薔薇の皇帝 10

049

「みを、守る……」
 それは彼の姿をした、ただの人形だった。
「みを……テキ……だれから?」
 人間としては不自然な動きでくるんと首を回し、それは首を傾げたようだった。真ん丸く開かれた瞳には、目の前の光景は何も映っていないかのようだ。
 セィシズの姿、セィシズの声、温度を備えた肉体には血が通い、柔らかく暖かい。
 だがその身体には、魂が入っていない。
 所詮は形だけの、紛い物で作り物の命――。
 ゼイルは身を折って床に倒れながら、絶望的な気分でその言葉を聞く。
「敵……? 私が……?」
 確かにゼイルは自分が新たに作り出すセィシズに、最低限身を守るよう知識を植え込んだ。元のセィシズを無理に越えるようなことはさせず、けれどまったくの無抵抗とならないように。
 主君を作りだそうという最初の考えは、とにかく後悔から生まれた。あの時ああしなければ、あんな判断をせねば、こうはならなかったはずだという後悔。
 だからこそゼイルは、自分がこうだったら良かったのにと思った全てを、新しい「セィシズ」の中に詰め込んだ。
 欲しかったのだ。
 皇帝に惹かれない、ずっとゼイルの傍にいてくれる「セィシズ」が。
 その結果がこれだ。
「みをまも……み……?」
 血塗れの飾り刀を握り締め首を傾げる、歪な笑顔の人形。ゼイルはセィシズを、いつも優しい笑顔を浮かべている人だと記憶していた。
でも欲しかったのはこんな笑顔じゃない。
 浅ましい自分の欲望を形として目の前に突きつけられてようやく気づく。
「私は、なんて……」
 なんて馬鹿なことをしたのだ。
 人が生命を造り出す、神をも超えようという不遜で高慢な行動をとった。それだけならば例えどれほど愚かでも自分を赦せただろう。しかし、ゼイルにとって問題なのはそこではない。
 欲しかったのだ。
 皇帝に惹かれない、ずっとゼイルの傍にいてくれる「セィシズ」が。
 けれどそれは、「本物のセィシズ」を否定することだ。ゼイルがたった一人忠誠を誓った彼自身を否定してしまうことではないか。
 取り返しのつかない今この瞬間になってようやく気付いた。
 神への反逆よりなお重い罪。それは自分自身の主を否定したこと。
「あが……」
 血が、流れだす。あの「セィシズ」の知能から考えれば偶然なのだろうが、飾り刀は急所をかすっていた。ただでさえ連日の研究と実験で体力の衰えていたゼイルの身体では、この傷には耐えられまい。
 これが報いなのか。
 セィシズを取り戻したい。一目でいいから、会いたい。その願いが叶わないまま、ゼイル自身の命が今ここで尽きようとしている。
 禁断の実験をするために、人里離れた場所にこの研究所を建てたのも自分だ。何もかも自業自得。
「セィシズ様……」
 それでも手を伸ばす。セィシズの姿をしたそれに。これは紛い物。ただの幻だ。わかっている、それでも。
「セィシズ様……!」
 血だまりが広がってゆく。宙をかいた手は力なくその中に落ちる。景色が滲む。涙は頬を滑り、血だまりに溶けた。
 ただ会いたかった。
 一目でも再びその姿を見たかった。あの笑顔を見たかった。
 最初は本当にただそれだけだったのに、一体どこから間違えたのか……。
 セィシズを蘇らせようとするのではなく、造り出そうとしたその時から己の欲が混じって望みを歪めてしまった。
 愚かなことだ。
 蘇らせるのではなく新たに造り出すのでは、本当に取り戻したことにはならない。一から全て別の物で構成されているのなら、それは明らかに別物だ。
 造れると思った、それが彼の傲慢の罪。いつから手段はそのまま目的となってしまったのか。だからかつての主の性質に手を加え、自分の思い通りにしようとした。そしてゼイル自身が、誰よりも求めたはずのセィシズを歪めてしまった。
 復讐を願っていた時は紛れもなくセィシズのために行動していたはずなのに、いざ彼を取り戻そうとしたのは、自分のためだった。自分のためでしかなかった。
 主のためではなく。
 自分の欲のため。
 その結果があれだ。
「セィシズ様……」
 声はかすれ、目が眩む。
 閉じかけた視界の中で必死に手を伸ばす瀕死のゼイルを、「セィシズ」は目に止めた。
 よく知らない人についていってはいけません。そんな子どもに言い聞かせるのと同じ程度の言葉、考えを基準に、「セィシズ」はゼイルを敵だと判断する。彼にとって、ゼイルはよく知らない人だから「敵」なのだ。
 ゼイルにとっては当たり前のことでも、まったく違う生き方をした人間、ましてや生まれたばかりで中途半端な知識しか与えられていないそれからしてみれば、当たり前ではないことがある。いや、むしろその方が多い。
 だから「セィシズ」はゼイルを知らない。
 ゼイル自身にとってはあまりにも当たり前すぎて、教えなかったことの一つ。それが彼自身のこと。
 先程刺した人間にまだ息があるのを見て、「セィシズ」は飾り刀を構えなおした。ゼイルの頭上に掲げる。
「だめだよ」
 その手を、誰かが上から優しく抑えた。そして言葉自体が力を持ち、「セィシズ」を縛る。
 霞む視界でゼイルはその人物を見上げ、呼んだ。
「皇帝陛下……」

 ◆◆◆◆◆

 ロゼウスやルルティスたちが駆けつけた時、そこはすでにまともな空間ではなかった。
「ひっ」
 一歩足を踏み入れたエチエンヌが短い悲鳴をあげる。
 部屋の中は真っ赤で、天井まで血に染まっている。錆のような血の匂いだけではなく、肉が腐ったような臭いが酷い。部屋の隅には、ぶにょぶにょとした白い「何か」が大量に積まれている。赤黒い臓物のできそこないに蠅がたかっていた。
 その建物には六つほど小さな部屋がある。山奥の木造だった。素朴な見た目を裏切り、中は狂気の実験室と化していた。
 六つの部屋を、ロゼウスたちは片っ端から開けて回る。一つ目の部屋にはチェスアトールの学院や学者会議の現場から盗まれた書物や他にも様々な場所に封印されていたはずの禁書が机にうずたかく積み上げられていた。ほとんど使っていないような寝室には古びた写し絵が飾られ、残りの部屋は全て実験に関係あるものが置かれていた。
 一番奥の一番広い部屋にゼイルはいた。「それ」と共に。
 ゼイルにトドメを刺そうとしていたそれをロゼウスは止める。皇帝の純白の衣装は、この血濡れの空間ですぐさま端から赤く染まっていった。
 けれど、今目の前に倒れているゼイルほどではない。小柄ではない彼の身体を覆うほどの血だまりができている。褐色の肌さえ今は血の気を失って僅かに白い。
 ロゼウスが皇帝として手を下すまでもなく、ゼイルは自らの罪の結果に裁かれようとしている。
「だれ?」
 くるくるとした目で幼児のように拙い口調で尋ねてくるそれに、ロゼウスは名乗った。
「私はロゼウス=ローゼンティア。この世界の皇帝」
「こうていへいか。すきになっちゃいけないひと」
 それの発した一言に、ロゼウスは目を瞠る。
 それは一種の狂気と言えるほどに無垢で歪な笑顔を浮かべ、――「セィシズ」はロゼウスを見上げてくる。
 足元では後悔の念に苛まれたゼイルが倒れている。
「ゼイル」
「皇帝陛下……」
 すでに見えぬ目で皇帝を見上げ、ゼイルは苦く笑う。
「お笑いに……なればいいでしょう……これが私の罪……私への、罰……」
 そう、罰だ。
 セィシズの姿を歪めたから、歪めたそのものに殺される。
 こんなに見事な終わり方はそうないだろうと、彼は笑う。涙を流しながら。
「ゼイル」
 ロゼウスは手を伸ばした。
 白い、白い手だ。まさしく雪のように白い手。この世のどんな穢れも呑みこんで消してしまうような、狂気の純白。
 これもまた狂気。それでも、人はその白に縋らずにいられない。
 ロゼウスはゼイルの目元を覆い、その瞼を閉じさせる。
「お前の本当の望みは何だ? お前は何が欲しかった?」
 主君を失い、復讐に命を燃やし、主君を取り戻すために魔術と錬金術に手を染め、そのために人を殺し。
 そうやって罪を犯しながら彷徨い歩いた彼の、本当の望みは何。
「セィシズ様……セィシズ様に……」
 うわ言のように呟くゼイルの呼吸がもうほとんどない。
 血塗られた部屋の入口にルルティスもエチエンヌもハデスも立ち、その「瞬間」を静かに見守っている。
「ゼイル……お前は本当は、セィシズの傍にいたかったんだろう。ずっと、ただずっと、それだけが望みだったんだろう」
 彼のいないこの十年世界を彷徨いながら、それだけが本当の望みだった。
「わたし、は……」
「ほら、お前の望みはもうすぐそこだ。――これ以上、セィシズを待たせてやるな」
 ロゼウスは指をさす。ゼイルはその様がまるで見えているかのように僅かに首をかしげて反応する。
 血は流れきってすでに止まっている。呼吸が、心音が、絶える。
「お前はセィシズの部下なのだろう?」

 ああ、そうだ。私はセィシズ様の部下、あの方のたった一人の従者。他にどんなに彼に仕える人間がいようと、本当の意味で私以上にあの方を知る者などいはしない。
 セィシズ様?
 ああ、なんだ。そんなとこにいらっしゃったのですか。
 遅いよ、とお笑いになる。あの時のままの笑顔で。
 ああ、そうか……。
 あなたがいないと私が探しまわる間、あなたはずっと私を待っていてくださったのですね。
 あなたがいなくなったのではない。待たせてしまったのは、私の方だったのですね。
 申し訳ありません。
 でもこれからは、もうずっと一緒ですから……。

 浮かせかけた指先が血だまりに落ちた。
 エチエンヌが静かに目元を拭う。何年経ってもこの瞬間は慣れるものではないと言う。四千年生きても、否、四千年も生きているからこそ、生きるごとに死の重みは増すばかりだと。
 置いていかれることは辛い。部下が主君に置いていかれることは辛い。
 主が死んだのに、何のために自分が生きているかもわからない。自分自身の望みさえ見失ってしまって。
「ロゼウス」
 真っ先に動き出したのは、ゼイルと面識のないハデスだった。
「《それ》はどうする」
 ロゼウスの腕の中でまだ抑えつけられている「セィシズ」を指して問いかける。
「ハデス、この子は……」
 ハデスが首を横に振る事で返答した。
 見た目は完全な人間のように見えても、この「セィシズ」はできそこないの失敗作だという。
「精神を無理矢理造りだそうとして失敗したものだ。魂は狂児。まともに成長しない。それどころか、例えどんな状況においても環境に適応できないだろう」
 ロゼウスの腕の中、意味のない言葉を呟き続けている「セィシズ」。
「セィシズ?」
「ぼくのなまえ? ぼくはセィシズ。ぼくは、みんながだいすき、でもこうていへいかだけは、すきになっちゃだめ」
 二十歳も間近な少年の姿をしているのに、その言動は酷く幼く、作り物めいている。
「ゼイル」
 その唇が動き、今しがた亡くなったばかりの男の名を呼ぶ。
「ゼイル、ぼくのぶか。ゼイルって……なに?」
 言葉は知っていても、それが何を指し示すかこの「セィシズ」はわかっていない。典型的な失敗作だ。
「好きって……なに?」
 痛みを堪えるように、ロゼウスは強く目を閉じる。
 そうだ、知っていたはずだ。こうなるということを。
 知っていて止めなかったのだ。これは当然自分が受け取るべき痛み。
 ゼイルはすでに自らの報いを受け終えた。あとは皇帝として、ロゼウスが負うべき役目だろう。
 覚悟を決め、「セィシズ」をまっすぐに見つめる。
 先程ゼイルにしたように、その目元を覆う。視界を塞がれて暴れようとする身体を押さえこみ、告げた。
「大丈夫」
「え? え?」
「大丈夫だから」
 何が大丈夫なものか。けれどそれより他にかけられる言葉がない。
 重ねるごとにそれが虚しい詭弁になると知っているのに、何故人はそれでも言葉に頼らざるを得ないのだろう。
「さようなら、セィシズ」
 生まれ損ねた一つの命が、その造り主と同じ場所へと還っていった。