薔薇の皇帝 17

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 魔術であっさりと呪具を破壊することができたハデスは、その余力でもって他にも魔術陣の要となる箇所を、可能な限り破壊してから王城に戻ることにした。
 彼は魔術師としては優秀だが、武人としては普通だ。つまり、ルルティスと同じように他国の一般人よりは強いが、訓練を積んだエヴェルシードの兵士に渡り合えるほどではない。
 直接的な戦闘は避け、コソ泥のようにひたすら人目を忍んで自分にできる限りのことをする。
 魔術陣を何とかしても、エヴェルシード国内に布陣された王弟の軍隊そのものに直接的な影響があるわけではない。だがそれでいいのだ。そこから先は、エヴェルシード王族であるゼファードの仕事だ。
 自分がエヴェルシードの治世のために協力するなど、四千年前には考えもしなかったことだと、ふいに思う。
 かつてエヴェルシードの王太子から王になった友は、ハデスの協力など必要ともしていなかった。使えるものはなんでも使う主義なのでハデスの能力も便利に利用してくれたものだが、ゼファードのようにこちらの実力を信頼して頼み込んできたわけではない。
 来る者拒んで、去る者も追わない。彼は徹底的に自分の周囲から人を遠ざけ、本当に信頼している人間しか傍に置かなかった。そう、リチャードやエチエンヌとローラの双子のような、絶対に彼を裏切らない者たちしか。
 そして後にその友を裏切ったハデスは、やはり彼から本当に信を置かれた人間ではなかったのだろう。
 ほろ苦い平穏の記憶と胸を占める罪悪感、胸に穴を空ける空虚。
 その虚ろな心を埋めてくれたのはゼファードだ。だから今は、ゼファードのために動こうと思っている。
 ハデスはもう一度転移の術を発動して、王城に戻った。

 ◆◆◆◆◆

 正面から砦に乗り込み、包囲網を振り切ってあっさりと呪具を破壊する任を完遂したフェルザードは、帰りも行きと同じように馬と魔術を併用しながら全力で王城に戻ることにした。
 しかし彼の場合、乗り込んで呪具を壊すところまではよくとも、その帰還にハデスとの差が出る。転移術で人知れず行ったり来たりできるハデスと違って、砦の警備を堂々突破したフェルザードをせめて大公の現在おわす王城に戻らせてはならないと、砦の兵士たちから救援要請を受けた部隊が彼の足止めを目論んだからだ。
「いたよ! 王子殿下だ!!」
「ちっ……!」
 フェルザードは徐々に追い詰められ、その包囲を抜けるのが困難になってきた。数の上では砦の兵士たちと同等。戦力は比べ物にならないほど弱い。フェルザード自身は役目を果たしあとはもう帰るだけの気軽な身。
 それでも彼が劣勢に追い込まれているのは、送られてきた敵の援軍の内容にあった。
「お待ちなさい! 殿下! これ以上先には行かせませんよ!」
「くっ! よりによって、女子供の連合軍か!!」
 森の中、追手の声を聞いてフェルザードは馬首を巡らせ、方向転換を図る。
 あとは帰還を果たすだけとなったフェルザードの足止めに用意された部隊は、訓練された兵士ではなく近くの町や村からかき集めてきたとしか思えない普通の村人だったのだ。それも指揮官が女だったり、部隊の大部分が年端もいかない少年、少女だったりするようないかにも軟弱そうな部隊だ。
 しかしこれらの部隊は、実際に王弟側が思っているよりフェルザードの足止めとしては効力を発揮していた。勝利のためには死ぬのも辞さない、むしろ殺された方が悪いという風潮のある訓練された兵士を蹴散らすのならともかく、こんな明らかに戦いなれていない女子供や村人相手にフェルザードは本気になれない。
 別にフェルザードに弱い者を傷つけてはならないという信念があるわけではないが、さすがに未来の国王の兄が反乱軍とはいえ一般市民を虐殺するというのは体裁が悪い。
 エヴェルシードは確かに武力第一実力主義の男尊女卑国家だが、それ故に軍人でもない者に暴力を振るうことは忌避されている。
 かつてはもっと原始的な武力主義で、男が力尽くで女を犯したり、人の妻を攫ったりする略奪婚もごく当たり前のように行われていた。男尊女卑の傾向の通り、強い男が偉くて女はその下の存在と見下され蹂躙される立場でしかなかった。
 そんなエヴェルシードの風潮を変えたのは、四千年近く前にエヴェルシード国王となった女性、いまだに名高い賢君として知られる女傑王、カミラだった。
 女王カミラは“強さを至上とする国家だからこそ、戦士は弱者を蹂躙して悦に浸ってはならない”という方針を打ち出し、彼女が生きている間にその思想を王国中に浸透させた。
 強さとは他人を虐げる目的で求めるものではなく、自分が高潔な生き方をするために必要なのだと周囲に説いてまわり、新たな政策や法案を完成させ、弱者が不当に扱われることのないよう生涯気を配り続けた。
 そして女王カミラ自身、いざエヴェルシードが危機に陥った時は、誇りを守るために自ら剣を取り戦ったという。そんな女王の姿に国民は畏敬の念を払い、それまで野蛮なエヴェルシードと呼ばれていた王国の風潮をゆっくりと、だが確実に変えていったのだ。
 もちろん、強さを至上とし追い求めるというエヴェルシードの性質には今も変わりはない。それはエヴェルシードの建国王である初代皇帝シェスラート=エヴェルシードが武力で魔術大国ゼルアータを打ち破って帝国を興した歴史上変わることはない。
 けれど、守るもののない力は虚しいばかりだ。
 女王カミラはこれまで男王ばかりであったエヴェルシードに新しい風を持ち込み、王国をそれまでよりもあらゆる面で発展させてきた。
 男尊女卑の傾向を、それならば強い者が弱い者を守るべきだと定めたのも彼女であり、その思想はこれまでも受け継がれてきた。
 だからこそここでフェルザードが、見た目からすでに一般の村人、数度剣を交えた感触も明らかに素人でしかない女子供を殺すのは躊躇われる。彼らが王弟に唆されて反乱軍を結成している以上、それを単純な力で抑え込んでしまえば後々エヴェルシード王家の名誉を傷つけることになるだろう。
 フェルザードは自分自身が他人からどう見られようとかまわないが、将来的にこの国の王となる弟は、王家の名誉よりもまずフェルザードがそんなことをしたという事実そのものに傷つくことだろう。エヴェルシードの強さとは、自らの誇りを守るためにあるのだから。
「こうなったら……」
 追手をかわしながら森の中で思案していたフェルザードは、目的地の変更を決めた。
「ここから先へ行くのであれば、私たちを――え?」
 驚く反乱軍の女子供を無視し、フェルザードはまるで王城とは関係のない道へと踏み出す。すでに三つほどの部隊が周囲を取り囲んでいて、反乱軍の方では戦闘になることを予期していたために馬の歩みが鈍い。
 その一瞬の隙に、フェルザードは彼らの予想外の方角へと全速力で馬を駆けさせた。
「な! どこに行くつもりだ!」
 一度包囲を出し抜いてしまえばあとはもう魔術でもなんでも使って追いつけないようにすればいい。フェルザードは今日一日走りっぱなしの愛馬の様子を気遣いながら、ある施設を備えた砦を目指す――。

 ◆◆◆◆◆

「着いたわ!!」
 アルジャンティアたちの部隊は、彼女たちだけでは何をしようにも心許ないのでいったん王城へと戻ってきた。
 呪具破壊の任は果たしたが、同時に新たな不安を携えて門をくぐる。
「アルジャンティア姫」
「アドニス卿! もう帰ってきたの?!」
 一番近くの砦に出向いた自分たちとは違い、王城から最も遠い砦に単身乗り込んだはずのハデスの姿を王城で見つけてアルジャンティアは驚いた。
「転移なら一瞬だからね。それよりどうしたの? 何か焦っているようだけど――」
「ルルティス先生は?!」
「いや、まだのようだけど」
 アルジャンティアは、自分たちの部隊が向かった砦よりも、王弟の領地に近い砦に向かったルルティスの方が危険であることをハデスに伝えた。説明が深くなるごとに、ハデスの表情も険しくなる。
 彼の感覚で言えば、魔術陣の要となる四つの呪具のうち、すでに三つが破壊されている。空間認識能力で把握した位置的にそれは自分が破壊した分と、アルジャンティアとフェルザードの分。ルルティスは確かに苦戦しているのかもしれない。
 だが、もともと彼ら四人は目的地は当然それぞれの能力値や特技が違うので、ルルティスたちが実はまだ砦についていないだけということも考えられる。行き帰りの時間の長さがなるべく均等になるように割り振ったとはいえ、魔術師とエヴェルシード王族、ローゼンティアハーフに比べてルルティスだけは普通の人間なのだから。どんな理由があって最終的に呪具の破壊や帰還時刻に差が出るかまではわからない。
「時間的に言えば、まだ彼らが向こうの砦についてなくてもおかしくはない。けれどもし予定通りに行って呪具の破壊に成功していれば、もうそろそろ魔術陣が消滅してもいい頃だね」
「ゼファードに伝えた方がいいと思うの」
「それも難しいよ。だって今は――」
 ハデスはアルジャンティアを連れて、大広間へと向かう。
 そこでは、次期国王の座をめぐり、王太子ゼファードと反逆者シアングリード大公が剣を交えていた。