薔薇の皇帝 10

048

 皇帝領の中庭は、形こそ庭の体裁を保っているが実はほとんど見るようなところはない。城の外に広がる花園と同じく、一年中赤い薔薇が咲き乱れているからだ。
 皇帝領の景色は、当代の皇帝の内面を反映したものだという。皇帝領の大地に赤い薔薇が咲く。だからかの人の名は薔薇皇帝。そして雪が降る。真っ白で清らな重さも温度もない雪がしんしんと降る。降るだけであり、積もりはしない。
 今生きている人間は誰も知らぬことではあるが、先代大地皇帝の時代は、皇帝領は白亜の宮殿がそびえ立ち虹色の花畑が広がる場所だったらしい。その名の通り大地の属性を持つ美しい女皇帝であったという。彼女の時代は大陸全土に恵みが行きわたり、滅多なことでは不作が起きなかった。彼女が崩御する数年前からシルヴァーニの飢饉が始まったくらいだ。
 今現在ロゼウス帝の時代は、皇帝領の景色は対照的に暗い。常に薄曇灰色の空から雪がはらはらと降りかかるのは漆黒の宮殿、その足元を埋め尽くすは、毒々しいほどに深い紅の薔薇の花。
 とはいえこれらの景色に関しては、ロゼウス帝の故国を知る者はそう問題視していない。彼の故郷ローゼンティア王国は北大陸の東端にあり、雪降り積もる薔薇の国であるからだ。ローゼンティア唯一の城は漆黒の素材でできており、銀の薔薇が絡みついているという。そして国中で薔薇の栽培を行っているともあれば、この景色は彼の故郷をそのまま反映したものとして受け止められている。
 しかし人の目にはやはり、この宮殿の景色はどうにも薄暗い。
 そんな薄暗さを今は好むように、薔薇の咲き乱れる中庭に二人の少年がいた。
「……おい、ルルティス。そろそろ落ち込むのやめて、元気出せよ」
「やめろと言われてはいそうですかと元気になれたら慰めなんて言葉はいらないと思うんです……」
 ゼファードの言葉に、膝を抱えたままのルルティスはこれだけは変わらない口の達者さで応えた。
「皇帝陛下に嫌われてしまいました……? どうしたらいいんでしょう?」
「どうしたもこうしたもないってか、別にいいじゃんかあんな変態に嫌われたって」
「ゼファード殿下はそれでいいのかもしれませんけど、私は嫌なんです~」
 え~んえんと泣き真似をするルルティス。ここで本当に泣くような可愛げなどあるはずもない。
「あの棺の中の人……」
 膝を抱えた座り方のまま、隣の植え込みに咲く薔薇の花びらを指先で弄りながらルルティスは口を開く。先程からずっと何事か考えていたことを、ようやく言葉で口にする気になったようだ。
「あの人が、シェリダン=エヴェルシード王なんでしょうか」
「……たぶんな」
 布を広げて地面に座り、魔術道具の手入れをしていたゼファードが一瞬目だけを上げて頷いた。
「シェリダン王のことは、これがあるから俺も随分調べた。ほとんど資料の残ってない王様だけど、さすがに俺もエヴェルシード王家の御先祖様のことだからさ」
 自分自身の先祖だとはゼファードは言わなかった。公式の記録では、十七歳で死亡したシェリダン王に子どもはいないことになっている。
 表向きには。
 子孫にフェルザードのようなシェリダンそっくりの人間がいることは不自然なのだが、四千年も経ってからよく似た人物が生まれるという事態もすでに不自然……というより偶然の産物としか考えられないもので、誰もその辺りは気にしていない。
「シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。通称四カ月王。とはいえこの名が呼ばれたのは、彼の死後数十年くらいまでらしいな。シェリダン王の妹カミラ女王は、エヴェルシード最初にして最後と呼ばれる大女傑王だ。その妹女王のついでって形で一応歴史に名前が残ってる。悪名だけどな」
「うわぁ……殿下、その資料一度見せてもらえませんかね」
 ゼファードの話を聞きながら、ルルティスは段々頬が紅潮してきた。歴史学者としての本能が、ほとんど知られていない史実という美味しそうな話に逆らえなかったらしい。先程までの落ち込みを忘れた様子でゼファードの話に聞き入る。
「お前がエヴェルシードに来たら、城の書庫を開けてやってもいいけど? まぁとりあえず今は話の続きな。えーと、どこまで行ったっけ? そうだ、シェリダン王が悪名高い王だったってところまでな」
「そういえば、陛下たちもシェリダン王が良い王だったとは言わなかったです」
 ルルティスは以前、ローラたちのかつての主君であるシェリダン=エヴェルシードについて軽く尋ねたことである。誰もが懐かしい顔で溢れる愛しさを隠しもせずに語ったかの王は、しかし決して良い王ではなかったという。
「うーん、良い王じゃないどころか、残ってる資料からだけ判断すれば、はっきり言って悪人だな」
 理由なき粛清や自分に反対する者を投獄、ローゼンティアに戦争を仕掛け大量虐殺など、陰惨な話には枚挙に暇がない。
「でも不自然な点も幾つかある。シェリダン王の異母妹にあたるカミラ女王なんだけど、シェリダン王が死ぬまではそれほどぱっとした存在じゃなかったし、彼女が死んでからそれと対比される形でシェリダン王の悪行が記されるようになった」
「つまり……カミラ女王の治世を引き立てるために、悪役にされたってことですか?」
「そうかもしれない、というだけだ。俺が資料を読んだ限りでは。でも事件の数々をロゼウスたちに尋ねると、やったのは真実だって言うんだよな。だから、粛清やら大量虐殺やらを行ったのは事実なんだと思う。カミラ女王の治世ではそれが多少誇張されたかもしれないけど」
 四か月しか国王を務めなかったという、十七歳で亡くなった少年。
 父王を殺して玉座を手にした簒奪の王。だがそれを一時的にとはいえ、黙らせる程度には国王としての力量があった。
「シェリダン王の父王の時代はどうだったんですか? ええと、確か……」
 歴史学者と言えど、ルルティスの専門は帝国全土の歴史とバロック大陸のチェスアトールが中心だ。エヴェルシードの詳しい王族史まではわからない。
「シェリダン王とカミラ女王の父王は、ジョナス王だ。暗君と呼ばれるシェリダン王と、大女傑王の二人の父親だけど、この人は評判が悪いな」
「そんなに悪いんですか」
「ああ、悪い。この悪さがシェリダン王の性格を決めた一因と言っても過言じゃないだろう」
 ゼファードは眉根に皺を寄せて話し始める。
「最初は普通の王だったらしいけど、ある美女に執着して狂い始め、とんでもない悪行の限りをし尽くしたんだと」
「傾国の美女ですか、ありがちな話ですね」
「おう、ありがちもありがち。その美女ってのが、シェリダン王の母親だ。もとは街娘だったんだが、国王に見初められて無理矢理城に連れてかれた。その時に抵抗した両親が家ごと焼き殺された」
「うわ……」
 確かによくある話だが、よく話だからといってその悲惨さが軽減されるわけではない。
 国王に見初められた。それは普通なら名誉なのだろうが、それを喜ばない人間も世の中にはいるのだ。それまで家族と幸せに生きてきたのなら尚更。
「ちなみに街娘だった母親のその後は歴史には残ってない。でもろくな状態ではなかったんだろうな。シェリダン王の功績の一つで、後にカミラ女王が完成させた法律の中に、強姦を厳しく取り締まる法がある。国王でさえも、この法だけは破ることができないんだってさ」
 弱肉強食が基本のエヴェルシードでも、限度はあるのだ。強いことは良い事だ。だが強ければ何でもやっていいというわけではない。そして弱いことが悪いわけでもない。
「それにしてもゼファード殿下、詳しいですね」
 いくら先祖の歴史とは言え、エヴェルシードは建国七千年以上にも及ぶ大国だ。その中の一部の王の歴史を、ここまで詳しく言える子孫もそうはいない。ルルティスの褒め言葉に、しかしゼファードは口元をへの字に曲げた。
「……どうしたんです?」
「嬉しくねーよ。だってこれ全部、ロゼウスたちがごちゃごちゃ言ったのが発端だぜ?」
 目元を手で覆う。
 彼らは自分を通してどこか遠くを……自分の知らない誰かを見ている。ゼファードには昔からそう思えてならなかった。
 硝子の棺の中に横たわる昔の王。まだ少年と言っていい年頃の。
 造作はフェルザードによく似ていた。そして髪の色はゼファードと同じ。
 ロゼウスはカミラ女王が好きだったとも言っていた。今のエヴェルシード王家は彼女の血を引く子孫の一族だ。
 好きだった人が死んでしまい、取り残される辛さなどゼファードにはわからない。彼にわかるのは、自分を誰かと重ねられる辛さだけだ。
 ――大きくなったら私のところへおいで。
 幼い頃、差し伸べられた白い手。でもお前が掴みたかったのは、この俺の手じゃないんだろう?
 お前が欲しいのは、俺ではない。シェリダン=エヴェルシードなんだろう。
 所詮身代りでしかないとわかっているから、ゼファードはできる限り、皇帝領にもロゼウスにも近付きたくはない。
 ――僕と一緒に旅でもする?
 アドニスの手をとり、逃げだした。皇帝から、国王の座から。
「そういや、アドニスは昨日からどこにいるんだ?」
 そこでゼファードは大事な連れの存在を今まで忘れ去っていたことに今更気付いた。
「あ、そういえば昨夜から見かけていませんね」
 もっと言うなら、ロゼウスと話に行ったあの姿を最後に見かけていない。昨日はそのままルルティスと話しこんで地下部屋を探り、ジャスパーからシェリダン王の話を聞かされたところで力尽きて寝てしまった。
「あいつ、皇帝領に知り合いもいないはずなんだけど大丈夫だったのかな?」
「大人でしたし、まぁその辺は大丈夫なんじゃないですか?」
 野ざらしというわけでもないのだし、建物の中でいろいろ聞ける人もそこら中にいる。一晩の寝床くらいアドニスは自力でなんとかしただろう。
「そうだな。ま、いっか」
 ゼファードはそれで納得した。自分たちのことでいっぱいいっぱいの少年はいい歳した大人の面倒までいちいち気にしてはいられない。
 魔道具の手入れを終えて伸びをするゼファードに、再び膝を抱え込んだルルティスが聞くともなしに尋ねる。
「……一体どちらの姿が本当なんでしょうね。シェリダン=エヴェルシード王の」
 暴君として伝えられる史実の中の姿、ローラやエチエンヌに今でも慕われる姿。
 ジャスパーから聞かされた話もまた興味深いものであった。ロゼウスをめぐって争ったという彼の視点はシェリダンに好意を持たざる者として公平で冷静だ。その姿は史実に伝えられる暴君に近い。
 けれどシェリダン=エヴェルシードが本当に慈悲の欠片もないただの暴君であったなら、いまだ彼を慕うリチャードたちの存在は……なんなのだろう。
「どちらも本当の姿、なんじゃないか。そしてどちらにも嘘が混じってる。真実なんてのはそんなもんだ。簡単に取り出してこれがはいそうですなんて言えるようなもんじゃない」
「それはわかってますけど」
 ルルティスは拗ねるように唇を尖らせる。
「後から生まれてくるのって不利ですよ。どうやったって、あの方たちと同じものを僕がこの目にできることはないんですから」
 ロゼウスたちと同じ時代に生きられなかった自分自身が悔しい。
「ルルティス、でもそれじゃあ……」
 ゼファードが何か言いかけたが、最後まで口にされないまま会話は途切れた。
「そんなに知りたいのか?」
「ロゼウス」
「皇帝陛下!」
 薔薇の茂みを音もなくかきわけ、悠然と現れたのはこの城の主だった。今日も変わらぬ美貌の皇帝は、その顔に一切の色も表情も浮かべずに二人を見つめてくる。
 昨日指の骨を折られたゼファードは心持ち構えをとり、ルルティスは皇帝に近づき切らない距離で立ち止まった。
 二人を前にして、ロゼウスは小さく溜息をつく。
「ゼファード、指は?」
「……ジャスパー王子に治してもらった。ルルティスの首もだ」
 ロゼウスはゼファードの指とルルティスの首元を交互に見遣ると、小さくなるほど、と頷いた。
 謝るようなことはない。そんなことはしていない。
 ロゼウスも、ゼファードとルルティスも。
 悪いことをしたわけではない。彼らにとって当然のことをしただけ。
 だから、どちらも謝らない。
「そうだな、あれがいたのだった。お前たち、ジャスパーからシェリダンのことを聞いたんだろう」
 長ったらしい前置きは無駄とばかりに、昨日の険悪さなど微塵も見せない様子でロゼウスが率直に尋ねてくる。
 もともとが氷の彫像のように整った顔立ちだけに、無表情で話しかけられると心臓が凍えそうになる。
「そ……そうだよ! お前がいつも隠したがるから! 何か文句あるのか?!」
 ロゼウスに敵対心とも、反発心とも言えないものを持っているゼファードは開き直ることにしたようだ。
「皇帝陛下」
「ルルティス、お前もシェリダンのことを知りたいのか」
「はい。あなたの《歴史》を記録するという私の目的のために。そしてあなたのお傍にいたい私自身のために。あなたという人物の根底に、その方が関わっているのでしょう?」
 逸らさずに真っ直ぐ見つめてくる朱金の瞳に、ロゼウスは再びの溜息で応えた。
 言って聞くような性格ではない。そんなことはわかっている。
 踏み込んでほしくないと言うのならば、最初から彼を皇帝領に入れなければよかっただけだ。
 ルルティスがこの場所にいることを許したその時点で、ロゼウスの負け。
「後悔する羽目になるぞ」
「かまいません」
「今まで散々思わせぶりなこと言われて焦らされてきたんだ、今更後悔なんかするかよ!」
 威勢の良い少年二人の答に、皇帝は困ったように微笑んだ。そういえば、とルルティスは思い出す。
 私はこの人の、本当に笑った顔をあまり見たことがないんだ。
「私は――」
 何事か言いかけたロゼウスの唇がふいに引き結ばれる。柔らかかった表情が急に険しくなり、虚空を睨んだ。
「ハデス?」
 怪訝な顔でロゼウスが見上げたその先から、空間にひび割れが入るようにして暗黒が覗く。その中から一人の少年が落とし出された。
「ロゼウス! 動いたぞ!」
 黒い髪に黒い瞳。そして黒い衣装に杖。黒の末裔の魔術師。
「悪い、ルルティス、ゼファード。話は後だ」
「おい! いきなりどうしたんだよ?!」
「ゼイルが――」
 出された名前に、ゼファードはきょとんとした。彼はゼイルを知らない。しかしルルティスは思わずロゼウスに詰め寄った。
「ゼイルさんがどうかしたんですか?」
 ロゼウスは言葉で答えず、目を閉じて首を横に振った。息を呑んだルルティスに向けて手を差し伸べる。
「行こう。彼の追い求めたものの結末を見届けに」

 ◆◆◆◆◆

「完成した……」
 やつれた顔を上げ、ゼイルは歓喜を口にした。
「ついに……」
 長い道のりだった。それは一人の人間が一つの学問の頂点を極めるまでには短い時間だったかもしれない。しかしゼイルと言う人間が主君を失ってから、心の穴を埋められずにきた時間としては、途方もなく長かった。
 禁書を盗み人を殺し、あらゆる学問の成果を全て詰め込んだ。墓を暴きできそこないの血肉を量産し、財を注ぎこみ部屋を血で染めようやく完成した。
「セィシズ様……」
 隈ができた目元に、ゼイルは涙を浮かべる。金髪はくすみ、褐色の肌は荒れきっていた。げっそりとやつれた顔立ちの中で、主君と同じ青い瞳だけが闇夜の獣のように爛々と輝いている。
 魔法陣の中で、その物体が動いた。白い肌に水色の髪、開かれた瞳は青く、ゼイルと視線が合うとにっこりと笑った。
「セィシズ様」
 よく笑う人だった。ゼイルの記憶にはセィシズという人物はそう在る。だからこれにもそう記録した。
 彼の好きなもの、嫌いなもの。どんな風に笑って、どんな風に怒るのか。
 ゼイルは手を伸ばした。その肌に触れたかった。生きて、温かく脈打つ身体を持つセィシズに。
 しかしその瞬間、《事》は起きた。
 「セィシズ」の手の届く位置に、彼がいつも身につけていた飾り刀があった。カウナードの民族衣装の腰につけるもので、飾りだが実用品にもなる。
「――」
 熱の走った腹部にゼイルが手を当てると、赤く粘り気のある液体が手についた。錆の匂いが広がる。
飾り刀が彼の腹を貫いていた。
「セィシ、ズ、様……」
 ゼイルは主君の名を呼びながら、その場に崩れ落ちた。