薔薇の皇帝 13

066

 とある貴族から夜会の招待を受け、レクトリアスは馬車で会場へと向かっていた。
 現在レンフィールドの招待によって皇帝がルミエスタに滞在している。この機会に世界の最高権力者に面識を「得よう」と画策する輩は後を絶たない。
 皇帝はルミエスタの隣国エヴェルシードには、彼の愛人である王子の件もあり頻繁に足を運ぶが、ルミエスタへやって来ることは稀だ。
 レンフィールドは王子としてというよりも、学者としての伝手から皇帝と面識が有るようだ。いつものことと言えばそうだが、彼は皇帝相手でも必要以上に謙るという姿勢を見せない。
 恐らくレンフィールド個人の適性としては、国王になるよりも学者として生きる方が向いているのだろう。だが周囲は彼のあらゆる方面に通じる才能を放ってはおかない。
 馬車が森に差し掛かる。
 夜会を頻繁に催すような貴族の居城は王都ではなく、少し離れた領地に建てられていることが多い。王都にも滞在用の館を持っているだろうが、普段の生活は専ら領地の城で営む。
 レクトリアスが今から向かう城の貴族は、派閥で言えばレンフィールドの後見の一人だ。
 王位継承権を持っていた王子たちが次々とその資格を剥奪される中で、レクトリアスは未だに次期国王候補としての権勢を保っている。皇帝のために国中の貴族を呼び寄せる夜会に招待しないわけにも行かなかったのだろうが、レクトリアスにとっては敵対者だ。
 向こうで彼らが何をしかけて来るかもわからない。
 ――不意に、甲高い馬の嘶きと共にがくりと馬車が揺れた。
「殿下! お逃げ下さい!」
 急停止の衝撃に座席から投げ出され体を打ち付けたレクトリアスは、御者の悲鳴に急いで馬車の扉を開ける。
 そこで見たものは、信じがたい光景だった。
「なっ……!!」
 今回彼らは二台の馬車を連ねて城へと向かっていた。レクトリアスが乗っていたのは二台目の馬車だ。
 崖際の道に地面を深く抉った跡がつき、先頭を走っていた一台目の馬車が、影も形もなくなっていた。
 レクトリアスが乗っていた二台目の馬車の手綱を握っていた御者が震える声で告げる。
「木の間に……透明な糸が張られていたようです……あいつはそのことに気づいて警告してくれたんですが、回避は間に合わず……」
 糸に馬の脚を取られた一台目の馬車は、避ける間もなく崖下へ落ちていったのだという。
 二台目の彼らはなんとか急停止が間に合い体を打ち付けるだけで済んだが、一台目の馬車にはレクトリアスの侍従たちが乗っていた。
 しかし、呆然としている時間はない。
「!」
 突如として現れた人間たちの気配に、レクトリアスは剣を抜いて構える。
「殿下!」
「お前は下がっていろ」
 御者を背に隠し、次々と姿を現す黒装束の男たちと相対する。
 彼らはレクトリアスの命を狙った刺客だ。
「誰の手の者だ? と、言っても答えてはくれないんだろうな……」
 レンフィールドの後見者たちが焦れてレクトリアスを直接的に始末しようとしているのだろう。夜会の招待状を出した者とこの刺客を差し向けたのが同一人物かはまだわからない。
 それでも、彼らの旗印であるレンフィールド本人が刺客を差し向けたという発想には至らなかった。
 自分よりも優秀過ぎて嫌っている異母兄だが、こういう手段をとるとは思えない。
 それだけが救いだ。
「いくらあなたが手練れでも、この人数には勝てますまい。大人しくしていれば、楽に逝かせてあげますよ」
「面白い冗談だ」
 狭い森の道だというのに、敵は十人以上。全員が手練れであろう。
 レクトリアスは剣の腕も人並だ。だがここで諦める訳にはいかない。ここで彼が退けば、一緒にいた御者まで口封じされてしまう。
 勝てないとわかっていても、自らの民を守る戦いから王が逃げてはいけないのだ。
 逢魔が時の森に殺気が満ちる。
 と――。
「あー、はいはいちょっと失礼」
「何……レンフィールド殿下?!」
 緊張感という言葉自体を叩き壊すかのように、いたって自然体のレンフィールドがどこからか現れレクトリアスと刺客たちの睨み合いに割り込んだ。
「やぁやぁ皆さんこんばんは。突然ですが、あなた方は通行の邪魔です。今すぐお退きください」
「つ……通行の邪魔って」
 明らかにそんなことを言っている場合じゃないだろうと惑うレクトリアスを、掴みどころのない笑みを湛えたレンフィールドが押しとどめる。
「私が王子だろうがあなたが王子だろうがこの人たちが何者だろうが、そんなことは些細な問題なのですよ」
 レンフィールドの視線の先を追い、それに気づいた彼らは敵も味方もなく一様に凍りつく。
「あの方の足を止めさせている。この状況に比べれば」
 いつの間にかレクトリアスの馬車の後ろに、もう二台の馬車が増えている。
 そのうちの一つは、先程崖から落下したはずのレクトリアスの従者の馬車だ。そしてもう一台は。
「やれやれ……」
 狂気のような純白を身に纏う吸血鬼。薔薇の皇帝が馬車を降りて姿を現す。
「私の道を塞ごうとはいい度胸だな。お前たちにこんな愚かな命令を下した主は誰だ?」
「吐いてしまった方が身のためですよー」
 ロゼウスは楽しげに周囲を見回して、凍りつく男たちの顔を眺めた。隣に立ったルルティスが適当に自白を促す。
 神により定められた、この帝国の絶対の支配者。皇帝の意志は何よりも優先されなければならない。機嫌を少し損ねるだけで、国ごと潰されてもおかしくはない相手だ。
「元々はこの下の道を走っていたと言うのに、いきなり馬車は降って来るしなぁ」
「酷い話です。今日の天気は晴れ時々馬車なんて予報されてませんのに」
 レクトリアスはハッとして皇帝の馬車の後ろの一台を見た。ぽかんとした顔の御者の様子に、皇帝が彼らを助け出してくれたのだと知る。
 そう言えばあの時は動揺していて気付かなかったが、馬車が崖下に落下したと言う割に、その衝撃や破砕音が何一つ聞こえて来なかった。
 人知の不可能を可能にする、これが皇帝の力なのか。
「さて、レンフィールド。お前に、皇帝の道を塞ぐ輩の排除を行う気はあるか」
「無理です。すみません」
 まったく悪びれる様子もなく、レンフィールドは皇帝の指示に首を振った。
「私は所詮ひ弱な学者ですから、肉弾戦は向いてないのですよ。ほら、剣の一つも提げていませんし」
 いつもと同じ飄々とした態度。しかしいつもと違うのは、その表情がただの無表情ではなく、真剣な意味での真顔となっていることだ。
 レンフィールドは学者として生きていく。剣を手に戦う者ではなく、ペンとメスで医学の夜明けを切り開く者となる。
 だから王族として皇帝の要請には応えられない。
 ロゼウスは微かに微笑んで、その返答に頷いた。皇帝の僅かな表情の変化を読み取れたのは、彼と親しいものだけだ。
 レクトリアスには皇帝とレンフィールドのやりとりの意味など何一つわからない。けれど帝国の支配者と異母兄の間に、皇帝と王子としてではない某かの信頼があることだけは感じ取った。
 そしてロゼウスは視線を、レンフィールドの背後に庇われていたレクトリアスの方へと向けた。
「では、レクトリアス王子」
 麗しい声が溶け込むように鼓膜から脳裏に響いてくる。ここでの答がこの先の全てを決定するのだと、レクトリアスにもわかった。
「お前に、ルミエスタを代表する皇帝の忠臣として、この者たちを排除する気があるか?」
「――はい」
 馬車の扉を開き、皇帝に命を救われた従者たちが剣を握って飛び出してくる。
 皇帝の傍にいる少年の内の一人、エヴェルシード人らしい少年は勇者と呼ばれる人々がよくしている格好をしていた。腰の剣を抜いた彼もこちらに加勢してくれるらしい。
 この帝国に生まれた幸福を想いながらレクトリアスは口を開いた。

「全ては、皇帝陛下の御心のままに」