薔薇の皇帝 12

060

「案内は」
「いらない。誰か適当な相手を見つけるさ」
「……ま、皇帝が直々に乗り込んできたとなれば、ラダマンテュスが黙ってはいないだろうけどさ」
 ウィスタリアまでやってきたハデスが門を開き、ロゼウスは冥府へと降り立った。
 紫の空が覆う大地の奥底。ロゼウスはここに来るのは初めてではない。
 かつて、他でもない今目の前にいる男に嵌められてこの地底の死者帝国へ赴いたことがある。先代皇帝の弟にして選定者であったハデスは、ロゼウスが皇帝の地位につくと共に自らの力が失われることを酷く恐れ、ロゼウスに敵意を持っていた。
 今でもその敵意が失われたわけではない。けれど他でもない皇帝の代替わりを阻止するために友人となった相手を、その企みのために喪ったことに衝撃を受けてからは、いっそ自棄とも言える従順さで彼は新皇帝ロゼウスに忠誠を誓った。
 その喪った友人とは、シェリダン=エヴェルシード。
 手段と目的はいつの間にか入れ替わり、動き出してしまった歯車を止めることは叶わず、かけがえのないものが失われた。
 今日赴く場所はあの日とはまったく別の土地だが、冥府というとどうしても四千年前のことを思い出さずにはいられない。それはロゼウスも、ハデスも同じだ。
 彼らに関わり、彼らが傷つけ、死後の国送りにした多くの人々。彼らの多くはすでに忘却の川向うかもしれぬが、中にはまだロゼウスたちを恨んで地底の国に残った者もいるのだろう。
 それでも今は、ジャスパーのことが先だ。
「向こうに滞在できる時間は半日だ。それまでなら、タルタロスとこちら側の時間の流れの調整を僕がやってやる。でもそれを越えたら――」
「半日もいらない」
 死者の赴く場所だけあってあらゆる法則が地上とは違う異世界の説明を懇切丁寧に始めようとするハデスの言葉をロゼウスは遮る。
「一刻で十分だ。ジャスパーを回収し、奴らを滅ぼすまで」
「……滅ぼすつもりなのか? 今回のことに関係のない者まですべて?」
「ああ、その方があとくされがなくていいだろう」
「この鬼め」
「吸血鬼だ」
 笑いもせずにロゼウスは言った。ハデスが開いた冥府の門となるべき光り輝く魔法陣の上で、底冷えのする声音で宣言する。
「皇帝に盾突く愚か者に、本当の地獄を教えてやる」

 ◆◆◆◆◆

 死者が住む地獄の国が燃えている。この世の地獄ならぬあの世の地獄という笑えもしない事態に、ノヴァンゼルの吸血鬼たちは呆然とした。
「消火を! 急げ!」
「その必要はない」
 部下の貴族たちに指示を飛ばすクレストの耳に、雪のような声が滑り込む。
 それはしんしんと降り積もり、降り込め、やがて全てを純白の深雪の下敷きにしてしまう静かなる暗殺者と同じ。
「世界皇帝……!!」
「私のものを返しに来てもらったぞ。ノヴァンゼルのクレスト王よ」
 憎き宿敵の姿を前にして、クレストはぎりぎりと奥歯を噛みしめた。
 冥府の街を焼き払うロゼウスの炎は純白。その中に浮き上がるように現れた皇帝の姿は、一幅の絵のよう。だが、その静謐なる残酷さの背後では、高温の炎に同胞たちが焼かれていく様子が見える。
「貴様、正気か?! まさかこの地底の吸血鬼を全て焼き殺すつもりか?!」
「そのつもりだが?」
 何を当たり前のことをと言わんばかりの顔で、ロゼウスはクレストの悲鳴のような問いを肯定した。
 街が燃えている。民家が燃えている。同胞たちが、大人も子どもも老人も誰もみな、ああ。
 何もかもが燃えている――!!
 クレストの周囲には、先程までジャスパーを弄んでいた男たちもいた。ロゼウスがスッと目を細める。
「お前たち、逃げ――」
 彼の忠告が言葉になる前に、ロゼウスの手から飛んだ炎が男たちを生きながらに焼き尽くす。
「――――!!」
 この世のものとも思えない断末魔。どんな悪鬼の所業かと思うような残酷な行為に、最後に一人残されたクレストは愕然と目を瞠る。
 ロゼウスはすでに吸血鬼であって吸血鬼ではない。普段は皇帝としての特殊能力をひけらかすようなことはないが、今はその力を最大限に引き出し、本来のロゼウスでは使えるはずのない炎の術で遥か昔同胞であったはずの一族を滅ぼしていく。
「な、何故……」
「一人でも残しておけば、そこからまた復讐が行われる。他でもない私だからそう知っている。たかが始皇帝に封じられたくらいで地底に逃げ込み、七千年も沈黙していたお前たちとは違う」
 地上で閉鎖的ながらも国家を築き、人間たちと交わりながら生きてきたローゼンティアの吸血鬼たちは、ノヴァンゼルと比べればやはりどこか人間臭いのだ。
 欲に溺れ、背徳を行い、血で血を洗い、同じ過ちを繰り返し。
「全員燃えたな」
 一瞬目を閉じて何かを感じ取るようにしていたロゼウスが言う。
「全員、元の“記録”へと還った」
 細められた眼差しがクレストを見る。一種族を殲滅する者としては、静かすぎる眼差し。
「次はお前の番だ」
 炎の壁を背にした少年はそう言い放ち、クレストはそれを聞いた瞬間踵を返し駆け出していた。
 居城へと戻り、鎖で一室に繋いでいた人質の少年を引きずるように掴みあげる。
「な……」
 裸に薄いシャツを一枚かけられただけのしどけない姿のジャスパーは、クレストの形相に驚いたように目を瞠った。しかし腕力ではクレストに敵わない上にまだ腕を銀の縄で拘束されているため、抵抗もできずに引きずられていく。
「ジャスパー!」
 吹き抜けになった階段の踊り場から覗ける入り口に、ロゼウスの姿があった。
「お兄様! ……っ!」
「来い!」
 兄の方へ踏み出しかけたジャスパーを、クレストが強引に引きずっていく。ジャスパーを引きずっている限り、ロゼウスは攻撃してこない。読みは当たり、長靴の底が床を蹴る硬質な音だけが響く。
 けれどそれも、クレストが城の頂上まで追い詰められるまでだ。
 開けた屋上の見張り台で、ついに追い詰められる。
「ジャスパーを放せ」
「兄様……」
 ロゼウスの声に、クレストはいっそう離すまいと華奢な少年を引き寄せた。
「それは私のペットだ。貴様なんぞにはやらん」
「兄様、奴隷でもいいですから、せめて人間扱いしてください……」
 この期に及んで呑気な会話をしている兄弟が妬ましい。
 こちらの隙を窺い足を進めようとするロゼウスを牽制するため、ジャスパーの首筋に、尖らせた爪を当てた。
「弟の命が惜しくば、などと愚かなことを言ってくれるなよ? 俺たちは皇族だ。並のことでは死なない」
 ロゼウスが感情を読ませない瞳で告げる。真紅の瞳は煮え滾るマグマを通り越して、暴発する寸前の凪のよう。
「例え俺の皇帝としての力が衰え、この地底に張られた始皇帝の結界を維持できなくなろうとも」
 ジャスパーがハッとした顔でロゼウスを見つめる。これまでにこのことを聞かされていなかったらしい。
「代替わりはまだ起きてはいない。不死性は有効だ。例えここで全てが死滅する炎を放とうと、死ぬのはお前だけだ」
「は……貴様にそんなことができるかな? 皇帝」
 じわじわと追い詰められる緊張と息苦しさの中で、それでもクレストはロゼウスがその口で言ったようなことをするはずがないと確信していた。
 この男はどれほど残酷な言葉を吐こうとも、それを実行することはないと。
 その理由は今自分の腕の中にいるジャスパーの存在だ。被害を考えずに炎を放つのであれば、階段を駆け上がる途中にでもジャスパーごと燃やしてしまえば良かったのだ。
 そうしなかったのは、ひとえに皇帝にとって、この弟の存在が重要だからだ。
「お前はこの弟王子を自らの手で殺すことなどできないはずだ。愛しているのだからな」
「……愛している? 俺がこれを?」
 クレストの言葉に、ロゼウスは呆れたような、蔑むような、変な顔をした。
「馬鹿なことを。ジャスパーは俺の選定者だ。選定者は皇帝のものだ。だから俺はこいつを自由に扱う。ただそれだけ。自分の玩具を人にとられるのは癪だろう」
「は、貴様こそこの期に及んで、幼稚な言い訳を。私は知っているのだぞ。この地底の結界が緩んでからずっと、地上でお前の隙を窺っていたのだから!」
 結界の緩みは、魔術的な煙幕の緩みでもある。地上を鏡のように映して当代皇帝の生活をあますところなく追っていたクレストは、ある日その存在に気づいたのだ。
 皇帝とよく似た顔立ちの、けれど性格の違いから浮かべる表情も仕草もまったく異なる雰囲気の少年。少年の皇帝を見る眼差しの真摯さと、彼を見る皇帝の眼差しの異質さ。
 気付いたら目が離せなくなっていた。
 手折った瞬間に萎れてしまう可憐な花のような儚い美しさ。そして皇帝は、水底に沈殿する澱を抱えた透明な水面のように、憎悪を含みながらも悲しそうな目で彼を見る。
 二人の繋がりは糸よりも細いようで、けれど決してきれない。
 地上に赴いたのは。結界を越えたのは、本当は自らの手で触れてみたかったからなのかも……知れない。
「ふん……知らない間にここにもストーカーがいたわけか。だがな、クレスト=ノヴァンゼル。俺は四千年前も、力が弱まっていったこの数年間も、ジャスパーだけを相手にしていたわけじゃない。ジャスパーに唯一触れる俺に対してその感情を読み取ったのは、お前自身がジャスパーに対してなんらかの感情を持っているからじゃないのか」
「――」
 クレストは言葉を失った。
 そんなことは考えてもみなかったことだ。
 こうして地上に進出し、一国をも巻き込む騒動を引き起こした動機がよもや、そんなことなどと。
 認められない。認めたくない。
 外見が若くとも、クレストとて純潔の、最も純粋な吸血鬼の血族だ。二百年や三百年程度生きた若造とは経験が違う。だが目の前にいるのは、数百年の寿命など比較にもならない程永い時を生き続けた世界皇帝。
「やめろ! 違う! 私は――!!」
 取り乱すクレストの頬に、細い指が触れた。銀の縄のすれ合う音が耳元で響く。
 ジャスパーが悲しそうな眼差しで自分を見つめてくる。どうしてそんな目をするのかと、問う前にその唇がクレストの唇に触れた。
 驚きのあまりに緩んでいた拘束の隙をついてジャスパーは行動していた。そして唇を押し付けたまま、縛られた腕ではなくまだ自由に動く肩先でクレストの身体を押す。見張り台の塀の向こう側へ押し出す。
 紫の空に白い髪が舞った。
「さよなら」
 小さな囁きに対する言葉は返せなかった。喉は細い息を吸うばかりで、最期の言葉も呟けない。
 自分自身も縛られたままだったので、不安定な塀の傍でぐらりと体勢を崩すジャスパーの姿が見えた。けれどよろめく華奢な身体を、駆け寄ってきたロゼウスが抱き留めて支える。
 ああ。
 何度も何度も水鏡の向こうでこんな光景を見てきた。少年の瞳はただ熱心に、皇帝の方だけを見ている。
 それが酷く妬ましかった。
 身を乗り出したロゼウスが手を振り上げるのがわかった。吸血鬼は建物の屋上から落ちたくらいでは死にはしない。
 けれど皇帝の力に焼かれれば、そこにあるのは確実な死のみ。
 さよなら。
 口に出そうとしたその声も、全てが白い炎に焼かれて誰にも届かない――。

 ◆◆◆◆◆

「……終わりましたね」
「ああ。戻るぞ」
 自分に執着した男が灰になる瞬間も淡々と見つめたジャスパーに、ロゼウスは声をかける。銀の縄はすぐに壊した。
 弟のしどけない姿を見れば、彼がクレストに何をされたかなど一目瞭然だ。裸足でここまで引きずられて来たので、白い石材に紅い血の足跡が残っている。
 それでも一瞬の口付けは、自分を愛した男に対するジャスパーなりの餞だったのだろうか。
 クレストが動揺した隙に、ジャスパーが何かをすることはロゼウスにもわかった。クレストを見つめるジャスパーが見せた眼差しは、かつてゼイルが自分に見せたものと同じだったからだ。
 これから自らの手で傷つけるものへ向ける、すでにその墓標を見る眼。
 そして今、クレストの魂が、あの暗闇の中の図書館に刻まれる記録へと還ったのがロゼウスにはわかった。これで本当にノヴァンゼルは終わりだ。
 かつてノヴァンゼルの一族は皇帝の支配を嫌って地上から地底へと逃れた。皇帝は世界統一者といくら言葉を飾ろうと、結局は大陸の征服者だ。愛する者を失った後の始皇帝はがむしゃらに統一を目指したというから、その時代の地上は彼らにとってさぞや居心地が悪かったに違いない。どこか新天地へ逃れたいと思うのも当たり前だ。
 けれど彼らは結局、地底へ逃れるのと引き換えに手放した地上への憧憬を捨てきれなかった。
 かつては同胞と呼んだはずの種族を滅ぼしたロゼウスは一人目を閉じる。
 それでももしも、当代皇帝がロゼウスでなかったのなら、クレストも地上の皇帝に牙を剥くなどと愚かなことは考えずに済んだのではないだろうか。
 もはや考えても詮無いことではあるけれど。
「お兄様?」
 黙祷するように目を閉じて考え込んだ兄の姿に、ジャスパーが控えめに呼びかけてきた。
 その儚げな表情を見つめながら、ロゼウスは懐かしく忌まわしい言葉を思い出す。
 その存在は、荊の墓標。
 ロゼウスの存在そのものが、彼に関わる者たちを破滅へと導く。
 だが今更その言葉の意味を考えたところで、嘆いたところで――自分が自分であることを変えられるはずもない。
「……行こう」
 すぐに治るとはいえ足を痛めた弟を、ロゼウスは両腕で抱き上げた。驚いて目を瞠るジャスパーにいつも通りの冷めた眼差しと、そしてほんの少し触れ合うだけの、軽い口付けを一つ贈る。
 びくりと身体を震わせるのを強く抱いて、そのまま歩き出した。
 彼らがこの大地の奥底で罪の贖いを強いられるべき時は、まだほんの少し先のはずだからだ。