薔薇の皇帝 12

058

「皇帝陛下!」
 ロゼウスの帰還を知るなり、ジュスティーヌが駆け寄ってきた。出かける前には青ざめていた顔色に幾分か色が戻り、ロゼウスの胸に辿り着く頃には、涙を浮かべながらも笑顔になっている。
「伯爵の容態が持ち直したんです!!」
「ああ、良かったな」
 エァルドレッド城内の空気も、主の容態が峠を越したことを知って幾分か和らいでいた。真夜中にも関わらず立ち働いていた人々の数が少なくなり、護衛や明日の支度をする僅かな人数を除けば、皆自室で休むようになったらしい。
「ウィリアムは?」
「お休みになられてます。ミシェル卿はもう大丈夫だと主治医に報告されて、そのまま倒れ込むように寝入ってしまいました」
「そうか。もう遅いからな。ジュスティーヌ、お前も早く休め」
「陛下……」
 ジュスティーヌはにっこりと微笑んだ。
「言われなくても、わたくしもうすでに限界突破ですわ」
「わー!! ジュスティーヌ?! しっかりしろー!!」
 ぐらりとそのまま倒れ込んだ身体を、ロゼウスが慌てて支える。ミシェルの方に気を取られて誰も気遣う余裕がなかったが、ジュスティーヌ自身も相当病弱なのだ。
「い、医者ー!!」
 周囲で様子を見ていた侍女の一人が、慌てて医者を呼びに駆け出す。残念ながらジュスティーヌの専属薬師は現在カルマイン領で留守番中なので、ミシェルの主治医は城主の容態が安定してようやく一休みできそうなところでもう一人患者の面倒を押し付けられることとなった。
「ロゼウス、戻ったんだな!」
「エチエンヌか。アレイオンは厩舎に戻して来たぞ。状況を報告してくれ」
「僕の方がこの状況を聞きたいくらいなんだけど……また倒れたのか、メイフェール侯爵」
 ジュスティーヌの運び出しであたふたしている広間を見遣り、エチエンヌが溜息をつきながらもロゼウスに簡潔な報告を済ませた。
「医者が首を捻っていたぞ。急に容態が安定したって……お前が何かしたんだな?」
「さぁ、何のことかな。日頃の行いに対する神の奇跡ってやつじゃないか?」
「ミシェル卿の日頃の行いなんて知るほど、付き合いが長いわけでもないくせに……ところで」
 エチエンヌが眉を潜めながら尋ねた。
「ジャスパー王子はどうしたんだ。街に行くときはお前たちと一緒に出て行ったはずなのに、戻ってこないようだけど」
「ルルティスに聞かなかったのか?」
「あの人は何も言わなかった。陛下に聞けって、そればっかり」
「そうか」
 エチエンヌに対し、ロゼウスも簡潔に説明する。地底からローゼンティア以外の吸血鬼が現れたというくだりでは、さすがにエチエンヌも驚いたようだが。
「は、え? 何、それ? ローゼンティア人以外の吸血鬼? それがずっと地底にいて、今更出てきてジャスパー王子を攫ったって? でも」
 エチエンヌは緑の瞳を、ゆっくりと瞬かせた。
「なんでそんな奴らが今更地上に現れたんだ?」
 その問いは、今回の問題の根幹に関わるものだ。
「それは――」
「ロゼウス? お前、何か知っているのか?」
 今は皇暦七〇〇七年。
 ノヴァンゼルの一族が地上にいたのは、帝国が始まる以前。つまり帝国が始まって以来七千年以上経つその時間、かの一族はずっとタルタロスにいたはずなのだ。
 その彼らが、何故今頃、今更地上にやってきたのか。
「皇帝陛下」
 静かな足音と声がエチエンヌの問いに答を返す機会を逸しさせた。
 いつものように本を片手にしたルルティスが、ロゼウスとエチエンヌに告げた。
「メイフェール侯爵の処置は終了したそうです。陛下にお会いになりたいと」
「そうか、じゃあエチエンヌ、行って来い」
「え? いやいやいや、御指名を受けたのはお前だろ。なんで僕が」
「皇帝命令だ。行って、ジュスティーヌに不自由がないようにしてきてやってくれ」
「それこそお前が行けよ、僕が行ったって嫌な顔されるだけだってのに!」
 もとより素直な性格のエチエンヌは、口では渋りながらも言われた通りジュスティーヌの様子を見に行くために場を外す。使用人たちもほとんどが奥へと引っ込んでいて、こんな玄関先で話をしている者は他にいない。
 そうして広間には、ロゼウスとルルティスだけが残された。
「……お帰りなさい、陛下」
「ああ、ただいま」
「すぐに出かけられるのですか」
「ああ。お前の報告を聞いてから」
「問題はありませんよ。別にこれは僕程度の学者の権力ですら、罪状などなくても捏造して追い込むことが可能なほどの事件ですから。実行犯を確保した今では尚更。私がいなくても、二大宗教の代表者お二人がいらっしゃいますし」
 シライナとラクルはミシェルの容態に関して神に祈る代わりに、このエァルドレッド領に関してもっと役立つ仕事をしてくれた。ミシェルの容態によって事務作業が滞らないように、聖堂で祈る暇も惜しんで書類作成を手伝ってくれたのだ。
 使用人たちの一部は意外と不信心な態度の聖女と聖人に不満を抱いた者もいたようだが、ルルティスは逆に好感を持った。主がペンをとれないその時に領地の業務に支障が出るか出ないかは、その人物を領主として据えるのに重要な問題だ。
「そうか。なら、こちらには何の憂いもないな」
 ルルティスの話を聞くなりロゼウスはくるりと踵を返し、今入ってきたばかりの扉を再び出て行こうとする。ジュスティーヌが倒れた騒ぎで少々まごついたものの、出かけてこちらに戻ってきてから、半刻も経っていない。
 そしてまた今度は、深い大地の奥底で今も彼の助けを待つ弟を救いに行こうとしている。
「そちらのお手伝いをしましょうか、陛下」
「必要ない」
「エチエンヌ様たちは」
「必要ない。……冥府への扉を開くのは、今のハデスには負担なんだ。俺一人通すだけでも苦行だろう」
 いまだ冥府の王の称号だけは保持しているとはいえ、今のハデスには姉が皇帝で自信が選定者だった頃ほどの力はない。それでもロゼウスが単身で地底に渡るには彼の力を借りる以上の問題が山積するため、ハデスに頼るしかない状況だ。
「そろそろあいつもこちらに来る頃だしな」
「この城を出る前に皇帝領に遣いを出していましたね。全て計算ずくってわけですか」
 エァルドレッド城に戻る前には取り乱して、せっかく確保した吸血鬼事件の実行犯をも放り出す勢いでジャスパーを取戻しに向かおうとしたロゼウス。それを諌めて、今起きている事件に目を向けさせたのは他でもないルルティス自身だ。だが今の彼は、琥珀の瞳を苛立ちに細める。
「気に入りませんね」
 ルルティスは冷ややかな視線をロゼウスに向けた。
「あなたにとって、選定者……いえ、ジャスパー様とは何なのです?」
「どういう意味だ」
「あなたは一見ジャスパー様に冷たくあたっているように見える。けれど裏を返せば、あなたの中でジャスパー様に対してだけ態度が“特別”だ」
 ジャスパーが攫われた時、ロゼウスは確かに取り乱した。他でもないその場にいてその様子を見ていたルルティスは知っている。
 一度諌められてからは、ロゼウスはまさしく人が思い描く皇帝としての理想通りに振る舞った。身内の問題は後回しにし、このエァルドレッド領のために、そして領主ミシェルのために動いた。
 けれどその間隙に、ルルティスには見えてしまったのだ。
 ロゼウスの、ジャスパーに対する執着が。
 天下の皇帝は一見自分の弟を後回しにしてミシェルたちエァルドレッドの人々のことを考えたようだけれど、実は今もジャスパーのことを酷く気にかけている。ハデスがこのエァルドレッド領に来るまでの時間を利用してミシェルを救うために何かをしてきたようだが、その胸の内には地底の吸血鬼たちに対する怒りが燻っているのが透けて見えた。
 押し付けられた書類仕事をこなしながら、本来ならばそれもロゼウスの役目だったのにとルルティスは一瞬考えたのだ。もし本当にロゼウスがジャスパーのことなどどうでもいいと思っているなら、そちらまできちんと終わらせてから地底に向かうはずだ。
 いくらミシェルの問題よりは後回しにしようと、ロゼウスは確かにジャスパーを気にかけている。
 ルルティスは、それに嫉妬しているのだ。今はそんなことを言っている場合じゃないとわかっているが、それでも。
「陛下、一つだけお聞かせ願いたい」
 ハデスが来るまでにもう少しかかるようだ。ルルティスは別にジャスパーへの嫌がらせでロゼウスを足止めしたいわけではない。ハデスが来たらすぐに話をやめようと考えて、先程の話題をあえて自分から逸らして別のことを尋ねた。
「何故今更、地底の吸血鬼などがこの地上にやってきたのですか?」
 それは先程エチエンヌも尋ねて、結局ロゼウスが答えそびれた今回の問題の根幹だ。
「恐らく、私の力が弱まっているからだろう」
「え?」
「皇帝の記録を取りたいお前には不本意な事態になるやもしれんが、私の皇帝としての任期はそろそろ終わりなんだよ。ルルティス」
 地底の吸血鬼が地上にやってくるまでには、ハデスやロゼウスなど地上で皇族としての権力を持つ者たちが作り上げた結界を突破する必要がある。その結界が、ロゼウスの力に応じて今は弱まっているのだ。
 あっさりと放たれた言葉とその思いがけない内容の重大さに、さしものルルティスも言葉を失った。
「もうすぐこの世界は、三十四代皇帝を迎える。その時に私の皇帝としての力も消える。地底の吸血鬼たちがこの時代に地上に興味を持ったのは偶然だろうが――奴らが地上に出てきたのは、私の力が弱まったせい」
 ルルティスはぽかんと口を開けてロゼウスを見ていた。
「そ、んな。何かの間違いじゃ」
「いいや。皇帝には自分の力の衰えが完全にわかる。私の先代もそうだった」
「あと何年くらい皇帝でいられるんですか? 五年? 十年?」
「最大で二年だ。早ければ一年」
「一年……」
 琥珀の瞳が呆然としていた。ロゼウスは痛いような気持ちでそれを眺める。こんなことがなければ、ぎりぎりまで言わないつもりだった。
 けれど、世界は彼の思うようには歩みを止めてはくれない。かつての弟たちが転生するほどに時間の経ったこの世界で、ロゼウスだけがいまだ過去の遺物として存在し続けている。
「ハデスが来たようだな」
 城の外に気配を感じ、ロゼウスは足を向けた。
「皇帝陛下!」
 振り返らない白い背中に向けて、ルルティスが問いかける。
「あなたは、皇帝ではなくなったらどうなさるおつもりなんですか!」
 ロゼウスはただ手を振るだけで、その問いには答えなかった。

 ◆◆◆◆◆

 残されたルルティスは、深い溜息をついた。
「あと、二年か……」
 気持ちが翳り、視線が大理石の床へと落ちた。
 なんだかこの地に来てから、気分が落ち込むことばかり起きているような気がする。
 シェリダンのことがあってもロゼウスを想い続けると先日決めたばかりだというのに、立ち塞がる障害の多さに心が挫けそうになるのだ。
 この城に来てから、ロゼウスに関して知らなかったものばかり見ている気がする。
 彼が心を遺す過去にいた弟たち。彼にとって特別な選定者。
 彼らのためならばロゼウスは、あんなに必死な顔で行動するのだ。皇帝としての権限も何もかも行使して、普段は仕事を押し付けないような相手にまで押し付けて。ミシェルなんて今では赤の他人のはずなのに、彼が弟の生まれ変わりだというだけでロゼウスは皇帝としての権力を駆使して無茶をする。
 ルルティスには決して知ることのできない四千年前という時間。その中にいた、ロゼウスと血の繋がった家族たち。
「ジャスパー様」
 ルルティスはぽつりとその名を呼んだ。
「私は、あなたが嫌いです」
 ロゼウス自身にそうと意識させないまでも、傍目から見れば明らかに彼に特別扱いされている皇帝の選定者。かつての弟たちの生まれ変わりとはいえ今は他人であるミシェルともウィリアムとも違う、ロゼウスにとって唯一にして本当の弟。
 皇帝領の面々で言うならば狂王妃ローラよりも、皇帝の愛人フェルザードよりも、選定者ジャスパーこそがルルティスにとって憎しみを向ける対象だ。
 城下町で後先も考えずジャスパーを取戻しに向かおうとしたロゼウスを止めた自分の心の中にあったのは、果たして本当にこの街のためという政治的判断だったのだろうか。心のどこかで、ロゼウスをあれほどまでに動揺させるジャスパーに対する嫉妬があったのではないか? あの時の判断は間違っていないと自分でも思う。けれどその判断を下した考えの奥底にあった気持ちは、本当に街のためだなんて、そんな綺麗な気持ちだったのだろうか。
 こんな醜い自分を思い知るのは嫌なのに、嫉妬する心は止められそうもない。
「皇帝陛下……」
 返事のかえるあてもない呼び声。ルルティスは迷子のような気持ちで、一人その場に蹲って呟いた。