薔薇の皇帝 15

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 ――それは、皇帝を捨てた男の話。

 男爵はその野心故に己が身を滅ぼし、彼に協力した公爵家の青年もまた処分されることとなった。
 男爵家は取り潰しとなり、公爵家は元々私生児であった青年を見捨てた。
 遠縁の子爵が正式に王位継承権を放棄し、次の玉座には王子シエルディスがつくこととなった。
 戴冠式は一か月後に迫っている。
「それで、私を呼びだした理由を聞こうか?」
「もうわかってるんだろ? だってあんた、すでに『皇帝』として俺の前に立っているじゃないか。これが私的な話なら、私じゃなく『俺』っていうはずだろ?」
 シエルは使われなくなった教会の一つにロゼウスを呼びだした。
 教会の外には教育係から正式にシエルの騎士となった青年が護衛のために控えている。
 もう一人で気軽にお忍びなどできない。護衛の騎士を連れ歩かないわけにはいかない。
 シエルは王になるのだから。
「そういうお前はその口調、変わらないな」
「これでも重鎮共との会議の時とかはマシになったんだぜ? 素の時間までそうそう変われないって」
 乱暴な口調でも今のシエルは王子としての振る舞いが板についている。あまり堅苦しく枠に嵌めて演じ続けようとすると無理が生じるので、このぐらいが丁度いいのだ。
「俺は十五年以上『シエル』として生きて来たんだ。いきなり次期国王候補の『シエルディス王子』になんて、一朝一夕じゃなれやしない」
「だが三年近い時をかけて、下町の小僧から王子の顔ができるようになったのだろう」
「ああ、そうだ」
「ならばもう――」
 すでにこの後の流れは決まっている。
「皇帝陛下」
 シエルはロゼウスの手を取ってその甲へそっと口付る。
 静かに顔を上げ、まっすぐにロゼウスの顔を見て言った。
「別れてください」
 割れたステンドグラスから差し込む七色の光。永遠を約束する場所で訣別を誓う。
「心は決まっているのだな」
「ええ。俺は王になります。だから、あなたとは共に行けない」
「世の中には妃を迎えながらも山ほど愛人を抱えている男などいくらでもいるがな」
「わかっています。だが俺はそうではない。そしてあなたも」
 目の前に扉がある。叩いては、開けてはいけない扉だ。
 扉は囁きかける。この向こうに行けば幸せになれると。
 そして俺は、扉に背を向ける。
「完全なる支配者よ。あなたは全ての望みを叶えることができる存在。未来を見ることなど容易く、俺にあの時最も必要なものを用意してくれた」
 刃を隠した首飾り。異変を知らせるための鳩。まさしくあれらはそのために誂えられたものなのだ。どんな高価な宝石よりも、どんな強大な権力よりもあの時役に立った。
 だから……だから、傍にはいられない。
「俺から別れを切り出さなければ、あなたは俺と別れては下さらない」
「……皇帝である私の人生は長すぎる程に長いんだ。お前の一生など、ほんの瞬き程の時間に過ぎない」
「ええ。だからあなたはこのまま愛人関係を続けていれば、俺の望みを全て叶えてくれるのでしょう? 欲しい物は全て施してくれるのでしょう? ……だから、別れましょう」
 愛しているから、愛してしまいそうだから……だから、離れる。
 決して愛してはいけない人だから。
 与えられるだけの幸せなどいらない。
「――そこにいてくれるだけでいいのだと言ったら?」
「嘘吐き」
 間髪入れずにシエルは返し、ロゼウスが目を丸くする。その表情の変化に、これまでの意趣返しだと、シエルはますます笑顔を浮かべた。
「あんたが見ているのは俺じゃない。馬鹿にしてもらっちゃ困る。こちとらその手の視線には慣れているんだ。誰かの身代わりなんて御免だね」
「……」
 シエルディス王子が次の王になると決まった今でさえ、取り繕わないシエル自身を望んでくれる人間は少ない。
 けれどこのエヴェルシードの中に皆無というわけでもない。少なくともここ数年でのシエルの努力と変化を認めて王と仰ぐようになってくれた人間もいる。
 シエルはここで、そうした人々と共に生きていく。ロゼウスと共には行けない。生きられない。
「――俺は、そこまで強い人間じゃないから」
 荊の這う扉を閉じて。鍵をかけて。そこに至る道のりの全てを封じて。
 そうして自らの道を行く。
 扉の向こうを見てしまえば戻れない自分を知っているから、それを開く道は選ばない。
「あんたは皇帝だ。そのあんたの唯一になろうとすれば、それはあんたと同じ位置に昇るか、あんたを引きずり下ろすしかない」
「私はそんなことは望んではいない」
「でも、そうなんだよ。俺じゃあんたと対等にはなれない」
「私は皇帝だ。相手に私と同じものを求めるのならば――私は永遠に独りだ」

「永遠なんて存在しないよ」

 シエルははっきりと言い切った。
 恐らく自分が思うほどには強くない人に。
「いつかあんたも出会うだろう。あんたと同じ場所であんたを想い、赦し、理解してくれるそんな相手に」
 残念ながらシエルはその立場に行けなかったけれど、いつかは誰かが、ロゼウスの隣にそうして立っているだろう、と。

「さようなら、皇帝陛下。私の最初で最後の愛人よ」

 声もない頷きが承諾を返し、そうして二人の関係は終わった。

 新たなエヴェルシード王の治世は、その後の長い歴史の中でも珍しい程に平和な時代だったと語り継がれるようになる。