薔薇の皇帝 14

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「本当に助かったわ。ありがとう」
 エリネを助けた旅人は、ロゼと名乗った。この辺りでは聞かないが、ローゼンティア人としてはありふれた名だ。
 宿を探していると言うロゼを、エリネは自分の両親が経営する酒場、小麦亭に連れて来た。酒場とは言うがこの店は昼間は定食屋を兼ねていて、夜には宿泊用の部屋も貸し出す。村に一件の宿屋であり酒場だ。
「私はたいしたことはしていないよ。随分大変そうだったな」
「あの男、いっつもしつこくって」
 ロゼ以外の客は皆常連という名の地元民だ。若い衆はエリネも含め皆幼馴染である。
 いきなりやってきてこの店の娘であるエリネと話しているロゼに、周囲の者たちも興味津々だ。
 それと同時に、彼らの会話からまたエリネが領主の息子に絡まれていたと知って彼女を心配もしていた。
「おい、エリネ。大丈夫だったのか?」
「またあのドラ息子に口説かれてたんだろ?」
「平気よ、ウォレン。この人が助けてくれたから」
 今日は特にしつこかったとはいえ、エリネを見かける度に愛人になれと領主の息子が迫るのはいつものことだ。彼女自身はもうすでに気にしていなかったが、若者たちは心配そうな顔だ。
「なるほど、看板娘という奴か」
「エリネはこの村一番の美人だからなぁ」
 年の頃は十八かそこら、ユラクナー人特有の濡れたような紺色の髪に銀の瞳。日々の仕事で引き締まった身体つきは、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ美しい線を描く。
 エリネはこの村の誰もが認める美女だ。しかしそれ故に横暴な領主の息子に目をつけられている彼女を、皆がいつも気にかけていた。
「あ、あんた。いくら今日は危ないところを助けてくれたからって、エリネにちょっかい出すなよ」
「トバイアス?! もう、一体何を言ってんの!」
 恩人にまでそうして釘を刺そうとする男友達の一人に、エリネは慌てた。ロゼが気を悪くしないかと思ったのだ。
 しかしそれはどうやら杞憂だった。初めからそうなのだが、自身の圧倒的な美しさのためか、旅人はエリネの顔立ちを至近距離で真正面から見ても何の感動もない。
「それはないよ。こう言ってはなんだが、彼女ぐらいの美人なら見慣れている。私の娘はもっと美しいぞ」
 その場で会話を聞いていた男たちがぶっと飲み物を噴き出す。
「あんた、子どもがいるのか?!」
「いるぞ」
「だってそんな歳には全然……」
「ローゼンティア人は寿命が長く、見た目が若い時期が続くんだ。私はお前たちの曽祖父よりもずっと年上だ」
「ま、まじかよ」
 これには酒場にいる全員が驚いた。ロゼはエリネよりも年下に見えるくらいなのに、実際はすでに百年以上生きていると言ったも同然だからだ。
「それより、料理の注文どうぞ。今日は助けてもらった御礼になんでも無料でお出しします」
「そうか……って」
 ここ最近の帝国は庶民の識字率が上がったため、こんな小さな村でも大き目の板にメニューと値段がきちんと記されている。その値段を見て、ロゼは思わず口を曲げた。
「こう言ってはなんだが……この規模の村にしては、随分値段が高くないか?」
「……うちは皆様にとても好意的な価格で提供しております」
「いやいや待て待て。どう見ても桁が違うだろう、桁が。書き間違いか?」
「残念ながら御覧の通りのお値段よ。この一食分は無料だけど、次からきちんと料金を払ってもらうわ」
「ぼったくり?」
 さすがに旅人だけあって、物の相場には詳しいようだ。胡乱な顔つきのロゼに、エリネは慣れた営業用の笑顔を消して溜息をつく。
「今はそれが限界なのよ」
「何か事情がありそうだな」
「そうなんだよ」
 頷いたのは、やはり話を聞いていた他の男たちだ。
「あんたがエリネを助けたあのバカ息子。そのバカ親父の領主がな、年々この村の税を引き上げているんだ」
「余程の豊作というわけでもなさそうだが」
「ああそうさ! 収穫は毎年変わらないのに、税ばかりが上がりやがる! あいつが来てからずっとそうなんだ!」
 この一帯の土地を治める領主は、三年ほど前に国内の政変で交替した。新しい領主の横暴に、村人たちは怒り心頭の面持ちだ。
「どうやら王都で何かやらかしてこっちに飛ばされてきたらしい」
「中央の人間に賄賂を贈りつけて復帰しようとしてるんだ」
「俺たちにとってはいい迷惑だぜ」
 話自体はよくある話だった。こうした田舎では王都に比べて監査の目も緩く、すり抜けやすい。悪徳領主が王に知られぬまま領民に重税を課すなどということは、子どもの読む物語でさえよくある話。
「息子の方は息子の方でエリネを愛人にしたがってるし」
「自分の愛人にならないならならないで、中央の貴族に紹介してやるぞってうるさいんだ」
「まったく、冗談じゃないわよ!」
 エリネが少し乱暴に、テーブルにグラスをドンッと置く。八つ当たり位置にいた男たちが少々目を丸くして驚いていた。
「あたしはこの村が好きなの! 王都になんて行くもんですか!」
「良く言った!」
「それでこそエリネ!」
 腰に手を当てて仁王立ちになるエリネを、男たちがやんやと囃し立てる。その様はまるきり子供のようだ。
 小さな共同体では気心知れた幼馴染同士が多く、彼らの連帯感も昔からの付き合いで培われたものだ。
「しかし、エリネ。気をつけろよ。あのバカ息子、だんだん手口が強引になってるんだろ?」
「ええ。今日もこの人がいなかったら無理矢理馬車に連れ込まれたかも」
「おいおい……」
 エリネの両親である酒場の店主夫妻を始め、皆の顔が途端に不安げなものへと変わる。
「あのバカ息子の性格だと、このまま素直に諦めるとは思えないな。エリネ、用心しろよ」
「ええ。わかってる」
「困ったらすぐ呼んでくれよ!」
「ありがとう。頼もしいわ」
 看板娘と村の男たちの心温まるやりとりを見ていた旅人は、ほんの僅かに眉を歪めた。
「……」
「どうかしたのかい? あんた。何か気がかりでもあるのかい?」
「いや、なんでもない」
 今は、と、誰にも聴こえない程小さくロゼは呟いた。

 ◆◆◆◆◆

 眼下には青々とした畑が広がる平和な風景。山々も自然の恵みが豊かで、余程の事がなければ食うには困らない豊穣の大地。
「……の割に、物価が高いそうなんですよね」
「ここを通りがかる旅人たちがみんなそう言っています」
 山間から通常の人間の視力で観察するのは難しいだろう景色を難なく見分け、リチャードとエチエンヌは報告書とその村を見比べる。
「どう思う? エチエンヌ」
「どうも何も、いつものことでしょ?」
「ですよねぇ」
 毎日毎日、皇帝領に届けられる膨大な数の報告書。その中に気になるものがあったということで、調査の必要性を皇帝が口にしたのはつい昨日のことだ。
 リチャードとエチエンヌの二人はその命令に従い、早速この土地に赴いた。
「まったく、国内では王都から離れ、大陸内では帝国領から遠いとはいえ、目こぼしがあると思うなどと……」
 広大な帝国を支配する皇帝の威光は世界中に轟いているとはいえ、それで何も問題なく回る程単純な話ではない。
 皇帝の力を疑う者こそ少ないが、どんな汚職も不祥事もバレなければ問題ないと考える輩はどこにでも一定数いる。
 それがいかに愚かで浅はかな考えか、彼らは罪人に思い知らさねばならない。
 さすがに国を直接皇帝から預かり、面識も有る国王や王族たちはそのように考える者は稀だが、皇帝に目通りすることもできない立場の人間はその限りではない。
 知らないというのは真に幸せなことだとエチエンヌたちは思う。
「今回はどうする気なんです?」
「直に様子を見たいそうですよ。幸いにもこの土地はまだ十分余力がありますから」
「……皇帝の名など出さずとも問題を解決できれば、それが一番ですもんね」
 二人は溜息をつく。
 風の噂にこの村の事情を聞いた皇帝は、すでに直接的な視察のために村へと降りた。
 あれはもはや仕事というより趣味の領域だ。彼らの主は生まれながらの王子様であるくせに、堅苦しい貴族的な習慣がキライという変わり者だ。
 だが彼は皇帝。この世界にとって唯一無二の神の代行者。
 何人たりともその頸木から逃れることは許されない。許さない。
「さて、私たちは私たちの役割を果たすとしますか」
「了解」
 子どもの読む絵本に出てくるような悪徳領主は、その絵本の結末のようにこてんぱんにのされる幸せな終わりで締められるべきである。