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『繰り返す。第三十四代帝位継承者、フェルザード=エヴェルシードが告げる。王国内の全ての人間は、戦いの手を止めてこの放送を聞け。王弟シアングリード大公と王太子ゼファード=スラニエルゼの戦闘は決着した。大公軍は全員投降し、王国軍共々この放送を聞くように』
その瞬間、エヴェルシード全土が恐ろしい程の沈黙に包まれ、静まり返った。
森に住まう獣や鳥でさえも、人間たちの緊張を読み取ったかのように息を殺す。
ゼファードと王弟の決闘場所となった王城も、大公軍と王国軍の激突した王都目前の戦場も、魔術陣の要たる呪具が破壊されて混沌と化していた幾つもの砦も、どこもかしこもが声を失って、空中から声だけが届くその放送に耳を傾ける。
第三十四代帝位継承者。
その言葉はすなわち、第三十四代皇帝を示す。
今の皇帝は第三十三代世界皇帝ロゼウス。彼が退位、もしくは崩御しない限り、三十四代の皇帝は存在しない。しかしその立場にある者を、帝位継承者と呼ぶことはできる。
王国の主だった砦には拡声装置と呼ばれる魔導機器が設置されていて、転移陣のように利用できるようにされている。もちろん砦内部にあるものを使うのだから相応の地位や身分、権力や多少の魔力的技術も必要だが、フェルザードはその全ての要件を満たしている。そもそも内乱状態の国で敵方に占拠されているはずの砦からこうして全国放送を行える時点で論外だ。この世にフェルザード=エヴェルシードを阻める者は存在しない。
そう、誰にも止められない。
彼はこの世界で最強の存在――次期皇帝なのだから。
『この放送を聞いている諸君、そろそろ衝撃から立ち直り理解が追いついただろうか。私こそが、次期世界皇帝フェルザード=スラニエルゼ=エヴェルシード』
「帝位継承者って……フェザーが、次の皇帝だって……ッ?!」
王城でその放送を聞き、ゼファードは呆然とした。誰に問いかける言葉でもなかったが、返事はすぐにやってきた。
「そうだ。フェルザード=エヴェルシードこそ第三十四代皇帝。そして――」
『そして』
この場でロゼウスの唇から零れる音と、拡声装置から届くフェルザードの声が二重に聞こえる。
「『第三十三代皇帝ロゼウス=ローゼンティアが、三十四代皇帝フェルザード=エヴェルシードの選定者』」
「――ッ!!」
とにかく話を聞こうと、一度は鎮めたはずの混乱がまた沸きあがる。
「選定者って――だって、お前は皇帝だろう!」
「ああ。皇帝だ。そしてフェルザードの選定者でもある」
とりあえず今一番近くにいて、この場にいない兄の代わりに答をくれそうな人物にゼファードは縋るように言葉をぶつけた。けれど、この混乱をもたらしているのが、そもそも目の前のこの男だ。王弟による玉座の簒奪計画など比べ物にならない衝撃。
「どういうことなんだよ!」
「そういうことなんだよ。言葉通り、フェルザードの言うそのままだよ。……まぁ、俺もほんの十年前までは、この日がこんな風に来るとは思わなかったけれどね」
ロゼウスは苦味走った笑みを浮かべながら言う。
「皇帝が退位するのは、その皇帝の力を上回る存在が現れた時。そして選定者とは、皇帝のために生まれて来るもの。少なくともここ七千年はそうなっていた」
この世界を四千年の永きに渡り支配してきた皇帝、歴代で最強の力の持ち主と畏怖されていたはずの薔薇皇帝は告げる。
「つまりフェルザードの力はすでに俺よりも上で――そして俺がこの四千年間を皇帝として生きてきたのも、その全てはフェルザードのためだったということ」
◆◆◆◆◆
フェルザード=エヴェルシードは最後までこちらの度肝を抜いてくれる存在だ。
ロゼウスは彼と出会った頃をそんな風に回想する。
十年の約束が過ぎ、ついに彼は自らが次期皇帝だと明らかにすることになった。フェルザードが次の皇帝であることはわかっていたが、その即位時期に関してはロゼウスの皇帝としての未来視でも、ハデスの預言でも不明だった。推測こそできても、正確なことはわからない。
ならばあえて、いついつ即位するとこちらで決めてしまおうと言ったのはフェルザード本人だった。
フェルザードとゼファードは十二歳違いの兄弟。フェルザードが十七歳の時に愛人志願として皇帝領にやってきて次の皇帝であることが判明した時、弟のゼファードはまだ五歳だった。将来的にゼファードが次期国王に相応しくあろうとそうでなかろうと、五歳の少年に王位継承権の第一位を与えるのは無謀にも程がある。
だからフェルザードはゼファードの成長を待つかのように、男皇帝に入れあげて正道を踏み外すうつけを演じながらこの十二年をかけて皇帝としての力を蓄えてきた。ゼファードが青年として成長する頃に自分が皇帝として即位するのであれば、約十年後が妥当だろうとと彼は言った。
慣習的に、一国の王は帝位を兼任することはない。偉大なる始皇帝シェスラート=エヴェルシードは皇帝として世界を支配しながらエヴェルシードという国の初代国王にもなったが、だからこそ始皇帝と差別化を図る意味でも、国王が皇帝に即位するということはこれまでになかった。
しかしフェルザード=エヴェルシードは王国内では王位継承権第一位の王子。近くには虎視眈々と兄の玉座を我が物にせんと狙う王弟もいて、理由もなく継承権の放棄などできる状態ではなかった。
……もっとも、それが可能な状態だからといって、自分が誰よりも優れているという自覚のあるフェルザードが素直に継承権を手放したかというと、そうでもないのだが。
御世辞にも性格が良いとは言えないフェルザードは、しかしいくつもの国家をまとめあげる帝国の支配者としてはうってつけの人格の持ち主だった。
人の下風に立つのが許せない性格を極めていけば、それはもはや世界を捨てるか、あるいは人類の頂点に立つしかない。そして神と呼ばれるものが彼に与えた運命は後者だった。フェルザードは世界皇帝として資格を得る。
けれどそれだけならば、フェルザードは凄いね、で終わる話。
皇帝にして選定者たるロゼウスと「最後の皇帝」フェルザードにとっては、そこからが全てのはじまりだ。そう――
「俺はようやく、自分が何のために生まれて来たのかわかったよ」
選定者は皇帝のために生まれて来る。ハデスがデメテルのために存在したように、ジャスパーが兄であるロゼウスを慕うように。
初代皇帝にまつわる神聖なる悲劇は、皇帝と選定者の切っても切れない関係を示す。そしてそれが歪んでしまったということも。
いかにも向きなフェルザードと違い、もともと望んで皇帝になるような性格ではないロゼウスの皇帝としてのはじまりは、やはりそう幸せなものではなかった。いまだに後悔と自己嫌悪が続き、時折発作的に飛び降りたくなるような悪夢を経て、ロゼウスはようやく皇帝として立った。
何人も何人も何人も何人もそのために犠牲にして。
愛する者を失い、身内に忌み嫌われ、故国にも帰れない。そのような不安定な精神状態を騙し騙しやってきた四千年間。他の皇帝はせいぜいが人の寿命程から数百年程度の在位だというのに、ロゼウスの統治期間だけ異様に長い。
それは自らの死を願い続けるロゼウスにとって、まるで拷問が続くようなものだった。早くこの命を捨てて楽になりたいと願っても、それが許されることはない。
――次の皇帝がこの世に存在するまでは。
誕生ではなく、それは存在なのだ。選定者にとっては概ね決められた運命だが、皇帝とは生まれながらに資格がある者ではない。いずれ皇帝となるべき赤子が誕生してすぐに先代が隠居させられることがあるような極端な世襲貴族形式ではない。
皇帝とは適性のある人物がその生を送る中で、様々な経験によってようやくその資格に辿り着く。だから本当は誰でも皇帝になる可能性があり、この四千年間は、ロゼウス以外の誰も皇帝になれなかった。
あまりにも長すぎる生に、自殺願望とも希死念慮とも違う理由でロゼウスは死を願った。あまりにも長く生きすぎて、生に飽いたのだ。
そうして薔薇の皇帝の即位から約四千年近い年月が過ぎ、ようやく彼はロゼウスの前に現れた。
次の時代の皇帝、そして帝国最後の皇帝となるべき人物、フェルザード=エヴェルシードが。
そして彼が皇帝として相応しい人物になるためには、あるものが必要だった。
それこそが薔薇の皇帝ロゼウス=ローゼンティア。
ロゼウスが統治するこの帝国で、ロゼウスという皇帝の傍に侍ること。それが、フェルザードをただの文武共に完璧な人間というだけの存在から、次代の皇帝にまで押し上げる経験。完全無欠。それだけでは皇帝になれないのだ。
選定者は皇帝のために生まれて来る。
三十四代聖焔帝フェルザードが生まれるために、薔薇の皇帝ロゼウスの存在が必要だったのだ。だから。
ロゼウスが皇帝になったのはきっと、全てこの日のためだった――。