054
最近、この街の夜は物騒だ。
なんでも噂では、血に狂った領主が吸血鬼のように夜な夜な城を抜け出しては住民の血を吸っているのだとか。
ほろ酔い加減で夜道を歩く男は、そんな話を思い出していた。とはいえ噂の領主はまだ十代半ばの少年で、誰もそんな話を本気にするわけないと男は思っていた。
夜には人気の少ない道を歩かないようにとのお触れも出ている。けれど男の家から一番近い酒場から帰るには、どうしても一本、人通りが皆無に等しく物陰の多い路地裏を通らねばならない。
人は自分だけは大丈夫だと思い込むものだ。どんなに悲惨と凄惨が世界を覆い尽くそうと、自分だけは最後まで無事なのだと。
千鳥足で歩く男が細い裏道に入ったところで、滅多に人気のないその場所に背の高い影を見た。
ウィスタリア人は銀髪だ。その色素の薄い姿は別の国の人間からすれば幽鬼じみて見えることだろう。しかし生まれも育ちもこの街の人間である男はもちろんそんなことには動じない。
だが――何かがおかしい。
闇に溶け込む黒い服を着込んだ背の高い人影のさらりとした銀髪が揺れる。その奥から覗いた耳の先は、心なしか尖ってはいまいか?
夜の青にそこだけぽっかりと浮かぶ白い面が男を振り向く。その瞳は紛うことなき――赤。
「お、お前は――――」
男はそれ以上言葉を発することができなかった。悲鳴は音になる前にその首諸共引きちぎられて宙を舞う。
生の気配がなくなり静まり返る路地裏で、人影が舌打ちした。
「なんだ、男か。それも醜い」
残念そうに言った人影は首を失くした男の胴体に近づくと、その断面から溢れる血を啜り始めた。
◆◆◆◆◆
「ええ?! また事件が起きた!?」
朝からロゼウスたちを叩き起こしたのは、朝食の支度ができたことを告げに来る召使の一言ではなく、シライナのキンと耳の奥を突き刺すような驚きの声だった。
「はい、しかい警備隊の者の話によれば、どうにもこれまでの被害状況とは違うだとかで」
「詳しく聞かせてもらおうか」
朝早い聖職者であるシライナとラクルはすでに目を覚ましていたが、ロゼウスたち皇帝の一行が起き出すのはこれからだ。人一倍耳が良いために無理矢理叩き起こされることとなったロゼウスとジャスパーは、シライナに報告をする城の使用人たちのもとへと足を運ぶ。
「このこと、伯爵には?」
ミシェルは今どうしているのかと尋ねるロゼウスに、執事が沈痛な顔つきで答える。
「まだお伝えしておりません。ミシェル様のお身体では現場に赴くことは適いません。心臓もあまり丈夫ではないので、機を見計らって告げるつもりです」
「……わかった。では先に、エァルドレッド伯爵からこの事件の解決を依頼された立場として、我らがその話を聞こう」
長い病で弱っているミシェルに無理はさせられないと、ロゼウスはジャスパーを連れて自分たちだけで現場に赴くことにする。ロゼウスはエアルドレッド伯であるミシェルから正式に事態解決の依頼を受けているのだから、報告がこの地の領主である伯爵よりロゼウスに先に行っても問題ない。
「聖女とラクリシオンには、被害者の葬儀の手配でもしていただけ」
「かしこまりました」
事件が起きた際現場の人間は偉い人たちに報告をしなければと考えるが、執事たちとしては病弱なミシェルに凄惨な殺人現場の状況を伝えるのは躊躇われる。だからといって最初からロゼウスやシライナを頼るのでは、ミシェルの伯爵としての力量を疑っているととられかねない。そこでロゼウスは事態解決の責任者として、シライナたち宗教関係者は事件ではなく被害者の葬儀のために連絡を受けたのだという形にした。
「ちょっと! ロゼウス、私たちだって――」
「被害者を弔ってやるのは、そちらが本職だろう。私の仕事はこちらだ」
勝手に行動を決められたシライナは文句を言いたそうにしていたが、ロゼウスの言い分もわかるので結局は口を噤んだ。
いち早く事件の解決を望む平民にはくだらないと言われようが、いつ誰に足を引っ張られるともわからない貴族社会ではそれも必要なことだった。
「ルルティスたちに私たちとは別口で捜査を進めるように言っておいてくれ」
現場検証は身体能力に優れたロゼウスで、この街の事情と事件の欠片をかき集めて推理をするのはルルティス。皇帝領では押しかけ珍客扱いのルルティスだが、皇帝の仕事をするために街に出るロゼウスについて来た時その能力は最大限に発揮された。
ロゼウスの周囲にはあれだけ学識に長けた人間は他にいないので貴重な存在だ。ロゼウス自身もフェルザードやリチャードなども頭は良いし知識もあるのだが、いかんせん根っからの学者気質や知的好奇心と程遠い性格なので、好んで地道な調査をするような人間ではない。
いつの間にか大分ルルティスを信用してしまっている自分に自嘲しながらも、ロゼウスは案内の警備兵に連れられて城下町へと赴いた。
◆◆◆◆◆
ミシェルが目覚めたのは、ロゼウスたちが出発した随分後だった。ここ数カ月はもはやほとんど起きていられず、一日の大半を寝て過ごしている。
自分が目を覚ます前に昨日この地に着いたばかりの皇帝と聖女たちが城下町へ降りたと聞いて少し落ち込んだミシェルだったが、ロゼウスからの伝言を伝えられてからは、街の領主として気丈に采配を振るい続けた。
そんな彼の執務の合間の休憩時間に、ジュスティーヌが部屋を訪れていた。今日も相変わらず真紅と黒を多用し、フリルとレースで飾ったど派手な衣装を身に着けて、目の周りを隈取、頬に模様を描いた道化師のような格好をしている。
繊細な少年と派手な道化師女、この二人の共通点は。
「今日は気温がそんなに高くないから気分が良いわね」
「はい、いつもよりは体がずっと楽です」
お互いに常人よりもずっと病弱というところだった。
ジュスティーヌは現在二十三歳だが、昔から二十歳まで生きられないだろうと医師に言われ、周囲にもそう思われ続けていた。大貴族の娘であり、最新の医療を受け、ハーラルトという優秀な薬師まで手元に置いているおかげでこの年齢まで生きてこられたが、それでもあと十年は生きられまい。
ミシェルはジュスティーヌより更に深刻で、まだ十代半ばだというのに、すでに一日の半分も起きられなくなっている。自分の足で歩いて城下まで行くなど夢のまた夢だ。彼の病状は一進一退を繰り返し、それでも普通の子どもたちのように外で走り回ったりはできない。
弟のウィリアムは兄と違って文句なしの健康優良児で、付近の子どもたちと身分も構わずに外で遊びまわっている。幼い頃から二人を見守ってきた城の人間からすれば、ウィリアムの十分の一でもミシェルが健康になってくれればと願わずにいられない。
ミシェルは自らの病が多くの者に手間をかけさせることを理解していて、泣き言一つ言わない。今日はどこで何をして遊んだという弟の話をいつも優しい笑顔で聞いている。ウィリアムはウィリアムで、日光に弱く窓の外から景色を見ることすら辛い兄のために城下の四季の映り変わる美しい景色を伝えようと、新しい言葉を覚えたり詩を読んだりあるいは城下で知り合った旅の楽士を招いたりと、常に努力していた。
仲睦まじい兄弟と優しい城の人々。このままの時間が続けばきっと幸せでいられるのだろうと誰の目にも見える。
けれどこうしてミシェルと個人的に顔を合わせて話をする機会を得たジュスティーヌにはわかった。わかってしまった。
彼の命は、もはや長くはない。
常に死と隣り合わせに命を繋いできたジュスティーヌだからこそ、わかってしまった。
皇帝の話をしてほしいとねだるミシェルに、自分が気づいた憂いは見せず。道化の仮面の下に全ての悲哀を押し隠し、ジュスティーヌはミシェルの求めに応じてロゼウスに関する事柄を話し出す。
「あれは貴族の舞踏会だったわ。昔から病で着飾る機会なんて滅多になかった私は、貴族の令嬢としては最低の見た目だったの。どこもかしこもがりがりだし顔色は悪いし頭痛で表情は引きつってるしで、まったく美人じゃなかった。だから他の御令嬢たちからも爪弾きにされていたわ」
まだジュスティーヌが少女だった頃の話だ。あの頃の彼女は、今の彼女とは全然違う人間だった。
「私のあまりの不器量さに周囲の人たちが私を笑いものにしている中、陛下が庇ってくださったの。それでね、次からは化粧を覚えてくるといいって言ってくれたわ。お前が引け目に感じるその欠点は簡単に補えるもの、どんなに白粉を厚塗りしても内面の醜さが隠しきれない不美人どもよりよっぽど綺麗になるって」
ロゼウスにそう諭された日からジュスティーヌは病を悲観することは止めた。どんなに健康な人間でも突然の事故で不自由な身の上になる。人間、いつどうなるかわからないのは病であるものもそうでないものも同じだ。だったら、自分にできる精一杯の力で楽しく生きた方がいいと。
ロゼウスと出会ってからの彼女はそれこそ精力的に生きた。身を飾って顔色が悪いのを隠し、寝台の中でも読める本を今度は暇つぶしではなく知識を与えてくれるものとして積極的に集めた。病を治すためにハーラルトのような学者や医師に援助をし、楽士や画家など芸術家たちのパトロンにもなった。
元より貴族の娘で、今は自分が侯爵家の当主。人並に健康な身体こそ天から与えられはしなかったけれど、それ以外は平民よりずっと恵まれた立場にいるのだ。その立場を、うまく利用しなくてどうするのだ。
「……カルマインのメイフェール侯爵領は文化活動が活発で、とても良いところだと聞いています。芸術を愛する一方医学や薬学も進んでいて、領内で少しでも病が流行ると領主がすでに予防と治療の対策を出すと。僕の憧れです」
ミシェルはそういって微笑んだ。彼もまた病弱な領主であるジュスティーヌに親近感を持っているのだろう。まだ代替わりしたばかりでこれから領主として本格的に動かねばならないミシェルの一番身近な目標はジュスティーヌなのだ。
けれどそれも、彼にこれからがあればの話。そのことはわかっている。そしてわかっていてジュスティーヌがこれからかける言葉も間違いなく本心なのだ。
「あなたなら、きっと良い領主になるでしょうね」
「……ありがとうございます。本当にそうなるために、まずは城下の人々の安全を脅かす吸血鬼殺人の犯人を見つけないと」
それからも二人は他愛のないことを二、三話し、お互いに疲れが溜まってきたところでジュスティーヌがミシェルの部屋を辞したのだった。
◆◆◆◆◆
これまでの事件の被害者は、主に、女性。細身で美しい女性に少女、あるいは子ども。
けれど今回殺されたという被害者は男性だ。髭面で酒臭いその体から、相当酔っていたこともわかる。
「いきなり宗旨替えか?」
時期が時期だけに吸血鬼殺人事件の関連として呼び出されたロゼウスたちだったが、目の前の遺体の様子は明らかにこれまで聞かされた吸血鬼事件とは違う。首筋に二つの穴が空いていたという他の人々と違い、今度の遺体は首を真っ二つに切断されているのだ。
「普通なら吸血鬼事件とは別の人間の犯行というところだろうが……」
これまでの事件と関連性を示す品が特にないことから、ロゼウスは当然そう考えた。けれどそれを、彼自身の理性が否定する。
この被害者が吸血鬼事件の犯人に殺された、とは限らない。
だが、この被害者を殺したのは――恐らく吸血鬼だ。
殺し方を見て、ロゼウスはそう判断した。被害者の遺体の切断面は、武器ではなく生き物の爪で斬られた傷に見える。そしてそんなこと、普通の人間にできるはずがない。
「どういうことだ?」
ロゼウスの真紅の瞳が鋭く細められた。