薔薇の皇帝 16

085

 ――ついに来てしまった。約束の十年が。
 正確には今年で十一年目に突入するが、そんな差異は些細なこと。
「父上!」「国王陛下!」
「おお、フェルザード、ゼファード。戻ったか!」
 あらかじめ国内に敷かれた魔術陣を使い、彼らは報告を受けた半刻後にはすでにエヴェルシード領内にいた。
「皇帝陛下、此度の事、誠に申し訳なく」
「ああ。いい、いい。エヴェルシード王、謝罪は不要だ。今回のことは、すでにわかっていた」
「わかっていた? それはどういう……」
 エヴェルシード王の疑問に答えたのはロゼウスではなく、フェルザードだった。彼は不敵に笑い、王城の会議室に集まった重臣たちに告げる。
「王弟など恐るるに足らず。ちょうどいいですから、ゼファードの初陣の相手にしましょう」
「お、俺がこの作戦の指揮を執るのか?!」
「そうだよ。ゼファー、君こそが次のエヴェルシード王なのだから」
 ゼファードが指揮官だと言われ、動揺したのは本人だけではない。その下で戦う兵士たちもだ。
 彼らはフェルザードの姿は王国でもよく見かけ信頼もしているが、兄に反発して年中国を空けているゼファードの実力はまったく知らないのだ。
 そんな相手に、自らの命を預けるのは難しい。ゼファードにもそれくらいはわかっている。だからこそ戸惑う。
「だからこそ、だよ。エヴェルシードにとって重要なのは百の風評より一の戦場だ」
「……それでも、この中で一番自分の力を信じてないのは俺だ」
「ゼファード、お前は私と比べられるから頼りなく見えるけれど、王子としての力は十二分にある」
 むしろ、それをこれまでゼファードに自覚させることなく自信を奪い続けたのは、フェルザードの罪だと言っていいだろう。
 恐らく誰が口にするまでもなく、みんなそんなことは知っているのだ。知っていて、それでも問題だとは思っていない。
「たとえそれだけの力が俺にあったとしても、その俺よりフェザーが優れているなら、あんたが王になるのが当然だろう? お兄様」
 ゼファードが口にした言葉は、彼だけでなく恐らくこの国に住む者全てに共通する疑問だった。
「――私は、エヴェルシード王にはなれない。なれないんだよ。ゼファード」
「それってどういう……」
 その時、要人たちの集う室内に新たな報告がもたらされた。
「陛下、殿下! あれを……!!」
 駆け込んできた兵士の指は、窓の外の大量の黒い影を指示していた。

 ◆◆◆◆◆

「手段を択ばない人だとは知っていたけど、まさか魔物まで利用するとはね」
 エヴェルシードの王都を目指し、無数の魔物の群れが飛んできていた。黒い翼を生やした竜や蝙蝠、人面鳥が、不吉な羽音を響かせながら近づいてくる。彼らのまとう魔力のせいで、空は灰色に染まり、暗雲が立ち込める。
「あんな連中どうやって用意したんだよ! 今まで勇者稼業でもこんな大群見たことないぞ!」
「どうやら手駒に最低一人は魔術師がいそうだね」
 見張り塔の頂上でそれを確認した王族兄弟は、続いて入った反乱軍の情報にも対処しなければならなかった。大広間で悠長な謁見などやっていられないと、軍事用の狭い会議室を先程から見張りと伝令が行ったり来たりしている。
 厳めしい顔立ちの壮年の将軍が告げた。
「魔物の群れは脅威ですが、そちらにばかり気を取られるわけにはいきますまい。奴らは陽動でしょう。我らが王都を襲撃する魔物の対処に追われているうちに、国内各地の反乱軍を結集して攻め込むつもりと見える」
 男たちは額を突き合わせて、一枚の地図を眺めていた。エヴェルシード全土をかなり正確な縮尺で描いた高価な地図である。
 また別の将軍が、禿頭に汗をかきながら言葉を発する。
「陽動とはいえ、手を抜ける相手でもないのが辛いところですね。あの魔物の群れは人間の兵士と違い、どうすれば倒し尽くせるのか、そもそも王都まで到達した時にどのような行動をとるのかも予測できない」
「一番まずいのは、戦力を分散させすぎて結局人の兵も魔物もどちらも王城まで通してしまうことだ」
「では、どのように軍を配置いたしますか」
「やはり転移陣の前に主力を控えさせておくべきかと」
 エヴェルシード国王とフェルザード、ゼファードも参加する会議は、これまでにない緊張感が漂っていた。
 エヴェルシードは武の王国と呼ばれているが、魔物を使った襲撃などはこれまでにまったく経験がなく計算外である。冥府の亡者や魔物を操るにはかなり強力な魔術師の存在が必要となるが、その魔術師こと黒の末裔がゼルアータ人と呼ばれていた時代に彼らを攻め滅ぼしたのは、他でもないエヴェルシードだ。皇帝の覚えもめでたいエヴェルシードと冷遇され続ける黒の末裔。両国には七千年の永きにわたる因縁があった。
 その黒の末裔がエヴェルシードの王族に手を貸しているとはもはやただごとではない。王弟は本気で国王一派を叩き、王位を奪うつもりである。
「――鍵は、魔術師だろうな。エヴェルシードを憎む黒の末裔ならば、この反乱が成功しようと失敗しようと、我が国に損害を与えられればそれでいいのだろう」
 苦い顔をする将軍たちを横目に、フェルザードがそう言った。
「そのような輩と手を組むとは、シアングリード大公は正気か!?」
「国に弓引く輩が正気であってもらっては困る。叔父上には狂人として、未来の王の敵らしく華々しく消えていただこう」
 酷薄な笑みを浮かべるフェルザードのあまりにも冷たい言葉に、いきり立つ忠臣たちも一気に冷静になった。
 フェルザード=エヴェルシードという人間はそうだ。こうしてその一言で、その眼差し一つで、相手の心を畏怖させ、支配する。
 彼はいつでも完璧な王子だった。この武の王国で、その強さも性格も非の打ちどころがない王位継承者。だからゼファードは、その兄を差し置いて自分が王位を継ぐ未来など思い浮かべることができなかった。
 この場にいる将校たちは誰もフェルザードの意見は求めても、ゼファードの意見を尋ねはしない。これまでずっとそうだったし、これからもきっとそうだとゼファード自身思っている。
 俯いて視線を再び地図に落としたゼファードは、書きこみのされたそれを見つめながらあることに気が付いた。兵の配置をいまだ話し合っていた国王がそれに気づき、話しかけてくる。
「ゼファード、どうした?」
「これって……いや、まさか……でも」
 ゼファードは近くの書記の手から筆記用具を奪い去ると、がばりと巨大な地図の上に身を伏せるように覆いかぶさった。誰かが止める間もなく手を動かし、大きな図形を描く。
「ああ、殿下! 一体何をなさいます?!」
 第二王子の突然の暴挙としか見えない行動に、将軍やその部下たちは各々顔を怒らせたり悲鳴を上げたりと忙しい。そんな中、地図上の点と点を線でつないでいたゼファードは、確信を得た顔つきで叫ぶ。
「やっぱり! 大公の兵の配置は、それ自体が巨大な魔法陣だったんだ!」
「ゼファード?」
「誰か、アドニスを呼んでくれ! 金髪碧眼の俺の連れだ」
 突然のゼファードの指示に戸惑う伝令を、国王が促そうとする。しかしゼファードの力をまだ認めていない将軍たちに睨まれ、一瞬の膠着状態に陥る。
 現在のエヴェルシード国王は決して無能ではないが、有能でもない。彼の血からフェルザードが生まれたことの方が不思議なほど凡庸な父王である。だからこそこうして弟大公につけこまれそうになっている。
 フェルザードは何も口を挟まない。
 代わりのように、この膠着を打破したのは、それまで傍観者に徹していた一人の声。
「――ならば、私が奴を呼んで来よう」
「皇帝陛下」
「ロゼウス」
 会議が始まってからずっと、部屋の隅で様子を見守っていたロゼウスが口を開いた。彼は皇帝としてここに来ているものの、皇帝だからこそ、この状態に口を挟むことは基本的にない。
 皇帝の意志と今のエヴェルシードの状況がそぐわない場合はその力を振りかざして支配することもあるが、現在のエヴェルシードは良くも悪くもロゼウスの支配が緩い状態だ。皇帝による統治が徹底されているということはその国の人間に自国を治めるだけの力量がないと評価されているわけなので、皇帝が内乱に直接手出しをしない状況は、そう悪いものではない。しかし皇帝が誰に味方することもなくその状況をただ見つめているだけというのは、世界最高権力者が現在のエヴェルシード王権に肩入れする気もないことを同時に示す。
 エヴェルシードの者たちもそれぐらいはわかっている。だからこそフェルザードとゼファードを呼び寄せはしても、ロゼウスに直接助けを求めるようなことはしなかった。国王が皇帝に対してしようとしたのは、先程の謝罪だけ。
 皇帝の行動とは、それだけ帝国の行く末を決めるものなのだ。
 そのロゼウスが、今はゼファードの意見を尊重して自ら伝令のような役割を勤めるという。
 それがわからないような者はここにはいない。
 室内に凍るような沈黙が落ち、長い白銀髪を翻しながらロゼウスが部屋を出て行く足音だけが響いた。

 ◆◆◆◆◆

 皇帝の真意はフェルザード王子の意見と同じく、ゼファード王子を王位に近づけることにある。
 それを主だった重臣たちに知らしめた数瞬後、それこそ瞬きの間に彼はゼファードの言う「アドニス」を連れて会議室に戻ってきた。ついでに皇帝領からはるばるやってきた面々も一緒である。
 アドニス――ハデス=レーテ。
 魔術で金髪緑眼のシルヴァーニ人の姿に化けてはいるが、実は彼もれっきとした黒の末裔の一人だ。それも先代皇帝の選定者という複雑な立場だが、今はその素性を隠してあくまでも勇者ゼファーの相棒としてここにいる。
「これは……」
 王弟が国内のあらゆる場所に配置したという反乱軍の拠点とゼファードがその場を線でつなぎ合わせた地図を見て、アドニスはその意図を完璧に理解したらしい。
「これは確かに、魔術の一種だね。人間の争いの気やそこで流された血を代償に、冥府の魔物をこの世に呼び寄せる魔術だ。もっとも、ここまで大掛かりなものは見たことがない。さすがに一国の大公クラスだとこれらの準備にかける情熱も違うよね」
「感心してないで、この魔術を教えてくれ。アドニス。何か打開策はないか?」
 ゼファードはエヴェルシード人にしては珍しく黒の末裔や魔術に偏見がない人物だ。勇者稼業を始めた時にアドニスの魔術の腕に惚れ込みいつもその術や理論に間近に触れていたおかげで、今回も王弟が利用した術の痕跡を地図上から見抜くことができた。
 しかしゼファードにわかるのは王弟が何か魔術を利用しているらしいというそれだけで、対処法までは知る由もない。王城に向かって魔物の大群が向かっている以上、遅かれ早かれ王弟が何らかの魔術を用いていることは誰かが気づいただろう。けれど仕組みがわかったところで、それに対処できなければ何の意味もない。
「ゼファー。僕はこの国にまったく関係のない人間だよ。その僕が、魔術師を嫌うエヴェルシードを救うために軽く協力なんてすると思うのかい? もしかしたら魔術師を用いて権力を狙う王弟閣下の方が実は魔術師を重用してくれるかもしれないのに」
「貴様!」
 アドニスの言葉にまたしても騒然となる室内。その沸き立つ空気とは裏腹に、ゼファードはまったく気負ったところのない様子で答えた。
「思っているよ。勇者アドニス。お前は魔術師である前に、俺の友人である前に、勇者なんだから」
 静かなその言葉は、先程とフェルザードがもたらした絶対零度の静寂とは全く違った沈黙を降ろす。
「……君はエヴェルシードらしくないよ、ゼファード。本質だけで言うなら、フェルザード王子の方がよっぽどエヴェルシードだ」
 アドニスは何かを思い返すようにそっと瞳を伏せた。
「……けれど、だからこそ君なら良い王になるだろう。エヴェルシードの本質を継ぐ者としての王ではなく、薔薇の皇帝が望んだ新たな時代の魁に。――ロゼウス、それがお前の望みだろう」
 再び顔を上げたアドニスの視線が、薔薇の皇帝に向けられる。室内の者たちは、戦況も忘れ息をつめてそのやりとりを見つめた。一体このシルヴァーニ人の魔術師は皇帝とどういう関係なのかと疑っている。
 アドニスの問いに、ロゼウスは唇に浮かべた薄い笑みで答えた。
「その通りだ。さぁ、ゼファード。指示を」
 ロゼウスの言葉は、まるでゼファードの背中を押すようだった。
 ゼファードにはいつもそれを目の前にしながら、決して越えることのない一本の線があった。その線を越えるのを手助けするように、ロゼウスがその背中を押すのだ。
 そのことの意味を、ゼファードはもう知っていた。
 まだ自分の心の中、感情の整理はつかないものの、ここで自分がその場所で足踏みするわけにはいかないことだけはわかっていた。
「俺は――……」
 エヴェルシードの命運を分ける戦い、そしてエヴェルシード第二王子、ゼファード=スラニエルゼの闘いが今始まる。

086

 アドニスの言葉によれば、その魔術陣を破壊するには四つの要を破壊することが必要だということだった。
「陣を破壊することは基本だけれどね。これだけ規模の大きな魔術の構造を全て一人で読み解ける術者は一人しかいない。そして魔術師を集めている時間もない。今この国にいる最低限の人材でできそうな話と言えば、魔術自体の破壊だ」
 狙うは魔法陣の要ではなく、その陣を敷いている空間自体の要だという。円の中に六芒星を描く魔術陣がすっぽり収まる正方形の四隅、そこに設置されているはずの呪具を壊す。強硬策となるが、仕方がない。
「これなら最低限、それこそゼファードやフェルザード王子レベルの魔術の知識がある人間を四人集めれば何とかなる。呪具を壊すだけだから、その人自身に魔力はいらない。もっとも、この規模の術となると呪具の傍に魔術師がいて戦闘になる可能性も高いけれど」
 魔術陣を破壊すれば王城に向かっている魔物の大群は消える。正確には、本来魔術陣を破壊した際に受ける反動を、召喚された魔物たちにぶつけて逸らすのだという。魔術そのものは魔物の群れを召喚するもので、すでに召喚されてしまった魔物はまた別に倒さねばならない。しかしこれならば術破壊の反動を受ける必要もないし、魔物を倒すこともできるので一石二鳥だ。
「問題は、呪具の破壊に誰を向かわせるかだ。それと、人間の反乱軍がこの城に辿り着くよりも、魔物の群れが王城につく方が早い。そっちにも多少魔術を使える人手を残して置いた方がいいと思う」
 魔術師であるアドニスの意見を聞き、ゼファードは顎に指を当てながら策を練る。
「……呪具の破壊に向かうべき人物は、俺たちで考える。各地の反乱軍に対応する軍の配置を、任せてもいいか」
「……御意。王太子殿下」
 少しずつ、本当に少しずつだが、ゼファードはこれまで目を背け続けてきた国内での自分の立場というものに向き合い始める。それと同時に、周囲も少しずつゼファードのことを認めてきてくれているようだ。
「呪具の破壊に関してだが、一つはアドニス。お前に任せていいな」
「まぁ、ここまで来たらそこまでやるよ」
「では、もう一つは私が」
「フェルザード殿下!」
「ここで私までもが指揮官に回ったら余計に現場が混乱するだろう? それに、他に多少なりと魔術を解する人間が他にいるかい?」
 エヴェルシードでは極めて珍しいことに、フェルザードもゼファードも魔術を使える。もちろんその精度自体は本職の黒の末裔には遠く及ばないが、例えばフェルザードなどは、剣に炎の魔力を纏わせることによって城を一つまるごと叩き斬ったこともあるほどだ。ルルティスが拉致されたゼイルの事件の時のように。
 ゼファードは今回は、指揮官として王城に残らねばならない。兵士の配置などは将軍たちに任せるとしても、今回の大将は彼なのだ。本陣で、戦場となったこの国全体の動きを把握しなければならない。
「残り二か所はどうする?」
 父であるエヴェルシード王の言葉に、ゼファードは再び考え込んだ。
 魔術を解し、呪具を破壊できるだけの実力者。そして反乱軍を抑えるためにはこれ以上戦力を割くわけにはいかず、単身で現場に向かってもらう必要がある。それだけの力を持つ人間となると――。
「私がやりましょうか? ゼファード殿下」
「ルルティス」
「いやぁ、せっかくエヴェルシードくんだりまで来たのに堂々放置でしたが、ようやく発言権が得られそうで良かったです。私なら学者として最低限の魔術の知識はありますし、武器を使えば呪具の破壊ぐらいはできると思いますよ」
 先程ロゼウスがアドニスを連れてきた際、ついでに他の皇帝領の面々も連れてきていたのだ。ただ、エヴェルシード国内の問題にやたらと口を出すわけにもいかず、彼らは沈黙を守っていた。先程のロゼウスのように、普段は鬱陶しい程の存在感を放っているのにいざとなればそれをまるで影のように消せるのが皇帝領の面々だ。
「でも、お前は皇帝領の人間だろう?」
「本職は学者で、趣味で多少の武芸をこなし、皇帝領には押しかけただけの人間です。そして、あなたの友人です」
 にっこりと笑うルルティスの琥珀の瞳にある澄んだ感情を見て取り、ゼファードは頷いた。
「――わかった。ルルティス、呪具の破壊の一つをお前に任せる」
「はい」
 ルルティスは笑って返事をするに留めた。これはあくまで彼にとって、友人の頼みを聞くだけのことだけなのだから。
 そして呪具の破壊に必要なのは、あと一人。
 厳密に言うと、ゼファードの中で魔術を使えて今この瞬間動かせるだろう知り合いはもう一人。ルルティスが申し出てくれたことの方が予想外の僥倖で、最後の一人は初めから決まっていた。
「アルジャンティア」
 彼は振り返り、皇帝領の面々の中でも一番後ろで話を聞くだけ聞いていた少女の名を呼んだ。
 それはこの世界から忘れられた少女の名前。皇帝の娘でありながら決して「皇女」にはなれず、ロゼウスが失脚することがあればそのまま何も得られず、何者にもなれずに喪われていくはずの存在。
 けれどゼファードにとって、彼女は最初からちゃんと生きた人間だった。その喜びも悲しみも知っている。兄であるフェルザードの影に隠れる自分とよく似た、それでいてまるで違う存在。
「最後の呪具の破壊を、お前に頼みたい」
「私が?」
「君ならできる」
 先人が偉大すぎるとその子孫は辛い。有能すぎる親は子どもの将来を潰すのだ。ロゼウスという皇帝を父に持ったアルジャンティア。フェルザードという王子を兄に持つゼファード。その共通点は昔から二人を結びつけ、それ故に顔を合わせるたびに口喧嘩が絶えない。
 けれどゼファードは確信している。
 自分だけが彼女の本当の価値を知っていると。
「――わかったわよ。情けない未来の国王陛下のために、このアルジャンティア様が一肌脱いであげるわ」
 皇帝の娘。現在のアルジャンティアの価値はほぼそれだけとされている。またしても室内に不安の漣が走った。ゼファードの時と同じく、彼女に関しても本当に大丈夫なのかと余計な心配をする輩はいる。
 けれどそんな視線をものともせず、アルジャンティアは力強くゼファードの頼みを請け負った。

 ◆◆◆◆◆

 翼下でゆっくりと育っていった子どもたちが羽ばたいていく。
 この世界の明日を創る、忘れ去られたはずの子どもたち。
 自分は子どもたちの未来を作るなんて間違っても口に出せるような立派な大人じゃなかった。
 だから今、こうして未来を創る優秀な子どもたちに追いやられていく。
 そう、自分はもう過去の遺物なのだ。

 ◆◆◆◆◆

 フェルザードたちが全員城を出払う代わりに、ロゼウスやジャスパー、エチエンヌたちは王城に残ることになった。ついでに王城に魔物が接近したら振り払ってくれるという。ロゼウスたちほど力ある人物にとっては、目障りだという理由で魔物を振り払うことすらついでだ。そして皇帝の居場所に向けて魔物を放つなどという恐れ多いことをするならば、焼き払われても文句は言えないだろうと。
 けれどそんな力のないゼファードたちは、あくまでも人として人の領分を越えない力で戦い、王弟シアングリード大公に勝たねばならない。
 あらためて方針が決まったところで、彼らはそれぞれ魔術陣の要を破壊するため、反乱軍を制圧するため、それぞれの理由で国のあちこちに出発することになった。王弟シアングリード大公の領地は王都近くにあるが、反乱軍は国内のそれこそさまざまな場所に出現している。
 国内の不穏な状況などこれまでさして報告されてもいなかったというから、よほどうまく叛意を隠していたのだろう。シアングリード大公だけでなく、その手足となる反乱軍も。玉座を狙う大公はともかく、その部下や兵士でもない農民たちは、現在の王権の何が不満で反乱を起こすのかゼファードにはわからない。そこまで調べている時間は今はない。
 彼らの意志と向かいあうのは、この戦いが終わってからだ。ここで叔父である大公に勝たなければ、現在の王太子であるゼファードは間違いなく処刑される。ゼファードは叔父に勝って初めて、王族として民の意志を聞く立場になるのだ。
 本来ならば逆であるかもしれない。本当はゼファードが王族としてもっと成長してから、民の意志によってどちらの王が良いか選ばせるべきなのかもしれない。
 けれどエヴェルシードでは勝った者こそが正義であり、先にその手段を選んだのは、勝負を仕掛けてきた叔父大公の方なのだ。
 出発前、僅かな時間の隙間をぬって、ゼファードは兄に問いかけた。
「……なぁ、フェザー。王になれないって、どういう意味なんだ?」
「今更聞くのかい? それを。ねぇ、ゼファー。君は本当はもうその答を、私の心を知っていたんじゃないのかい?」
 人気のない回廊、それぞれが自室に必要なものを取りに帰っていたところだ。この程度の移動ならば護衛を必要としないのは、彼らが武の王国の王族だからこそだ。
 今なら誰もいない。自分たち以外の誰も。
 ゼファードにとって、兄であるフェルザードの真意を聞ける機会は今が最後だ。
 この反乱が終われば、エヴェルシードは早急に王位継承問題に決着をつけなければならない。もともとはフェルザードの継承権放棄とゼファードの度重なる王城出奔でその辺りが曖昧になったことが、反乱のきっかけなのだから。
 他にもいろいろな要因が重なったとはいえ、根本はそこにある。フェルザードもゼファードも、自分は国王にならないと玉座を無用に譲り合ったこと。
 王になりたくても長子ではないというただそれだけで王になれなかった王弟からすれば、与えられた玉座を平然と拒絶する二人の姿に憎しみを抱いてもおかしくはない。だって彼は、自分の最大の敵であった兄の治世には従っていたのだ。その恨みが噴出したのは、今フェルザードやゼファードの代となってから。
 ゼファードはずっと、兄であるフェルザードこそが王になるべきだと思っていた。自分より彼の方が王族として優れていると感じるのだから当然だ。
 けれどフェルザードは決してエヴェルシード王にはならないという。
 何故。
 何故、彼は玉座を拒絶するのか。それが全ての発端だ。誰にも文句のつけられない完璧な第一王子が素直に王位を継げば、誰も不平不満も不安も抱きはしなかったのに。否、抱いてもそれを口にすることはできなかった。フェルザード以上に優れた個人はこの国には存在しない。
 フェルザードもそれはわかっている。自分がこの事態の原因であること。王弟の野心もゼファードが王太子の座から逃げ回ったことも、全ては結果でしかない。
 だから、ゼファードは最後の機会である今問うた。
「――なんで、王になりたくないんだ?」
 王に“なれない”と、“なりたくない”。
 その絶対的な違い。それを口にできる残酷さ。フェルザードは自覚していて、だから今も王族の義務として事態を治めるのに手を貸している。けれど、本当は。
「君が口にした、それが答えだ」
 なりたくない。
 エヴェルシード王になりたくない。
 それはすなわち、エヴェルシードなどどうでもいいということ――。
「ゼファー。私はね、昔からこうだったんだよ。それを誰も知らなかっただけ。例え皇帝陛下の愛人にならなくても、私はいずれエヴェルシードを出ただろう」
「フェルザード」
「私は君や父上のように、この国を愛してはいない。この国だけを守りこの国だけのために生きるようにはできていないんだよ」
 才色兼備の完璧な王子フェルザード。
 彼の能力は完璧すぎた。そのせいで自分より劣る者たちを理解することも共感することもできない。
 自分より劣る人間に、親愛の情を抱くことができない――。
「私が完璧と呼ばれるのはその能力だけだ。心は欠けている。最初から」
 それは王国の玉座を継ぐ者としては、致命的な欠陥だ。
「お兄様」
 子どものときのように名前ではなくそう呼んで、ゼファードはまたしても問いかけた。
「あなたは誰も愛してはいないのか。俺のことも、父上や母上のことも」
「愛しているよ。でも私の愛は、世間の人々の言う愛に比べて、たぶんきっと、軽すぎる」
 そんなことはない、とゼファードは言いたかった。でも駄目だった。思い当たることが多すぎるのだ。彼の優しい仮面に騙されてやるには、弟は兄に近すぎた。
 そして人として遠かった。
「私が愛しているのはあの方だけ。あの方しか愛せない。あの方のためにしか生きられない。あの方がエヴェルシードを滅ぼせというなら、今からでも全ての民の首を刎ねてこよう」
 ロゼウスしか愛せない。
 フェルザードのそれは、とても愛を語るとは思えない悲痛な告白だ。
「王には君がなるべきだ。君しかいない。ゼファード=エヴェルシード。私も叔父上も、王には相応しくない」
「フェザー」
「それに、王になりたくないというのは本音だけど、王になれない事情があるのも本当だよ」
「……うん」
 ゼファードは力なく頷いた。納得はできないが、納得しなくてはならないとわかっている。
 ロゼウスやフェルザードにはわかっていたようだが、ゼファードは本来このような形で内乱に乗じて無理矢理次の王を決めるべきだとは思っていなかった。次代の玉座についてはフェルザードとよくよく話し合った上で、お互いが納得するように決めるべきだと思っていた。
 ゼファードはフェルザードを説得したかったし、フェルザードにも、どうしても兄でなく弟が玉座につかなければならない理由を万人が納得する形で説明してほしかった。何よりも彼に自分を納得させてほしかったのだ。けれど今は、そんな悠長なことをしている時間はない。
 何度も真意を問いかけたけれど、まだ一つだけ、口にできていない質問がある。
 フェルザード、お前がエヴェルシード王になりたくないのは、同じ顔でかつてこの国の王であった男と重ねられるのが嫌なんじゃないか。
 
 エヴェルシードは、今も動乱の中に存在していた。