薔薇の皇帝 10

第4章 望み追い求め希う者 02

046

 中庭を望む回廊を誰かが通りかかった。
 その人物は廊下の途中で途方に暮れているルルティスとゼファードを見て声をかける。
「どうしましたか、そんな顔をして」
「ジャスパー王子」
 皇帝領のもう一人の住人だ。現皇帝の選定者として誰もがその存在を知りながら、仕事がある時以外はまったくその姿を見ないことで有名な、謎めいた少年。
ちなみにルルティスは彼の部屋にも突撃取材をかけにいくので、仕事がないからと部屋に引きこもっているわけではないらしいことも知っている。
 ロゼウスと同じ白銀の髪に真紅の瞳。昔はもっとロゼウス似の兄弟がいたと聞くが、ジャスパーも充分にロゼウスと似ている。
 皇帝の弟。
 いつも同じような黒と白を基調にした衣装を身にまとい、髪に宝石飾りをつけた少年は人形のような無表情で話しかけてくる。
「ああ、選定者の……」
 心なしかルルティスの影に隠れながらゼファードが言った。
(ちょ、なんで隠れるんです)
(苦手なんだよあの人、ロゼウス以上にいつも無表情で、人形が動いているみたいで)
 強気な態度とは裏腹に結構弱点の多いゼファードはこそこそとルルティスの背に張り付く。
「さきほど聖堂にいたらあなた方の気配を感じたのですが……」
「聖堂? ジャスパー様は聖堂にいらしたのですか?」
「ええ。この道はたまたま通りがかっただけですが、あの裏口を探っていたお二人が今ここにいるということは、見つけてしまったのですか? あの部屋を」
 ジャスパーも地下部屋の存在を知っていた。彼も四千年の昔よりロゼウスの傍にいる皇帝領の住人なのだから当然だ。
 その言葉はなおも続く。
「そして見たのですね、シェリダン=エヴェルシードの体を」
 ルルティスとゼファードがその名前に反応したのを確認し、彼は更にトドメを刺す。
「――で、お兄様に追い出され、エチエンヌあたりに酷く怒られ責められた、というところですか」
「あうううう」
 一から見ていたように的確なジャスパーの言葉に、ルルティスたちは宙に喘いだ。
 しかしその後のジャスパーの反応は、彼らの予想に反するものだった。
「気にする事はありませんよ。別に誰に怒られたからって」
「え? でも……」
「彼らはシェリダン=エヴェルシードの狂信者。あの野蛮人に心酔して盲目になっているのですから、まともな言葉が通じるなんて考えてはなりません」
 それまで無表情だった顔に薄らと笑みさえ浮かべてジャスパーは言う。白い面に一際鮮やかな瞳と唇の深紅が毒々しい。
 人を嘲る嗤いだ。
 ジャスパーの言葉に驚き、ゼファードもルルティスの背中から顔を出す。会話は依然としてルルティスの役目だが、話に興味が出て来たようだ。
「あの……ジャスパー様? あなたは私たちがシェリダン王の墓所に踏み込んだこと、怒ってないんですか?」
 狂信者。野蛮人。
 どちらも相手を見下し蔑む物言いだ。
 ジャスパーは冷めた目付きをした。しかし彼がそうするのは、ルルティスやゼファードに向けてというわけではないようだ。
「墓所? あれは墓所などではありません。ただのお兄様のコレクションルームです。そこにあれを置いてあるだけです。あの部屋が本物の墓所だとしたら、お兄様ももう少しあなた方に手加減してくださったでしょうが」
 そう言ってジャスパーは驚いているゼファードの手をとった。止める間もなく折れた指を口に含む。
「!」
 一瞬心臓が止まりそうに驚いたゼファードは、しかしそこから癒しの力が流れこんでくるのがわかって振り払うのをやめた。
 先程ロゼウスに折られてそのままだった指の骨があっという間に完治する。ゼファードの知らない方法だから、ヴァンピルとしての魔力を使っているのかもしれない。この行為自体には感謝してもいいだろう。
 ……だがいきなりは心臓に悪いので正直やめてほしい。
 ゼファードの方を癒し終えると、次はジャスパーの瞳がルルティスの方を向いた。白い喉にくっきりと刻みつけられた指の痕を丁寧に舌で舐める。
 ルルティスはカチコチに固まっていた。普段ロゼウスと比べられるからこそ目立たないが、ジャスパーは綺麗なのだ、美しいのだ。しかも表情がないからますますお人形めいていて、そこはかとなく恐ろしいのだ。近くに寄られるだけで色々な意味で心臓が止まりそうになる。
 治療を終えるとなんでもないような顔で再び彼は言った。
「よろしければ、僕がお話しましょうか? あなた方が知りたがっているシェリダン=エヴェルシードのことを」
「いいのか?」
 たまりかねたようにゼファードが声をあげた。
「だって、その……」
 けれどエチエンヌたちではない相手に聞くのが後ろめたいのか、すぐにその勢いを失って目を逸らしてしまう。
「ええ。かまいません。僕はシェリダン=エヴェルシードが大嫌いですから。あんな男、死んでくれてせいせいしています」
 これまでエチエンヌやリチャードたちが語るシェリダン像だけを聞いていた二人には意外な言葉をジャスパーは口にした。集まった二対の朱金の瞳に、冷たい眼差しを返す。
「教えましょう、シェリダン=エヴェルシードという男のこと。彼が一体何者で、ロゼウス兄様とどんな関係であったのかを」

 ◆◆◆◆◆

 その頃、エチエンヌとリチャードは府抜けていた。
「ちょっと、鬱陶しいのよあんたたち」
 レースを編んでいたローラが、何をするでもなく自分と同じ部屋でぼへーっとしている男たちに冷徹な目を向ける。魂が抜けたようにその辺に転がられては、一緒の部屋にいるだけで鬱陶しい。酸素を吐いて二酸化炭素を吸い込んでくれるだけ観葉植物の方がまだマシだ。
「だってローラ……」
「だって」
「だってじゃないわよこのいい歳した男どもが!」
 ぎろりと彼らを一瞥すると、また彼女はレース編みに戻る。時間だけは腐るほどあったので、彼女の腕前はすでに職人レベルだ。高価と言われるドレスをもともと貴族でもないローラが平然と着ていられるのは、いくら布が高くてもその後の縫製とレース作りを彼女自身の手で行っているからという理由もある。自身のドレスだけでなくロゼウスやエチエンヌたちの服もローラが縫っている。娘が生まれてからは彼女のための服をいくら作っても足りないくらいだ。
 それに比べて無趣味で細かいことをしない男たちは、いったん精神的にくるとコレなのだから鬱陶しくて仕方がない。
「そんなところでうだうだするくらいなら、直接ルルティス先生とゼファー殿下と話してきたらどうなの」
「だってローラ……何言えばいいのかわかんないんだもん」
 語尾に「だもん」とかつけるエチエンヌ、今年で四〇一八歳。
「私たちのこれも、半分は八つ当たりみたいなものだし……」
 いい歳こいて八つ当たりとかするらしいリチャード、今年で四〇三〇歳。
「だからって、何も建設的なことをしないならせめてこの部屋から出ていきなさいよ」
 二人がじめじめしているせいで部屋の湿度が上がったような気さえしてくる。
 いっそ今日が仕事ならいいのだが、あいにくと二人とも休みを入れてしまっている。普通の人間のように身体的に疲れが溜まるという事がないのだから、いっそ一年三六五日毎日でも仕事をすればいいのに。
 しばらくぼへーっとしていた二人だが、ローラのレース編みがちょうど模様一つ分終わったあたりでエチエンヌの方が口を開いた。開いた口はちなみに壁の方を向いているので二人からは見えない。
「……どんな顔をしていいかわからないんです。僕自身がどうすればいいかわからないから」
「エチエンヌ」
「僕はあの時、どうすればいいのかわからなかったから。もっと他に道があったんじゃないかって、いつも考えてしまう……。ゼイルさんみたいな人のことも、気にかかって仕方ない」
 先日再び顔を合わせたゼイルのことを彼らは思い出す。彼はもともとロゼウスへの復讐のために皇帝領に乗り込んできた人間だ。
 その愚かしい程の一途さを、彼らは同じ「従者」という立場で眺めながら虚しさを感じずにはいられない。それはゼイルに対する虚しさではなく、自分に対する虚しさだ。本当にこれで良かったのかと。
 ただひたすら主人のことしか見えず、そのために周囲を巻き込んで破滅していく人間の愚かな美学。ゼイルの姿は、彼を思い出させる。
「ユージーン候は……」
「もう、やめたら? あの方のことを話したって、何にもならないわ」
「そうだけど」
 彼らは四千年もの間、この不毛なやりとりを繰り返してきた。答の出ない問いを虚空に投げては、真実がわからないと嘆き。
「ねぇ、リチャードさんは、もしもシェリダン様が死んだ時にロゼウスがいなかったらどうしてた?」
 彼らがここにこうして留まるのは、究極的にはロゼウスがいるからだ。皇帝とその持物として不老不死を与えられたという意味でも、ロゼウスという面倒をみなければいけない生き物がいるからという意味でも。
 けれど、そうでなかったらどうしていただろう。シェリダンが亡くなった時、ロゼウスも一緒に死んでいたら。あるいは最初からロゼウスという存在が彼らと関わっていなかったら。
 リチャードが答える。
「そうですね……ロゼウス様という存在がなく、それでもシェリダン様が夭折してしまったということなら……。私は残りの人生、シェリダン様を崇める宗教でも作って一生シェリダン様を拝んでいた気がします」
 ローラとエチエンヌが思わず椅子から転げ落ちた。
 もともと変な座り方をしていたエチエンヌはともかく、普通に座っていたはずのローラの手元からも糸玉が転がり落ちて酷いことになる。
 彼らをシェリダンの狂信者と評したジャスパーの言葉は言い得て妙だ。
「リチャードさんて……」
「とことん主君依存型よね」
 双子は呆れて自分たちより年上の男を見た。見た目だけ見ると立派な青年に見えるが、それはあくまでも見た目だけである。
「二人は?」
 エチエンヌが床に目を落としながら答えた。
「……もしも今の状況の一欠片でも条件が揃ってなかったら、ロゼウスを殺して自分も死んでたかも」
 今が異常なのだ。
 彼が死んだのに、自分たちは生きている。
 そして今更自分で死を選ぶことはできない。ロゼウスが死ぬまでは。
「ルルティス先生に昔のことを聞かれて辛いのは、どうして? って言われるのが怖いから。どうしてこの道を選んだのかって」
「あの人はそういう突っ込んだことはあまり聞いてこないような気がするけど」
「そういえば」 
 ルルティスは聞かない。彼自身も、聞けば話すだろうがあまり言いたくない過去というものを持っているからだろう。
「それでも……触れられたくないんです」
 自分の臆病さから出たそれが相手に、どうしようもない拒絶感を与えてしまうとしても。
「十年前は大変だったわね。ルルティス先生やゼファー殿下と違って、フェルザード殿下は全てを知った上での確信犯だったから」
 ローラが昔、とはいえ彼らの感覚では「ついこの前」を思い返して溜息をつく。
「……あの人の他人との距離の取り方は異常だと思う」
 基本的にフェルザード=エヴェルシードの辞書に自分が間違っているという考えはない。彼はいつでも自分が世界で一番正しいと思っている。迷う事がないという意味では指導者向きの人材ではある。しかし、傍迷惑なのも確かだ。
 あの時はロゼウスが文字通り半殺しにしていた。その後、ロゼウス自身が瀕死の重傷を負わされていた。彼らが今も生きているのは単に人外だからだ。
 そう……その大量流血のやりとりの果てに、フェルザードは肉体の年齢を止め、頚木の一員として迎えられることとなったのだ。
 だが今度もそのような乱暴な対応で解決するわけにはいかない。
 フェルザードは覚悟があったから頚木として迎えた。ルルティスとゼファードには、それを求めるわけにはいかない。
 過去に囚われている。ロゼウスも、彼らも。
 頚木に引き込むということは、ルルティスたちをもその過去に引きずりこむということだ。
 だから、できない。
 これから来る未来ならまだしも、過去はそれを知らぬ者とは共有できないのだ。
 人は過去に囚われた者には前を向いて未来を見ろと言う。未来ならばこれから一緒に歩いていくことができるという。
 そして、過去から目を逸らして見ない者には、過去を見ろと言う。
 どちらも生きていく上で必要な言葉だという。だが、生きていくこと自体を目的としない者にとってそれはどういった意味を持つのだろう。
 素晴らしい過去を持っていても、今は死にたいのかもしれない。明日の幸福が確約されていても、今この瞬間、生きていたくないのかもしれない。
 例えばどういった言葉を放てば、そういった者たちを救うことができるというのだろう。
 ロゼウスは過去を、ただひたすらに過去を望んだ。
 未来などいらない。今さえも。
 望んだのは、欲しかったのは、今でも焦がれるのは過去だけだ。それが鮮血と破滅に彩られた劫火の苦しみだとしても、ただ過去だけを望んでいた。
 その思いを、わかってくれなどと他者に言えるはずがない。そして言えたその時には、言葉はそのまま別れの合図となる。
「こんなとき」
 エチエンヌがぽつりと言葉を落とす。
「シェリダン様だったらどうしたのかな」
 ローラとリチャードが顔をあげた。それぞれ、手を止めて考え始める。
 その言葉こそがまだ、彼らが過去に囚われている証だった。