050
イェシラは泣いていた。
二十年ぶりに会った、少女から大人の女性へと変貌していた彼女はあの時よりも更に美しくなっていた。その美しい顔を驚愕に染め、そして段々と深い悲しみに包まれる。
「ゼイル……本当に馬鹿な子!」
彼を止めきれなかった自分自身を責める彼女と二言三言言葉を交わし、ロゼウスはカウナードを去る。
◆◆◆◆◆
エチエンヌは厩舎にいた。ゼイルの研究所から帰ってすぐのことである。
何があるというわけではないが、突然愛馬の顔が見たくなったのだ。厩舎にいる馬たちの中で一際鮮やかな硝子の馬は、主の姿を見つけて小さく喜びの姿を見せる。
「ただいま、アレイオン」
アレイオンと名付けられた馬は、エチエンヌの身体に頭を擦りつけてくる。その不思議な質感の肌を撫でながら、エチエンヌはひっそりと目を閉じる。
◆◆◆◆◆
ロゼウスはルルティスを連れて、城の外の薔薇の花畑にいた。
薔薇園というべきなのだろうか、しかし皇帝の力を反映して咲くここの花たちは誰かが手入れして形を整えたものではない。だから彼らにとっては花畑だった。
この花の中で、ロゼウスとルルティスは初めて出会った。薔薇の中で眠っていたロゼウスをルルティスが間違えて踏んづけるという、あまりにも浪漫や感動の欠片がない出会い方だったが。
今日ロゼウスがここにルルティスを連れて来たのは、先日保留にされたシェリダンのことを語るためだ。
薔薇の香りが、染みついた血臭を洗い流すよう。
「さっきの黒髪の方は?」
「あれはハデス。ハデス=レーテ。古の大魔術師」
ロゼウスたちをゼイルのもとへ送り、ゼイルの遺骨を届けにカウナードのイェシラの屋敷へと寄り、彼らを皇帝領へと連れ帰ってさっさと姿を消した黒髪の少年のことを尋ねる。
あれが伝説的大魔術師! とルルティスは驚いた。三十二代皇帝の選定者を務めた後も何故か生き延び、そして現在は薔薇皇帝のパシ……もとい部下として世界各地で魔術的な事柄において活躍しているが、ほとんど誰もその顔を知らないという影の立役者。
けれどそれよりも気になるのは。
「あの方……アドニスさんですよね?」
先日ゼファードの連れとして皇帝領にやってきた金髪の青年と、先程顔を合わせた黒髪の少年が同一人物ではないかということだ。
「気づいたか」
「気づかないのが不思議です」
ルルティスは誰、とは言わなかったのだが、ロゼウスはそれが誰のことを指しているのかすぐにわかったようだ。
「ゼファードか。あの子は素直すぎるからな。あれでもっと性格が悪く権謀術数に長ければ誰にも止められない人間になるが、今のままでは王としては真っ直ぐすぎる」
きっとゼファードは信用している人間からカラスが白だと聞かされたら、次の日から白いカラスが当たり前のようにいると思いこんで生きていくのだろう。
自分の目で見たことすら信じないフェルザードとは大違いだ。誰も信用しない兄と信じすぎる弟。
良い王の条件などルルティスには想像もつかない。彼が学んだチェスアトールは王の権力が指して強くはなく、議会で全てを取り決める国だった。
だから今は別のことを言う。
「でも私は、ゼファード殿下のことは好きですよ」
素直で嘘をつかなくて、取り繕うべきところまで取り繕わなくて、意地っ張りだが優しくて。少なくともあれで王族としては随一の実力者だというフェルザードより付き合いやすく人間的にも好ましい。
「そうか……それは良かった」
屈みこんで足元の薔薇を撫でたロゼウスが小さく口元だけで笑う。
ルルティスはロゼウスの斜め背後に立つ形だ。正面から顔を合わせてはいない。
この世には、面と向かってはしにくい話というのもあるのだ、ルルティスの瞳が偶然にもすでに死したこれからの話題の人物に似ているとなれば尚更だ。
「今から聞かせてくださる話は、ゼファード殿下には……」
「フェルザードがすることになっている。ゼファーは大概兄の話も聞かないが、俺が話すよりはマシだろう」
「そうですか」
「他に聞きたいことはそれだけか?」
「ええ。まぁ。話の流れで補足されなかったら別途質問ということで」
どこまでも事務的というか、躊躇いや感傷を微塵も差し挟まずてきぱきと話を進めるルルティスは、少なくともロゼウスにとっては付き合いやすい。
これでロゼウスの機嫌を、顔色を伺い続けようという態度だったら、恐らくロゼウスはルルティスには永遠にこの話をしなかっただろう。
知りたいと思う気持ち自体は、悪いことではないのだろうと思う。
その先にある、真実を受け止める覚悟があるのなら。
「他の者たちからはどこまで聞いた?」
「ジャスパー様からは、シェリダン王との敵対者としての意見を。エチエンヌさんからは……シェリダン王を殺したのは、あなただと」
その事実はジャスパーからも重複して聞いたことだ。しかし二人とも、ただロゼウスがシェリダン=エヴェルシードを殺害したという事実のみを語るだけで、その時どのような状況だったかまで詳しく述べたわけではない。
「エチエンヌさんは、あなたがシェリダン王を殺したのは《事故》のようなものだと仰っていました。失礼ですがその言葉からだけ判断すると、四千年間も死者の身体を硝子の棺に納めてとっておくあなたが異常に見えます」
後姿のロゼウスが肩を震わせた。
「……陛下?」
怒らせたか、それともあるいは泣かせてしまっただろうかとルルティスがどきどきしながら正面に回り込んで顔を覗き込むと、ロゼウスは笑っていた。
「皇帝にそんな物言いをするとは……エチエンヌたち以外では初めてだよ」
人並みの神経がないわけではないのだろうがそれよりも自分の信念が優先するルルティスは、開き直るといっそ清々しいくらいに無礼だ。彼はきっと狂いきって今まさに自分の首を刎ねようとしている狂人王の前でだって、最期の瞬間まで自分自身の言いたいことを言って生きていくのだろう。
「すぐに腕っ節に訴えて、しかも俺をも殺せる実力のあるフェルザードとはまた別の意味で、お前は厄介だな、ルルティス=ランシェット」
「それが信条なもので」
いつでも、どこでも自分自身であること。
ルルティスが自分に課しているのはただそれだけだ。
「まったく……今が四千年後だからまだしも、若い頃の俺だったら怒り出してお前をすぐに殺してしまってもおかしくない一言だぞ、今のは」
ルルティスが正面に回ったことで、皇帝と学者は花畑の中で向き合うこととなった。
「陛下はそんなことしませんよ」
「しないと何故言いきれる? お前が俺の何を知っていると?」
「あなたのほとんど何も知らない私がそう言いきれるほどに、あなたがそういう方だということですよ」
「……」
「あなたはその方の死の原因となった者や、自分が憎むのと似たような罪を犯す人間に対してはどこまでも冷酷になれるでしょう。けれど、恐らくその状況とは似ても似つかない環境しか知らない私を害することなんてできませんよ」
侮るでもなく哀れむでもなく、ルルティスはただひたむきにロゼウスを見つめていた。
「お前の強みは、その社会に置いての無責任さか」
「はい。私は天涯孤独で守りたい人もおりませんから、いつだって自分のことだけを考えて、自分のためだけに行動出来ます」
ロゼウスの言いたい「無責任」の意味をおよそ正確に読み取って、ルルティスは答える。
「それは決して幸せなことではないよ」
「ええ。でもいいんです。私が選んだことですから」
責任とは義務についてくる権利の裏返し。社会において繋がりをほとんど持たず、無責任であれるルルティスは逆に言えば、彼を引きとめてくれるものがこの世に何もないということだ。
ルルティスの百分の一も能力がなかったり、極悪人だったりする人間でもそれが人の子や親であれば、例えば目の前で自殺でもしようとしたら誰かが止めてくれるだろう。しかしルルティスは、ある日突然ふらりと姿を消したところで誰かが心配してくれるわけではない。
否……心配してくれる人はいた。でもそれも所詮は表面的な付き合いにすぎなかった。だから最後にはいなくなる。マンフレートのように。
そんなルルティスの在り方に、ロゼウスは溜息をついた。
「お前は本当に……シェリダンに似ているよ。その責任感が強すぎる無責任さ。エチエンヌたちが言っていた通りに」
そして彼は語り出す。
「シェリダンは、彼の父親が美しい街娘を強姦して産ませた子どもだった。母親はシェリダンを産んだことでいっそう正妃からの風当たりが強くなり、また両親を殺されて、失意のあまりに自殺をした。シェリダンの存在が母親を殺す後押しとなった。それは確かなことだ。だから彼は、自分の存在を罪だと思っていた」
その先どんなに立派な人生を送ろうとも、母親を殺して生まれた子どもだという事実は消えない――。
「身勝手な奴だったよ。本当に。お前の数万倍性質が悪かった。人を人と認識した上で人とも思っていないような残酷な扱いができる男。生まれたばかりの赤ん坊の頭蓋を笑いながら握りつぶすことのできる悪魔のような男。俺の故郷を一度滅ぼし、家族を殺した男」
でも、とロゼウスは続ける。
「俺は愛していた。あいつを。誰よりも……愛しているつもりだった」
「つもり?」
ルルティスは思わず口を挟んだ。何か言いたいわけではなく、自然と出てしまった言葉だ。ここで話の腰を折ってはいけないだろうと、慌てて自分の手で自分の口元を押さえる。
そんな幼い仕草をロゼウスは薄く微笑んで見つめながら、眉を下げる。
どこか困ったような、悲しいようなその笑みはルルティスにとって見慣れたもの。
この人が心の底から笑うのを、私は見たことがない気がする。ルルティスは再びそう思った。
「先程、硝子の棺に死体をとっておくなんて異常だと言ったな」
「え、ええ」
「俺もそう思う」
先程より更に慌てて手のひらをはずして答えるルルティスに、ロゼウスは意外な言葉を返す。
「だけどあれが……もしもあれが本当にシェリダンの身体だったら、俺は多分ここまであいつに囚われることはなかったんだろう」
「え?」
ルルティスの脳裏に、先日のジャスパーの言葉がよみがえる。
――墓所? あれは墓所などではありません。ただのお兄様のコレクションルームです。そこにあれを置いてあるだけです。あの部屋が本物の墓所だとしたら、お兄様ももう少しあなた方に手加減してくださったでしょうが。
それはどういう意味なのだろうかと思っていた。
「お前も見ただろう、ゼイルが完成し損ねた、《人間のできそこない》を」
それは――。
◆◆◆◆◆
「エチエンヌ」
厩舎の外、アレイオンの首筋を撫でていたエチエンヌに声がかけられる。
「リチャードさん」
その姿を見た瞬間、エチエンヌは思わず瞳を潤ませてリチャードの胸に飛び込んだ。
「ゼイルさんが……」
「ハデス卿から聞いた。大変だったな……」
労わるように包みこんでくる腕に、エチエンヌの頬をひっきりなしに涙が滑っていく。
「でも私たちは知っていたはずだ。こうなるということを。それしかないのだということを」
「はい……わかってます」
エチエンヌの背を撫でながらリチャードが囁く。
大切な人を亡くした後の人間の行動は限られて来る。
エチエンヌやリチャードも同じだからわかる。
狂気の行き着く先は限られているのだ。
硝子の馬が静かに二人を見つめている。
◆◆◆◆◆
「あの地下室の硝子の棺……あれは、ハデスに造らせたものだ。その中身ごと」
「中身、って……」
「あの体はシェリダンの本当の身体じゃない。ハデスに造らせた偽物の、作り物。複製とでも言えばいいのか……本人の髪や血や肉片とそこから復元した情報を元に、生前のシェリダンと寸分の狂いもなく仕上げた屍」
大切な者を亡くした人間の行き着く先は限られている。
「そう、俺はゼイルのことを責めることはできない。同じことを、俺もやった」
◆◆◆◆◆
アレイオンは、ハデスに教えられた知識と材料を元にロゼウスが作った《人工生物》だ。
作り物の体に紛い物の命。本物の馬と似せることを躊躇って、一目で異質であることがわかる硝子の素材にした。
精神はある。だが魂は存在しない。
それが人間にできることの限界だとハデスは言う。
そう、肉体だけならばいくらでも作れる。術者の技量によっては本物と見紛うほどに精巧に作ることすらできるのだ。
だが魂は造ることができない。
硝子の馬を横目にリチャードは腕の中のエチエンヌに言う。
それとも自分に言い聞かせていたのだろうか。諦めの悪い自分。終わらない望み。四千年経っても。
「会いたいんですね。会いたかったんですね。どんなことをしても」
死を受け入れられずに求め続ける、それこそが主君の存在を穢すこととなっても。
諦めきれない、望みを捨てられない。
どこまでも望み、可能性を追い求め、希う。
あなたにただ会いたいのだと……。
◆◆◆◆◆
「聞いてもいいですか?」
ついにこの時が来たとロゼウスは思う。
「何故、シェリダン王の本当の亡骸を保存しなかったのですか? 皇帝陛下のお力があれば、そのくらい」
本人の体そのままの複製品を造るよりも、その方が自然な気がルルティスにはした。
だが、それこそが、この問題の本質。
「できないんだよ、ルルティス。それはできない」
ロゼウスが首を横に振る。
いつもの髪の短い少年姿ではなく、今日の彼は《薔薇皇帝》だ。
白銀の長い髪が零れ散る。赤い薔薇の園の中、降り続ける白い雪に埋もれることもなくそれはきらきらと見事に輝く。
その美しさに見惚れているルルティスの目の前で、ロゼウスは言った。自らの腹に手を当てる。
「シェリダンの体の大半はこの中だ」
その意味とは。
「私がシェリダンをどうやって殺したのか、ジャスパーもエチエンヌも言わなかっただろう」
ルルティスは無言で頷く。「ただ、事故のようなものとだけ」ロゼウスが一際悲しそうに微笑む。
「私は、彼を喰い殺した」
横薙ぎの風が強く吹いた。
薔薇の花が頭をもたげるように揺れ、その華やかな香りを散らしていく。
「え……」
「聞き間違いでも、何かの比喩でもない。本当にそのまま、喰い殺したんだ」
風の中に散る赤い花びらがまるで血のよう。けれど流れる香りがあまりに爽やかで、この光景を現実のものではないかのように見せる。
「何故……」
「ローゼンティアの吸血鬼の性質を知っているか? 瀕死の傷を負って血が足りなくなり飢餓の限界に達すると狂う。自我を失い、本能のままに周囲の生き物を喰い殺して命を繋ぐ」
「まさか……」
「そうだ。私は自分が生きるために、愛する者を殺した」
誰よりも誰よりも、自分自身よりも愛していると言った相手を殺した。
最も大切な場面で、彼の命より自分の命を選んだ。
「……あなたには選べなかったのでしょう」
「建前上はな。でも俺は選んだんだ。あいつの命より、自分の命を……!」
それが何よりも赦せない。自分で自分を赦せない。
「あなたは……」
話を聞いていたルルティスもさすがに青ざめて、顔色を失っている。
「自らに絶望したのですね」
「――」
ロゼウスが瞼を閉じる。白い肌の中、長い睫毛が銀色に輝く。
切なげなその表情は、酷くルルティスの感情を波立たせる。
ルルティスはようやくはっきりとわかったような気がした。自分が何故この人を好きになったのか。その根底にある、自分の中の薄暗い欲望に。
「私は……あなたの笑顔が見たいんです」
いきなり脈絡のないことを言いだしたルルティスに、ロゼウスが不思議そうな顔をする。
「作り物の綺麗な笑い顔ではなく、心の底からの、本当の笑顔を」
「ルルティス、何を」
「あなたが笑えないのは……シェリダン王のせいですか」
ロゼウスはまた困った顔をする。
「せい、というか……」
「あなたが、彼の死を悲しみ続けているから? 私からすれば、それはシェリダン王の“せい”です」
四千年の昔に死んだ少年に対して思う。
どうして、まだこの人を解放してくれないのかと。
身勝手な望み。汚い欲望。
そうでないと、私がこの人を手に入れられない。
けれどルルティスが好きになったロゼウスとは、今もシェリダン=エヴェルシードを愛し続けているロゼウス=ローゼンティアのことなのだ。
その一途で、重苦しい程に深い愛を見てしまったから。そのように自分も愛してほしいから。
矛盾した望み。叶わない願い。
ロゼウスが簡単にシェリダンを忘れられるようなら、それはルルティスが愛したロゼウスの姿ではない。それなのに今は、四千年前の王を、彼の心から消し去りたくて仕方がない。
「嫉妬しています……シェリダン王に。そうまでしてあなたの心を繋ぎとめる彼に。でも一番苛立つのは、そんな理由なら仕方ないと、納得してしまう自分です」
「ルルティス……」
ふいに、空気が今までと違う方向に流れた。薔薇の花をかきわけ、悠然とした足取りでロゼウスが歩いて来る。
そっと、冷たい両の手でルルティスの頬に触れてその顔を包み込む。
「お前は私が怖くはないのか?」
怖くなどない。輪郭を撫でていく細い指の感触は心地よい。
「話した通り、私は《その時》には見境がない生き物だ。お前が大事であればあるほど、傍にいればいるほど……お前をいつか喰い殺すのかもしれない」
恐ろしい事を語るのにロゼウスの指は変わらずに穏やかなままだ。だからルルティスにはわかった。
「それでも構いません」
そんな日は永遠に来ない。
その日が来るのは、ロゼウスがシェリダンを忘れた時だ。彼への想いを忘れ去り、何があったのかを意識からはずして油断してこそ起こる瞬間。今でもシェリダンの死を悲しみ罪悪感で自分に絶望しきっているロゼウスが、そんな油断をする日が来る訳ない。
だから彼は笑わない。シェリダンを殺した記憶を永遠に忘れられないから、笑うことができない。
永遠に悲しみ続ける。
それでもルルティスは夢を見てしまうのだ。一瞬でもいい、ロゼウスがその心からシェリダンを忘れ、自分のためだけに笑顔を見せてくれることを。
「私はあなたになら、殺されてもいい。あなたがそれで私に囚われてくれるというなら」
もしも本当にロゼウスがルルティスを喰い殺し、永遠にその罪に囚われてくれるのならば、それはむしろルルティスにとって幸せなことだ。
だが、そんな日は来ない。例え今ロゼウスがルルティスを殺したとしても、ロゼウスはルルティスには囚われない。
シェリダン=エヴェルシード程に、愛されているわけではないから。
ふいに残酷な笑いがこみ上げる。ゆっくりと伸ばした手で自分の頬に触れるロゼウスの手を包み、冷たい氷の針のような問いをかけた。
「この台詞、ひょっとしてフェルザード殿下も同じようなことを言ったんじゃないですか?」
「……」
この場合沈黙は肯定と同じ。
あのエヴェルシード王子の焦りがわかった。自分は完璧な人間だと思っているフェルザードが、あれほど他人に対し嫉妬深い訳を。自分が一番愛されているわけではないとわかっていれば、二番より下になど転落したくないに決まっている。
殺されてもいいほどに愛しているのに、殺してもいいほどに愛してはもらえないこの苦しみ。
「あなたが……好きなんです」
「……お前のことは嫌いじゃない」
「でも、愛人にもしてくださらないんですね?」
「体だけで満足できるのか? お前が」
「いいえ」
だから駄目なのだ、愛人にはできない、と。フェルザード王子は? と聞くと、いずれ別れる約束があるという。
誰もロゼウスの中で、シェリダンを越えることはできない。
体だけで満足出来れば良かったのに。
ゼイルもロゼウスも、あのできそこないのセィシズで、硝子の棺の中の屍で満足できれば良かったのに。
けれど駄目なのだ。わかっている。あれは紛い物。
そしてルルティスが欲しいのも二人と同じ。あくまでも本物なのだ。都合よく造られた偽物でも、魂の足りない体だけでも満足できない。
「欲張りですね」
「ああ。……お前も」
「ええ。私も欲張りなんです」
相手の全てが欲しいのだ。
望み、追い求め、恋い焦がれ、希う。
それは果てなき挑戦。爪の先も届かないような、高くなりすぎた理想。肌は今も触れているのに心は届かない。まるで透明な硝子に阻まれているように。
閉じた瞼から流れた涙が頬を伝い、今もまだ触れているその手に落ちた。
「それでも、あなたが好きなんです」
ロゼウスは答えない。否、応えない。
「いつか、あなたの心からの、本当の笑顔を見られるように努力します」
「……ああ」
ロゼウスは小さく頷くに留めた。努力をするのはルルティスの勝手であり、それが叶わなくともロゼウスの責められるところではない。
そのはずだった。この時は、まだ。
一つの歯車の狂いが時計を別の時間へと動かすように、一人の望み追い求め希う者が歯車を動かす。
それが狂った時計の中の、更に狂った歯車ともなればその時計は果たして正しい時を刻むのだろうか? それとも、更に時を狂わせて行くだけなのだろうか?
誰もがまだ、その答を知らずにいた。
《続く》