071
そして今日もまた、エリネは領主の息子に絡まれている。
「だから……いい加減にしてよね!」
いくら周囲に美人と呼ばれてはいても、所詮はただの村娘。何故この男が自分にこうもちょっかいをかけるのか、エリネにはわからない。
畦道に御立派な貴族仕様の馬車が停まっている様は異様である。
「今日は城に父上お抱えの商人がやってくる。なんでも好きなものを買ってやるぞ」
「結構です!」
相変わらず人の話を聞かない男に、エリネはとにかく拒否・拒絶の言葉だけを伝え続ける。この男の誘いに乗るつもりはない。
何度振られてもめげなかった領主の息子だが、今日は少し様子が違った。
「この私がここまで言っているというのに……」
何をやっても靡かないエリネの態度についに痺れを切らしたのか、領主の息子の平凡な顔に、父親にも似た暗い陰りが浮かぶ。
「お前は――」
「何をやっているんだ?」
しかしそこでまた、邪魔が入った。
「ロゼさん」
「やぁ、エリネ。今日も小麦亭に泊まらせてもらうことになったんだ。よろしくな」
昨日と同じように通りがかった旅人が、さりげなく領主の息子からエリネを引きはがす。昨日と同じようにその仕草を追い切れなかった領主の息子が、憎らしげにロゼを睨んだ。
エリネの目から見るとロゼは彼女自身より余程綺麗だと思うのだが、幸か不幸か領主の息子は男には興味がないらしく、いくら美しくともこの旅人にそう言った意味で被害が向くことはないらしい。
その代わりエリネを横取りしたとでも言わんばかりに、領主の息子は憎悪の眼差しでロゼを睨み付ける。
「ふん……まぁいい」
ロゼは領主の息子の敵意などまったく問題にせずいつも通り飄々としていた。もとよりローゼンティアの吸血鬼の扱いは他の人間とは異なる。領主の息子としても手を出しかねたのか、今日は一旦退くようだ。
だが、向こうもただで終わる様子ではないようだった。去り際に彼は口を開いて意味深なことを告げる。
「エリネ、いくら足掻こうと無駄だ。お前はすぐに私のものになる」
「そんなわけないでしょ」
ただの挑発。エリネはそう受け取ったが、隣ではロゼが眉を顰めていた。
「まったく、あの男の自惚れもいい加減にしてほしいわ」
「いや……あの言い方だとただの自惚れではなく……」
「え?」
わざとらしい捨て台詞としか思えなかったエリネは、予想以上に深刻な顔をしているロゼの様子に目を丸くする。
「何事もなければいいがなぁ」
ひとまず今日のところはもうこれ以上エリネにちょっかいをかけてくることはないだろうと、二人は小麦亭へと戻ることにした。
◆◆◆◆◆
夕暮れと共に宿へ戻ると、仕事終わりの近隣の住人たちが皆集まっていた。
「お、エリネ。帰って来たか」
「今日は大丈夫だったか?」
「ええ。平気よ」
小麦亭は村に一軒の酒場として、住民たちのたまり場となっているらしい。ここに来れば常に誰かしらがいて、話相手には事欠かない。
宿とはいうもののこんな田舎村を訪れる旅人も少なく、ほとんど村人のための空間だ。
エリネの父親ワットは村の顔役でもある。
しかしこの日、人が小麦亭に集まっていたのは、どうやらいつもの面々だけで話をするためではないようだ。
「……お客さん?」
「商人だそうだ」
店の中央に集まっている村の中心人物たちを遠巻きに眺めていた若者の一人がエリネに教える。
「商人?」
そう言えば先程領主の息子もそんなことを言っていたとエリネはふと思い返すも、それ以上深くは考えられなかった。
「エリネ、帰ったか」
「お父さん、どうしたのこれ」
店の中央の大テーブルに様々な品物が乗せられている。この小さな村には滅多に来ない行商とてこれ程の品揃えはないだろう。
「彼はヘイグさんと言って、ユラクナー中に支店を持つ大きな商会の人間らしい。うちの村でも商売を始めるんでまずは挨拶に来たんだと」
「挨拶って……」
ヘイグと名乗る中年の髭男は、帽子を外してぺこりと頭を下げた。如何にも人の好さそうな笑みを浮かべている。
けれどその作った笑顔が、エリネには胡散臭く見えた。
「色々な街や村で取引をして、利益を上げているらしい。この村もほら、領主様と揉めているだろう? 相談に乗ってくれるそうだ」
「相談って……でも……こんな小さな村でわざわざ商売を?」
エリネが口を差し挟む隙もなく、父ワットはヘイグと話をするために人々の輪へ戻ってしまう。
「この織物は二つ先の都市で……」
「この陶器は小麦と交換で……」
「そういえばこの店には……」
「今投資しておけば、あとには何倍にもなって……」
距離が少し離れているために、エリネの居る位置からでは細々とした声しか聞こえない。
ワットに限らず村の大人たちの多くがヘイグの話に聞き入っているようだ。額を突き合わせて、差し出される品物に見入っている。
彼らはこの数か月、なんとか領主の横暴に対抗しようと日夜集まって頭を悩ませていた。
「なぁ、エリネ。お前の親父さん大丈夫か?」
「トバイアス、あんたの方こそ」
商人は自分の商品を買わないかと持ちかける。ここまでは普通のことだ。
だが問題はその先にある。彼は村人たちに自分が必要とするだけの商品を購入するのではなく、ここにある品を大量に買って他者に売りつけて利益を上げないかと持ちかけているのだ。
「今年の収穫だけでは税を納めるのが厳しいのでしょう? ここで儲けを出せば、田畑を手放さずに済みますよ」
商人は言葉巧みに、ワットや村人たちに取引を持ちかける。
「なんだか……不安になるわ」
「だよなぁ。話が上手すぎて、そんなに簡単に行くか? って」
近くの席でさりげなく話を聞いていたロゼは、酒を呷りながら二人に声をかける。
「なら、止めてきたらどうだ?」
「え、いや、しかし」
「――今ここでお前たちの親を止められるのは、お前たちしかいないのだぞ?」
ロゼの言葉に、エリネとトバイアス、ウォレンなどは顔を見合わせた。
「そう……よね」
「エリネ」
先程領主の息子と相対していたエリネは、彼が商人の存在について口にしたのを聞いている。
今ここでそれを知っているのがエリネとロゼしかいない以上、小麦亭の娘であるエリネがそれを父母に伝えなければ誰もそれを知らないままヘイグの取引に乗ってしまうことになる。
大人たちの波に分け入り、エリネはワットへとそれを話に行った。
ロゼはその背中を注意深く見つめる。
エリネの乱入によってしばらく話が止まったが、ワットはそのうちまた輪の中に戻っていく。
そしてエリネはと言えば、落胆を隠さない様子で友人たちのもとへ戻ってきた。
「駄目……全然話を聞いてくれない」
いくら娘の言う事であろうと、すでにヘイグの話術に魅せられている父親には通用しなかった。
確かにこのところ領主による税の取り立ては厳しく、田畑の収穫だけでは凌げないというのは何度も出ていた話だ。
「まぁ、まだ失敗すると決まったわけじゃないし」
ウォレンがエリネを慰めるが、エリネの顔は晴れない。
「なんか嫌な予感がするのよね」
今日の去り際、領主の息子が言った一言が今になって何故か重苦しい嫌な感覚を伴って思い出される。
「誰が、あんな奴のものになるもんですか」
怒りと不安を抑え自らを奮い立たせるように、エリネはぎゅっと両手を握りしめた。