056
かつて、始皇帝シェスラートがこの世に現れ出でるまで、この世界は混沌の最中にあった。
強大な魔力を持ち他の人族を支配する魔道の王国ゼルアータ。今は黒の末裔と呼ばれるかの民族が絶大な権力を持ち、世界は彼らに従う者と従わぬ者に二分された。
そのうち、ゼルアータ人に従った方の民族は、後に神の託宣を受けた始皇帝シェスラート=エヴェルシードの名の下、革命軍として蜂起する。今現在、「帝国」を名乗るのは、この時シェスラートに従った民族と、彼らに敗北を喫したゼルアータ人。
では、もともとゼルアータに「従わなかった」方の民族はどこに消えたのか?
ノヴァンゼル。
クレストと言う名の吸血鬼はそう名乗った。
この地上の底、遥か彼方の地底の国を、タルタロスと言う。
地上の生き物が死ぬとまずエレボスへ向かい、それから罪の多寡を判断されて楽園であるエリュシオンに向かうか、地獄と呼ばれる大地の奥底タルタロスに向かうかを決められる。
タルタロスは、贖いきれぬ罪を犯した死者が向かうべき場所だ。
ノヴァンゼルの吸血鬼たちはかつてローゼンティアと袂を分かち、地の底であるタルタロスへと消え去った。
その彼らが、どうして今頃地上に出てきたのか……。
◆◆◆◆◆
「皇帝陛下」
エァルドレッドの街で連続殺人を起こした実行犯である男を縛り倒した後ひとまず昏倒させ、ルルティスはロゼウスの傍らへと歩み寄る。
ロゼウスは呆然としたまま、先程の吸血鬼が消えた場所を見つめていた。その腕の中に捕らえられたジャスパーは逃れること適わずに、クレストと名乗ったあの男と共に、恐らくは地底――タルタロスへと連れていかれたはずだ。
「ハデスを呼ぶ……ッ!! ジャスパーを取り戻さなきゃ……」
「皇帝陛下!!」
取り乱すロゼウスの意識をこちらへ向けるために、ルルティスは叫んだ。
「この殺人犯の男はどうするおつもりですか?」
「あ……」
「それに、この男の背後にいる貴族連中。こちらが早く動かねば、証拠を消される恐れがあります。そこまでしなければ、エァルドレッド伯の安全は確保できませんよ」
ルルティスの声は冷静だった。冷静にすぎた。
弟が目の前で攫われたロゼウスに取り乱すことを許さず、「皇帝」として振る舞えと無言で告げる。
目撃者が少ないことは幸運だったはずなのに、今ではそれが転じて面倒なことになっている。ミシェルに吸血鬼事件の解決を任された以上、ロゼウスはそれを放り出すことはできない。
吸血鬼のクレストは連続殺人犯が関わっていない最後の殺人の容疑者ではあるが、証拠はない。そして彼がジャスパーを連れて地底に去った以上、すぐに次の殺人が起きるとは考えられない。
名目上のその理由と、連続殺人犯の確保から通じる貴族を調べ上げてミシェルを疎む敵を減らしたいという理由が、ロゼウスの足を鈍らせる。
優先順位はどちらか。
どちらを選んでも、どちらかは僅かな差で抜き差しならぬ状況になる可能性が高い。
「陛下、あなたは……」
酷く悲しげな顔をしたルルティスが、何事かをロゼウスに告げようとした。その前に、彼ら以外人気のない大通りに息せき切った足音が駆け込んでくる。
「ロゼウス! ランシェット先生!」
「エチエンヌ? どうした」
ミシェルの城に残っていたはずのエチエンヌが、珍しく取り乱した様子で二人に駆け寄ってきた。彼の運動能力ではこの街を二人を探して駆け回るぐらいで息があがるはずもない。そもそもエチエンヌの辞書にただの殺人鬼を確保しにいったロゼウスを心配する言葉などあるはずがないので、彼が何故そんなにも焦った顔をしているのか、二人には見当もつかなかった。
エチエンヌの次の言葉を聞くまでは。
「エァルドレッド伯の容態が――」
それを聞いた瞬間、ロゼウスは弾かれたように領主の城に向かい走り出した。
◆◆◆◆◆
「ミシェル!」
「皇帝陛下!」
エァルドレッドの城に戻ったロゼウスを出迎えたのは、ウィリアムの泣き顔だった。病人の枕元にいても何も役立たないと、伯爵の弟は医師らに部屋から追い出されたらしい。
「陛下、お戻りになられましたのね」
「ジュスティーヌ、状況を説明しろ」
「はい」
皇帝のことをよく知る彼女は、長々と面倒な挨拶などもちろん挟まなかった。ミシェルの容態と城内の人々の行動を簡潔に説明する。
「伯爵の処置は主治医が行っておりますが、容体が好転する様子はありません。主治医が手を尽くしても、今夜が峠とのことです」
冷徹なほどに冷静なジュスティーヌの言葉に、ウィリアムの両目からはついに涙が零れた。これまで気丈に兄の代わりに采配を振るっていた少年は、限界を迎えて自室へと駆け出していく。
城の中では全ての使用人が忙しく立ち働いていた。誰もが青ざめ、暗い顔をしていることからミシェルの容態は相当悪いことがわかる。
「伯爵が倒れた現場に私も居合わせましたが、彼は――」
ジュスティーヌは最後まで語らずに目を伏せる。彼女が言葉を途切れさせた、それが何よりも雄弁に彼女の意見を語っていた。
ミシェルは誰の目から見ても、もう長くはないのだ。
「……っ!!」
ロゼウスはジュスティーヌを置いて、ミシェルの部屋へと走った。
「こりゃ! 面会謝絶だと――陛下!!」
ミシェルの主治医が許可もなく飛び込んできた相手に叱責を与えようと振り返り、そのまま立ち上がった。
「容態は」
ロゼウスの問いに、彼はジュスティーヌがすでに述べていた見立てとほとんど変わらぬことを語った。
そしてロゼウスの目から見ても、寝台に横たわるミシェルの様子は先があるように見えなかった。否、只人には見えない世界が視える皇帝の眼差しは、視えぬはずの未来をもはっきりと見通した。
青白い顔で頬だけが熱に上気したミシェルの体力は、朝までもたない。
わかってしまった。わかってしまうのだ。ロゼウスは皇帝だから。そして皇帝であるからこそ、ロゼウスはその「運命」を回避する方法も知っている。
拳をきつく握りこみ、唇を噛みしめた。
「医師よ、ミシェルのことは頼んだ」
主治医は跪き、頭を垂れて頷く。もとより彼の役目を取り上げるつもりはなく、主治医自身皇帝が改めて命ずるまでもなく役目を全うするつもりだろう。
だが、それだけではミシェルを死の淵から救うことはできない。
ロゼウスは駆け出した。さすがに真剣な顔の皇帝を止める使用人はおらず、ミシェルを案じて悲痛な顔をした人々が、足早に通り過ぎるロゼウスを縋るように見つめてくる。
「……、皇帝陛下っ!!」
ロゼウスが城の玄関にあたる広間に辿り着いた頃、彼から遅れることしばらくしてようやくルルティスが戻ってきた。だがロゼウスの用はルルティスよりも、彼を連れたエチエンヌの更に連れにある。
「エチエンヌ、アレイオンを貸せ」
「御意。……でも、何を」
かつてロゼウス自身がその手で作り出した硝子の神馬、アレイオンをロゼウスは一時的に借り受ける。続いて、まだ息を整えているルルティスに向き直った。
「ルルティス=ランシェット。吸血鬼事件の実行犯拘束、およびその背後の首謀者の洗い出しと確保を命じる」
「陛下! ……ジャスパー様のことはどうなさるおつもりですか?」
ルルティスはロゼウスの命令に逆らう素振りではなかったが、その前にこれだけはという風情で口を挟んできた。
今ここでロゼウスがミシェルのために「何か」をすること。
先程は言葉が途切れたが、それはつまりジャスパーを見捨てることだ。
そしてロゼウスは、はっきりとそれを口にした。
「――今はミシェルが先だ」
「陛下」
「私はミシェルが死なぬよう、ある場所に行く必要がある。吸血鬼事件の収拾はお前に任せた」
ミシェルの命に関してはロゼウスが、吸血鬼事件を解決してエァルドレッド領の治安維持に関してはルルティスが受け持つ。
ロゼウスははっきりと言い切ったのだ。
ミシェルを救うために、ジャスパーを切り捨てるのだと。
完全に捨て去るわけではない。もちろんこの騒動が収束したら彼を助けに行く。けれど彼は、例え一時的にとはいえ、実の弟のことを後回しにした。
ロゼウスと同じく超越した力を手に入れた皇族のジャスパーよりも、帝国の無力な民であるミシェルを救うことを優先したのだ。
今になってようやくジャスパーの不在に気づいたらしいエチエンヌは不思議そうな顔をしていた。ルルティスはなおもロゼウスに問いかける。
「それで、いいのですか?」
ロゼウスの行動は間違ってはいないだろう。彼は皇帝なのだから。皇帝が民を第一に考えるのは当然だ。
ジャスパーはロゼウスの部下ではあるが、ロゼウスの民ではないのだ。
ルルティスの問いに、ロゼウスはしっかりと答えた。
「ああ」
簡潔な言葉。その一言で決定される多くのこと。その一言で切り捨てられるその人。
「ああ。……いいんだ」
ルルティスはもはや何も言わなかった。ただロゼウスから下された命を実行するために静かに頷いて、早速行動を起こす。
思うことはまだあった。言いたいことはまだあった。けれどそれを口にしたところで、誰ひとり救われないのだ。
本当に、それでいいの?
ロゼウスは本当は、痛い程にジャスパーの身を案じている。普段はどれだけ邪険な扱いをしていようと、それでも彼はただ一人の選定者。今となってはたった一人四千年前から残された、彼の家族。
それでもロゼウスは、人としてよりも皇帝として生きることを選んだ。
――本当に?
ミシェルとウィリアムはロゼウスのかつての弟たちの生まれ変わりではないかと思うくらい、よく似ているのだという。だとしたら彼は、ジャスパーよりも他の弟を優先しただけではないのか。
考え始めればどす黒いその想いは留まるところを知らない。
ロゼウスは何をするつもりなのか、エチエンヌからアレイオンを借りるために城の外の厩舎へと向かう。
何かが、軋む音がしていた。