薔薇の皇帝 16

089

 エヴェルシード王国全土に敷かれた魔術陣の要を破壊するため、ゼファードによって選抜された四人と、その護衛たちは出発する。
 と言っても、四人のうち二人は護衛などいらないとばかりにすでに出発していた。移動を転移の術に頼るアドニスはそのまま近所の屋台に向かうかのような軽装で一人で。自らの戦闘力だけで反乱軍の陣地となった領内を突破しようというフェルザードは、馬に乗って。
 残る二人であるルルティスとアルジャンティアは、彼らの護衛としてエヴェルシードの部隊を連れている。その護衛の人数は二十人程。
 その人数は魔術陣の要の警備に配置されているだろう戦力と、ルルティスやアルジャンティアが慣れない集団行動をする限界の人数をアドニスことハデスが経験から考えて算出した。ここはエヴェルシード王国であり、どこを見回してもいるのはエヴェルシード人ばかりだ。そんな中でもしも敵味方が乱戦となった場合、ルルティスやアルジャンティアが敵味方を見抜けないと非常に困ったことになる。
 連れてきた部隊の顔を完全に覚える必要はないが、せめて全員なんとなく見覚えている、という程度の状態にはしなければならない。一応味方部隊はあえて統一された騎士服を身に着けているのだが、今回のことをいきなりと感じている王国軍と、周到に準備してきた反逆軍では備えが違う。服装ぐらいは敵はいくらでも変えて来るかもしれない。
 そしてエヴェルシード人だらけの部隊に酷く目立つ亜麻色髪と白金髪の二人を、味方に紛れ込んだ敵兵が狙うのは簡単だ。ルルティスたちが破壊しなければならないのは魔術陣の要であり、エヴェルシードに当たり前にあるような物ではない。エヴェルシード人の部隊に紛れ込んだ異国人がいたら、それは当然魔術陣対策だろうと敵もすぐに気づく。
 ルルティスたちに任された役目は重い。
「じゃ、行きましょうか」
「ええ」
 とはいえ、その重い役目を背負う二人は、いつも通りの調子を崩さない余裕の構えであった。

 ◆◆◆◆◆

 金髪碧眼でアドニスと名乗っていたハデスは、その姿よりは目立たない本来の姿である黒髪黒瞳の少年に戻った。
 年齢的に少年というのは笑えるが、世界皇帝だって似たようなものなのだからご愛嬌だ。
 そしてハデスは目立つ目立たない以前に、そもそも人にまったく見つからないように行動する。
 彼の得意な移動は空間転移と呼ばれる魔術。異空間の門を開き、その内側の世界を通り、別の地点に出現させた門から出る。中空に彼専用の隠し通路を創るようなもので、ハデスの術に干渉できるほどの能力者が相手でもない限り、誰に邪魔されることも見とがめられることもなく彼はそこを移動できる。
 そして“冥府の王”の称号を得る程の魔術師であるハデスに匹敵する能力者は、この世界にはただ一人しかいない。それは彼の姉、元の大地皇帝デメテルことプロセルピナ。ハデスとの戦いに負けることによって以前より更に強い魔力を持つ肉体を手に入れたプロセルピナぐらいしか、この世界でハデスに勝る魔術師はいない。
 プロセルピナは、ハデスと違って厳密に言えば魔術師ではない。魔力を持ちそれを魔術として自在に使いこなせるのだから魔術師と呼んで差し支えはないのだが、彼女をどういう人間であるか説明する場合、そこに必要とされる言葉は魔術師以外のものが多いだろう。
 一方のハデスは、根っからの魔術師だ。呼吸をするように当たり前のように魔術に馴染み魔術師としての自分に馴染む彼は、名実共に現在最強の魔術師と言える。
 しかしその一方で、ハデスは己が最強などという言葉から縁遠いのを知っていた。この世界の誰よりも上手く魔術というものを扱える。それは決して万能も最強も意味しない。それどころか彼は最強の座に誰よりも近づいたことによって、己が所詮は無力な人間でしかないことを知った。そう、皇帝であるロゼウスが、皇帝であるからこそ自らの限界を感じずにはいられないように。
 世界最強の魔術師がエヴェルシードの内乱で国王側に肩入れすることを、人は不公平だととるだろう。しかし力を貸すハデス自身はそうは思わない。何よりゼファードは、まだアドニスがハデスという世界最強の魔術師であることを知らない。
 そして、過去の事情によりもう二度とエヴェルシードの王族に関わるまいとしていたハデスに勇者ギルドという珍妙な場所で出会い、その正体を知らぬまま友人となったのは、何の作為も打算もないゼファード自身の人柄だ。だからこそハデスは彼に力を貸す。
 誰にも気づかれず、魔術陣の要である呪具が置かれた砦に侵入し、そこを守っていた雇われ魔術師にすら気づかれずその呪具を破壊して、ハデスはあっさりと目的と達成する。
 何もわからないまま気づいたら呪具が破壊されていて役目をまっとうできなかった雇われの魔術師と兵士たちが憐れなほど簡単に。
 帰りも同じように転移の魔術で砦から脱出し、完全に要としての機能を失ったのを確認してから帰途につく。
「さて、他の三人……というより、二人は大丈夫かな?」

 ◆◆◆◆◆

 ハデスもゼファードもその他大勢もとりあえず専門家ではないとはいえこいつは絶対に大丈夫だろうと信頼……確信している男、フェルザードは愛馬を駆けさせ、一路魔術陣の要となっている砦を目指していた。
 ハデスのように一瞬でエヴェルシード国内を横断できるほど転移魔術に長けているわけではないフェルザードにとっては、魔術で無理な移動をするよりこうして馬を駆けさせる方が目的地に早く着く。フェルザードも魔術を使えないわけではないが、やはりハデスのように息をするようにとはいかず、技術的な難易度はもちろん体力の消耗がこうした馬での早駆けとは比べものにならない。そのためフェルザードは帰りはともかく、行きは移動手段を転移ではなく馬に絞ることにした。
 フェルザードの担当する砦は、四つの砦のうち二番目に遠い。それでも兵士を引き連れて行軍しなければならないルルティスやアルジャンティアに比べれば、単騎で駆ける彼の馬は常人の何倍という速度で国内を突っ切っていた。
 フェルザードは移動に転移の魔術を用いることはないが、それ以外の魔術はむしろ頻繁に使っている。たとえば通常なら数日をかけて迂回するしかないような悪路を一時的に通れるようにする術を使い、馬への負担を最小限に減らし、最短距離を突っ切る。山を川を崖を飛び越え、泥沼や湖の上を疾駆するその姿は、事情を知らぬ者の目からすれば神の御業にすら思えるだろう。
 転移と比べれば魔術自体はそれほど複雑なものではない。ただ、フェルザードはその使いどころが抜群に上手かった。剣に炎を纏いつかせる攻撃方法と同じだ。彼は自分というものをよく知っていた。あくまでも自分の人間としての限界を知り、そこを基準に力を使う。魔術という力技で無理をするのではなく、自身の限界を少し伸ばし、若干の不足を補い、結果的に尋常ではありえない効果を上げる。
 馬で湖の上を駆けるようなことは、口で言うほど簡単ではない。魔術的な力量もそうだが、何より乗馬技術が物を言う。たとえばハデスが同じように移動しようとしたとして、彼には転移魔術で湖の存在する空間を越えることはできるが、フェルザードと同じように馬で湖の上を駆けろと言われれば、それは「不可能」である。
 人間は何もなく湖の上を歩けはしない。馬もそれは同じ。人が湖の上を歩こうとはしないように、馬も湖の前に来れば普通は立ち止まる。ましてや人間と違って、言葉で「魔術を使って渡れるようにしたから信用しろ」などという説得が通じるわけではない。本来馬とは臆病な生き物だ。
 それを、フェルザードは彼自身の手綱さばき、乗馬技術と呼ばれるものとこれまでの愛馬との信頼関係だけで乗り越える。一朝一夕で、しかも力任せにできるようなことではない。
 ハデスやロゼウスに同じように湖を越えろと言えば、彼らは強大な魔力や皇帝としての奇跡の力で、膨大な熱量を消費してその結果を出すだろう。しかしフェルザードは違う。彼は最低限の力で最大限の効果をあげる。そういう人間だ。フェルザードが完璧と評価される由縁でもある。
 そんなフェルザードは、通常ならば数日がかりで辿り着くべき道のりを、その非常識な踏破方法により半日にまで縮めた。
 ついに目的の砦を視界に映し、王弟の反逆軍の兵士たちが守る城門前へと辿り着く。槍と盾を構えずらりと横に並んだ黒山の人だかりに臆することなく、また馬をも怯えさせることなく、彼はただ一言を腹の底から叫ぶ。
「退け――――ッ!!」
 兵士たちはその声にまさか素直に従ったわけではない。
 ただ彼らには止められなかっただけだ。この、堅牢な守りの砦に護衛もつけず単騎で突入してくるなどという無茶をかましたエヴェルシード最高の王子を。
 彼の馬は、疾走の勢いそのまま兵士たちの頭上を、城門を飛び越える。
 もはや誰も彼を止められない。兵士たちにもわかってしまった。
 ただ一人の侵入者。この人物に抗える術もなく、この砦はまもなく陥落するであろうことが。

 ◆◆◆◆◆

 ロゼウスの娘であるアルジャンティアはエヴェルシード人の兵士たちを引き連れて、のんびりと馬を駆けさせて砦へと向かっていた。
 アルジャンティアは乗馬が得意ではない。それは彼女の技術や努力の問題ではなく、ローゼンティア人という名の魔族であるロゼウスと、ただの人間であるシルヴァーニ人のローラとの混血児であるという事情が関係する。
 動物は人間よりも魔力に敏感で、魔族を本能的に恐れる。馬たちも魔族の力を恐れて、できる限り近寄りたがらない。もとからそのような環境にいる純粋な魔族――というよりもローゼンティア人に限っては馬が彼らの魔力に耐えるよう長い年月をかけて調教するのだが、皇帝領という特殊な場所で生きてきたアルジャンティアはそれをしていなかった。
 もしもアルジャンティアが純粋な魔族であれば、あるいは魔力で完全に馬を従えることができたかもしれない。しかし彼女の半分は紛れもなく人間であり、通常の魔族よりも力が弱い。
 複雑な血と立場を持つ娘は、それでも努力して馬に乗るということだけはできるようになっていたのだが、騎馬で戦うことに慣れているエヴェルシードの精鋭たちが本気で馬を駆けさせた場合にはその速度についていくことができない。かといってエヴェルシードの兵士だけでは魔術陣の要たる呪具を破壊することはできないので、結果この部隊はアルジャンティアのために多少速度を落として駆けることにしていた。
 幸いなことに、彼らが向かうのは王城から一番近い砦だ。アルジャンティアも本人に武術の心得こそないが、ヴァンピルとのハーフである分戦闘能力には何ら問題がない。遅れは砦についた時点で取り戻せばいいと部隊長は判断し、彼らはエヴェルシード軍人としては非常にゆっくりとしか言いようがない速度で馬を駆けさせる。
 ドレスもそのままに見た目はどこからどう見ても貴族のお姫様でしかないアルジャンティアの姿は、一目で人を跪かせるような威厳も何もない。彼女を推薦したのは第二王子のゼファードで、そのゼファードの評価すらエヴェルシード国内では曖昧だ。
 それでもアルジャンティアは臆するどころか不安を感じている様子すらなく、エヴェルシードの兵士たちを従えるのを当然のような態度で、むしろ親しげに彼らと交流する。
 もとより指導者としての立場に立ったことのないアルジャンティアのために彼女の言うことでも聞くような人選で組織された部隊だが、この少女と触れ合ううちに何かを感じ取っていた。
 たまに世間話のように話しかける彼女の話題には、父である皇帝と、そしてこの国の王子であるゼファードの話題が多い。
「アルジャンティア様は、ゼファード殿下と仲が宜しいのですね」
「んん、ええ、まぁ。半分は喧嘩友達みたいな感じだけど、そうねぇ。これまで他に歳の近い相手で遠慮なく話のできる相手ってあんまりいなかったしね」
 重大な役目を負っているとは思えないほどのんびりとしたその行軍の中で、部隊の兵士たちはアルジャンティアと自国の王子であるゼファードがかなり仲が良いことを知った。
 そのうちの何人かは、彼女こそが未来のエヴェルシード王妃かもしれないと、すでにそこまで視野にいれてアルジャンティアに接するようになる。実力が全てのエヴェルシードにおいて、王妃が同国人であるかどうかなど意味がない。国益のためだからと他国の弱いくせに高慢な王女や貴族の娘を迎え入れるくらいならば、貴族でなくても実力のある者を迎え入れた方がいい。そして父親が皇帝であるアルジャンティアの強さは疑いようもなく、彼女の母親であるローラもまた強い。
 アルジャンティアたちの部隊は、人数で劣るこの二十数名で砦に侵入するため、陽動を使った。
 アルジャンティア自身が強いために、護衛の必要はほとんどない、騎士を二人だけ残して、それ以外全員が砦の正門から乗り込み、その間にアルジャンティアたちは裏口から侵入する。
 要の呪具を守っていた魔術師は戦闘能力に関しては取るに足らず、また、皇帝の娘が直接乗り込んできたのを見て、無駄な抵抗をする気もないようだった。
 あっさりすぎるほどにあっさりと、アルジャンティアたちの部隊は目的を終えた。陽動部隊も戦力差の振りを悟ったように見せかけ、真の目的が達成されると即座に撤退を開始する。彼らは別に、砦の兵士を片っ端から倒して砦ごと制圧する必要はないのだ。呪具さえ壊してしまえば、砦を占拠する反逆軍の制圧はもっと大きな部隊の仕事だ。
 そうして無事に任務を達成できたのだが、アルジャンティアの表情は晴れない。
「姫君……どうなさいました?」
「おかしいと思わない?」
 喜ぶに喜べない困った顔で、アルジャンティアは部隊長を振り返る。
「私にわざわざあなたたちという護衛までつけたにしては、ここの攻略は簡単すぎた。魔術師が思ったより弱かったってのもあるけど。それにしたって変よ。たぶんゼファードもエヴェルシードをよく知る他の将軍たちも、砦の攻略がもっと難しいと感じていたからあなたたちという精鋭を寄越したんでしょう。おかしいわ」
 アルジャンティアの違和感は、他の騎士たちも感じていた。そう、確かにおかしいのだ。具体的には、砦に駐屯する兵力が、当初予想されていた数よりも少ない。この程度の砦ならば、下手をすればアルジャンティア一人で忍び込んで呪具を破壊することも可能なのではないか? と感じられるほどに。
 ゼファードたちが部下の実力を見誤ったというのなら話は簡単だ。しかしアルジャンティアの実力を誰よりも知っていると言い切ったゼファードがそんな単純な間違いを犯すとは、彼女には思えなかった。
「殿下や閣下らは、大公軍の総数はほぼ具体的な数字を出しましたが、その兵力をどこにどう割り振っているのかは、こちらの推測にすぎません。特にここと他三つの砦は魔術師の影響力で事前に正確な情報を得るための偵察がほとんどできなかったそうで……」
「我々は思い違いをしていたのかもしれません」
 彼らはこう考えていた。
 王城から一番近い砦には制圧のために王国軍を向かわせやすいから、警備も厳重に違いない。
「ですが、反逆者側にしては、この砦よりも、自分たちの膝元である砦の方が守りやすく、最初からそこに戦力を集中させていたのでは?」
 王城から最も近い砦と、王弟の領地から最も近い砦は同じではない。確かに王都とシアングリード領は近接しているが、起点となる場所が違うだけでその位置はずれる。
 そしてシアングリード大公領に最も近い砦は、王城から二番目に近い砦だ。
「ルルティス先生……!!」
 よりにもよって呪具破壊の役目を担う四人の中では最弱の人間が敵側の最大の戦力を集めた砦に向かうことになったのかもしれない。一行は身を引き締め、指揮官の指示を仰ぐため脇目も振らず王城へと引き返した。