薔薇の皇帝 13

068

「……本当にこれで良かったのか」
「当然です。何もかも私の予定通り。あまりにも上手く事が運びすぎて笑いが止まりません」
「いえ、殿下。どう見ても無表情です」
 ルミエスタの次の王は無事に第三十六王子、レクトリアスに決まった。
 今はまだ国王が健在だが、レクトリアスはこれから正式に王太子としての立場を約束され更に王としての役割を学んでいくことになる。
 そして、レンフィールドは王城を離れる。
 ルミエスタの学院で、本格的に医学者として生きていくことを決めたのだ。王子としての数々の権利や責務も、徐々に整理していくと彼は言った。
「王子の責務も医学者の責務も重い。緊急時にそれらを天秤にかけるくらいなら、最初からどちらかに専念した方が楽です」
「そうだな」
 王城から離れた丘の上で、すでに彼の帰る場所ではなくなった城の姿を眺めるレンフィールドにロゼウスたちは付き合っていた。
 ルミエスタの学院は王都ではなく王都の次に栄えている都市にある。レンフィールドは王都を出てそこへ行くのだ。
 レクトリアスに刺客を送った後見貴族の幾人かはすでに処断している。暗殺騒ぎに加担していなかったものの、王位につかないレンフィールドに不満を持つ貴族たちは、学者として大成することを約束して説得した。
 レンフィールドが学者として生きることを表明してからは、ルミエスタを始めとする世界各国の学院の援護も得られた。学院としてはやはりレンフィールドにはルミエスタ王ではなく、学者となって医学の未来を切り開いて欲しいのだ。
 学院の威光は皇帝の管理下なので、当然ロゼウスもそちら側からレンフィールドへの支援を行う形になる。
 レンフィールドを王にしたかった者たちはそれで不満を少し抑えたらしい。皇帝との付き合いはやはりレクトリアスよりレンフィールドの方が長い。
 ただ、レンフィールドの方でこれ以後皇帝の力を望むような状況があるかどうかはまた別の話なのだが。
「患者にセクハラするなよ、レンフィールド王子」
「しませんよ、ゼファード王子」
 レクトリアスが次期王に指名された事自体は納得しつつも、ゼファードは友人として付き合いのあるレンフィールドの将来を案じる。
「私が触れたいのは、ただ一人ですから」
 レンフィールドはそう言うが、彼が彼に触れられる機会などもう二度とないだろう。
 異母兄弟として過ごしている間さえ接触は少なかった。身体的な意味ではなく、そもそも顔を合わせる時間が少なすぎた。
 その少ない時間のうちで、レクトリアスの何がレンフィールドの心をそこまで惹きつけたのか、ロゼウスたちにはわからない。
 きっとレクトリアス本人にもわからないだろう。レンフィールドは気持ちを直接的に伝えてはいない。伝えることを望みはしなかった。
 ただ、鉄面皮で有名な王子の晴れやかな心の底からの笑顔に、その頭上を飾ることのなかった王冠の罪深さを想う。
 想いを叶えるだけが人生ではない。誰もが全身全霊で愛する人と結ばれるわけではない。わかってはいるが……。
「誰にどう思われようとも、私の心は常にルミエスタにあります。国の混乱とこの想いを秤にかけるつもりはありません」
「レンフィールド」
「そんな顔をしないでください。私は幸せですよ。いつだって。今だって」
 一度だけ、最後だからと触れてしまったと、彼はまるで懺悔するように言う。
「二人で堕ちていく未来なんていらない。別に他の人のことはとやかく言いませんけどね。――私は結局学者肌の人間なのですよ。この世のあらゆるものは人の進歩と発展のためにあるべきで、停滞や維持の中にある幸福は望めないんです」
 レンフィールドの視線がルルティスの方を向いた。
「ルーティ君、君ならわかるでしょう? この意味が」
「……ええ」
 レンフィールドとは分野が違うが、それでもルルティスは学者だ。目指すところが同じであれば、基本的な考え方は似ている。
「過去に、囚われ続けるのは寂しいことです。それぐらいなら想いを捨ててでも前に進みたい……進んでほしい」
 ゼファードが隣に立つロゼウスを見つめる。
 ルルティスの言葉はルルティス自身の信条であり、彼がロゼウスに対し願っていることでもある。
 過去があるからこそ、薔薇の皇帝ロゼウスはここまで帝国の支配者として生きることができた。己が痛みと過ちを決して忘れぬ傷として刻み込んで。
 けれど彼を周囲で見守る人間たちはそうはいかない。
 痛みを抱えながら過去の幸福に拘泥するよりも、未来へ繋がる新たな幸せを見つけ出して欲しい。
 硝子の棺の中、ここにいるルルティスとよく似た顔立ちの少年を思い浮かべながらゼファードはただそう祈る。
 しばらく無言で風の中王城を眺めていたレンフィールドが、ようやく満足したように振り返る。
「さて、そろそろ行きますか。皇帝陛下、ゼファード王子、ルーティ君。ここまでお付き合いいただきまして誠にありがとうございました」
「こちらこそ、面白い物を見せてもらった」
「それは良かった」
 丘を降りて歩き出すレンフィールドの背を見送る。彼の従者たちが麓の馬車で待っている。
 後にルミエスタの歴史に医学者として名を遺すレンフィールド王子。その始まりとなった想い。
 しかし、同じく後の歴史に名を遺した歴史学者ルルティスの手記にも、彼の淡い想いについては終ぞ触れることはなかったのである。

 ◆◆◆◆◆

 時は流れ、やがてルミエスタに新しい王が誕生する。
 歓声の中、冠を戴く。
 これは王の証。そして罪の証。
 今までもこれから先も、王という名を免罪符に、数々の罪を重ねていく。
 だが、王子の立場を捨て、一学者となった男が言う。
「君はそれでいい。そうやって前に進むべきだ」
 無慈悲に破った数々の想いの屍を踏み砕き、たゆまず明日へと歩み続ける。

 《続く》