第10章 聖暦前二年
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正門から砦に突入し、警備を攪乱する予定だった陽動部隊の方も、ルルティスたち呪具破壊部隊ほどではないが苦戦していた。
何せ人数が桁違いであり、兵士としての練度も王弟の直属の部下たちの方が上だ。それにこの砦の立地的に大公領が近く、いつ伏兵が現れて挟み撃ちにされるかもわからない。
予定にない事態の連続、守るべき護衛対象は他の候補者たちの中で最弱で、敵には魔術師がいるのに彼らには魔術も奇跡もない。
持てる力の全てを出しきって、そうして力を使い果たしてしまえば死ぬだけだ。
自分たちは負けるのかもしれない。
部隊長不在の今、戦争の少なくなったこの時代では玄人も新人も変わらないような王国軍の兵士たちは、徐々に焦りを感じていた。
彼らの戦闘力は他国人に比べれば段違いの腕前だ。けれどそれも同じエヴェルシードの軍人同士となれば、あとは訓練が物を言う。反逆に備えて実戦的な訓練を積んできた王弟の兵たちに、王国軍の兵士たちは押されていた。
「くそっ!」
剣戟の合間に苛立たしげな舌打ちが混ざる。
こめかみを伝う汗の不快な温さが自身の疲労を伝え、尚更焦燥を増す。
動かすのが億劫になってきた腕に、容赦なく振り降ろされる敵の剣。
ひたひたと死の足音が近づいてくる――。
その時、敵方の悪夢、彼らにとっては一筋の光明がついに差し込んだ。
「ぎゃっ!」
「ぐっ!」
「がはっ!」
短い断末魔とは裏腹に、豪快な血飛沫が周囲を染め上げた。
狼狽する兵士がその体勢を立て直す前に、武骨な剣先が兜ごと頭蓋を割る。
胴と離れた足が片方ずつてんでばらばらの方向に飛び散り、首が毬のように転がる。突き出した剣を引き戻した時にはすでに相手が絶命している。
血の雨を嬉しそうに被り、踊るように敵兵の首を刎ね飛ばす、目立つ華奢な人影。
「ラ――ランシェット殿!」
亜麻色の髪の少年は裾のぼろぼろになった若草色の外套を血で深紅に染め上げて、彼らの部隊長を昔からの家臣のように背後に引き連れてここまでやってきた。
「学者殿! 呪具は、呪具の破壊は成功したのですか?!」
「ああ、もちろん」
彼らに答える間にも、敵が襲い掛かってくる。少年は背後から斬りかかってきた敵を見もせずに得物を一閃させて切り伏せ、続いて低い位置から死角を狙った一撃を難なく交わした。
お返しと言わんばかりに相手の状態が浮いた一瞬に膝蹴りを無防備な胴に叩き込み、反対側から斬りかかってきた男の腕を捻り次の相手の攻撃の盾とする。味方を誤って刺殺した兵士がその死体から剣を抜く間に驚愕の表情ごと首を落とし、返す刀でもう一人を斬り殺す。
あえて隙を誘い背後から来た敵の腹部に蹴りを入れ、崩れ落ちるその肩を足蹴にして跳び上がる。いつの間にか死んだ敵兵の手から奪った剣を驚愕に満ちた顔で見上げる男たちに投げつけ、着地点にいた相手を脳天から串刺しにする。
声を上げる暇もなく行われた壮絶な戦闘とも虐殺ともつかぬその戦いに、味方の兵士たちはぽかんとただ見惚れ、呆然とした。
今の動きは一体なんだ。これが同じ人間のものなのか。
まさか自分たちよりも華奢な他国人の少年が、エヴェルシードの軍人を軽々と翻弄するとは。
亜麻色の髪の少年の攻撃には、容赦というものがまるでなかった。ただひたすら、作業のように淡々と命を奪っていく。鎌を振るい魂を集める死神の腕でさえここまで冷淡で無慈悲ではないだろう。
しかしその躊躇いのない冷徹さこそが、エヴェルシードという人種を魅せる。
彼らにとっては強さが全てだ。強い者には従うに値する。王弟が国王に反旗を翻すのも、だから内心では納得してしまう気持ちもあった。
そして王よりも、王弟よりも、今目の前で凄惨な殺戮劇を見せてくれたこの少年は強い。
彼らは指揮官である部隊長と違って、ルルティスの護衛ではなく陽動任務についた。だからこの砦に潜入した当初のルルティスという少年が、敵をできる限り殺さず気絶させるだけにとどめていたことを知らない。
息をするように人を殺す少年のおかげで砦の正門付近は血の海が広がり、そして侵入者である彼らは窮地を脱する。
逆転の目が見えはじめ、砦から無事に脱出した頃には負け戦に気持ちから腐らせていた兵士たちの士気もたちまち持ち直した。
「閣下、次はどこへ」
部隊長に問われた少年は、つまらなそうに小さく欠伸を噛み殺しながら答える。
「そりゃあもちろん、王城だろう」
王弟はすでに城に。それを敵から聞き出した彼は、迷いもなくそう言った。
◆◆◆◆◆
藍色の闇が降りてくる。
自分はその中で誰かに頭を支えられながら眠っているようだった。
はっきり言って、寝心地はよくはない。
「失礼な奴だ。せっかく助けてやっているのに」
聞こえてきた声に、ルルティスはぱちりと目を開けた。
視界に飛び込んできた端麗な容姿に、今がいつでここがどこなのかを急速に理解する。だから一言、尋ねた。
「私は……死んだのですか?」
「いいや、まだ死んではいない」
ルルティスはエヴェルシード王弟の砦で、兵士に脇腹を斬られて瀕死の重傷を負ったのだ。そしてここはどう見ても現実ではない。
藍色の髪の少年に膝枕というよりは、胡坐をかいた太腿の片方を貸される形で水面に横たわっていた。
何もかもが非現実な空間。目の前にいるのは死者だ。
だからてっきり自分も死んでしまったのかと思ったのだが……。
「お前は頭で考えすぎなんだ。腕も足も首も五体満足で残っているくせに、あの程度で生を諦めるとはだらしない」
「だらしないって……そういう問題じゃあないでしょう」
知っているけれど知らない自分という名の他人を前に、ルルティスはごく自然な口ぶりで会話を交わす自分自身こそを、まるで不思議なもののように見ていた。
でもいい。どうせこの中は夢のようなものなのだから。
今なら言いたいことも言えるだろう。上体を起こして視線を合わせながら、ルルティスは口を開く。
「そんなに大雑把な人だとは思いませんでしたよ。シェリダン=エヴェルシード」
「ようやく会えたな。ルルティス=ランシェット。まぁ正確には、ここでこうして顔を合わせることを“会った”とは言わないだろうが」
シェリダンが笑った。
ずっと胸の中で呪え、呪えと叫んでいた声の主とは思えない穏やかな表情だった。
こうして真正面から相対してみると、自分と彼は全然似ていない。似ていないのに、それでも同じ顔、同じ魂――同じ存在。
「……つまり、これはどういうことなんです?」
「つまらない真似はよせ。とっくにわかっているんだろう?」
「――ロゼウス陛下の探しているシェリダン=エヴェルシードの生まれ変わり。それこそがこの私というわけですか」
答を自ら口にし、そこでルルティスは一度言葉を探すように沈黙する。
シェリダンが幼子に語り聞かせるようにゆっくりと告げた。
「人の魂は何度でも生まれ変わる。その際に、通り過ぎてきたこれまでの人生を魂は記録する。それが“世界の記憶”。ただ平穏な生活を送る分にはこうして前世の人格が目覚めることはないんだが……封じられている記憶は、何かのきっかけで表に零れだすことがある」
「あなたは何故そんなことを知っているのです」
「それはやはり、私がすでに死した者だからだろう。私が今表出しているのは、死者の時間を通じてお前の肉体の時間を止めるためだ。私が死者として世界の記憶に触れている間はそういったことも可能」
現在ルルティスの肉体は致命傷を負い、瀕死に陥っている。それをどうにか繋ぎとめるためにシェリダンが表に出てきた。
「世界の記憶とは、何?」
「天の板と呼ばれるもの。集合的無意識。魂はその一部だからな。私という人間の人格も人生も記憶も、全てそこに“記録”としてすでに存在している。だから消すことは不可能。お前がお前であるためには、お前がその意思でもって私より上位に、魂の表層に立たねばならない。普通は今現在生きている人間の“記録”の方が上に書かれているものだが、お前は今、深手を負ったことによりその記録と精神性を自分が死ぬという思いこみによって損なった。お前が回復するまでは、私がお前の体を預かることになる」
「……」
シェリダンが肉体を預かると言った時、ルルティスはどこか悲しげな、複雑そうな表情をした。
「私がこのまま元に戻らない方が、あの人は幸せなのではないですか?」
それに対する、シェリダンの答は――。