061
――時間は少し戻ってタルタロスに降りた際。
「冥府は私の領域です。いかな皇帝陛下と言えども」
「わかったから、黙ってここを通せ」
なんだか地上と似たようなやりとりが相手を替えて繰り返されていた。
「……仕方ありませんね。親愛なるハデス様の名に免じて通してさしあげましょう」
冥府には管理者が住む。ラダマンテュスと言う名のその男は、足元に淡い茶色の狼を侍らせてロゼウスを出迎えた。
ハデスの力では大地の奥底タルタロスまでの門を開くことはできても、自分が直接出向かない限りその先の行動は左右できない。そして全盛期よりも力の落ちている彼は、冥府の門を開き続けるために地上へと残った。
ロゼウスがタルタロスの案内人としてあてにしていたのが、ハデスと旧知の仲であるこの魔族、ラダマンテュスだ。
地上の帝国には吸血鬼、人狼、人魚の三種族しか魔族がいないが、地底には魔族も魔物も溢れている。
「しかし陛下、いいのですか? そんな簡単に地上と冥界を行き来したりして」
「どういう意味だ?」
「かつてオルフェウスは妻、エウリュディケを取り戻すためこの冥界にやってまいりました。ハデス様……初代ハデス様から地上に辿り着くまで決して彼女を見てはならないと告げられたオルフェウスは、土壇場でその約束を破ってしまうのですよ。そして彼は妻を取り戻すための機会を永遠に失った」
「……何が言いたい」
「過去ばかり見つめても、取り戻せるものは僅かなもの。何かを得ようとすれば、何かを失いますよ」
「――」
魂の記録を収める図書館でゲルサに言われたことを思いだし、ロゼウスは押し黙る。
「まぁ、私はあなたが何を失おうと知ったこっちゃありませんが。ではどうぞ。良い旅を」
◆◆◆◆◆
そして、ロゼウスが無事にジャスパーを連れて地上に戻ったと配下から聞き、ラダマンテュスは傍らの狼の頭を撫でた。
「陛下は結局、君のことに気づいてはくれなかったようだね」
クゥン、とかなしげに鼻を鳴らす狼の頭を軽く撫でる。
「過去に縋りつくものは永遠に未来を手に入れることはできない。でもま……未来なんていらないっていうのも個人の自由だ」
この狼も皇帝と同じく過去だけを見つめるもの。拗ねて身をまるめふて寝の体勢に入った狼の背を撫でながら、ラダマンテュスはこれから起こる惨事を思い描いて薄く笑った。
◆◆◆◆◆
犯人確保とその黒幕の調べ上げまではルルティスに任せたロゼウスも、無事にジャスパーを取り戻して地上に帰ってからは、きちんと事態の収束に奔走した。ミシェルの容態は徐々に快方に向かい、それを人々が喜んでいる間に、シレーナ教とラクリシオン教の聖人たちと話を詰めていく。
「じゃあ、例の子爵の件は最終的にこちらでなんとかするわね」
「ああ。吸血鬼事件に対し吸血鬼皇帝がムキになって動き回ったと思われると皇帝の沽券に係わるしな」
「……いっそ、そういうことにしちゃったほうが面白そうね」
「オイ」
あらかたの事後処理が済み、エァルドレッド領の平和が取り戻されたところで、ロゼウスたちは教会組より一足早く皇帝領に戻ることになった。
この土地に来たときに移動の魔術で降り立った丘に再び昇る。ここにも常人の目には不可視だがハデスの魔法陣がひっそりと隠されていて、一瞬で皇帝領の城へと戻ることができるのだ。
「色々とお世話になりました」
無事に起き上がれるようになったミシェルと弟のウィリアムが見送りにきている。ミシェルのこれまでより健康的な様子を見ると、ロゼウスもこれで良かったのだと自分を納得させられるような気がした。
「本当はもっといてほしいくらいなのですが、駄目ですよね。皇帝陛下にそんな我儘をいっては」
そう言ってミシェルは寂しげに笑い、ウィリアムは今にも泣きそうな顔で兄の服の裾を掴みながら全員を見ている。
「頑張ってね、エァルドレッド伯。あなたならできるわ」
「メイフェール侯爵」
「私も……最期まで頑張るから」
体の弱い者同士、ミシェルはジュスティーヌと握手を交わしていた。穏やかなその横顔に、ロゼウスは在りし日の弟の面影を重ねる。
ゲルサの言葉によって、この二人は正真正銘ロゼウスの弟であった二人、ミカエラとウィルの生まれ変わりだと証明された。
けれどもう彼らは彼ら自身の人生を歩み出している。自らが病弱という弱味を持つミシェルは、それ故に良い領主になることだろう。
例え現在は他人であっても、彼の命を、反則とまで呼ばれる方法で永らえさせたことに後悔などはない。けれどロゼウスは、彼らを見るたびに、もういない弟たちのことを思い返しては、胸が痛くなる。
だから――。
「……皇帝陛下?」
「ロゼウス様?」
突如二人まとめてロゼウスに抱きしめられ、兄弟は目を瞠った。
これは勝手な独りよがりの感傷だ。そんなことはわかっている。それまで和やかに言葉を交わしていたエチエンヌたちもぴたりと口を閉じ、ロゼウスのすることを見守っていた。
「すまない。昔、お前たちにとてもよく似た弟がいてな」
「弟……」
「あ、そうですね。髪の色が近いからか、兄上と陛下やジャスパー様って、どこか似ていますもんね!」
何かを考え込むようなミシェルと、気にせずそこぬけに明るいウィリアム。その二人を抱きしめたまま、ロゼウスは囁いた。
「これは独り言だ。そう思って聞いてくれ。――すまなかった」
「陛下」
口を開きかけたミシェルが何かを察して言いやめた。その言葉よりも声に耳を傾けるようにして、ロゼウスは二人を抱きしめ、あえてその顔を見ないままに続けた。
「すまない。ごめん。助けられなくて。悲しいままに、死なせてしまって」
ずっと、ずっと後悔していた。
シェリダンのことだけでなく、ミカエラやウィルのことも、ロゼウスにとっては後悔ばかりだ。
四千年前のあの時、救えなかった弟たち。ただ自分の弟に生まれたというだけで、無残な最期を迎えた少年たち。
あの時のあらゆる犠牲の上に存在する薔薇の皇帝。けれど、彼らを犠牲にしてまで自分が帝国の頂点に立つ価値のある存在だとはロゼウスには思えない。
今回だってゲルサに無理を言って、ミシェルの運命を捻じ曲げた。わかっている。彼がミカエラではなく、ミシェルという一人の人間であることを。それでも愚かな感傷から、その命にむしょうに愛おしさを感じずにはいられない。
「……いいえ。いいんです、兄様」
ふいに、ミシェルが目を閉じて静かに囁いた。
「僕たちは、兄であるあなたを愛していました。愛する者のため命をかけるのは当然のことです。だから、これでいいんです」
「……っ、ミカエラ!!」
驚いて思わず身体を離し、ロゼウスはミシェルの顔を覗き込む。
けれど昔の弟によく似たその顔の、大きな瞳の色は紫。
自分やジャスパーと同じ真紅ではない。
「……さしでがましい真似をしてすみません。でもきっと、陛下の弟君でしたら、こう言うと思って」
「ミシェル……」
まだ幼くて単純なところのあるウィリアムと違い、ミシェルは聡明な少年だ。ロゼウスの弟がジャスパーしか知られていないことから、ミカエラやウィルといった存在がロゼウスの皇帝即位までにすでに亡くなっていることにも思い当たったのだろう。
今のは本当にただのミシェルの演技だったのか? それとも――。
気にはなったが、結局ロゼウスは追及をやめた。
ここにいるのは、エァルドレッド伯爵ミシェルと、その弟のウィリアム。
きっと、それでいいのだ。四千年前に悲劇的な最期を迎えた少年たちの記憶など、持って生きても楽しいものではないだろう。
ただ、彼らがこうして無事に生まれ変わってきてくれたことに、ロゼウスが救われた。それだけ。
「ミシェル」
皇帝は微笑んだ。
「いい領主になれよ。お前にならできる」
「ええ」
花のように笑うその人は、エァルドレッド伯爵ミシェル。そのことが、ロゼウスにとっては何よりの贈り物で、餞だった。
◆◆◆◆◆
魔法陣が発動し、彼らはウィスタリア王国エァルドレッド地方に別れを告げる。
「やっと帰ってきたー! ああもう、ロゼウスがろくな準備もさせずに引っ張ってったせいで城が懐かしいよ」
「なんなら次はお前を置いていこうか? エチエンヌ」
皇帝の不意な外出と長期の留守はもはや皇帝領にとって当たり前のことである。わざわざ出迎えを求めるわけでもなく、彼らは普通に薔薇の花畑を越えて城へと戻る。
――否、そうそうに門をくぐったのはエチエンヌとそろそろ体力切れのジュスティーヌだけで、ロゼウス、ルルティス、ジャスパーの三人は薔薇の花畑に佇み残っていた。
「入らないんですか? 陛下」
「ああ、ここで少し休んでから行くよ」
「……そう、ですか。ではお先に失礼いたします」
意味ありげに、どこか不機嫌な表情でジャスパーを一瞥してから、ルルティスはロゼウスに礼をして先に門をくぐる。
「ルルティスは一体どうしたんだろうな……。ジャスパー?」
「いえ、なんでもありません」
ロゼウスが隣を見ると、ジャスパーはジャスパーで去りゆく彼の背中を憎々しげに睨み付けていた。ルルティスとジャスパーは水面下で仲が悪いらしいのだが、よくわからない。
しばらく二人とも言葉を発しない、静かな時間が流れていた。
もともとロゼウスもジャスパーも、必要がなければそう喋るほうではない。二人きりだと、容易く場が静寂に沈む。
けれどこの日は、ロゼウスの方から口火を切った。
「終わってしまったな」
瞼の裏に思い描くのは、ウィスタリアで別れてきた二人の少年の姿だ。
「輪廻は巡る。人は生まれ変わる。そして、過去はレテの川の忘却に洗い流される。俺たちとミカエラたちとの絆は、もう切れてしまったんだな」
永い永い時が過ぎた。人が生まれ変わるくらいの時間。
四千年前に無残な死を迎えた少年たちも、現代では多少の苦難こそあろうものの、概ね平和に生きることができている。
彼らはもうロゼウスの弟でも、ジャスパーの兄弟でもない。赤の他人だ。
「……さよなら」
ロゼウスは小さく呟いた。向ける相手はすでにいない別れの言葉は、自分の感傷への訣別だ。
風が吹いて薔薇の花びらを舞い上げる皇帝領。ローゼンティアの王城に似た漆黒の居城。ここの景色は皇帝の心象を反映して作られた眺め。
それが似合うのは白銀の髪に真紅の瞳のローゼンティア人であって、銀髪に紫の瞳の人種は、どうあってもそぐわない。
これまで過去に目を向け続けていた。
あんなにも悲劇的な記憶を忘れるのは罪だと。けれどロゼウスがかつての弟たちを憐れみ続けている間にも彼らの人生は始まっていて、もう二人はそれぞれの生を生きている。
ミカエラとミシェルは違う。ウィルとウィリアムは違う。
ミカエラたちの死を憐れみ続けることは、今幸せに生きようとしているミシェルたちの存在を否定することに繋がるのではないか。弟たちはあの悲劇的な結末を迎えたからこそ、今、生まれ変わって新しい幸せを手にしているのだ。
この四千年間、ただ過去に縋り続けた生ける屍の自分とは違う。
永い永い時が過ぎたのだ。輪廻は巡り、新たな生が始まるほどの永き時間。
だからこそ、もうすぐロゼウス自身の時間も終わる。
あの時、愛しい全てを失って止まったはずの時間は、ロゼウスの知らないところで動き出していた。そして一度始まった物語は、必ず終わるものだ。
「お兄様」
隣に立つジャスパーが、そっとロゼウスの手を握る。
「まだ、僕がいます。僕はお兄様の弟で、選定者。最期まであなたの傍にいます」
「そうだな……」
今のロゼウスに残されたものは、この選定者であるジャスパーの存在だけ。あれほど慕った兄・ドラクルでもなく、瓜二つの容貌をしていた妹・ロザリーでもなく、最期までロゼウスのものとして生きることを誓った最後の家族――。
うしなうことになりますよ。
ふいに、その言葉が思い出されてロゼウスは瞠目した。
「兄様?」
ジャスパーが不思議そうに小首を傾げる。その顔に重ねて、預言のごとく厳かに断言された、忌まわしい言葉が脳裏に蘇った。
――あなたがミシェル=エァルドレッドを救うことによって、貴方は別の“家族”を失うことになりますよ。
家族を失うと、ゲルサは言った。あの時はそんなものそもそもいないと思った。一応ローラとの間に一人娘のアルジャンティアがいるが、彼女たちはロゼウスの意識の中で思い描く「家族」像とは違う。
ロゼウスにとっての家族と言えば、あの激動の一年に愛しあい憎みあい苦楽を共にした兄弟のこと。そしてそういった存在で、今残されているのはたった一人だけ。
「……いや、なんでもない」
ようようのことでそれだけ言葉を絞り出すと、ロゼウスはかるく頭を振った。悪い考えごと振り払うように。
四千年前のあの時に、全てを失ったのだ。愛する人も、兄妹たちも。これ以上何かを失うなんて。
もう自分の一部を失うことは耐えられない。
「城に戻るか」
「ええ」
薔薇の芳香を纏いつかせる風に髪を遊ばせながら、ロゼウスはジャスパーを連れて門をくぐる。
こうして、吸血鬼事件と呼ばれた騒動は終わりを告げた。
けれどそれは、再び動き出した物語の、ただの序章にしか過ぎないのかもしれない。
《続く》