薔薇の皇帝 14

074

 紺に近いが陽の下で見ればはっきりと明るさの違う蒼い髪。そして橙の瞳。
「エヴェルシード人……?」
 吸血鬼の旅人も宿にはいるとはいえ、彼もまたユラクナーで出会うには珍しい民族だ。
 領主の城で揉めていた一行の前に突然現れたその青年は、簡素ながらも仕立てが良いとわかる身形をしている。
 貴族らしさと、貴族に仕える従者らしさの両方を持ち合わせた人物。
「り、リヒベルク子爵。何故あなたがここに……!」
「や、領主殿」
 その顔を見てあからさまに動揺した領主に対し、気さくに挨拶をする。
「この地方の監査に対しある申し立てを受けましてね」
「申し立て?」
「ええ。あなたがそこの商人ヘイグと結託して不当な利益を得ているのではないかと」
「そ、そんなことは……!」
 リチャードの指摘に対し、領主は途端に顔色が悪くなる。
 数日前はこれなら御しやすい若造だと感じたはずの監査官を前に、領主は今や蛇に睨まれた蛙の心地を味わっている。今日もあの時も、監査官本人は一切その身に纏う空気を変えていないというのに。
「そんな申し立て、でたらめです。一体誰がそんなことを言い出したのですか」
 領主の目線がワットたちを睥睨する。彼らがその「申し立て」とやらをしていたらただでは済まさないという視線だ。
 これまでは領民にのらりくらりと対応してきた領主も、さすがに帝国が行った監査で諸々の摘発を受けてはたまらない。
「普通それは言わないところ……と言っても、この場合は領民からの訴えではないので良いですね。あなたの不正を発見したのは、もう一人の監査官です」
「……もう一人?」
 領主の顔から一瞬表情が抜け落ち、次第に汗をかいて焦りはじめた。
 リチャードは笑顔のまま告げる。
「ええ、もう一人の監査官です」
「そ、そんな人物がいましたかな?」
「いましたよ? 最初から私の隣にいたでしょう? 金髪の少年が」
「あれはあなたの従者ではなかったのですか?!」
 その少年の存在は知っていたものの、これまで気にも留めていなかった領主は驚きのままに叫ぶ。
 その叫びを、リチャードは笑顔で切り捨てた。
「私は一言もそのようなこと口にしておりません」
 一方、領主と帝国の監査官のやりとりを、ワットやエリネたちは呆気にとられながら見守っていた。
 二人の話を聞きながら、エリネはあることを脳裏に思い浮かべる。
「……金髪の少年?」
「そう言えば、隣町で……」
 ウォレンやトバイアスも同じく気づいた。
 彼らがヘイグから買った商品が偽物であることを街で調べていた時に助言してくれた相手。それも金髪の少年だった。
 ある程度大きな街であればこの村よりは人の出入りは多い。それでもやはり、北の大陸に存在するシルヴァーニ王国の民は珍しい。
 あの少年が帝国の監査官だったと言うのなら、エリネたちに協力的だったのも納得だ。
「さて、ヘイグ殿」
 この場からこっそり逃げ出そうとしていた商人に向けて、リチャードはますます爽やかな笑みを浮かべて見せる。
 爽やかだが、そこにあるものは獣が獲物を追い詰める喜びだ。
「あなたにはいくつもの詐欺の罪状が寄せられています。今回はこの村だけでなく、近隣の街でも相手を騙した不正な取引を行ったそうですね」
「……とんでもない。この私が、そのようなことをするわけ――」
「その辺りの事情は、取調室でお答えください。面倒な事情説明は差っ引きますが、とにかくあなたには『帝国』からの逮捕状が出ています。……これがどういう意味かわかりますね?」
 リチャードの言葉に、遂にヘイグが顔面蒼白になった。
「ど、どういうことです?」
 領主はヘイグほど頭が回らないようで、まだ事態を呑みこめずにおろおろしている。
 自分たちの負けを悟ったヘイグは、青ざめたまま神妙に頷く。
「ここで逆らえば――皇帝陛下の御怒りに触れるということですね」
「話が早くて助かります」
 村人たちにとっては何が何だかわからないままに、問題は解決されたのだった。

 ◆◆◆◆◆

「あの……」
「ああ、あなた方がヘイグ商会から買わされた贋作は全て一度こちらで引き取りますので。騙し取られたお金も返って来るので安心してください」
「本当ですか!」
 ――あの後、領主とヘイグの二人はやってきた警吏と役人に引きずられていった。領主の息子も父親や商人とエリネのことで随分悪巧みをしていたようだと、まとめて王都に送られることになったらしい。
 監査官と名乗ったリチャードは簡単な事情説明を村人たちにしてくれた。
 これからこの地には、帝国の指導の下王国が定めた新しい領主がやってくるそうだ。
 ワットたち村の大人たちはとにかく喜び、ウォレンやトバイアスたち若者衆も自分たちの調査と訴えが報われたことに歓喜した。
 その中で、エリネはリチャードに声をかけられた。
「贋作商品の調査、お疲れ様でした」
 エリネたちはこの城に来るまで、彼のことを知らなかった。リチャードという個人のことはもちろん、そもそもこの村に帝国の監査官がやってきているなんてことも知らなかったのだ。
 しかし何故か彼の方は、エリネがウォレンたちと隣町まで出かけて行ったことを全て知っているようだった。
 皇帝とその配下は普通の人間の常識では計れない次元の違う存在だと聞いてはいたが……リチャードに関しても、そういうことなのだろうか。
「我々は基本的に、依頼や要請がなければ動けないようになっているんですよ。皇帝の力は絶大だ。けれどその力に頼ることばかりを覚えては、人は駄目になってしまう」
 世界を支配する皇帝は、人々に恐れられているくらいでちょうど良いのだと。
 ――殺戮皇帝の呼び名で知られる皇帝は、一体どんな人なのだろう。
 確か今の皇帝の名前は……。
「そんなわけで」
 エリネが正解を思い出す前に、リチャードが再び口を開く。
「あなたが領主の息子に言い放った言葉、感動いたしました。どうかその気持ちを、いつまでも忘れないでくださいね」
『私は……誰かの思惑通りに踊らされたりなんかしたくない! 自分の人生は、自分の意志と力で生きたいのよ!』
 いかに皇帝が帝国を支配しようとも、己を支配するのは己自身なのだから、と。
「あ、えと、その」
 勢いよく啖呵を切ったものの、あの時のエリネはそれが正解だとか確固たる主張だとか、しっかりものを考えてその言葉を発した訳ではなかった。ほとんど売り言葉に買い言葉で反射的に口に出してしまっただけだ。
 そのことを伝えようにも、数瞬視線を逸らしたその間に、目の前にいたはずのリチャードの姿が消えてしまっている。
「あれ……?」
 まさか白昼夢……の訳はない。
「すごいな。あれが皇帝領の魔法って奴か」
「魔法?」
 リチャードが消える瞬間を見ていたらしいトバイアスが感心している。
「いつもはこの国が大きな帝国の中の一地域だとか、皇帝領におわす皇帝が世界を見守っているとか考えたことないんだけど……」
「ちゃんと……守られているのね」
 恐れと共にその名を呼ばれるべき存在は、けれどこの世界の守り人。
 彼らが意識しないところでも、皇帝はこの世界を平らかにするための支配を続ける。
「だからこそ……私たちもちゃんと生きていかなきゃ」
 ワットや村の大人たちに呼ばれて、エリネたちは踵を返した。

 ◆◆◆◆◆

 ようやく小麦亭へと帰り着いて、エリネはここしばらくで見慣れた姿が酒場の中にないことに気づいた。
「あれ? ロゼさんは」
「あの人ならもう行ってしまったわよ」
 店の留守を預かっていた母がエリネたちにそう告げる。
「え?! まだ色々と御礼言ってないのに」
 贋作のことを教えてくれたこと、父親に意見するなら自分がやらなければいけないと背を押してもらったこと、エリネはまだロゼに話したいことがあった。しかしそれはもう叶わない。
「仕方ないでしょ。娘さんが迎えに来たみたいだから」
「そっか……」
 この村を訪れては去っていく旅人たち。今回皇帝領に監査の依頼をしてくれたのも、その中の一人だという。
 去来する人々の全てを覚えていることはさすがに不可能だ。今は感謝していても、きっとそのうちに忘れてしまう。
 恐らくそれでいいのだろう。去っていく人がいる分、やってくる人もいる。エリネはこれからも、この店の娘としてそれらの人々の世話をする。
 そうやってこの先もきっと、日々の営みを続けていく。