薔薇の皇帝 15

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 ――だってまさか思わないだろう? 自分が高貴な人物の御落胤で、ある日城から迎えが来るなんて。
 そんなことを空想するのは余程小さな子どもか、もしくは自分の現状に満足できていない、所謂「不幸」な連中だけだ。
 そう言った筋の物語が売れるのはわかっている。けれどあれを読む人々は皆それを空想するわけではなく、実際にはありえないとわかっているからこそ幻想を楽しめる。
 そんな美味い話はない。何もせずに自分がいつか誰かに救われるなんてありえない。
 何より物語に描かれる主人公は大抵善良で欲の一つもないような綺麗な心の持ち主だ。
 自分がそうではないと知っている人間は、物語の主人公になりたいなどとは思わないものだ。
「おい、シエル。なんか表に、お前に会いたいって人が来てるんだけど」
「は? 表? 誰だよ。ってか、誰だか知らね―けど、こんな時間に営業妨害だろ。裏に回ってもらってくれ」
 シエルもそうだった。彼はいたって普通の子どもで、下町の暮らしに馴染み、仲間を愛し、自分が特別な人間になるなどと考えたこともない少年だ。
 子どもの頃に唯一の身内である母を亡くし、天涯孤独となった今は定食屋で働いている。
「いや、無理だって」
 店そのものの対応ではなく店の従業員個人に用がある人間は基本的に裏口から声をかけるのが常識だ。
 この時間にこの場所に訪ねて来るような知人に心当たりのないシエルは、だから当然他の相手にするのと同じように、その「客」にも裏に回ってもらうよう求めた。しかし取次ぎをした店員仲間は首を横に振る。
「相手の御大尽、馬車で店の前に乗りつけてるんだって」
「はぁ?」
 告げられた内容はますますもって意味が分からない。
 馬車で下町の定食屋に乗りつけるような知人に、シエルどころかこの店の他の人間だって心当たりはないだろう。
「人違いじゃないのか?」
「確かにお前らしい。俺じゃ話にならないし、とにかく行ってくれよ」
「わかった」
 そうしてシエルが向かった先で、エヴェルシードの蒼い髪をきっちり撫でつけた壮年の紳士が言う。
「お迎えに上がりました。あなたは実は――」
「は……? マジで?」
 病に伏した国王陛下が、その昔お忍びで出かけた際に出会った女性との間に儲けたご落胤。
 自分がそんな身の上だなどと、この時までシエルは想像したこともなかったのだ。

 ◆◆◆◆◆

 物腰こそ丁寧で礼儀正しいものの、迎えとやらはどれ程抵抗しても最終的に有無を言わさずシエルを王城に連れてきた。
 無機質な仮面を皮膚に直接纏っているかのような能面の人物が、淡々とシエルに現状を説明していく。
「先月王族方に多大なご不幸があったことは御存知ですね」
「ああ……事故で王太子夫妻と王子殿下や御親戚の何人かが亡くなったって」
 王族の訃報は城下の民衆にも届いていた。
 ここ最近のエヴェルシードは他国と戦争することもなく安定しており、穏やかな気性の王太子夫妻とその王子は人気があった。彼らの早すぎる死を、国中で悼んだのは少し前の話だ。
 無愛想な能面――この男はどうやらシエルの教育係になるらしい。お傍に控えることになりますと告げられたが、この態度はどう見ても控えるという感じではない。
 シエルは現在病床の国王の知られざる四番目の王子だと説明された。
「あなたをシアンスレイトに迎え入れたのは、その穴を埋めるための緊急措置です。これから王族として好き勝手生きていけるなどと、思い上がらないように」
「なんだよそれ! いつ俺が王族になりたいだなんて言ったよ!」
「あなた以外にも多数の血縁がこの城に集められています。例え継承権を得ても、間違っても王になれるなどと夢を見ないでください」

 ◆◆◆◆◆

 そしてシエルは、自らが望んだわけでもないのに次代の王を目指して勉強することを強いられた。
 最悪な日々。初めはそうとしか思えなかった。
 いけ好かない教育係に影で無責任な噂に興じる召使い。頭から煙が出そうな程毎日毎日王族として必要な知識を詰め込んで、その振る舞いを下町の小僧から王子らしいものへと変えていく。
 それでも心はまだ自分が生まれ育った場所にあった。夜は柔らかな寝台で眠り朝は陽光の差し込む中目覚めるのを幾度繰り返そうと、ここは自分の帰る場所にはならない。
 軋む安い寝台の寝心地、眠りを引き裂くような鶏の鳴き声で目覚めていた日々を忘れることはない。
 シエルがどれ程努力しようとお構いなしに、周囲の評価は耳に飛び込んでくる。振り払っても振り払っても逃れることはできない、値踏みされるその視線。
「やはり駄目だな、下町育ちの子どもなんて」
「これならば公爵姫の私生児扱いだった王子の方が」
「でもあの方、正直言って陛下のご落胤とはとても思えなくて」
「しっ! 滅多なこと言っちゃいかん」
「遠縁の子爵様はどうです?」
「他の者たちに比べれば優秀だが、子爵としての生活が長すぎてどうも威厳がな……」
「次のエヴェルシード王はどうなるのかしら」
「まだ一人いるだろう、あの野心家の男爵が」
 一度に減った王族の数を増やすために、王家は次代の国王候補を一度に四人迎え入れていた。
「私は王になどなる気はなかったんだよ」
 一人は王家の遠縁の子爵。これまで貴族として問題なく暮らしていたが、母方に王族の姫をもらっていたため、準王子として王都に招かれた。
「僕は自分が王の血を引いていないと自分で知っている。王の資格なんて最初からないよ」
 一人は公爵姫の私生児。シエルと似たような立場ではあるが、下町で育ったシエルとは違い、祖父公爵の元で一通りの教育は施されていたらしい。――ただし、彼が本当に王族の血を引いているのかどうか、本人も周囲も懐疑的である。
 一人は男爵。祖父に王子を持つと言うが、本来エヴェルシードでは王位継承権を得られない立場だ。しかし自らの有能さでもって王に選ばれようと、強引に売り込んで来たらしい。
 そしてシエル。国王自らが息子であることを認めた、下町育ちの王子。
 初めは不満だらけで教育係の隙を見ては城を抜け出していたシエルだが、王城で過ごすうちに少しずつ気が変わって行った。
 この場所が家になりえないという想いは変わらぬものの、他の候補者たちと切磋琢磨する中、生来の負けず嫌いが首をもたげてくる。
「やるからには、勝たないとな」
 王様になりたいわけではない。だが相応しくない相応しくないと言われ続け、それならば逆になってやろうじゃないかと、挑戦心が芽生えたのだ。
「滅多にできない経験させてもらってんだ。とことんやってやるぜ」
 奪われた自由な未来に対する、それが復讐だとシエルは嘲笑した。