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皇帝の望みに応えたという形で、レクトリアスは次期国王に後押しされた。同時に、レンフィールドが学者として生きていくことを正式に表明してルミエスタの後継者問題は収束を迎えた。
現在の国王、レンフィールドとレクトリアスの父王はその結果に対し特に何の感情も見せなかった。彼にとってはどの息子であろうと、優秀な人間が玉座につけばそれで良かったのか。それともこうなることが最初からわかっていたのか。
次期国王と呼ばれはしても、レクトリアスはまだ国王ではない。王である父の心情を慮ることはまだまだ難しそうだ。
そしてこの男の心も――……。
「レクトリアス」
「レンフィールド」
最後まで王位を争った異母兄と城の回廊で顔を合わせた。
ここはもともと人気のない区画で日当たりも悪く、だからこそレクトリアスの馴染みの場所だった。日蔭の中で日の当たる中庭を眺めながら、考えをまとめるのに使っていた。
上級貴族たちには歯牙にもかけられない日蔭の身である自分には相応しい場所だと思っていた。自分の従者などの余程親しい者ぐらいしかレクトリアスがここを使っていることは知らないだろう。
「……どうしてこの場所へ?」
「レクトリアスはいつもここにいるだろう」
だから、レンフィールドが当たり前のようにそう言った時本当に驚いた。
幼い頃から天才として持て囃されていたレンフィールドは、次期国王候補として争うことになるまで、自分の存在など名前しか知らないのではないかと思っていた。
何十人もいる兄弟の中、人目を惹くところもなければ話題に上がるような特筆すべきところもないレクトリアスの存在をここ数年まで注目していなかった者は多い。
「次期国王への内定おめでとう」
「……嫌味か? あなたが連れてきた皇帝陛下に取り入り玉座を得たと」
「そんなことはない。純粋な祝辞だ」
とてもそうは思えない。だがレンフィールドがどんなくだらないことでも真顔で物を言うのはいつものことだ。今回のこれも形式上の挨拶をしただけで、特に深い意味はないのかもしれない。
「君はそれでいい。そうやって前に進むべきだ」
無表情の仮面の下のレンフィールドの本心を見抜ける程、レクトリアスはレンフィールドという男を知らなかった。
レンフィールドがレクトリアスのことをろくに知らないだろうと思っていたのは、レクトリアス自身がそうだったからだ。
次の玉座を一騎打ちで争うようになるまでは、レクトリアスにとってレンフィールドは限りなく他人に近い異母兄だった。書類上は血縁であっても、距離が遠すぎてそうは感じられない。
そもそも学院で自身の研究室に入り浸っているというレンフィールドとは、城内で顔を合わせる機会すら限られていた。
だから今もわからない。ルミエスタ学院属の正式な学者になるためもうすぐ城を出る予定のレンフィールドが、何故そんな大事な時期にこうして自分などと顔を合わせているのかが。
皇帝への挨拶なり、隣国エヴェルシードの王子との友好の確認なり、後見である貴族たちへの根回しなり、やることはいくらでもあるだろうに。
特にレンフィールドの後見者がレクトリアスの命を狙い、それを皇帝が阻止した形になる例の一件以来、レンフィールドを支援する一派と彼は揉めているらしい。
尤も、王にならずともレンフィールドのこと、学者として大成すればそれだけで民衆と世界各国の支持を得られることだろう。専門が医学であるだけに、その成果は広く全てを救う夜明けの光となる。
彼を王にしたかった貴族連中はお怒りだが、レンフィールドに学者の道を進んで欲しかった学院の人々はその報を受け取った時諸手を挙げて狂喜したという噂がここまで伝わってきた。
もはや道は別たれて、レンフィールドとレクトリアスの人生が交わることはない。
なのに何故――。
「レクトリアス」
「だから、何……を――」
不意に。
レクトリアスはレンフィールドに抱きしめられた。
抱擁は本当に微かな一瞬の出来事だったが、まるで予測もしていなかったレクトリアスは固まった。
僅かに伝わる体温、髪の香り、予想以上に力強い腕の感触。
「元気で」
普段から真顔無表情鉄面皮と揶揄されるその顔に、彼は滅多にない笑みを浮かべていた。
春の木洩れ日を集めたような、優しく慈愛に満ちた笑顔だ。
そしてくるりと踵を返し、無駄のない動きで立ち去った。
短い言葉。
口にされなかった言葉。
あの兄をレクトリアスはよく知らない。
異母兄であるという認識さえ取り払えば、更に知っていることは少なくなる。彼がこれまで何を見て、何を望み、生きて来たのかなんて――。
「レンフィールド?」
回廊の向こうに消えた背中に呼びかけても、当然答が返ってくるはずもなく。
中庭の樹々が風に吹かれてさやさやと歌っている。
ルミエスタには新しい時代が来る。
次期国王候補と、ルミエスタきっての学者が明日を紡いでいく、新たな時代が。