薔薇の皇帝 16

087

 鳥や蝙蝠、果ては小さな竜のような、あらゆる翼持つ魔物たちが向かってくる。
 エヴェルシード王城シアンスレイトの頂上の見張り台で、まだ黒い点のようにしか見えないそれらを眺めながら、ロゼウスは気負う様子もなく腕を一振りした。
 その腕から炎が放たれ、まだ距離のあるうちに魔物たちのいくつかは墜落していく。それらは地上に辿り着く前に燃え尽きて灰となり、あとには何も残らない。
 高所である城の頂上には強い風が吹いているが、その風の抵抗もロゼウスの生み出す炎には影響しない。ロゼウスの振るう力は魔術によく似ているが、厳密には魔術ではなく、この世の物理法則を越えたところにある力だ。
 圧倒的なその力で、ロゼウスは王城に向かってくる魔物たちを次々に灰に変えていく。吸血鬼の鋭利な聴覚には無残に焼き払われる魔物たちの悲痛な叫びが届くが、それを耳にする皇帝の表情は凪のように穏やかだ。
 ふいに、背後から騒々しい足音がやってきた。
「皇帝陛下」
 何かを抱えた兵士が一人、伝令のためにロゼウスに近づく。その手に持った大きな鏡に、ロゼウスは用件にすでに想像がついた。
「大公からの通信か?」
「そうです。国王陛下がなんとか呼び寄せた魔術師の申すところによれば、このまま話しても危険はないとのことです」
「いちいち面倒な確認作業をさせてすまないな。いいぞ」
 皇帝であるロゼウスはこの世界で最強の力を持っている。と同時に、この世界で最も地位の高い人物だけに護衛もされなければならない。自分自身の護衛は碧の騎士と呼ばれるエチエンヌ以外ほとんど連れてこないロゼウスのために、こうして滞在先の相手が気を遣う場合が往々にしてあるのだ。
 鏡を利用した通信の魔術ならば、相手に直接危害を加えられることはない。
 兵士がエチエンヌに鏡を渡し、エチエンヌが鏡面をロゼウスの方へと向けた。
「ご機嫌麗しゅう、親愛なる世界皇帝陛下」
「久しぶりだな。シアングリード大公爵」
 鏡の向こうにはエヴェルシード人の見るからに貴族然とした格好の男が一人、そして彼の背後に黒いローブを身に着けた人物が一人。貴族は王弟、そして黒ローブの人物こそが王弟の望みに応じて魔族を召喚し、この鏡を通信術として繋げている魔術師だろう。
 王弟は現国王よりもかなり若く、年齢としてはフェルザードに近い。まだ三十をいくつか過ぎたばかりの色男が、男女問わず魅了するその甘い顔立ちでにっこりと笑う。
「さっそくですが皇帝陛下、私の送った魔物たちを消してしまうとは酷いではないですか」
 彼はエヴェルシードの国王を弑逆するために魔物を送ったことを悪びれもせず、むしろそれを殺したロゼウスの方が酷いと責めてくる。
「なんのことだ? シアングリード。私はたまたま自分の滞在先の近くにいた煩い羽虫を払っただけだ。私が私の気分を害するものを排除するのは当たり前だ」
「さようでございましたか。それは誠に申し訳ありません。
 一方のロゼウスもそんな大公の態度を咎めるでもなく、無数の魔物の群れを腕の一振り二振りで焼き払ったことをなんでもないことのように言う。
 ここで大袈裟な反応をしては、世界皇帝がたかが一国であるエヴェルシードの王権問題に介入することを認めてしまう。だからロゼウスはこうして態度によって不干渉を示す。
 皇帝はこの世界において絶対の存在だ。だからこそロゼウスは何も言わない。国家の中で起きる人間同士の争いに口を出さない。それがあまりにも極端に権力者が民を虐げるような場合ならともかく、今度のように拮抗した実力を持つ相手同士が一つの地位を手に入れるために争うような場合は、その行方を見守るしかない。
 実際、この王弟大公は少なくとも現国王よりは有能だ。この時代に、近い血縁に、フェルザードとゼファードという甥がいなければ、魔術に手を出すことすらなく自力で王となっていただろう人物。
 ロゼウスは彼が嫌いではない。
 しかし、彼がゼファードの敵となるならば、彼の味方をすることはできない。
「ああ、そうそう。お前の寄越したうるさい羽虫な。どうやらこの国のあちこちでよからぬことを成そうとしているらしいじゃないか。おかげさまでここ数年寄り付かなかった王太子が国に帰ってきたらしいぞ」
「――ほう、王太子殿下、と言いますと」
「もちろんゼファードの方だ」
 長子ではなく第二王子が王太子として指名されることは滅多にない。強さで全てが決まるエヴェルシードでは珍しいことでもないが、その兄の方が優れているとなれば別だ。
 ゼファード王太子の扱いは、国内でも国外でもいまだ微妙なところだった。公式な書類にされ発表されているのではなくごく内輪の決定、しかしそれを他でもない皇帝が支持しているというのだから。
「ゼファード=エヴェルシードはこの国を乱す全ての者を滅ぼし、王としていずれ立つだろう。貴殿には感謝するよ、シアングリード大公。ゼファードは人同士の戦いよりも、魔術的な戦闘の方が優れている」
「……それが、貴方様の意志というわけですか」
 直接的にエヴェルシードの統治に関与はしない。けれど、あくまでもロゼウスはゼファードを王太子として推す。
「ああ」
 ロゼウスは言って、彼らが会話している隙を狙い弾丸のように見張り台へ飛び込んできた竜をまたしても腕の一振りで粉微塵に砕く。その破片はすでにこの地上の物質でなく、きらきらと無数に光を反射した。その光景は鏡を通して大公側にも伝わっている。
 鏡の中で、しかし大公は笑った。
「くくくっ。はははっ、はっはっはっはっは!!」
 突然のことに大公の様子が何かおかしいのではないかと、エチエンヌが自分も鏡を覗きたそうにしている。しかし彼が動くとロゼウスがその鏡に映らなくなるので、手振りで大人しくさせた。
「なるほど。では陛下、私が今のうちに手のひらを反してゼファード王太子を支持でもしない限り、私は貴方の敵というわけですね」
「そのようだ」
「そして貴方も、私の敵」
 酷く嬉しそうな様子で大公は言う。その口の端がゆっくりと吊り上る。エヴェルシードに特有の、狂人の笑み。
「まさかこの歳になってようやく、皇帝陛下と戦えるとは思わなかった!!」
 高らかな哄笑が響く。彼が嘲笑うのは自分かそれ以外の者か。
「間接的とはいえ俺が世界皇帝に牙を向けることができるとはな! この手でやりあうことができないのが残念だ!」
 彼の台詞の終わる頃から魔物の来襲が激しくなった。それらは王城を攻め落とそうというよりは、もはや見張り塔のロゼウス個人を標的としている。
「それでは、おしゃべりはここまでとしておきますか。陛下がそのおつもりなら、私は全力を出しましょう。これらの魔物たちは貢物としてお納めください」
「暇つぶし程度には見ておいてやろう」
「ごきげんよう、皇帝陛下」
「ああ、お前も達者で」
 皮肉としか言えない挨拶を最後に、鏡の表面が水のように揺らぎ、王弟大公の姿が消える。
「さて、と……」
「ロゼウス」
「あれも哀れな男だ。今が“私”の時代でさえなければ、あれが正しいエヴェルシード人の姿だったのだがな」
 いくら世間では残酷と思われているロゼウスでも、その本質は四千年をかけてなお変化はしない。確かにロゼウス自身はどんな残酷な行いも平気でできる性格だが、その行為自体を楽しんだり、それを人が行うことを正しいと思っているわけでもない。
 ロゼウスは必要となればなんでも行うだけだ。一罰百戒のための残酷さであり、非道さ。その本質は争いを嫌い、平穏や日常というものを戦いよりも貴ぶ。そしてその性質は、エヴェルシード本来の気質とは程遠い。
 崇高な信念とは程遠く、ただ争いが面倒だから、というだけ。それでもロゼウスが平穏な生活を望むのには変わりない。エヴェルシードが武の国であること自体は結構だが、その在り様が無軌道にただ殺し合いばかりをしているようでは困る。
 だからロゼウスは四千年をかけてひっそりと、エヴェルシードにおける武の王国の本義を変えていった。その武力、戦う力は強きが弱きを守り、正々堂々と相手を下すことを美徳とする国に。
 強い者ならば何をしてもいい。勝つためには何をしてもいい。殺された方が悪く、敗者に救済などない。そんな野蛮なだけのエヴェルシードはもう存在しない。
 勇者であることを選んだゼファードは、その意味では彼の無感情で傲慢な兄フェルザードよりも、ロゼウスが求める新しいエヴェルシードの王として相応しかった。
 アドニスことハデスが指摘したのも、そういうことだ。エヴェルシード人らしいエヴェルシード人である王弟やフェルザードよりも、ロゼウスの意図を汲むまでもなくその理想通りに育った新たな時代の王となるべき少年。
 ハデスはもちろん本当の「エヴェルシード」というものを知っている。だからああいう言い方をした。その意味は決してこの時代に――薔薇の皇帝ロゼウスの時代に生まれた人間には正確に伝わることはないだろう。
 誰がその意味を知らずとも、今はロゼウスの時代なのだ。そして今を生き、これから生まれ来る人間は、全てがその時代の空気を下敷きにした人生を送るしかない。
「いや……私がそれを言う資格はないか」
 王弟のようなエヴェルシードをこの世界から消していった張本人であるロゼウスに、彼を憐れむ資格はないのだ。自らの信条を世界に押し付け、傲慢にもその民族的文化の本質を奪ったのは自分自身なのだから。
 だがそれももう終わりだ。
「ところでエチエンヌ。話をしたら喉が渇いた。お茶を淹れてくれ」
「別にいいけど、この状況で?」
 屋上に近づいてくる魔物にナイフを投げていたエチエンヌが呆れた声をあげる。絶え間なく襲い掛かる魔物の中で優雅にお茶を飲もうとは普通の人間は考えない。
 ロゼウスが指先を動かすだけで、魔物たちは縦に横に真っ二つにされ黒い血の雨を降らしていく。
 皇帝の力も強さも、いまはまだ衰えることを知らなかった。

 ◆◆◆◆◆

「召喚魔術の要は、それぞれこの国の東西南北の砦と対応しているようだ」
 大きな地図を広げ学者と魔術師と軍人と王族が額を突き合わせて作戦を練った。
 全体的な行動と要破壊部隊にそれぞれ誰を割り当てるのか決め、あとは個々の部隊内で行動を詰めていく。
 国を空けている時間の長かったゼファードは、兵士たちのことを何一つ知らないも同然だ。だからこそ指揮系統を緩くして、それぞれの部隊の長所を殺さないように配置する。将軍たちの意見もどんどん取り入れ、しかし魔術的に重要な部分は譲らず、そして今度の戦いで自分を王として皆に認めさせることが必要だという口実で、自分自身が主要部隊の最前線に赴く意志もはっきりさせた。
 魔術の要は、この国の東西南北の砦と対応している。
 そしてエヴェルシードの王城は国の中央部にあるわけではない。砦にしても、より正確に言えば東西南北の中心線からは少しずれている。そのために四つの砦は位置によって王城からの距離がまったく違ってしまった。
 一番遠い砦には転移の術が使えるアドニス。
 二番目に遠い砦には、エヴェルシード最強の王子フェルザード。
 三番目に遠い砦、つまり王城から二番目に近い砦には、エヴェルシード国内に不慣れな学者のルルティス。
 そして王城から最も近い砦には、アルジャンティアが向かう。
 皇帝の娘でそれなりの才はあるが基本的に世間知らずで最も危なっかしいアルジャンティアは念のためにすぐ王城からロゼウスやルルティスが駆け付けられるように最も近い砦を担当し、彼女ほど世間知らずではないとはいえ、単純な戦闘能力は一番低いルルティスがその次に近い砦に向かう。この二つの砦は距離だけなら一日以内に王城から往復できるような近さに存在する。
 その一方で、正方形の二つの点がそれだけ王城から近い場所にあるということは、逆に言えば残りの二か所はうんざりするほど遠くに存在するということだ。救いなのは、それでも魔術陣を敷くのが人間である限り、エヴェルシード国内全域を完全に包むような巨大な魔術陣ではないというところか。
 ハデスとフェルザードはそれぞれの能力値から、部隊を引き連れずに単独で動くことが決定している。ハデスの転移術は対象人数が多ければ多い程精度が下がるし、フェルザードも部隊を引き連れるよりは単騎で駆ける方が早いとその方法を選んだ。
 そして、王弟の軍が攻めてきているのを迎え撃つ主要部隊。
 ゼファードはその指揮官として、鎧に身を包み馬に乗り号令を駆ける。
 正しい王族の作法など知らない。自分があくまでも自分という人間としてしか生きられないことを知っているゼファードは、焦って慣れない貴族の演技をすることはなかった。それよりも彼自身の言葉で、彼自身の気持ちをこめて語るほうを選ぶ。
「さぁ――行こう」
 エヴェルシードの命運を分ける戦いが始まった。