく凹凸があるために、複雑な色彩を描きだして非常に美しく見えていた。
 ゼファードはそんな建物自体はどうでもいいらしく、ひたすら地面を探している。彼が立っているのはちょうど聖堂で一番大きいステンドグラスの真下辺りで、ここでもないあそこでもないと草をかき分けている。
 せっかくだから中から見てみたいなぁと建物裏手のステンドグラスを眺めていたルルティスは、その絵柄のある法則性に気づいた。
「おい、何ぼーっとしてるんだよ。一緒に地下室の詳しい位置探してくれよ」
 ゼファードの呼びかけに応え、ルルティスは辺りの物を見回して確認する。
「えっと……」
 突然うろうろと周りを歩き始め不審な行動をとるルルティスを、ゼファードは変なものを見る目で見つめてくる。
「何やってるんだ?」
「きっとそうですよ! ほら、これ!」
 ルルティスはステンドグラスの縁を指さした。
 もちろんゼファードには何がなんだかさっぱりだった。
「いや意味がよく……」
「左の一番上から等間隔に並んでいるあの図形と右の枠縁のあの模様、この二つを重ねると、三十二代大地皇帝の紋様と言われる《砂時計》紋章になります。だからきっと……ゼファード殿下、まずここに立って下さい」
 ルルティスはゼファードを壁のすぐ近くに立たせた。
「で、ここまで、地面に線を引きながら歩いてみてください」
「こ、こうか?」
「ええ」
 旅用の頑丈なブーツを地面に引きずるようにして歩き、一本の真っ直ぐな線を引くようにしながらゼファードが歩く。
「あの右と左のステンドグラスの枠の模様には、法則性があります。重なると砂時計紋章が浮かび上がるのはこことそことあそこ、ついでにここです」
 ルルティスも自分で地面に線を引く。四つの線が地面でそれぞれ絡まり合う。
 まずは×印を描いてその上と下にそれぞれ水平な線を引く。するとそれは下向きの▽と上向きの△がちょうど頂点で重なったような形、見ようによっては砂時計と言えなくもない図形になった。
 ルルティスはまだステンドグラスを、否、正確にはその周囲の枠を見ながらぶつぶつと何か言っている。
「ああ、でもなるほど、それでこの聖堂には黄金が使われているわけなんですね。ラクリシオン教もシレーナ教も普通は銀なのに」
「黄金? 皇帝領に黄金が多いのは、ロゼウスがヴァンピルだからじゃないのか?」
 それにルルティスが示したステンドグラスの枠縁は、一か所を除いて銀でできている。その一か所が唯一黄金なのだ。
「まぁ、要するにそういうことですよ!」
「……さっぱり意味がわからねぇ」
 懐から長い紐を取り出してこれまで地面に描いた図形の長さをはかり、今度は別の場所を始点として地面に弧を描き始めるルルティスを前に、ゼファードは意志の疎通を諦めた。
「この砂時計に意味があるんじゃないのか?」
「ありますよ。でも砂時計だけじゃ駄目なんです。あの黄金の意味を解かないと。答は黄金比」
 魔術は要するに数学の世界だと、先日学者会議で魔法学を発表したフィロメーラが言っていた。その知識が早速役に立った。
 隠された数式の意味を読み解けば、それはある図形を示している。この世の全てを数字で露わすことができる。それが数学の世界。
 その考えは、短い呪文により術を発動する魔術にも通じる。
「この砂時計をちょうど黄金比サイズの長方形に閉じ込めて、と」
「開いた!」
 ルルティスが線と線を繋ぎ終え、地面に手をかけると、地下室への扉らしき蓋が開いた。
「でも俺、何年か前にこれを開けたときはこんな面倒なことやらなかったぞ?」
「その時はたまたま偶然正しい位置を探り当ててしまったんでしょう? その時何をやってたんですか?」
「物を落として地面を探ってたら、蓋みたいに開いたんだ。あれは吃驚したなぁ」
 言いつつ、二人は早速扉の中に入り、地下への階段を下りていく。
 しばらく段を下ると、平らな地面に辿り着いた。けれどそこから先、平坦なかなり長い地下通路が続いている。
「これ、たぶん城の方へ行ってますよね」
「ああ、そうだな。一応俺の後ろにいてくれ。何かあったら困る」
「いや、私の方こそ、一国の王子殿下に何かあったら困るんですが」
「大丈夫大丈夫。これでも勇者だし」
 ゼファードが先を行き、その後ろにルルティスが続く形で二人は地下通路を歩いた。松明などは持っていないが、ゼファードが魔術の明かりをつける。
 途中何度か分岐点があって困ったが、とりあえずまっすぐ進んでいれば問題ないだろうと、ひたすら最初の一本道を行く。やがて行き止まりに突きあたり、頭上を見上げると扉があった。
「……これ、どうやって開けるんだ?」
「さぁ……ひょっとして、ヴァンピル用ってことですかね」
 扉はあるがしかし梯子がない。彼らの身長より高い場所に、どうやって昇るというのか。
「でも二人いるし……とりあえず俺を肩車してくれるか? 蓋さえ開けたら、腕の力だけであのぐらい上がれると思う」
「さすがエヴェルシード。では任せます」
 ルルティスの上にゼファードが上がり、肩車というより肩の上に両足で立って何とか扉を下からあける。
それでもぎりぎり手首まで上の空間に出る程度の余裕しかないのだが、掴めさえすればゼファードにとってはこちらのものだった。腕の力だけで、扉がある部屋の中にあがる。
「ロープを垂らせばいけるな?」
「ええ。ありがとうございます」
 ゼファードが上から手持ちのロープを垂らし、ルルティスを引き上げた。埃っぽい地下通路から解放されて喜ぶ暇もなく、二人は首を竦める。
「寒い……」
「何だよこれ、冷凍庫か?」
「というより、氷室、っぽい……」
 部屋の中は奇妙に明るかった。
「え? ちょっと待って下さいよここ、明かりありませんよ? 窓もないですし。地下、ですよね?」
「そうだ。たぶんこれだな。魔術の明かりだ」
 ゼファードが頭上を見上げながら言った。薄青い光を放つシャンデリアのようなものがある。
 地下とは思えないほどに綺麗で明るい部屋だ。魔術の明かりで部屋全体が薄青く染まっていて、あらゆる場所に施された繊細な装飾を浮かび上がらせている。
 そして二人はそれを見つけた。
「ぜ、ゼファード殿下……あれって、まさか……」
 部屋の最奥に予想もしていなかったものを見つけて、ルルティスの声が震える。
 この部屋は冷たい。冷たすぎる。吐く息が白く凍った。
「棺、だな」
 ゼファードの表情も険しい。何故ならその棺らしき箱は透明な硝子張りで、中身がすでに見えているのだ。
 この部屋は何なのだろう。
 秘密部屋と聞いても、まさかこのような場所だとは思わなかった。宝物庫か書庫のような場所を思い浮かべていたのだが、ここはまるで……。
「霊廟?」
「ってことは、あれ」
 二人とも表情が引きつっている。ガタガタと震えているのは寒さのせいだけではない。
 部屋の正面に側面を見せる形で置かれた四角い箱。中に横たわる人の姿は見えている。青っぽい髪の色もわかる。だがその顔までは、もっと近寄らなければわからない。
 二人はゆっくりと、棺へと歩み寄った。薄青い光に染まる純白の大理石が硬質な音を響かせる。
 棺の手前で一度止まり、ルルティスとゼファードは顔を見合わせた。
 意を決して、棺の中を覗き込む――。
「っ! フェザー?!」
「フェルザード殿下……?」
 硝子の棺の中、大輪の瑞々しい白い薔薇に埋もれるようにして、一人の少年が横たわっている。
 一度棺の中を覗き込んだ後、ゼファードは弾かれたようにそこから離れた。ルルティスは逆に近づいて、もっとよくその人の顔を見ようと、身を乗り出して棺の中を覗き込む。
「ちがう……フェルザード殿下じゃない……」
「え?」
 考えてみれば当たり前のことだ。こんな美しいが見るからに怪しい場所でフェルザードが寝ているわけはない。
 棺の中の人物はどう見ても死体だ。否、死体と言うのはおかしいかもしれない。それはまるで眠っているだけの人間か、よくできた人形にも見える。
 だが硝子越しでもわかる、この肌の質感も何もかも、人形に表せるものではない。そして呼吸はない。
 死体としか考えられない。だがただの死体と言うには、棺の中の人物は美しく「保存」されすぎていた。
「本当だ。兄貴じゃない」
 恐る恐る近寄って来たゼファードは、半分ルルティスにしがみつくようにしながらもう一度棺の中を覗いた。そして中の人間が兄ではないことをしっかりと確認する。
 二人が一瞬見間違ったのも無理はなく、棺の中の少年は本当にフェルザードによく似ていた。造作も髪質もそっくりだ。
 だが髪の色が違う。光の加減で黒にも見えるほど深い藍色は、フェルザードの蒼い髪とは別物だ。むしろ色だけを見るならゼファードに近い。瞼を閉じているので、瞳の色はどんな色をしているのかわからない。
 全体的に見るとフェルザードの方がより美形なのだが、ぱっと見には区別できない程度にはよく似ている。通った鼻梁、淡い色をした唇、影を落とす長い睫毛。白いシャツを着せられ、白い薔薇の中に埋もれて眠る姿がまったく違和感のない美少年だ。
「まさか、まさかこの人が……」
「これが……」

「そうだ、私の想い人」

 背後からかけられた声に、二人は飛び上がって驚いた。慌てて振り返ると、そこには純白の姿があった。
「これこそ四千年前に死したエヴェルシードの王、シェリダン=エヴェルシード」
 心臓が止まるかと思うとはこのことだ。
「ろ、ロゼウス」
「皇帝陛下……」
 いつの間にか、部屋の中にロゼウスがいた。
「ゼファード、ここには入るなと以前言ったはずだ。ルルティス、誰がお前にこの部屋に入っていいと許可を与えた」
 その美貌に恐ろしい程の無表情を添えて、彼はつかつかと二人に歩み寄って来る。
 目にもとまらぬ速さでガッと腕を伸ばすと、二人の少年の首をそれぞれ片手で締め上げる。
「ぐっ」
 咄嗟に首周りに手を挟んだゼファードはその指が折れるのを感じた。ルルティスの方は抵抗する余裕もなかったため、そのままぎりぎりと首を締めあげられている。
「――この部屋には入るな」
 大地の奥底まで響くような冷たい声でロゼウスが言った。
「二度目は許さない。私は十年前、同じことをしたフェルザードを半殺しにした。けれどお前たちでは同じことをしたら確実に死ぬだろう」
 腕が緩み、二人の少年は床に放り出される。
「出て行け。二度とこの部屋に入るな。――出て行け!」
 それだけ言うとロゼウスは二人が起きあがるのも待たず、自分の方が部屋から出ていった。
 一度も棺の中を覗くことなく。
「げほっげほっ」
「おい、大丈夫かルルティス」
「あなたこそ……」
 二人がようやく呼吸を整えて立ち上がると、部屋の外にまた人影を見た。
 部屋の外から射し込む弱い逆光を影としてまとう人影。今度はロゼウス一人ではなく三人だ。ローラとエチエンヌとリチャード。
 エチエンヌが真っ先に口を開いた。
「失望しました」
 二人は怯む。
「これがどういうことだかおわかりですか? あなた方は、僕たちの信頼を裏切ったんですよ!」
 叩きつけるような声が、そのまま彼の悲鳴だった。
「そんなことはないわよ。エチエンヌ」
「姉さん! でも」
「あんたはそもそもこのお二人を信用していたの? だったら、あんたの方が馬鹿だわ」
 ローラの声は、切り捨てるように鋭い。二人を糾弾したのはエチエンヌの方だが、責めないローラの方がルルティスとゼファードには余程堪えた。
「最初から、信用に値するほどの人間なんていないのよ、この世のどこにも。他人なんて信じるだけ無駄よ。四千年前に信じた人に裏切られて、あんたはまだそれがわかんないの?」
「ローラ」
 言いたいだけ言うと、ローラはそのまま踵を返した。二人は地下から来たので現在位置がよくわかっていなかったのだが、後ろの壁を見るに中庭を越えた向こうの一角のどこからしい。
「お二人が一概に悪いとは申しません」
「リチャードさん」
 いまや帝国の大宰相、しかし四千年前は一人の少年の従者でしかなかった青年は言う。
「ですが、私たちにとってあの場所は軽々しく触れてほしいところではないことはわかってください。恐らくロゼウス様はこの先しばらく、あなた方と口を利かないでしょう」
 二人はハッと顔をあげた。ゼファードはそれがどうしたという態度をとって見せるがどこか後ろめたいような様子で、ルルティスにいたっては目に見えて消沈している。
「それでは、我々はこれで失礼します」
 リチャードはエチエンヌの背を押すようにして去ろうとする。
 その背に、ゼファードが言葉を投げた。
「俺を信用させないのはそっちじゃないか!」
 リチャードとエチエンヌが瞠目し振り返る。
「いつもいつもいつも、俺に、フェザーに、誰かを重ねて見て、その誰かの話をして……! お前たちが本当にほしいのはそれなんだろう!」
 彼らは何も言わず、開きかけた唇をそのまま閉じると、静かにこの場を去った。
「ゼファード殿下……」
「行こう」
 彼らが去ってから二人が部屋を出ると、そこはやはり城内の一角だった。地下から昇って来て、隠し部屋はすでに一階だったのかそれともこれも魔術で空間が歪んでいるということなのか、扉を開けるとそこはすぐ中庭だった。
 聖堂まで行かずとも、入り口はこんな近くにあったのだ。二人が部屋を出ると、あったはずの扉がすでに壁と同化して消えている。触れてもぴくりとも動かない。
 ルルティスとゼファードは、どちらからともなく顔を見合わせた。お互いに途方に暮れた顔をしているのを見て、ますます気分が滅入る。
「どうしましたか、そんな顔をして」
 そこに、また新たな声がかけられた。