079
皇帝とのやりとりはシエルにとってそれなりに面白かった。
当初は愛人という言葉の響きに若干臆したものの、蓋を開けてみれば世間一般の愛人の付き合いとは随分違ったのだろう。体の関係も何もかも、皇帝はシエルを無理に付き合わせることはしなかった。あまりに淡泊過ぎて、これでは愛人どころか友人程度の付き合いだと言ったらそれで構わないと返される。
皇帝はただ、常にエヴェルシードで生きる人間とほんの少し触れあっていたいだけなのだ。シエルはやがてそれに気づいた。
望めばこの世の総てを手に入れられる……否、すでにその手にして、何でも好きなように扱えるはずの存在が何を考えているのか。
彼がそれをシエルに教えることはなかった。シエルの方で、彼の目が自分ではなく、自分という「エヴェルシード」を通して誰かを見ていることに気づいた。
「皇帝陛下との『お付き合い』は順調のようですね」
「やめてくれ。お付き合いとか背中が痒くなる。ただの愛人関係だよ」
「だといいのですが……」
教育係が顔を曇らせる。
「珍しい反応だな。何かあったか?」
「これからあるのですよ。殿下に見合いの申し込みが幾つも来ています」
「見合いって言うか、要は政略結婚だよな?」
「ええ。ですがあなたは現在皇帝陛下の『愛人』ということになっています。結婚を強要するにも難しい立場ですので、とりあえず繋がりを作っておくという意味で見合いなのでしょう」
「は……」
貴族との関係は、シエルが表面上変化したこの二年で変わっていった。
当初は下町育ちの粗野な小僧と揶揄されて歯牙にもかけなかったお歴々が、シエルが次期国王候補の一人として頭角を現し始めると途端に手のひらを返したのだ。
もう一人国王の座に近いのは野心家の男爵。下町育ちの王子シエルとその男爵ならば、どちらを選ぶのか?
血をとるか、貴族としての教育をとるか。
両方の良いところを適度に兼ね備えている遠縁の子爵は相変わらず執務はこなすが王になる気は見せない。
公爵姫の私生児として幼少期を過ごした青年に至っては最初から勝負を諦めている。
次期国王候補の争いはもはやシエルと男爵の一騎打ちの様相を呈している。
エヴェルシードの王は強くなくては困る。
どれほどの才能があろうが、高貴な血統だろうが、王になる気概がない者はすでに候補者ですらないのだ。
「……ですので、考えておいてください。シエル様、聞いていらっしゃいますか?」
「へ? 何が?」
物思いに耽っていたシエルは、教育係の呼びかけで我に帰った。慌てて彼の方を振り返る。
「ですから、見合いの話です」
「今は皇帝の愛人だ。適当な理由をつけて断ってくれ」
「ですが、いつまでも皇帝陛下の愛人でいらっしゃるわけにはいかないでしょう。未来の妃候補を選んでいただかないと困ります」
「……?」
シエルは戸惑い顔で、教育係の名を呼んだ。
「どういうことだよ。それってつまり――」
「あなたは王になられるのですから、未来の王妃候補を今の内から選んでおいてください」
「おいおい、俺が本気で王になれるなんて思ってるのかよ!」
この城に連れて来られた時、「思い上がらないように」間違っても王になれるなどと夢を見るな」と告げて来たのは今目の前にいるこの青年ではないか。
「……あの時は、確かにそう思っていました」
他の候補者の名を挙げて、王の資質として彼らにシエルが勝てるはずもないと思っていたと。教育係は正直にシエルに告げた。
「だが今のあなたは違う。このエヴェルシードを継ぐ資格がある――いいえ、そうではない」
長椅子に腰かけるシエルの前に彼は跪き告げた。
「あなたこそが、次のエヴェルシード王だ。シエル様」
シエルは呆気にとられて言葉を失う。彼はシエルが変わったと言うが、シエルにとっては彼の方がこの二年で変わったように見える。
その変化こそが自分のもたらしたものだとは、シエルには思えなかった。
「ですから皇帝陛下とは……そのうち別れることになるでしょう。王子ならばともかく、王になったら妃を迎えねばならない。いくら政略結婚前提とはいえ、隣に皇帝が立っていては、妃になれる度胸のある姫はいないでしょう」
◆◆◆◆◆
シエルはロゼウスと共に、下町に来ていた。以前もたまに息抜きに来ていたのだが、さすがに皇帝と共に来るのは初めてだ。
しかしお忍びという行動にはむしろロゼウスの方が慣れているようで、城の廊下と違って凹凸が激しい道を歩く足取りにもまったく迷いがない。
宵闇に街並みが沈む頃、一軒の酒場の前で二人は立ち止まった。
「まだあったのか、この店」
「知ってるのか?」
「ああ。昔、少しね」
ロゼウスは『炎の鳥と赤い花』が描かれた看板を懐かしそうに眺める。
中に入ると店員も客たちもすぐにシエルに気づき、声をかけてきた。
「よ、王子。久しぶりだな」
「元気だったか? 王城で苛められてぴーぴー泣いてねぇだろうな?」
「俺がそんなタマかよ! 元気でやってるぜ!」
一通り荒い歓迎を受けたところで、今日は連れがいるからと奥の席に案内してもらう。
「城下に知り合いが多いのだな」
「当然さ。もともとこっちの人間だし。息抜きしないとやってらんないね」
「王城にいる時とはまるで表情が違うな」
二年間で作り上げた仮面を全て外し、元の下町の小僧に戻ってこの空間を楽しむシエルにロゼウスは問いかける。
「いつも一人で来ているのか? 護衛はどうした」
「そんなの鬱陶しいだけだろ。あんただってそうじゃないか」
「俺とお前じゃ意味が違うだろう。次期国王候補に何かあったらどうする」
「……城の奴らみたいなこと言うんだな、あんたも」
運ばれてきた温かな料理を目の前にしながらも、シエルの表情が曇り出す。
「確かにお目付け役にもせめて騎士をつけろと何度も言われてるけど……嫌なんだよ。こっちに来てる時ぐらい、全部忘れたい」
「それは、自分の立場そのものから逃げたいということか。それとも立場を受け入れているからこその一時的な逃避か」
「……」
皇帝の問いは的を射ている。
これが仮にも王族の一員として数えられるようになった人間として、覚悟の上での行動ならばいい。だがいつまでも元居た場所に未練を残し続け、今居る場所に馴染む気がないのであれば問題だ。
そのような人間は王にはなれない。
だが自分は、本当に王になりたいのだろうか。自分が王になれると思っているのだろうか。
シエルはいまだ迷っている。
◆◆◆◆◆
数日後の話だ。
「これをやる」
「首飾りと……鳩?」
いつも通りシエルに会いにエヴェルシードまでやってきたロゼウスが、小さな箱と籠を渡してきた。
「なんでこんなもんくれるわけ?」
「別に、愛人に贈り物をするくらいいいだろう?」
相変わらず愛人らしい愛人関係ではないが、それでも関係自体はある。ただ、強請ったわけでもないのにいきなり物をもらう意味がわからない。
首飾りは一見簡素だが素材は間違いなく高級品だ。この数年でそれらを見抜くこともできるようになった。しかしそれだけではない。
鳥籠に入れられた小さな鳩はどうやら伝書鳩のようだ。
「いずれ必要になる。肌身離さず持っておけ」
「鳩を?」
意味がわからないと思いつつも、シエルはその贈り物を受け取った。
シエルとしては意味がないように見えるものも、ロゼウスの方では何か意味があるらしい。肌身離さず持てという台詞からそれらを感じとる。
どうやらこれは、ただの気紛れではない。だがその真意までは、ロゼウスは掴ませてはくれない。
シエルはロゼウスを見る。自分が王になるのであれば、いずれ別れなければならない人を。
――そして意味を知った時には、全てが終わっているのだ。
080
軋む腕の痛みで目を醒ました。
埃っぽい廃屋の中、後手に縛られていて身動きができない。
「随分あっさり引っかかったな。やはり昔の仲間は疑えないか」
「……こんな真似をして、本当に大丈夫なのでしょうか?」
目の前の二人には見覚えがあるが、この状況には覚えがない。シエルは一瞬の混乱の後、すぐに現状を計算する。
「……どういうつもりだ」
目の前に立つ二人――王位を争う候補者たちを睨み付けた。
野心家の男爵はその爬虫類じみた酷薄な面に笑みを浮かべ、公爵家の青年はおどおどと冷や汗をかいている。
「わかっているだろう? お前に生きていられると邪魔なんだ」
目障りな相手を排除する嗜虐に酔った声音を聞きながら、シエルはこの状況に陥った原因を思い返す。
いつものようにお忍びで下町へ出かけた帰り道。顔馴染みの男に声をかけられたのだ。
話したいことがあると言われ、人気のない場所まで歩かされた。そこから記憶がない。
最後に聞いたのはその顔馴染みの「すまない。ゆるしてくれ」という苦悩が滲む声。
「お前も友人に恵まれないな、シエルディス。はした金で売られるとは」
「へぇ、そりゃ知らなかった。何せ俺はお前と違って、人の友人を金で買収するなんてお上品な考えをしたことないんで」
ぴくりと顔を歪めた次の瞬間、男爵はシエルの腹を蹴り飛ばす。
そのままげほごほと苦しげに咳き込むシエルの肩を、更に長靴で踏みつける。
「調子に乗るな、下賤」
「どっちがだよ、お前の態度も、このやり口も! どこが王の器なんだよ!」
「貴様……!」
「や、やめてください男爵」
痛めつけられても反抗的な口調を止めないシエルと男爵の睨み合いに、公爵家の青年がようやく割って入る。
だが彼は間違ってもシエルを助けようとしたわけではないらしい。長い間公爵姫の私生児として扱われていた彼は、ただ暴力沙汰が苦手なだけで。
「どうせ……殺すおつもりなのでしょう?」
自分より野心があり権力を持つ男爵に逆らうことはしない。むしろ、保身のために早々と手を組んだのだろう。
「ああ、そうだな。いつまでも下民の気分が抜けない小僧が外出先で不幸に遭っても、我らには何も関係がないからな」
「それがてめーの筋書きかよ」
「そうだ。愚かしいお前には相応しい末路だろう」
「そうだな。自分の民を下民なんて言っちゃう人間が王になるのに比べれば」
「――」
熱のない目を眇めた男爵がシエルの服の襟部分に指をかける。
そのまま一気に胸元をさらけ出すように引き裂いた。
「!」
露わになった素肌の上で、先日ロゼウスから送られた首飾りが鈍く光を放つ。
「その生意気な口を封じるには、余程痛い目を――ッ!」
首飾りを乱暴に引きちぎろうとした男爵の言葉が止まった。
その隙にシエルは、何とか体勢を捻り男爵の足下を蹴りはらう!
縛られた腕を、首飾りに仕込まれた刃で縄を切り自由にする頃には、公爵家の青年の剣先が目の前に迫っていた。
「くっ!」
「躱した?! この距離で?!」
なんとか一撃を躱すと体当たりで廃屋の扉を破り外へまろび出る。
森が見える。その向こうには王城も。ここはどうやら城下町の外れのようだった。
二人相手に狭い場所で囲まれるのは不利だ。向こうは向こうで室内では剣を振るえないだろうが、それでもシエルは先に距離をとることを優先した。
「さすがに素手じゃきついか?」
だが、男爵の方は首飾りに仕込んでいた隠し刃に手のひらを斬られている。武器を握れないことを期待したいが、どうなるか。
「おのれ……!」
「あー、そういやあんた二刀流だったな」
楽観的な期待はやはり当てにならない。
「その状態で、私たち二人に勝とうとでも?」
「ああ、思ってるさ。ここで負けるような人間に、エヴェルシード王なんて務まらないね!」
王になりたいと思ったことはなかった。
ここ数年、やるからには上を目指すと、徹底的に自分を鍛え上げて来た。それでもその結果玉座に着く自分の姿までは見えて来なかった。
王になれるのかどうか以前に、そもそも王様になどなりたいのか? 自分自身でもそれがわからなかった。周囲からも期待など微塵もされていない。
けれど今、心を決める。
「貴様などが王になれるとでも?!」
「なれるんじゃなくて、『なる』んだよ! お前らみたいな奴らに、国を預けることはできない! 次の王には俺がなる!」
「ふざけたことを……!」
激昂した男爵が斬りかかってくる。
シエルは手元の暗器一つ構え直し、二人に立ち向かった。
◆◆◆◆◆
遠く馬の嘶きが聞こえた。
そして近くから手を叩く音。一人分の拍手が聞こえてくる。
「さすが次代のエヴェルシード王。強いな」
「そうでもない。ここ最近平和な時代が続いているからな。みんなボケてるって評判だ」
懐に入れていた鳩がいつの間にかいなくなっていた。どうやらただの伝書鳩ではなく、緊急時にそれを伝える役目まで追っていたらしい。
野心家の男爵と公爵家の青年はそこそこの使い手だが、本気のシエルの敵ではなかった。今は二人とも廃屋の壁を背にして伸びている。
「……あんたにはわかってたのか? この結末が」
「ああ、そうだ」
刃を隠した首飾りに鳩。あの時の贈り物は、まるでこの展開を予見していたかのようだった。
「どうして」
「愛人へのちょっとした贈り物だ」
「違う。どうしてわかったんだ。俺があいつらに襲撃を受けるって、何故」
様々な可能性がシエルの脳裏を駆け巡る。まさかこの相手が奴らとグルだとは思わないが、それにしてはこの展開はおかしい。
「そうか……お前は生まれながらの王族ではないから知らないのか」
シエルの反応を面白そうに、懐かしそうに、そしてどこか寂しそうに受け止めて、『皇帝』は告げる。
「皇帝とはそういうものなんだ」
「……?」
「わからなければそれでいい」
聞きたければ、教育係にでも詳しいことを聞け。それがいいだろう、と。
もうシエルは王城から黙って抜け出すようなことはしないだろう。あそこは彼の帰る場所であり、これからを生きていく場所だ。
今回のことで次期国王候補四人のうち二人もが不適格となったのだ。実力的に見てもやる気の面で見ても、次の王はシエルで決まりだった。
愛想のない教育係とも、のらりくらりと責任ある地位を逃れる遠縁の子爵とも、この先ずっと付き合っていくことになる。
「お迎えが来たようだぞ」
ロゼウスの言葉に馬の足音が被さってくる。続いてシエルを呼ぶ声が聞こえた。
「殿下!」
「シエルディス殿! 御無事か?!」
教育係の青年と、候補者の中では唯一中立的だった遠縁の子爵。彼らは自ら馬を駆りシエルを助けに来てくれたらしい。
「ロゼウス、俺――」
シエルが振り返り声をかけようとしたところ、そこにはすでに誰もいなかった。