055
男は今宵の犠牲者を探し求めていた。
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男は今宵の犠牲者を探し求めていた。
今までにもそれらしい、美しい女性や少女、それから力ない子どもを選んで殺してきた。被害に遭う者が無力であればあるほど、話に信憑性も出るし、その方が男の美意識にもあっているからだ。
彼にとっては、国王の妾の子だというこの街の領主が吸血鬼と噂されて立場を失おうが、どうでもいいこと。依頼を受けた瞬間迷わずに頷いたのは、依頼者が自分に都合の良い舞台を用意してくれたからだ。
死者が五人を超えてさすがに街も警戒しているが、それでも夜間の外出を完全に失くすことなどできはしない。仮にもしそれが実現したとしても、それなら近隣の民家から攫えばいいだけのこと。
けれど今日は少なくともその必要はなさそうだった。街を歩いていると、ほっそりとした人影に出会った。背こそ高いが、体の造りは成人男性に比べてどこか華奢な印象を与える。
「なぁ、おい、あんた」
呼びかけに振り返る少年の顔を見て、男は思わず息を呑んだ。
冴え冴えとした青い刃のような月光の下、亜麻色の髪に琥珀の瞳のチェスアトール人らしき少年はとても美しい。
特に交易が活発ではないエァルドレッドで異国人を見かけることはそうなく、これまでの被害者も全てこの街の人間だった。そしてその方が、自分の街の人間を襲ったと領主を貶めるのにもちょうどよかった。
だが今、男は他でもない目の前にいるこの少年を手にかけたいという強い欲望に襲われていた。
「なにか御用ですか?」
凄絶な美貌から連想するには不釣り合いなほどにふんわりと笑うその顔の愛らしさ。その仕草には、どこか男を誘うような艶めいたものがある。あるいはその手の道の人間で、だからこそ危険だと噂されるこんな夜にも道端に立っていたりするのだろうか。
「ああ、ちょっと付き合ってくれよ」
男は少年の腰を抱くようにして体を密着させる。先程の可憐な笑顔から一転して毒婦の笑みを浮かべた少年が、男の首に縋りつくようにするりと腕を回す。
「いいですけど、この辺りにあまり長居はできませんよ? 御存知でしょう。この街、吸血鬼が出るんですってね……」
だから早く宿に行こうと、そう言いたいのだろう。だがそうはいかない。男は少年の体を抱く腕にますます力を込め、力尽くで近くの路地の影に引きずり込んだ。少年の体を建物の壁に押し付け、腕の中に閉じ込める。
「いいじゃないか。暇な吸血鬼に見せつけてやろうぜ」
男は言いながら少年の腰をいやらしい手つきで撫でる。官能的な刺激に少年が目を瞑り身を委ねようとしたところで、男は懐から小さな丸薬を取り出した。
口付けの隙にこれを相手の口に押し込めば、数刻もしないうちに瑞々しく外傷のない美しい死体の完成だ。そしてあとは、その首筋に釘で穴を開ければそれでいい。
青ざめた白い面に、開きかけて光を失った虚ろな眼差しと、首筋から流れる血。この少年はどれほど美しい死に顔を見せてくれるのだろう。男は興奮に背筋を震わせた。最高の一夜になる。
と――。
「そこまでだ」
突如として割り込んだ声に、虚しい夢想は破られた。
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「皇帝陛下たちは、大丈夫でしょうか……」
自室の窓から夜の城下を見下ろしながら、ミシェルは不安げな声をあげた。
「大丈夫よ。だって、あの陛下だもの」
「そうそう、あいつは殺しても死ぬような可愛げありませんから」
ジュスティーヌは彼を安心させようと、あえて気楽な調子で請け負った。護衛としてこの部屋に残ったエチエンヌもそれに頷く。
今、ロゼウスとルルティス、ジャスパーの三人は、街を吸血鬼事件で騒がせる犯人を捕らえるために出かけている。事件の黒幕に関する大方の証拠は出揃い、次の事件を防ぐためにもと実行犯の確保に乗り出したのだ。
街で起こった全ての殺人をまとめて考えようとすると一番最近の男が首をねじ切られた事件だけがどうにも法則性にあてはまらなくて不自然なのだが、それ以外の犯人は恐らくこの人物だろうという目星はついている。お決まりにミシェルがエァルドレッド伯爵の座に着くのは不都合だと思っているとある権力者で、実行犯は雇われの殺し屋。これらの確保自体は簡単だ。
最後の事件に関しては、これらを解決してから改めて調べなおすことにするとロゼウスは言った。もしかしたら最後の被害者は奴らが何かの事故で手違いに殺してしまった可能性などもあり、一連の吸血鬼事件とまったく無関係かどうかはその辺りを犯人から聞き出さなければ情報を確定できないからだ。
裏を返せば、最後の事件だけはそれだけ周囲の証拠固めをしなければ誰がやったのかまったくわからない状態だとも言える。その前の五人はともかく、最後の男性被害者だけは、それまでと同じ理由で殺されたとも思えず、同一犯とも思えない。
けれど、人の首を素手で捩じ切るなどといった行為そのものが、まるで吸血鬼の仕業なのだ。吸血鬼事件を演出するために本物の吸血鬼、すなわちローゼンティア人の刺客を犯人が雇ったという可能性もあるが……。
奇妙なことに、最後の殺人の実行犯だけは、まるで雲を掴むように実態を掴むことができなかった。
皇帝は探偵ではない。推測だけで話を進めても仕方がないと、彼らはひとまず実行犯である殺し屋の確保に乗り出した。
ジュスティーヌたちの話を聞きながら、ミシェルが目を潤ませる。
「みなさん、本当にありがとうございます。陛下だけではなく、囮を務めてくださったランシェット先生や、こうしてここで僕の仕事を支えてくださったメイフェール侯爵、スピエルドルフ卿も、いくら感謝してもたりません」
ミシェルは涙を浮かべながらも微笑んだ。
「僕は――」
何かを続けようとしていた唇が、ふいに戦慄いて言葉を途切れさせる。紫の瞳が一瞬見開かれ、瞳孔が揺らいだ。
ぐらりとその体が前のめりに傾ぐ。
「伯爵?!」
ジュスティーヌが叫び、エチエンヌが慌ててその体を支えた。ミシェルは苦しそうに胸元を押さえて、荒い呼吸をしている。その顔色は素人目にも明らかなほどに悪い。
「誰か、来て! エァルドレッド伯の容態が――!!」
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毒殺マニアの変態は、ルルティスを文字通りの毒牙にかける前、あるいはルルティスからの痛烈な反撃を喰らう前に穏便にロゼウスに確保された。
さすがに目の前に皇帝が現れれば、いかな殺し屋も冷静ではいられない。これが国王程度であれば、あるいは彼も平静を保てたかもしれない。だが相手は皇帝だ。一国を抜け出せば二度と遭わずに済む国王程度とは格が違う。
たいした拷問ができずに惜しいなどと呟いているルルティスの静かな脅しを受けながら男が口にした名は、案の定彼らがあたりをつけていた、ミシェルの政敵である貴族。
しかし事件はここでは終わらなかった。
「で、あの日の殺しは?」
「あの日?」
これまでの女性や子どもばかりが狙われていた事件の最後、酔っ払いの男が首を捩じ切られて殺された事件のことだ。しかし殺し屋の男は自らの犯行を否定した。
「知らない。それは俺の仕事ではない。他に人を雇ったという話も聞いていない」
「なんだって? じゃあ、あの殺しは誰が……」
ロゼウスはルルティスと顔を見合わせた。二人より一歩引いた場所に立っているジャスパーも顔色こそ変わらないが、微かに眉を顰める。
と、そこへ新たな影が降り立った。
ロゼウスが背後から身を刺す殺気に振り返るのと、彼の方を向いていたルルティスと殺し屋の男が目を見開くのは同時だった。
いつの間にか、銀髪の男がそこにいた。銀髪に、紅い瞳。
それは吸血鬼の特徴だ。
「ジャスパー!」
ロゼウスが弟の名を呼ぶが、ジャスパーは答えられない。少年の口元は突如として現れた男に、しっかりと塞がれていたからだ。
「……美しいな。地上にもこんな美しいものがあるとはな」
男は今宵の犠牲者を探し求めていた。
ジャスパーを背後から抱きすくめるようにして、男は驚き仰のいたその顔を品定めしている。背後を振り替えろうとして中途半端な姿勢でそれを止められたジャスパーは、男に頤を掴まれて身動きが取れない。
白銀の髪に紅の瞳と、尖った耳の吸血鬼。
「何者だ」
「人に名を尋ねる前に、自ら名乗るのが礼儀ではないか? 地上の吸血鬼よ」
ロゼウスは対峙する男と同じ真紅の瞳を鋭く細める。
「この帝国に俺の名を知らない者がいる方が異常なんだ。お前は……この帝国の民ではないのだな?」
男は、“地上”と言った。
ローゼンティア人ではなく、地上の吸血鬼、と。それが意味することはただ一つ。
「かつて世界が分かたれた時に、皇帝から居住を認められずタルタロスに居を移したという吸血鬼の一族か」
ルルティスとジャスパーが驚きに目を瞠った。
これは世間一般には知らされていない知識なのだ。死者が赴く黄泉の府と同じ次元にある土地に、かつてローゼンティア人と袂を分かった吸血鬼の一族がいるなどとは。
ロゼウスも皇帝になってから知った。「ローゼンティアの吸血鬼」という言葉。これはローゼンティア以外にも吸血鬼と言う存在がいるためにそう呼ばれていたのだ。
「俺はこの世界帝国アケロンティス第三十三代皇帝ロゼウス=ノスフェル=アケロンティス=ローゼンティア。その“地下の吸血鬼”が、今更地上に何の用だ」
「私はクレスト=デューク=ノヴァンゼル。タルタロスのノヴァンゼルの王だ。ちょうど我らの土地の真上で、地上の人間どもが吸血鬼がどうのと騒いでいるのを偶然耳にしてな。ちょいとからかってやるつもりでこちらにやってきただけ。貴様などに用はない」
睨み付けるロゼウスの眼光に怯むこともなく、クレストと名乗った男は余裕の笑みを浮かべる。その両手は、いまだジャスパーを捕らえたままだ。
「ああ、だがこちらの少年はいいな。実に私好みだ」
クレストは驚愕に凍り付いているジャスパーの額に口付けを落とす。そして挑戦的な目でロゼウスを嘲笑うように見た。
「貰っていく」
「ふざけるな!」
ロゼウスが駆け出すが、相手の姿が揺らめく方が早い。
「兄様!」
ジャスパーが必死に手を伸ばす。けれど、届かない。蜃気楼のようにクレストと、その腕に抱かれたジャスパーの姿が消える。
後には呆然とするロゼウスとルルティス、それからこのやりとりですっかり存在を忘れ去られていた殺人犯の男だけが残された。