薔薇の皇帝 14

第7章 造花の楽園

069

「ちょっと! 離してよ! あたしはこれから仕事なの!」
 威勢のいい娘の声が、蒼天に突き抜ける。緑の畑が続く長閑な田舎町の景色に、そのやりとりはとても不似合いだ。
「あんな貧乏酒場の給仕なんて、少しサボったところで問題ないだろう?」
「大有りよ! いい加減にこの手を離してください!」
 娘の腕を掴む男はこれまたこの景色に不似合いな程に着飾っている。しかしいくら仕立ての良い服を着て貴族らしい格好をしたところで、やっていることが「これ」では台無しだ。
 いつもならさりげなく助け舟を出したり、物陰からそっと細工をしてくれる仲間たちが今日はいない。娘――エリネはいっそ相手を引っぱたいてしまおうかと、思わず腕を振り上げた。
 だが、ここで下手なことをすればこの男はそれこそ貴族の権力を濫用してますます無体なことを言い出すかもしれない。
 ここ最近ただでさえ彼女たち領民は彼の父である領主に苦しめられているというのに、これ以上の問題を起こすわけにはいかない。
「いいから一緒に来い。私と一緒に来れば、もっと良い暮らしができるぞ。欲しい物はなんでも手に入る」
「その申し出はありがたいんですけど、あたしは今の生活に十分満足しております!」
「そんなはずないだろう? お前の容姿なら、どんな貴族の愛人にでもなれるというのに」
「だーかーらぁあああ」
 これだから自分の価値観でしか物を見ない男は! と呆れながら、エリネは辛抱強く領主の息子を引きはがそうと説得を続ける。
 貧乏酒場と呼ばれ、彼女自身もそれを否定できないとはいえ、あれは彼女の実家だ。両親も兄弟もこの村の知人や友人たちも、彼女の大切なものは全てここに存在する。
 領主の息子の愛人などになって、都近い城で贅沢三昧の暮らしを送ることなどエリネは望んでいない。それを何度説明しても、この男にはわかってもらえない。
 それにしても、今日はまた一段としつこい。
「そろそろ本当に時間ですから、あたしは帰ります!」
「待て。まだ話は終わっていない」
 一体どうしろって言うのよ! エリネは心の中で叫ぶ。何度断っても愛人になれと誘い続けるこのバカ息子は、一体どうしたら彼女を諦めてくれると言うのか。
 事故に見せかけて畑にでも突き落とそうかとエリネが「少し」物騒なことを考え始めたところで、ようやく待ち望んだ救いの手は現れた。
「もしもし」
 それは、何の変哲もない旅人の姿をしていた。
 すでに日中は充分暖かい季節となったにも関わらず、日差しを通すことを拒むかのような厚地のローブを身に纏っている。
 深く被ったフードの中に、その顔は隠されていた。ほんの僅かに覗く肌は蝋のように白く、エリネは一目でこの辺りの人間ではないことに気づいた。
 ユラクナーは南のバロック大陸に存在する国だ。この大陸にあんな白い肌の人間はいない。あれはもっと北の方の人間。否、もっと――。
「なんだ貴様は」
 横槍を入れられたと思ったのか、領主の息子は急に機嫌が悪くなる。
「少しお尋ねしたいことがあって」
「そんなことは他の奴に聞け。私たちは今忙しいんだ」
 忙しいのはエリネだけで、この男はその彼女を無理矢理口説いていた暇人だ。大いに反論したかったエリネだが、それよりも早く腕を引っ張られて転びそうになる。
「きゃっ」
「エリネ、こっちに来い」
「だからあたしは仕事が――」
「私の言うことが聞けないと言うのか!」
 男の大きな声で怒鳴られ、エリネは思わず一瞬身が竦んだ。すぐにそんな自分に腹が立ち振り払おうと試みるものの、不安定になった足下が崩れる方が早い。
「きゃあっ」
 転ぶ際の衝撃を覚悟して目を瞑ったが、いつまで経ってもそれは訪れず、誰かに体を支えられている。
「おっと」
 気の抜けた声が耳元でしたかと思うと、腰を支えられてしっかりと地面に立たされる。フードを被った旅人が、いつの間にか領主の息子の腕の中から彼女を奪い、尻餅をつくのを阻止していた。
「女性に乱暴は良くないぞ」
「な、なんだ貴様は?!」
 先程と同じ台詞。しかしそこに込められた感情は大分違う。二人に気づかせずいつの間にかエリネを抱きかかえていた旅人に、領主の息子は驚きと共に問いかけた。
「私はただの旅人だ」
 日除けのフードが滑り落ち、その白面がついに晒される。
 エリネも領主の息子も、息を呑んでその顔を見つめた。
 ローブから零れ落ちる白銀の髪の輝きに、真っ赤な瞳。雪の中に咲く薔薇のようなその容姿。
「ろ、ローゼンティア人? どうしてこんなところに……」
「だからただの旅人だ。聞きたいことがあるのだが」
 今は昔より各国の交流が活発とは言え、それでもよほどのことがない限り国外に出ない民族は存在する。その筆頭である魔族、ローゼンティアの吸血鬼を前に、領主の息子と酒場の娘とはいえ、つまるところ共に田舎村育ちの二人は言葉を失った。
 旅人――ロゼウスはにっこりと微笑んで口を開く。
「この近辺に、宿をとれるような場所はないか?」