047*
あの感情を何と言えばいいのだろう。
わざわざ聖堂裏手などに回らずとも、皇帝やその周囲の人々の動向に気を配れば、地下室への隠し扉の位置はわかった。
ヴァンピルにさえ気づかれないほど気配を殺し、視力の良さを活かしてその場所へと入る暗号を離れた場所から見る。
隠し地下部屋の中は地下だと言うのに薄明るく、青い光で染まっている。数々の財宝が安置されているがどれも古めかしく歴史を感じさせるデザインだ。無造作にたてかけられた硝子箱の中には、何故か人の生皮を被せられたマネキンがいる。
そして部屋の最奥には、透明な棺があった。
敷き詰められた白い薔薇に埋もれて眠る、自分とそっくりな少年を見つけた。その時の感情を、何と言葉にすればいいのだろう?
似ているとは聞いていた。彼らの自分を見る目はいつも自分を透かしてどこか遠くを見るようだった。昔を懐かしむようなその目の理由を知りたくて尋ね、「それ」の存在を知った。
震えが走った。
自分の容姿には、これまで絶対の自信を持っていた。この顔を持つ人間はこの世に二人といないと。しかしそれは、そこにあった。
白い肌も閉じられた滑らかな瞼も、少し癖のある髪も何もかもそっくりだった。これが鏡でないというのが不思議なくらいだ。
音もなく世界が崩れていく。
できるならば、今すぐこの硝子の棺を中身ごと壊してしまいたい。
『フェルザード』
そして、絶望は足音を立ててやってくる。
◆◆◆◆◆
「皇帝陛下? どうかなさいましたか?」
フェルザードが執務を終えて部屋を訪ねると、この宮殿の主は傍目にわかるほど元気がなかった。普段はポーカーフェイスのくせに、今はどんよりと背中からきのこでも生やしていそうな顔で、ロゼウスがぐったりと寝台に寝そべっている。
「どうかも何も……お前の弟がルルティスまで巻き込んで言いつけを破ってくれたんだよ……」
「はぁ。それは失礼しました」
と、礼儀上一応謝っておく。
「思ってないだろ、フェルザード」
「ええもちろん」
世界が明日滅びたって、このフェルザード=エヴェルシードが誰かに謝罪なんぞするはずもない。謝罪をするくらいなら、それをしないために謝罪相手を殺すという人間である。
彼を改心させるよりも、魔王を改心させる方がよほど簡単。フェルザードはそういう男だ。
「言いつけということは、地下の隠し部屋ですか。でもあれ、あなた方の身体の一部分がないと反応しなかったのでは?」
十年前にフェルザード自身も少々反則的な手段で扉への鍵を手に入れた。しかしあれはフェルザードだからこそできたことで、ゼファードやルルティスがそんなことをするとは思えない。
「裏口から入ったんだと。あちらの方が難易度の高い謎かけで閉じてあるはずだったのに、してやられたとハデスが悔しがっていた。だいたいの場所をゼファードが覚えていて、ルルティスが謎かけを解いたんだと」
「ははぁ……なるほど。ある意味バランスの良い組合せですからね。あの子が同年代の少年と仲良くする日が来るなんて夢にも思いませんでした」
フェルザードの弟ゼファードは、兄ほどではないがエヴェルシード内では変わり者として知られている。城に出入りしていた魔術師アドニスに幼い頃から傾倒し、ついにはエヴェルシード王族でありながら魔術師になってしまった。
帝国において魔術師の地位は高くはない。それは被差別民族《黒の末裔》を意味する。
そして黒の末裔が差別されだしたのは、エヴェルシード民族が彼らの支配に反乱を起こし、帝国を統一してからだ。そのエヴェルシード王家の末裔、言いかえれば始皇帝の末裔がかつて自分たちの追いおとした魔術師に今はなっているのだから、世界とはわからないものである。
その上ゼファードはフェルザードから譲られた王太子の座をいまだ拒否し続け世界各国を逃げ回っているのだから、ますます国内での支持基盤が弱い。年長者や歳下には受けがいいのだが、なにしろゼファードは同年代にこそ敵を作りやすい性格なのだ。強気で好戦的が基本のエヴェルシードとはいえ、かつて何人彼の学友がシアンスレイト城から泣く泣く去っていったことか。
ちなみにフェルザードにも学友はいた。しかしフェルザードは学友を泣かせたりなどはしていない。もっとも彼の学友はすなわち悪友でもあって、簡単に泣かされるくらいなら裏で三百倍返しくらいはするような連中なのだが。
「そういえばルルティスとゼファードは同じ年だったな……ってそんな話をしようと思ったんじゃないぞ、俺は」
「でしょうね。あの二人が地下を覗いたという話でしたか。しかしあそこには確か、番人がいませんでしたか? 私は殴り倒しましたけど」
十年前にフェルザードが隠し部屋に入り込んだ時の騒ぎは酷かった。それはもう。隠す気というものの一切ないこの男は、リチャードとエチエンヌとローラを殴り倒してその肉体の一部として髪を奪い、入った先で顔を合わせた《番人》と呼ばれる黒髪の少年をも殴り倒して棺の中を覗いたのだった。もはやそこまで過激な行動に出られては止める止めないの域を越えている。
その後ロゼウスに半殺しにされても、まったく懲りた様子は見せなかった。むしろ殴り倒したローラたちに、「本当は手首ごと切り落とさなければいけないかと思っていましたが、髪で済んで良かったです」とのたもうた強者だ。
「…………そうだな、お前に比べれば、あの二人は自分と大人しかったな…………」
誰も殴り倒していないし、無理矢理髪を引っ掴んで切り取ってもいないし、謎かけはあくまでも自力で解いた。
地下室の番人、ハデスをその時部屋の中に呼んでいたのはロゼウス自身だ。むしろロゼウスたちはハデスから隠し部屋に誰かが入ったという知らせを聞いたのだ。
フェルザードの行動に比べれば、誰が何をやっても大人しく思えてしまいそうで少しばかり恐ろしい。むしろフェルザードと比べてはいけないのではないかと、頭の中でどこかが警鐘を鳴らす。彼に比べれば大量快楽猟奇殺人犯も「可愛いものね」で終わる。文の頭に「フェルザードと比べれば」とつければそれで全てが他愛のないことに思える。
「それに私と違って、ゼファーもランシェットも、中に《あれ》があるなんてことは知らなかったのでは?」
「……」
フェルザードの言葉に、ロゼウスが押し黙った。
「陛下」
「……わかっている。ゼファードたちは悪くない。悪いのはあれを隠していた私だ」
「なんでもかんでも自分が悪いと言う言葉で片付けようとするのも、思考放棄と同義ですよ」
フェルザードはロゼウスが四肢を投げ出す寝台の端に腰掛ける。
「ゼファードはある意味私と同じです。あの子は薄々と気づいている。あなた方が自分を素通りして、本当は誰を見ているのかに。だから、調べなければ気が済まないのですよ。はっきりとさせたくて仕方ないんです」
――俺を信用させないのはそっちじゃないか!
「はっきりしたらしたで、傷つくのも自分なのにね」
弟の真っ直ぐさを、むしろ哀れむようにやわらかに微笑んで、フェルザードはロゼウスの唇に口付けを落とす。羽根が触れるかのように軽い口付け。
「フェザー」
そして彼は懐からナイフを取り出す。刃物を持ち歩くのは貴人の嗜みであり、エヴェルシードの嗜みだ。
「フェルザード」
何をする気かまでわからずとも、不吉な予感にその手からナイフを奪おうとするロゼウスをあっさりかわして、フェルザードはそれで自分の肌を斬る。
白い首に赤い筋が走り、紅玉の連なりが肌を飾った。
「さ、陛下」
眩しい程の笑顔で、彼はロゼウスを促す。広がる血の匂いに、ロゼウスはくらりと眩暈を覚えた。
「お前……」
一歩間違えれば動脈を斬って大出血する場所だ。殺害の達人は我が身を傷つける時もその選択を間違えない。
しかしフェルザードがしたのは間違いなく自殺行為。
ロゼウスの腕を引き、自分の胸に引き倒すようにする。身体を起こそうとすれば、どうしても傷ついた首が目に入らざるを得ないような位置に。
吸血鬼と呼ばれるヴァンピルだが、血を得やすい首元の動脈は普段狙わない。血を得るとは言っても、相手を殺す気で吸血する事は稀だからだ。
「い、やだ。その場所は……」
禁断症状にがくがくと身体を震わせながら離れようとするロゼウスを、フェルザードは腕を掴んで無理矢理引きとめている。
「そろそろ血液が足りなくなって来る頃でしょう? それとも他の方からもらいますか? 今回の詫びに寄越せとでも言えば、ランシェットあたりは喜んで差し出すでしょうね」
びくん、とロゼウスの身体が震える。
ヴァンピルにとって人の血は麻薬だ。一度その味を知ってしまえば、やめることはできない。それがなければ身体がまともに動かなくなり、飢えれば自我を失くして暴走する魔物と化す。
死にかけたヴァンピルの傍に、生き物をおいてはならない。彼らは命を繋ぐために、我を失って周囲の生き物に襲いかかるから。
「う、うう……」
「こんな間近で血の匂いがするのに、自分を抑えこむのは辛いでしょう? 陛下……」
両腕で自分の身体を抱きしめるロゼウスの耳元に、フェルザードが囁きかける。更にシャツを肌蹴、傷口を露わにした。
「あ……も、やめ……」
エヴェルシードの白い肌には、血の赤がよく映える。
フェルザードは流れる血の一滴を指先にとると、蹲るロゼウスの唇に押し付けた。反射的に開いた唇が、伸びた舌がその赤を舐めとる。
「ん、んん……」
離れたいと願う意志とは裏腹に、舌はその甘い血がついた指先を執拗にしゃぶる。じんわりと目元に涙さえ浮かべたロゼウスを酷薄な表情で見下ろしながら、フェルザードは更に手を伸ばす。
小柄なロゼウスの華奢な肩を引き掴んで、顔を無理矢理自分の首元へ押しつけるようにした。噎せ返る血の匂いについに負け、ロゼウスが赤い舌を傷口に伸ばす。
「は……はぁ……」
ざらついた舌が傷口を撫でるたびにぴりぴりとした痛みが走る。それすらも今のフェルザードを恍惚とさせる道具にすぎない。
その程度の痛みでは、本当に欲しいものは手に入らない。
「馬鹿な……ことを、フェルザード。一歩間違えれば、俺はお前を殺してしまう……」
ようやく傷口から離れたロゼウスが両手で顔を覆う。満たされた渇きとは裏腹に、心が痛い。
「私はあなたになら、殺されてもいい」
「俺は殺したくないんだ」
「あなたが私を殺して、そうして永遠に嘆いてくれるならば、私はそれでもかまわない」
そう、今もまだ、あなたがシェリダン=エヴェルシードを殺したことを嘆いているように。
◆◆◆◆◆
「そういえば」
ふと、何かを思いだしたらしいフェルザードが顔を上げながら尋ねた。
彼の両手はロゼウスの服にかけられたままだ。
「先日ゼイルの事件の時に何かお怪我をされたと聞いたのですが、結局どこを怪我したのです?」
されるがままに寝台の上に転がっていたロゼウスは、不意打ちに凍りつく。
「ど、どうでもいいだろう。もう治ったんだし」
「それは確かにローゼンティア人の回復力の強さは私も知っていますが、一応負担をかけないようにという心遣いもたまにはしなくてはと」
これからの行為でその部位に負担をかけないようにするのはほぼ無理である。できないこともないが、人はそれを生殺しと言う。
「それに、なんで今更そんなこと……」
ゼイルの事件の時に随分痛めつけられたとはいえ、それはかなり前のことだ。
「事が事だけに、怪我をされたという部分は寝所に関わる部位だと思ったのですが……見たところそういう様子はありませんね」
ロゼウスは今この瞬間だけ、凄腕魔術師に心からの感謝を送った。ここ十年間、ジャスパーを除けば誰よりもロゼウスに触れている男がわからないというのなら、その場所は本当に完璧に元通りになったに違いない。
あの事件があってから、誰かとこうして肌を重ねるのはこれが初めてなのだ。だからこそフェルザードも尋ねたのだろうが、ロゼウスとしてはむしろ思い出させないでほしい記憶である。
まじまじとロゼウスの身体を見つめていたフェルザードがふいに目を細めると、つつ…とロゼウスのものの上で指を滑らせる。
「ん、」
むず痒いような繊細な刺激に声があがる。
「あなたはいつも……いつだって綺麗だ。例え死に瀕するほどの傷を負ったとしても、翌朝には全て消えている」
言いながらフェルザードはロゼウスのものをやわやわと手でしごき始める。先程言った通りに負担をかけない心遣いを今日はするつもりがあるのか、いつも強引に動きを封じる腕がどこか優しい。
「でもそれが少し忌々しい」
「ふぁ……や、フェザー……もっと……」
一方のロゼウスはそんな優しい刺激では物足りないと、元が色白なだけに赤く染まりやすい頬を染めて、はしたなくもねだる。
「無理はいけませんよ」
くすりと笑ったフェルザードは、部屋の隅に置かれたチェストから瓶をとってくる。中身の香油が強く香ったと思った瞬間、ロゼウスは中に触れてくる指を感じた。
「あ……」
花の香りのする油で滑りよくなった指を、フェルザードが差し入れている。慣れた身体にほとんど抵抗もなく入った一本を動かして、快感を引き出そうとする。
「ん、やぁ」
ロゼウスは両腕をフェルザードの背中に回し、すがるようにきつく抱きついた。フェルザードの方はそんなロゼウスを片腕で支えたまま、残りの腕では中をほぐし続ける。
いつの間にか指は二本に増え、三本に増え、ぐちゅぐちゅと卑猥な音をさせながら、細い身体をいいように蹂躙している。香油の花の香りが少々きついほどに匂い立ち、薄まった桃色の液体が敷布を汚した。
フェルザードの肩口に瞼を押しつけるようにして表情を見せないロゼウスの口から、ひっきりなしに荒い呼吸が零れる。それを十分聞いた上で、フェルザードは言った。
「今日はここまでにしておきますか」
「え!」
思わず驚いて顔を上げたロゼウスに、あっさりと中から指を引き抜いたフェルザードが続ける。
「無理はいけないと言ったでしょう」
言いながら、それまでロゼウスの中に入れていた自分の指を舐める姿は淫靡だ。
内壁をまさぐられ、いいところを探られ、さんざんかき立てられた内部の疼きが当然収まるはずもない。
「そんな……こんなの……」
いつものこの男の手だとわかっているのに、ロゼウスは毎度毎度学習能力もなく引っかかってしまう。
悪魔もかくやと言わんばかりに綺麗に笑うフェルザードの胸にすがりついて、小さな声で「おねだり」をする。
「駄目ですよ、そんなんじゃ」
「で、でも」
顔を真っ赤に染めて涙目で懇願するロゼウスの耳元で、フェルザードは囁いた。
「今だけ――今この瞬間だけでも本気で私のことだけを考えてくださらなければ、私もあなたを抱こうとは思わない」
ずるい条件だ。
「……お前のことは好きだよ、フェザー」
「ええ、そうでしょうね。ですが誰と誰と誰の次になんです?」
ロゼウスがかの人物を自分の中の一番として置いているように、フェルザードも自分の中でロゼウスを一番として置いている。
それに応えなければ、これ以上は触れ合わないと。
「フェザー!」
「仕方ありませんね」
ようやくフェルザードが承諾の言葉を吐いた時には、ロゼウスは嬉しさよりむしろ安堵の方がまさる具合だった。
こんなことをしても、お互い虚しさが増すだけだ。それでも呪縛から離れられない自分自身をこの時だけは哀れだと思いながら、フェルザードは慣れ切った言葉を、本心から囁く。
「愛しています、陛下……」
口づけと共に、ロゼウスは抱きあげられる。浮かせた身体の下に、フェルザードが自らの足を滑り込ませた。
囁きにロゼウスは答えない。
それぞれの傷痕を抱えたまま、静かに夜が更けていく。