薔薇の皇帝 15

078

 ――二年の月日が経過した。
 その間にシエルは随分と変わった。彼自身は自分が変化したなどと思いたくはなかったし、確かに本質的なものは依然として変質せず存在していたが、目に見えて変わった部分も多かった。
 歳月に寄り添う弛まぬ努力は、下町育ちの粗野な少年を、一人の貴公子へと変えていた。見た目、言葉遣い、物腰、振る舞い。そう言ったものから相手を判断するのであれば、今のシエルは誰が見ても立派な「王子様」だ。
 もっとも、それは外面を取り繕うことができる場面だけだったが。
「皇帝陛下のご来訪?」
「そうです。来月の頭にこの国にお出でになるとのお話です」
 無愛想な教育係の前では、シエルは最初に出会った時同様、彼の御小言にうんざりとした顔を崩さないただの生意気な少年にしか過ぎない。
「何のために来るんだ?」
「それが……」
 訪問の目的。そんな単純なことを聞かれた教育係は何故か一瞬、口ごもる様子を見せた。
 いつも冷静過ぎるほどに冷静なこの青年が、こんな様子を見せることは珍しい。
「?」
 不思議に思うシエルだったが、皇帝の人となりを詳しく聞いてその態度にも納得した。
「わざわざこのエヴェルシードにねぇ……」
「詳しい事情を知る者はおりません。ですが皇帝陛下の側近である帝国宰相閣下はエヴェルシード人ですから、その辺りに関係があるのだと言われています」
「確定情報じゃないならどうでもいい。それに、今の皇帝には確か宰相以外にも人種の違う側近がいたよな?」
「シルヴァーニ人の双子が傍に仕えていると」
「皇帝本人はローゼンティア人なのにな」
 皇帝の来訪理由。
 それは、愛人探しであることが公然の秘密、暗黙の了解なのだという。
 世界中の美女美男を手中にできる立場である皇帝だが、そうした行為を求めるのは何故かこのエヴェルシード王国だけらしい。
 エヴェルシードは武人の国だ。個人差はもちろんあるだろうが、国民も特に容色に優れている民族というわけではない。
 そのエヴェルシードに、護衛騎士探しならともかく愛人をわざわざ探しに来るというのは一体どういうわけだ。
「……まさか魔族だけにそっちの方も激しくて寝台の上で相手を殺さないためとか」
「そんな話は噂でも聞いたことはございません」
 想像だけで呻くシエルの邪推を、教育係は一蹴する。
「ま、理由はともかく、皇帝がやって来るっていうのは絶好の機会だよな」
「……取り入るおつもりだと?」
「当然。ここで媚びの一つも売っておけば他の候補者より断然楽になる」
「……あまり、御無理をなさらないでください」
「しないわけにも行かないだろ? そろそろどっかの野心家野郎が、俺を目障りに思い始めてる頃合いだ」
 二年前は、シエルと他の候補者たちでは次期国王候補と言ってもまったく勝負にはならなかった。出だしが違うのだ。日常のさりげない所作にはどれだけ気を付けていても生まれ育ちが滲み出る。
 シエル以外は全員が貴族として一定以上の教育を受けてきた人間だ。王になれるかどうかはともかく、「らしさ」でシエルが彼らに簡単に勝てるわけがなかった。
 だがその溝を、差を、シエルはこの二年で埋めていた。四人の候補のうち、遠縁の子爵と公爵の私生児の二人を大きく引き離し、最も王位を継ぐことに意欲的な野心家の男爵と張り合う程に。
「正直なことを申せば、たった二年であなたがここまで成長なされるとは思いませんでした」
「張りぼてとはいえ、俺は少しは王子らしくなったか?」
 シエルは立ち上がり、貴族らしいゆったりとした仕草でふわりとマントを翻す。その仕草はいまや誰もが見惚れる程様になっている。。
「ええ……とても」
 教育係は静かに頭を下げ、彼の「王」に頷いた。

 ◆◆◆◆◆

 非公式の訪問故、それは皇帝の来訪にしてはひっそりと行われた。歓迎の晩餐の席、居並ぶのはエヴェルシード王家縁の人間ばかりだ。
 縁と言っても当然例の事故で人数は減っている。要はここに並んでいるのは、新たな国王候補の四人だった。
 子爵は以前の身分こそ国内でそう高くはないものの、伊達に生まれながら王家と縁続きの貴族として存在していない。皇帝とも面識があるようで、会話の糸口はまず彼が切った。
 初めて見る皇帝は、まるで作り物のように美しかった。
 雪のような白銀の髪に紅玉の瞳。きめ細かな蝋の肌。折れそうに細い手足はまるで少女のよう。
 人でないことを――魔族であることを証明する尖った耳さえ、この世のものとは思えない美しさを構成する要素の一つでしかない。
 皇帝の所業として伝わってくる残酷な話からは想像できなかったその容姿に、彼と初めて面識を持つ人間は軒並み驚くという。
 薔薇の皇帝ロゼウス。
 冷酷な暴君であると噂されながらも、すでに何百年もの間この帝国を支配している偉大なる皇。
 しかしたおやかな外見からはその恐ろしさは窺い知れない。
 男の愛人になるなど欲得ずくでも真っ平御免だったが、これほど美しい相手ならば吝かではないかもしれない。
 取り入らねばならない相手がむくつけき大男だったりむさ苦しいばかりの爺だったらどうしようという最後の懸念が払拭され、シエルは遠慮なく籠絡を開始することにした。
 考えることは同じと言う訳か、野心家の男爵も、公爵姫の私生児までもが皇帝の気を惹こうとあれこれ話しかけている。
 一人、遠縁の子爵だけがそんな三人を戸惑ったような表情で見つめていた。
「それでですね、陛下――」
「お前は――」
 ある程度話をしたところで、皇帝はシエルを見つめ嘲るように笑った。
「どうしてそんなに上辺を取り繕う? お前の本質は、そうではないだろう?」
「――ッ」
 咄嗟に言葉が出なかった。橙の瞳は見開かれ、食事用のナイフとフォークを持つ手が震える。
 見抜かれた。まだ会って間もない、相手の本質など何一つ知らない相手に。
「私のことを御存知で?」
「その内容は予測できるが、事前に知っていたかどうかと問われればその答は否だ。だが私には“わかる”」
 彼らが皇帝についてあらかじめ噂や公式発表を調べたように、皇帝の方でも彼らを調べたのではないか。シエルの考えを皇帝は否定した。
 それが何を意味するのかまでは、この時のシエルにはまだわからなかった。だが続く言葉に、当てずっぽうではなく見透かされていることを知る。
「言葉の端々にエヴェルシード特有の下町なまりがあるな。マナーは完璧なのに、動作に移る前に一瞬まるで精神統一するような隙がある。生まれながらの上流階級のようには身についていないんだ。お前にとって、それらはただの仮面だろう」
「……よくお気づきですね」
「私でなければ気づかないだろう。あるいはリチャードか、エチエンヌか、ローラか。安心しろ、百年も生きられない普通の人間なら気づかない」
 よくできた仮面だと皇帝は笑う。
 何もかも見透かしたその眼で。
 シエルが完璧に身につけたと思えた作法も、それは所詮不完全な張りぼてだと。
 わかっていた。わかっていたはずだったのに、その一言は堪えた。
「ああ、だったら――もう」
 シエルは乱暴に卓に手を突き、立ち上がった。
「ぶりっこ演技なんざいらねぇな!」
 他の候補者たちも部屋の隅に控えている侍従たちも、皆が芽を白黒させている。シエルの教育係の青年だけが、ついにやったという顔で沈黙も守っていた。
 豹変を意に介さず、皇帝はシエルに声をかける。
「ここにいるということは、聞いたのだろう? 私にまつわる噂を」
「ここに愛人を探しに来てるって話か? あんたはどうしてわざわざエヴェルシードなんかで愛人を探すんだ?」
「それを話すにはやはり、寝物語代わりに寝台の上でということになるだろう。――なるか? 私のものに」
 他の候補者たちが口を挟む隙もない今の内に、シエルは返答を滑り込ませた。
 何より今は興味があった。この妙な皇帝に。
「男の愛人が欲しいっていう以上あんたもわかってるだろうけどさ、俺も男だ、黙って素直に抱かれてなんかやらねーぜ? ベッドの上でまずすることは今夜の主導権争いだ」
「世界の頂点に立つ皇帝相手にその姿勢、まさしく闘争のエヴェルシードの王族だ。いいだろう、私自身の力でお前をひれ伏させてみせる。それならば文句はあるまい?」
 口の端を歪めるシエルに、皇帝もにやりと笑み返す。

 翌日の結果がどうであったかは、本人たちだけが知るところであった。