088
エチエンヌが淹れたお茶を飲み終えると、ロゼウスは再び魔物たちを殲滅する作業に戻った。
皇帝が自ら仕事をしているというのに、ローラやリチャードときたら自分たちにできることはないからと奥に引っ込んで出てきやしない。ジャスパーとエチエンヌはこの場にはいるものの、さすがに上空から飛びかかってくる魔物相手に彼らの攻撃方法では心許なく、迎撃はほとんどロゼウスの仕事となる。
それもまぁいいかと、ロゼウスはほとんど諦めの境地で無造作に腕を振るう。
風で髪が乱れるのが嫌だと、早々に見張り台から引っ込んだローラには別の役目を振ってある。リチャードはリチャードでエヴェルシード人という事情を活かして皇帝領に関わる仕事を自分から行っている。
そろそろ魔物の数も減ってきたようだ。さて、ハデスたちによる魔術陣の要破壊の効果が表れてきたのだろうか。
片手にはめた黒手袋を脱ぎながら、ロゼウスはエチエンヌに尋ねる。
「なぁ、エチエンヌ。ローラは俺の衣装を用意し終わったかな?」
時は満ちた。
この戦いが終われば、その時に全ての未来は決定されることだろう。
◆◆◆◆◆
王弟が国王に反旗を翻すことを宣言した際、最も早くその反逆軍に対抗した部隊は疲弊しきっていた。
エヴェルシード国王は弟大公が謀反のために軍を差し向けてきた時、王国軍を動かして迎え撃ったが、そこまでだった。元より現国王と王弟では王弟の方が能力が上。国王と王弟の持てる軍隊、すなわち王国軍と大公の私軍という数の差でなんとか被害が拡大せぬよう抑え込むのが精一杯だ。そもそもここで反逆軍を一掃できるような能力の持ち主は、反逆などされない。
王国によっては大公爵の地位を持つ王弟ともなれば国王の軍にも劣らぬ軍隊を有することが可能な国もあるが、エヴェルシードでは国王が軍人であることが前提なので、国の頂点に立つ国王の軍が一介の貴族の私軍に規模として劣ることは滅多にない。中には自領地に私的に傭兵部隊を雇い入れ武力の規模を誤魔化す領主なども存在するが、そこは国軍を管理していたフェルザードが、王弟の私的な武力が国軍で抑えられる規模を超えないよう厳密に計算して調整していた。
とはいえ、戦いとは単純な軍人の数が勝敗を分けるわけではない。多くの兵士を抱えた方が強いわけではない。
戦闘部隊として一度に出せる人数には限りがある。それは地形や様々な条件によって左右される。
なまじ今回は国王軍の駐留する王都と王弟の私軍が駐留していた領地が近い。それは必然的にエヴェルシード王国の中枢である大都市の近くで両軍がぶつかることを意味する。市街地に被害を出さぬよう戦う両者は、数の上で王国軍が勝れど王弟大公にしごかれ練度で勝る反逆軍が次第に優勢を示すようになっていった。
王都近くの森を抜けた平野部で相対する両軍は、戦いの時間が長引くにつれて形勢を逆転していく。
「くっ……!」
滝のような汗をかいた兜の下、王国軍の一時的な総指揮官を任された大佐は苦渋の声を上げた。
彼はあくまでも正式な指揮官がこの場所に来るまでの代理だ。今回の戦は王弟側が次期国王である王太子の能力に不安があるとして仕掛けてきたもの。だからこそ反乱軍の本陣に対する部隊の指揮官は、次期王太子でなければならない。少なくともエヴェルシード王国内においては、そうでなければ許されない。
ただし次期王太子とされる第二王子ゼファードはその兄のようには軍部に足場と呼べる土台がなく、最初から練度の高い将校の軍をそのまま任されると内外から不満が出る恐れがある。そのため、今回は指揮官も部隊配置も、通常の軍事行動や訓練時とは意図的に変えてある。
今回初めてこの規模の軍隊の総指揮権を預かった大佐は驚きながらも一時的なその地位を受け入れた。彼の役目は王太子がこの場に現れるまで持ち堪えること。
強さが全てのエヴェルシードの軍隊は、大胆にも王国軍のど真ん中を突破して王都へと侵攻しようとしている。ひたすら持久戦でそれを防ぐために戦い続ける彼らの疲労は限界に達していた。
「大佐! 大変です!」
そこに、両翼からそれぞれの部隊の伝令を担う兵士たちが馬で駆けてきた。
「山向こうから王弟軍が!」
「なんだと!」
「大佐、こちらはフィルヴィアス伯爵の領地から大公軍が現れました!」
「くっ……しまった! まさかそんな手で来るとは」
中央突破を目論んでいると見せかけ、大公の軍隊は王国軍の両脇を回り込むよう、あえて遠回りの進路で王都に侵攻しようとしていた。彼らが相手にしていた強靭な軍隊が、王弟軍の戦力の全てではなかったのだ。
山の抜け道、そして王弟と不仲とされている伯爵の領地という予想もしなかった進路から侵攻してきた軍を押しとどめようとした部隊の動きが乱れ、戦場は混乱状態になる。両翼からの敵軍の侵攻に動揺して手薄となった中央部の主翼が、ついに敵軍の突破を許してしまった。
大佐は血が滲み噛み千切るほどの強さで唇を噛む。なんという失態だ。みすみす敵を王の住まう都、御前にまで通してしまうなど――。
その時、更に単騎で戦場を駆け抜ける馬があった。
「伝令! 伝令! 総指揮官イスカリオット大佐に告ぐ!」
その伝令の顔は今までに見たことがなかった。汚れを知らない洗い立ての軍服を身に着けているということは、これまで戦場にいなかったということ。
「王太子殿下からの指示だ。貴官はこれより――」
「なっ――」
伝えられたその言葉に、大佐は驚き目を瞠った。
「このまま王弟軍に突破させよだと?!」
◆◆◆◆◆
シアングリード大公の軍隊は、両翼の突破を機に総崩れとなった王国軍を難なく突破してすでに王都の目前というところまで迫った。
国王の住まう王城とその足下である王都を占拠してしまえば、後は恐れるものなどない。すでに王城へと向けられた魔物たちは王国軍にとっては厄介な敵でも、彼ら王弟軍にとっては頼もしい味方だ。
ところが、彼らは王都を目前とした平野のある一線を越えた瞬間、驚愕に目を瞠ることとなった。
枯れかけた黄緑の平原を埋めるように並ぶ黒い影。それは彼らの侵入を拒む鉄柵のように広がった兵士の壁。
「お、王国軍だと――ッ?!」
もはや王都の主要な通りを凱旋行進のごとく行くのみと勝利を確信していた王弟軍は、眼前に突如として現れた王国軍の姿に度肝を抜かれた。
そこにはこれまで姿を見せなかった王国軍の顔とも言える歴戦の強者たちが勢ぞろいしていた。軍としての部隊数は少なくとも、その将軍一人一人の強さがすでに一騎当千だ。
そして、混乱は最前線の彼らだけではなく、後方でも起きていた。
「全軍、反転!! さぁ、後方から王弟軍を挟み撃ちにするぞ!!」
「――ォオオオオオオオオオオオッ!!」
これまで両翼からの侵攻に陣形を乱され総崩れとなったと見られていた先行部隊が、救援部隊の登場に呼応して彼らとの間に王弟軍を挟み込むよう踵を返して向かってきたのだ。
王太子からの指令はこういうことだった。
やられた振りをして王弟軍に陣形主翼を突破させ、待ち構えている救援部隊と挟み撃ちにせよ。
半ば本当に突破されかけていたのが功を奏し、敵軍は疑いもせずに王国軍先行部隊の真ん中を突っ切って両翼側から侵攻した部隊と合流した。合流してしまった。あとはその王弟軍を王国軍で前後に挟み込むだけである。
王弟軍の指揮官たちが臍を噛むが後の祭り。
そして王都陥落という国王の最大の窮地を救ったと考えている王国軍も今しばらくは気づきはしない。
王都攻めのその部隊の中に肝心の敵軍総大将である王弟大公の姿がないことを。
◆◆◆◆◆
王城に向けた魔物。王都陥落のために寄越した部隊。魔術陣の要。魔術師という名の戦闘要員。
その全てが、王弟シアングリードにとっては陽動でしかなかった。そう、王城にいる皇帝ロゼウスとわざわざ鏡面を介した通信魔術で会話したことさえ、彼にとっては囮にしか過ぎない。自分が王城から離れたところにいると思わせる陽動だ。
あの後、皇帝が王弟から連絡があったと王たちに告げれば、彼らは自分が王城から遠く離れた自領地にいるものだと思い込むことだろう。まさか家臣たる国王が皇帝の言葉を疑うはずもない。
王城で初めにその姿に気づいた兵士は、驚愕の叫びをあげる暇もなく斬り捨てられた。
駆け付けた兵士たちの騒乱によってようやく騒ぎが知られる頃には、彼はもう国王の座る玉座が存在する謁見の間へと辿り着いていた。
「な、お、お前――」
「ご機嫌麗しゅう。兄上」
血塗られた剣を引っ提げて、ここに来るまでに駆け付けた城中の使用人を斬り捨ててきた弟の姿に、国王は目を見開いた。
「そしてさようなら。――その命、貰い受ける」
簡素にして横暴な宣言を容赦なく下し、シアングリードは剣を構えなおす。しかし、その彼に頭上から飛びかかってくる影があった。
「……っ!!」
思い切り打ちつけられた剣を持つ手が痺れる。頭上という予想外の場所から飛び降りてきた人物は、国王を守るように彼の前に立ち塞がった。
「そんなこったろうと思ったよ」
「……ゼファード!」
「あんたの望みはあくまでも玉座だからな、叔父上。それには俺やフェルザードの存在も何も、まずは国王である父上が邪魔だ。そしてあんたは大軍の指揮を誰かに託すことはできても、国王殺しを誰かに譲れるような奴じゃない」
ゼファードはよく似た兄を持つが故に、叔父の性格を把握していた。そして軍隊の指揮をしたことがまったくないに等しい自分が歴戦の将を差し置いて部隊を率いるよりも、敵の総大将でありながら恐らく単身で乗り込んでくるだろうこの男を討ち取る方が理に敵った作戦だと土壇場で部下となった将軍たちに告げる。
ゼファードは指揮官として「挟み撃ち」の作戦を戦場に伝えさせ、その後の軍の対応を将軍たちに任せた。馬の上で進軍の号令をかけたその後王城に引き返し、王弟がやってくるだろう場所と時をひたすら待つ。
武の王国の王子でありながら軍を率いたことのないゼファードの経歴は致命的だ。いくらこれが必要な戦いとはいえ、初陣で国王軍を指揮下に収め自在に戦術を天界できるような能力はない。
だから部隊の指揮権は持ったまま、ゼファードはこの城を「戦場」として敵の大将たる王弟と一騎打ちをする。
エヴェルシードにおいて戦場の最前線とは、勝敗を分ける王の首に最も近い場所のこと。何故なら他国はともかくエヴェルシードにおいて、大将が臆して本陣の最後尾に控えることは決してない。
ゼファードの言葉にも一理あると、部下の将たちは認めざるを得なかった。もしも読みが外れ、王弟が城を強襲せず王都攻略軍と共に在るならその時はゼファードが頼りない王太子よと笑われるだけ。軍自体は指揮に慣れた将軍たちが手綱を握れば被害は最低限に抑えられる。
そしてもしも、ゼファードの読みが当たり王弟が国王の首を狙い城に攻め込んでくるというのであれば――。
その叔父に勝てさえすれば、エヴェルシードの誰もが王太子ゼファードを認めざるを得なくなるだろう。
「ここから先は俺が相手だ。次期国王の座を賭けて、俺と戦え! シアングリード!」