薔薇の皇帝 17

094

 どこか遠くの寺院の鐘楼から、荘厳で涼やかな音色が響いてきた。
 鐘が鳴る。時を告げる。
 進む針を失った物語は動き出す。
 前に進むということは、同時に終焉へ向かうということだ。人は生まれたその瞬間に生と同じく死を与えられる。生と死は命の持つ正反対の両面だ。どちらかだけを望むことも拒むこともできない。
 けれど約束された死を持つからといって、人はそのために生きているわけではない。死という終着点に辿り着くまでの旅路の全てが、その人の人生に意味をもたらすのだ。
 そしてこの四千年間――ロゼウスはずっと、動かない時計の針として同じ時に留まり続けてきた。
 停滞する皇帝の望みの下、世界は概ね平穏を甘受してきた。薔薇の皇帝は騒乱も栄華も望まない。ただ、造り物の花のように世界が穏やかであることを望む。
 四千年もの長い長い時を経たにも関わらず、この帝国は世界全体で見れば微々たる進歩も発展もしてこなかった。さすがにロゼウスにも止められない時代のうねりというものはあるが、その影響は最少である。そうなるように、ロゼウスが調整した。
 それはまるで幼子の稚さを偏愛して、彼らに大人になるなと言い聞かせるようなもの。
 でも本当はわかっている。そんな詮無いことを願おうと、やがてこの手から彼らは飛び立っていく。追いかける翼をロゼウスは持たない。彼はもう風属の吸血鬼ではなく、薔薇の咲く大地に囚われた亡者なのだから。
 あとは滅びて土に還るだけの生きた屍が、きらきらしい輝きを放つ未来の子らをどうして押しとどめることができよう。
 ローラの用意した衣装に着替えたロゼウスは、それまで彼の手を覆っていた手袋をはずした。
 その白い手の甲に浮き出た青い炎のような紋様に静かに語りかける。
「ゼファードは随分立派になったね。フェルザード。これでお前も安心だろう。エヴェルシードの未来は、きっと彼らが作ってくれる」
 ロゼウスは微笑み、背後に控える従者たちを振り返り促した。
「さぁ、行こう――薔薇の皇帝、最後の舞台へ」

 ◆◆◆◆◆

 ゼファードは深く、静かに宣言した。
「俺の勝ちだ。叔父上」
 剣先を喉元に突き付けられた王弟は、降伏の印に得物を手放すと、ゆっくりと顔の横に両手を上げた。
 それを見てようやくゼファードも剣を降ろす。まだ緊張を完全に解いてしまうわけにはいかないが、ここまでやってこれ以上戦う理由もない。
「ゼファード!!」
 謁見の間の入り口でこの戦いを見守っていたアルジャンティアたちが駆け寄ってきた。勝負には勝ったものの、重傷を負って派手に流血したゼファードを心配したり怒ったりと忙しい。
「このバカ! なんであんな無茶するのよ!」
「しかたねーだろ! 楽に勝てるような相手じゃねーんだよ!!」
「身内の喧嘩で死にそうな怪我負って何が勇者よこのバカぁ!!」
 台詞はともかく本気で心配しているらしきアルジャンティアを、ハデスことアドニスがぽいっと投げるように引き離す。すでに随分血を流した傷口を魔術で見る間に塞いで、痕すら残さず完璧に治癒した。
 とはいえ、失った血までは魔術で補うことはしない。本当に重傷ならばやむを得ず使う術もあるが、この場では必要ないと判断したためだ。
「はい。とりあえず傷は塞いだから後は好きなだけ抱き合うのも痴話喧嘩もどうぞ」
「痴話喧嘩じゃないわよ!!」
 ぷりぷりと怒るアルジャンティアと真っ赤になったゼファードを放置して、アドニスは王弟を振り返る。
「あなたは怪我の具合は?」
「傷などない。あったとしても余計なお世話だ」
 王弟はゼファードの血で濡れた自らの目元を衣装の袖で乱暴に拭うと、血のすれ痕のせいで余計に野性味を増した表情でゼファードを睨んだ。
「見事だったとは言わねーさ。今回は俺の作戦負けだ。今回の戦争に魔術を利用したのはお互い様だが、お前のその力は本来王太子としての力を磨くために使う時間を費やして仕入れた余計な能力だ」
「だったらあんたはどうなんだ。内乱を目論む暇に、父上に自分の力を示すとか、フェザーを説得するとか……そういったことをするべきだったんじゃないのか」
 叔父の挑発にも乗らず、ゼファードは自然体の口調で話し続けることができた。皮肉なことに、これまで兄王子を差し置いて王太子という分不相応な地位に身を置いていると揶揄され続けて来たからこその平常心と忍耐力だ。
「玉座までの道のりから横道それて事態を複雑にしたのは、俺もあなたも同罪だ。だからこそ、その決着も俺たちがつけなければならない」
「……やれやれ。ちょっと見ない間に口だけはいっちょまえになりやがって」
 敗者は低く笑う。この国では負け犬に対していつまでも慮る気風はない。王弟の名は数年後にはもう呼ぶ者もおらず歴史の波に埋もれていくことだろう。
 長い長い帝国の歴史の中、敗者に関して書の頁を割くのも無駄だと。戦に負け勝負に負けた者たちのその名は最初から存在しなかったかのように忘れ去られていく。
 それをわかっていて、ゼファードは勝負を仕掛けた。確かに血の繋がった間柄でありながら心を許し合うことのなかった叔父と甥。思えばその名をまともに呼ぶことすらほとんどなかったのだ。
 本当はわかっている。ゼファードが今こうしてエヴェルシードの王太子として存在することに、運と偶然以外の何もない。実力で自分を認めさせるとは言っても、その実力はフェルザードに遥かに劣る。一歩間違えれば王弟と第二王子はその立場がまったく逆だったかもしれないし、あるいはフェルザードという邪魔者を除けるために手を組む可能性もあったのかもしれなかった。
 まるでゼファード自身も知らないゼファードの何かが見えているかのように強硬に王太子の座をおしつけてきたフェルザードの存在がなければ、ゼファードだとて叔父のように、この優れ過ぎた血縁に対しもっと複雑な思いを抱いたに違いない。
 確かに決闘には勝ったはずなのに、ゼファードはまるで勝った気がしなかった。小細工に敗れた叔父も動揺だろう。ゼファードがこの勝負で殺す気でかかってきたのなら先程の一撃で死んでいてもおかしくはなかったとはいえ、実際に自分が甥に負けたという感覚はなさそうだ。
 それは彼ら双方共に、自分よりも相手よりも強い存在を認めてしまっているからだ。
 フェルザード=スラニエルゼ=エヴェルシード。
 この勝負で王弟が勝とうとゼファードが勝とうと、きっとこれからのエヴェルシードにとっては大差ない。――フェルザードが王位につかないのであれば。
 どちらが勝とうとそこそこの治世を敷き、そこそこの評価を得るだろう。ただ、その評価を得る支持基盤が多少違うだけだ。そして永遠に、フェルザードを越える名君となることは敵わないのだ。
 だから王弟とゼファードの戦いは、当事者にとっては生死を左右する大問題でも、それ以外の者たちにとっては理解できない争いであった。
 王弟はどこか冷めた目で告げる。
「私を殺しても、何も変わらないぞ」
 ゼファードはその言葉を、まるで鏡写しの自分の言葉のように凪いだ気持ちで受け止めた。
「あの“天才”に比較されて劣等感を持ち、孤独を感じる人間が自分一人になるだけだ。あの男がいる限り、お前は真の意味で王にはなれない。兄に与えられた玉座を甘受するだけの愚かな傀儡と化すのが関の山だ」
 ましてやゼファードは王弟と違って、第二王子でありながら王太子の座を得てしまった。フェルザードを支持する一派からは、何故実力で劣るくせに年長の兄王子を立てないのかという侮蔑の眼差しで見られることだろう。
「何も変わらない。私が死んでも、お前が死んでも」
 必要がないのだ。最も王に相応しい男以外は。
 整った面に凄絶な虚無を浮かべ、王弟は寂しく笑う。生きていても日陰の身であり、死して残せるほどの名もなき敗者は、もう何も怖いものなどない。
 これは自分の未来に存在したもう一つの可能性なのだと意識しながら、ゼファードは真摯な想いを言葉として紡ぐ。
「……確かに、そうかもしれない。俺は才能と実力という点では、一生フェルザードに勝てないと自分でも思う」
 悔しいがそれは真実だった。常々継承権の放棄を叫ぶ程度には子どもっぽい自覚のあるゼファードでも、そのくらいはわかっている。
 けれど彼は真実の前に立ち尽くすのではなく、その扉を開いた先にある道を行くと決めた。
「それでも、俺はこの国が好きだ」
 ゼファードは叔父大公をまっすぐに見つめた。
「確かに俺もあなたも似たようなものだと人は言うだろう。でも俺は――叔父上、あなたにはならない」
 ゼファードは思う。自分と叔父は鏡のような存在だ。だからこそ、今、ここで袂を分かつ必要があった。他者にとって現在の王弟と第二王子は大差のない存在だと思われているからこそ、自分たちはその差異を示すために戦う必要があったのだ。
「俺は俺として生きてゆく。そして俺が俺であるために、この国を、自分の愛する祖国を守るよ。エヴェルシードは他者の庇護なんか必要とはしないかもしれないけれど――いいんだ。俺が好きなんだから」
 今はまだ、国王として唱える祝辞も振るうべき弁舌も、何一つ知らない。持ってはいない。
 ゼファードが口にできるのは、ただ、自分の本当の想いだけだ。
「見返りなどいらない、か。……お前は、それでいいのか。覚悟は決まったのか」
「ああ」
「――覚悟が決まっているならいいさ。それが荊の海だと知っていても、お前は迷わずに歩いて行け」
 王弟の激励ともとれる言葉に、ゼファードは目を見開いた。
「将来的にその宣言は若気の至りなんて言ったら、地獄からでも舞い戻ってぶっ飛ばすぞ。――俺は名もなきただの王族の一人として消えていく。うちの兄は天才じゃなかったが、俺も所詮は玉座を奪うのにこれだけの年月を費やして、結局は念願を果たせなかった凡人だ」
「叔父上」
 王弟はちらりと玉座を一瞥する。彼の兄が今も坐すその場所を。
 そしてゼファードに視線を戻すと、まるで初めて身内を祝福するただの叔父のように、声をかけた。
「俺はフェルザードやお前と王太子争いをしたかったわけじゃない。本当はもっと早くに事を起こすべきだったんだろうな。俺はただ、俺より先に生まれただけの兄がのうのうと玉座に坐すのが許せなかっただけなんだから」
 大公の兄であり、ゼファードたちの父である現国王は弟の言葉に少なからず動揺したようだった。恨まれていることはわかっていても、それをはっきりと口にされるのはやはり違うらしい。
「だがお前は違う。ゼファード=エヴェルシード。お前は兄王子から都合よく王位継承権を譲り受けただけでなく、自分の力でもそれを俺から勝ち取って見せた。兄からは勝ち取ったわけではなくともな。運命が与えられるのを待つのではなく、お前の運命を選び取った。……だったらもう、お前に負けた俺に言えるような言葉はないさ。あとはせいぜいもがき苦しみながらその道を歩いて行け」
「――ダードリク卿」
 ゼファードは叔父の名を呼ぶ。
 今日ここで失われるその名。歴史の随に消え去っていく記号。
「ま、そう簡単に行くとは思えないがな。せいぜいフェルザードの継承権放棄がまともな理由であることを祈っておけ」
 そもそも彼が王位継承権を放棄する姿勢など見せなければこんな騒動に発展する必要もなかったのだ。事態をややこしくした責任の何割かは明らかにフェルザードにある。ろくでもない理由で玉座を譲られた方も迷惑だ。
 もしも彼が王太子の地位を放棄する理由が本当にくだらないものだったならば、むしろそちらを殴りたいとぼやく王弟の台詞に、思わぬところから返事がやってきた。
「一応伝統に則ったまともな理由ではあるぞ」
 長靴で大理石の上を歩く硬質な音を響かせながら、ロゼウスが姿を現した。
 その途端これまで決闘場と化していた謁見の間が、それ本来の華やかさを取り戻す。室内のそこかしこに施された装飾の全てが、まるでロゼウスのためにあるかのように。
 背後にはいつもの通り、リチャードやエチエンヌ、ローラと言った面々を従えている。
「ロゼウス!」
「おやおや、皇帝陛下。お早いお越しで」
 全てが終わった後に出てきたロゼウスに対する皮肉を忘れず、王弟はげんなりしながら言った。
「悪いな。着替えに手間取ってしまった」
「着替えって、女じゃあるまいし。あー、麗しき皇帝陛下、衣装の一つや二つであなたの美貌は損なわれませんからお召替えなんぞ気にせずどうせならもっと早くに来てくださいよ」
 呆れる体の王弟に、ロゼウスはにっこりと微笑んで返す。その笑顔に不安を感じたのは、王弟ではなくゼファードの方だった。
「ロゼウス、お前……その格好、何?」
 ゼファードの目に映るロゼウスの姿は、いつもと違った。似合わないわけでもどこかがおかしいわけでもないが、彼がそういう格好をしていることそのものにゼファードは違和感を覚えるのだ。
 まずは目につくのが、襟足ぎりぎりまで切られた短い白銀髪。黒に銀の縁取りと刺繍が入り、飾りとして青いリボンの使われた短い上着。
 胸には青い薔薇を飾っている。
 その格好はどちらかと言えば、ロゼウスというよりも彼の弟であるジャスパーを思わせた。二人は顔立ちも良く似ているので、一瞬間違えそうになったほどだ。
「別にこれが規定というわけではないが、あいつは約十年間私とジャスパーを見慣れているからな。もうこれが印象として固定されてしまっているのだろう」
 ロゼウスは訝しむ彼らに向けて、ゆっくりと自らの腕を持ち上げ、その手の甲に刻まれた紋章――選定紋章印を見せつける。
 白い手に鮮やかに輝く青い炎の紋章。
「――え?」
 ゼファードも王弟も現王もアルジャンティアも、居並ぶ面々はそれが何であるかは薄々察することができても、それがそこにある意味を理解できなかった。
「え……? いや、だって、それ……それは……」
「どういうことだ!!」
「それを説明すべきは私ではなく彼だ」
 ロゼウスの手の甲に在る紋章が輝くと同時に、エヴェルシード全土に拡声装置で届けられた声が響く。幾度か試すような発声練習の後、その言葉は流れてきた。

『――第三十四代帝位継承者、フェルザード=エヴェルシードが告げる。王国内の全ての者は、戦いの手を止めてこの放送を聞け』