薔薇の皇帝 16

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「ちょっとこれはまずいんじゃないでしょうか……?」
 他三人が果敢に目的地の砦に攻め込んでいる頃、ルルティス一行はどちらかと言えば臆していた。
 とはいえ、それは彼らが臆病だというわけではない。後にアルジャンティアたちが気づく通り、ルルティスたちの向かった砦が他の三か所のどの砦よりも堅牢な守りだったのだ。
 物々しい様子で槍を持ち見張りに立つ兵士の数は、道中にエヴェルシード兵の護衛たちと立てた推測の倍以上。元より学者のルルティスと、万一にも失敗の許されない任務を任された兵士たちは慎重だ。実力を過信して正面から突っ込むなどということはせず、砦の周囲を一通り探った結果、駐屯している兵力が予想を大きく上回っていることに気が付いた。
 どうしてこうなったとしか言いようのない状況に、ルルティスたちは頭を抱えた。
 突入前に兵力の差に気づいたのは良いが、だからといって救援を望めるわけではない。そもそも今いる二十数人だけでこの砦を攻略しようという方が無茶なのだ。正面突破は不可能で潜入を前提に策を練っていたとはいえ、この戦力差は酷過ぎる。
「陽動でも一人当たり四人ないし五人は倒すわけですか……さすがにきついですよね」
 ルルティスは部隊長と額を突き合わせて作戦を練る。
 だが、長く考え込む余裕はない。彼は決断した。
「人数を修正しましょう。私の護衛からあと四人、そちらに回します。それでなんとか陽動としてしのぎ切ってください」
「それは無茶です! 御身の守護が二人では、何かあったときに守り切れません!」
「ですが私たちは、上手くいけばまったく誰にも見つからずに呪具の保管室に潜入できる可能性もあります。逆に陽動の方は、派手に立ち回らねば意味がありません。そして陽動の人数が足りなければ、何かを狙っていると敵方に割れるのも早いでしょう」
 ルルティスは自らと共に呪具の破壊に乗り込む兵士の数をぎりぎりまで減らして、陽動に人手を割くことにした。
「他の三人は確実に呪具の破壊という目的を達するでしょうから、その時に私たちの部隊だけ敵に勝てませんでしたーでは情けないですよ! さぁ、頑張りましょう!」
 砦にやってくるまでに乗ってきた馬たちを森の中に繋ぎ、陽動班と呪具破壊班に分かれて機を窺う。
 陽動班がまず先に突入し、砦内の戦力がそちらに集中した頃を見計らい、ルルティスたちも裏手から侵入した。
 たち、とは言うが、実質的にルルティスとこの部隊を率いてきた隊長の二人だけ。ここまで人数を減らすことに最後まで反対した隊長は、ルルティスの意志が覆らないと知ると、自ら護衛を買って出た。
 二人は人気の少ない廊下を選びながら歩き、どんどん建物の奥へ奥へと進んでいく。灰色の石壁でできたエヴェルシードの砦に灰色の軍服を着たエヴェルシード人の中で、いつも通りの亜麻色の髪に若草色の外套を羽織ったルルティスの姿は酷く目立つ。
 それでも二人はほとんど人に見つかることもなく、たまに運悪く行き会ってしまった使用人たちにはしばらく眠っていてもらい、あらかじめ建物の形状から推測しておいた呪具の隠し場所に難なく辿り着いた。
「行きますよ――」
 ルルティスは鍵のかかった扉を針金で静かに開錠し、扉を開ける――。
 ところがそれは、見事なまでの罠だった。
「げ」
「ようこそ、無粋な侵入者殿」
 彼らが来るのを完全に予想――確信していた様子で、武具に身を固めた兵士たちと一人の魔術師がその部屋に立ち並んでいた。
 部屋の中央には金の鳥籠のような物の中に、大きな紫色の水晶が浮かんでいる。あれが呪具だとわかっているのに、ルルティスたちはこのままではその呪具のもとに辿り着くこともできない。
 位置的には不自然でも大きさとしては舞踏会を開けそうな大きな部屋。天井も高く、恐らく普段は会議室としてしようされているだろう場所で、ルルティスたちは剣を抜く。
 死、という言葉が、ちらりと頭の隅をかすめた。

 ◆◆◆◆◆

 鎧を着ていない分速さに勝る。その代り防御力には圧倒的に劣る。
 甲冑の関節を狙って手持ちの暗器をありったけ投げつけ、隙を見て兜の上から頭蓋を砕くような攻撃を加える。手頃な武器がないのであれば、転ばせて上から踏みつける。別に即死させずとも、この時間だけ昏倒させて戦闘不能にさせればそれでいい。
 しかし、この人数の差はどうにもならない。
 一度撤退するという考えもあるにはあるが、こうして呪具を狙っていることが明らかになった以上、撤退後の警備は余計に厳重になるだろう。顔を知られているから、変装して改めて穏便に潜入などもできない。
 何より、時間がない。
 冥府からの魔物の召喚を止めない限り、反逆軍と王国軍の戦力差もいずれ覆される恐れがある。もちろん王城で魔物の群れを相手している皇帝にとってこのぐらいの戦力は恐れるようなものではないが、あまりにもルルティスたちが手間取る場合、皇帝はゼファードたち現政権側を見捨てる恐れがある。
 今ロゼウスがゼファードたちに手を貸しているのは、それがこの状況に何ら影響しないからだ。けれどここでルルティスが失敗すれば、それは皇帝の行動に影響する。ここで失敗するような人間に作戦を任せたゼファードの見る目がないと判断し、皇帝はエヴェルシードの王位継承問題について考え直すかもしれない。
 そんなことにはさせない。
 あの真っ直ぐな瞳を持つ友を、必ず王位につける。――そのために自分は、ここまで来たのだから!!
「部隊長さん、あの魔術師を狙ってください!」
 ルルティスが破壊すべき呪具は、黒の末裔の魔術師の張った結界に守られている。呪具に到達するためには向かってくる兵士を倒すだけではなく、あの結界を解除しなければならない。ルルティスはそのためにここまで来たのだ。せめてそれだけはやらないと、後を誰かに託すことすらできない。
 たった一人とはいえ精鋭揃いの王国軍で、さすがは部隊長に選ばれるだけの猛者。彼はあらかた敵を倒して場を開けたところで、魔術師を護衛する兵士たちに猛然と斬りかかった。一人、また一人と紅い血の尾を引きながら倒れ、ついに黒尽くめへと到達した。
「くっ……!」
 まさか数十対一というこの戦力差でそこまでやるとは思っていなかったらしく、魔術師の表情に焦りが見えた。その隙にルルティスは、あらかじめアドニスに渡されていた結界破りの魔法具を発動させる。これを使うにはコツが必要で、発動させるのに魔力はなくてもいいが、魔術の基礎的な理論を理解している必要がある。
 そしてルルティスは魔術師が向かってくる剣士に気を取られた一瞬の隙に行動していた。目にも止まらぬ速さで結界破りを素早く発動させ、呪具を守る結界が消えたと同時に、愛用の短刀を投げつける!

 ガシャン!!

 硝子の砕けるような澄んだ音がして、エヴェルシード中に敷かれていた魔術陣の最後の要がついに破壊された。
 それと同時に、どこか遠くで、無数の亡者が喚くような重苦しい断末魔が聞こえた。召喚途中で魔術陣を破壊されその契約を無理矢理打ち切られた魔物たちが、その反動ですでに解き放たれた同胞を喰らいながら共に消滅という形でタルタロスへと還っていく。
「なんということだ! 閣下の希望が――」
 魔術とはこのように不安定なものなのだ。土台、自らが魔術師でもない王弟が聞きかじりの知識で魔術を悪用しようというのが無理だったのだ。
 これで目的はようやく達成された。
 ルルティスは安堵の表情を浮かべた。しかし、それがまた彼自身の隙ともなった。
「――ランシェット殿!」
 警告の声は瞬きの間遅い。
 ルルティスは背後から脇腹を切り裂かれ、血の華を咲かせながら床の上に倒れ込んだ。

 ◆◆◆◆◆

「う……」
 傷口を見るまでもなく、賢さが仇となりルルティスはそれを自分で「致命傷」だと感じてしまった。すぐに手当てもできないこの場所で負うには、重すぎる深手だ。即死ではなくとも、この状況ではまず助からないと。
 じわじわと温かなぬるま湯のような血だまりが広がっていく。その温かさすら、もう自分自身では感じられない。
「ランシェット殿! しっかり!」
 優秀な軍人である部隊長は、この状況でも取り乱さずに敵と戦っている。けれどトドメも必要ないくらい重傷のルルティスをどうやって助けるか思案しなければいけないのが重荷となり、その剣先には先程までのキレがない。
 とりあえず呪具の破壊という目的は達した。けれど、このまま無事に帰ることはできなさそうだ。
 ルルティスはそのことを、喜べばいいのか悲しめばいいのかわからなかった。この武人の王国で少しでも役に立てた自分を誇るべきか、中途で力尽きたことを嘆くべきか。
(ごめん、ゼファード)
 今ここで自分が死んだら最も嘆き、そして責任を感じるだろう人物に心の中で謝る。もっとも、本当に死んだらゼファードはそのぐらいでは赦してはくれなさそうだが。
(皇帝陛下……)
 途切れそうな意識の中で、最も会いたい人の姿が目の前を過る。闇の中にあってなお輝かしい純白の皇帝ロゼウス。
 最期まであなたに近づけなかった。その心に触れることができなかった。
 目の前がかすみ、耳鳴りがする中で聴覚だけが鈍くも最後までその役目を果たしていた。
「ランシェット殿!! ……くっ!」
 こちらを案じて苦戦する声は部隊長のもの。鈍い剣戟が響く。魔術師がなんとか術を練り直そうと足掻くのも聞こえる。
「はん、ざまぁねぇ」
 それに混じって、もはや倒すべき相手は部隊長一人となり、勝利を確信したエヴェルシード兵たちの雑談らしきものも聞こえた。
「王国軍なんて所詮こんなものさ」
「ああ、シアングリード大公閣下……いや、シアングリード王陛下についていけば間違いない」
「今の惰弱なエヴェルシードを憎む真なる武人の閣下が鍛えた兵が、王国軍なんぞに負けるわけはないさ」

「そうだ。いっそ、こんな国滅びてしまえばいいんだ。そうしたら閣下が俺たちのために、新しく強く猛き国を作って下さる」

 ドクン、と心臓が跳ねた。

「……ッ!!」

 滅びる? 滅ぼす? この国を。

 胸の中で何かが暴れ出しそうになる。流れ出す血液の動きとは別に、何かがルルティスの中で蠢き、渦を巻く。

 “名を呼べ”

 かつてどこかで聞いたような声が叫ぶ。

 “我が名は憎悪、我が名は殺意……”

 あなたは誰? 僕を捻じ伏せ、支配しようとするあなたは誰?

 “ここは私の国、私のもの。それを、私以外の誰かが好き勝手に扱うなど許さない”
 “王は私だ。王に、私に、その血に従え!! さもなくば死ね!!”
 “呪え、この国を、この世界を!”
 “私に逆らう者は赦さない!!”

 瀕死の傷を負い、自らの死を確信してしまったルルティスの精神力では太刀打ちできない。普段は大人しく彼の中で眠っているはずの何者かがそうしてついに目を覚ます。

 ルルティスは彼を知らない。否、本当は知っている。

 “滅ぼしてやる! 壊してやる! 私をとりまくもの、全て!”
 “私を救う者なんて誰もいない!”

 叫ぶ声は聴いたことのない声のはずなのに、彼がどんな表情を浮かべるのかさえ鮮やかに想像できた。
 何故ならその人は、自分とまったく同じを顔をしている。
 孤独と絶望を叫び、死と破滅をもたらすもの。その名は――

 “我が名は憎悪、我が名は殺意、我が名はエヴェルシード!!”

 音ならぬ声を聞いたと感じたのを最後に、ルルティス=ランシェットとしての意識は途切れた。

 “シェリダン=エヴェルシードに従え!!”

 ◆◆◆◆◆

 自らも幾つもの傷を負って戦い続けた部隊長は、死を意識しながら剣を振るい続けた。
 これだけの人数を相手に戦いつづければ、そう遠くない未来自分は力尽きる。
 そして、何に代えても守るべき相手の死を思う。
 遠い異国からやってきた若い学者は、王太子と友人というそれだけで彼らに命を預け、危険な任務に身を投じた。彼はその命を、守りきることができなかった。
 呪具の破壊という目的はすでに達し、彼らの役目は終わりだ。だが、だからこそ彼は戦い続ける。守れなかった命への贖罪と、次の王への忠誠のために。
 強さはエヴェルシードの美徳だが、それを他国人にまで強要するべきではない。自らがエヴェルシードだと自負するのであれば、肉体的に弱い他国人を見下すよりも、その相手を強い自分が完璧に守りきるべきであったのだ。
 それができなかったのならば、そんな弱いエヴェルシードに意味はない。ならば死して罪を贖おう。決意して彼は剣を振るう。
 だが、体力の限界は近い。それ以上に気力ももはや底を尽きている。
 相手も歴戦のエヴェルシードの兵士、多勢に無勢の最中、一瞬の隙も見せずにいることは無理な話だった。
 正面の相手を斬り捨てたその際、背後から迫る殺気に息を呑む。
「しまっ――」
 しかし予想に反して、彼が地に倒れ伏すことはなかった。
「やれやれ、どちらが惰弱なのやら」
 硬質な剣の音が走り、まるで金属を斬ったような冷たい反響が響く。気づけば彼以外この部屋に残っていたはずの兵士たちが、半分ほど倒れ伏している。
 部隊長は呆然とした。
 鮮やかな色の血を流しながら血に伏すのは自分のはずだったのに、彼は無事だ。そして代わりのように敵の兵士たち数名が、一瞬で首や胴を絶たれ転がっている。
 先程の硬質な響きは、鎖帷子を切り裂いた音だったのか。あまりにも見事な――見事すぎるエヴェルシード流剣術。そしてその剣を握っているのは――。
「ら、ランシェット殿?!」
 彼以外の敵の兵士たちも驚愕していた。
 てっきり死んだとばかり思っていたチェスアトール人の少年学者が、倒された兵の剣を奪って彼らでさえ感心するような腕前で一瞬のうちに敵を斬り捨てたのだから。
 その太刀筋には容赦も、慈悲すらもない。これまで極力無駄な犠牲を出さずに進んできたはずなのに、今敵兵を斬り捨てたその攻撃にはむしろ人の命を奪うことに喜びを見出す残酷さがあった。
「ランシェット殿……!!」
「ちがう」
 再び呼びかけた部隊長に、その少年は先程とはまったく印象の違う、まるで剣そのもののような金属の硬質さと冷たさを感じさせる声音で答える。
「……いや、そうだったな。そういえばこの肉体の持ち主はそんな名だったか」
 しかし鋭い否定は、数瞬の間をおいて何かを確かめるような呟きとともにまた覆された。
 彼が考え込む隙を逃さず攻撃を仕掛けてきた相手を屠る仕草には何の力みもない。華麗なほど鮮やかに、そしてあっさりと彼は敵を殺していく。
「あなたは……」
 これは先程まで自分が言葉を交わしていた少年ではない。部隊長はそんな予感を覚えながら、恐る恐る亜麻色の髪の少年に尋ねた。
 最後に武器を構える暇もなく心臓を突き刺された魔術師の体から得物を引き抜きながら、彼は振り返る。
 琥珀色に近かった瞳が、燃えるような朱金に染まっていた。
「そんなことどうでもいいだろう。それよりもさぁ、行こう」
「どこへ」
「決まっている」
 人を拒絶しながらも惹きつけてやまない、慈愛溢れると錯覚するほど優しい殺意に満ちた凄絶な笑みで、蘇った死者は言う。

「私の戦場だ」

 《続く》