072
その日、領主の城は一人の高貴なる客人を迎えていた。
「いやぁ、素晴らしい料理ですね!」
「閣下からお褒めの言葉を賜れるとは、光栄です。うちの料理長もさぞや恐縮することでしょう」
リヒベルク子爵と名乗る男が皇帝領からの監査のために領地を訪れた。それを聞かされた領主は、彼が用意できる最高のもてなしを即座に手配した。
武の国と呼ばれその容赦ない戦いぶりで畏れられているエヴェルシードの人間にしては監査役の男は大人しく、常ににこにこと笑みを讃えて領主の接待を受けている。
その脇には美しい金髪の少年が静かに佇み、良くできた人形のように大人しくそのやりとりを見守っている。
そんな監査役に、領主はこれは権力者に取り入る良い機会ではないかと野心を募らせた。
「それで、この土地の毎年の収穫量の増減に関する話なのですが……」
「ああ、はい。我が領は……」
領主は知らない。
目の前にいる男が、この帝国全土において本来どれ程恐れられているかということを。
◆◆◆◆◆
「こんなにつぎ込んで大丈夫なの?」
「なに、心配はいらないさ。この取引が上手く行けば、お前たちにも楽をさせてやれる」
ワットはエリネの忠告に耳を貸さず、蓄えのほとんどを費やして商人ヘイグとの取引を開始した。
商品をヘイグから仕入れ、別の街で売る。要はそれだけのことなのだが、かけた額が尋常ではない。
それだけこの村が切羽詰まっているということだけに、ここで失敗したら後がないという状態だ。
そして、世の中悪い予感程当たるものである。
「どういうことだ! ヘイグさん!」
「話が違うじゃないか!」
ワットたちがヘイグに唆されて取引を開始してから一週間ほど経った頃、村人たちは商人に詰め寄っていた。
「あんたはこれを街で売れば大儲けだと言っていたが、今は何処の街でも同じような商品が溢れているじゃないか!」
隣町にヘイグから買った商品を売りに行ったワットたちが見たものは、彼らが購入したのと同じ商品が街中で売られている光景だった。
「どうなっているんだ!」
「俺たちを騙したのか?!」
「騙したなどと人聞きが悪い。これは正当な取引の結果ですよ」
畑仕事で鍛えられた男たちに詰め寄られても、ヘイグは動揺する素振りを見せない。
まるで彼には初めからこうなることがわかっていたかのように。
「商売は生き物なのですよ。常に上手く行くとは限らない。上手くやったもの勝ちなのです」
「それで、あんたは自分が上手くやるために俺たちを騙したのか」
村人たちの表情が硬く敵意に満ちていく。
「とんでもない。あなた方の商売が失敗したことは、私にとっても残念な結果ですよ。あなた方が儲ければ儲けるだけ、私の下から商品を買う機会も増えるはずだったのに」
「……」
宿の中は一瞬、息苦しい程の沈黙に包まれた。声こそ出さずとも、仕草が、目線が、それぞれお互いの動向を探る静かなざわめきだけが伝わっていく。空気が重い。
「ああ、そうそう」
その沈黙を打ち破ったのもまたヘイグの言葉だった。
「それで、残りの取引ですが」
「残りだと?!」
思いもかけない話を持ちだされ、ワットたちはまたしても怒りの表情を浮かべた。
「残りも何も、今回買った品だって行き先が決まらないんだ! もうあんたのところの商品は買わないよ!」
「それは困りますねぇ」
作られた人形のような笑顔を浮かべ、ヘイグは懐から一枚の書状を取り出した。
「最初の契約の時にちゃんと約束したじゃありませんか。あなた方は三か月の間は、私から一定の期間で商品を買うと」
「なんだと……?!」
男たちが再び顔を見合わせる。
「そんな契約はしていない!」
「そんなはずありませんよ。これが証拠です」
ヘイグは契約書をワットの目の前に差し出すと、長々と連なった装飾的な文字の一部を指差した。
ワットたちは目が潰れそうな文字を必死で追いかける。
そこには確かにヘイグの言った通りの内容が書かれていた。――ただし、かなり分かりづらく紛らわしい、誤解を招くような言い回しで。
「こんな契約は不当だ!」
「不当? どこがです? こちらはしっかり契約書まで作っているというのに。ここにあるのはあなた方のサインに間違いありませんね?」
ヘイグがずらりと並べた幾枚もの書類、そのほとんどにワットを始めとする村の顔役たちの名前が綴られている。
「こんなものは無効だ! 我々はこんな契約になっているとは知らなかった!」
「契約を破棄して代金を踏み倒すおつもりですか? あなた方がそういうおつもりでしたら、我々にも考えがありますよ」
「考えだって? どうするってんだ!」
「それは当然、出るところに出てもらいましょう。私はこの書類を持って、国に訴えますよ」
「なっ……!」
ヘイグから契約書を奪おうと、村人の一人が思わず腕を伸ばす。
中年の商人はその外見からは想像もつかない意外な敏捷性で、その腕をひょいと避けた。
「おっと、乱暴はやめてくださいよ。これ以上罪を重ねるのはお互いのためになりませんよ」
「罪だと?! 俺たちを勝手に罪人扱いしてるのはそっちじゃねぇか!」
「私は自分の商売上の利益を守るために当然の行動をしているまでです」
村の男たちが殺気立つ。ヘイグは飄々とした態度を崩さないままだ。この状態でも肉付きの良いその顔から消えない笑みがもはや不気味だった。
「あなた方が払えないと言うのであれば、他の方に払ってもらうのはどうでしょう?」
「他の人間だと? 誰がいるってんだ」
「例えば――この村の領主様だとか」
「!」
領主の名に、村人たちはそれぞれが動揺を見せてざわめいた。
ある者は反射的に嫌悪を露わにし、ある者はただ憤慨する。ある者はその考えにも利がないかと迷いだす。
「領主だと?! あんな奴に借りを作れと?!」
「いや、だが、もうそれしか方法が」
「冗談じゃない! 何を言われるかわからないじゃないか!」
「しかし俺たちのこの借金も元々領主のせいだろう? 肩代わりさせるぐらい……」
「あの領主がそんな言い分聞くもんか!」
エリネにウォレン、トバイアスなど若者たちは、そんな父親たちの言い争いに困惑するばかりだ。
そして今日も今日とて相場以上の高値に文句を言いながらも、昼から酒を飲んでいた一人の旅人が彼らを眺めて小さく呟く。
「こうなってしまっては向こうの思うつぼだな」
「え……」
ロゼの近くにいたエリネは、半分程度しか聞こえなかったその呟きに僅かに反応する。だがロゼはそれには応えず、にっこり笑ってこう言った。
「おかわりをしたいのだが、いいか?」
「あ、はい」
店の中はもはや村の会議場と化していて酒場としての役目を果たしていない。とはいえ客はここにいるロゼ一人だ。酒を出すだけならエリネで足りる。
上がる税に上がる物価。この村を訪れるような旅人はもともと少なかったが、今では少ないどころかさっぱりだ。
それでもエリネはこの店が好きだったし、なんとか支えたいと思っていた。
ロゼに新しい酒を出しながら、エリネはこっそりと溜息をつく。
「浮かない顔だな」
「こんな状況なので当然よ……あ、御見苦しいところを見せっ放しでごめんなさい」
「いい。私は自分の目的のためにここにいるのだから」
「目的……?」
そう言えばロゼは旅人だとは聞いたが、一体何のためにこの村まで来たのだろう? そんなことも知らなかったエリネは今更疑問を感じたが、結局それを追求することはできなかった。
「エリネ」
「なんですか?」
「あの状況をどうにかしたいとは思わないか?」
「そんなこと言っても……もう私なんかの力じゃ……」
「そうか? お前がいる。お前の友人たちもいる。まだできることはあるだろう?」
ロゼの紅い瞳に見つめられて、エリネは内側の自分をほんの少し奮い立たせる。数日前、聞き入れてもらえないのを承知で商人ヘイグの怪しさを父に訴えた時と同じように。
「どうにか……したいです」
「なら、一ついいことを教えてやる」
ロゼはエリネを微笑んで手招きすると、その耳元であることを囁いた。