096
ロゼウス=ローゼンティアはその出会いからこちらを惹きつけた。
フェルザードは彼と出会った頃をそんな風に回想する。
十年、もうすぐ十一年にもなる前。あの頃、フェルザードは能力値こそ今と同じく完成されていたが、その精神は思い上がった夢想家の子どもでしかなかった。
十年前、十七歳だったフェルザードは自分にはどんなことだってできると思っていたし、皇帝にだってなれると思っていた。この世界で自分の思い通りにならないものなど何もない。
それはある一面においては真実であった。確かにその時すでにフェルザードの実力は現皇帝であるロゼウスと比較してもなんら遜色のないものとなっていたのだ。フェルザードに資格さえあれば、すぐにもロゼウスにとって代わることができただろう。否、資格などなくとも、フェルザードがその気になりさえすれば、四千年間この世界を支え続けた皇帝を倒すことも不可能ではない――。
けれどその時の彼は、まだ子どもだった。
フェルザード=エヴェルシードは皇帝ロゼウスに出会うまで、恋を知らなかった。
◆◆◆◆◆
十年前――。
「皇帝陛下がやってくる? こんな時期に? 何故ですか?」
「知らん」
晩餐中に告げられた話だった。フェルザードの問いに、父王は困惑を隠しもしない表情で埒の明かない答を返す。
「父上が何か要請したのではないのですか?」
「先日いつもの定期報告を提出したくらいだ。それと、我々家族の近況を書いた手紙を添えたくらいだな。ゼファードがやんちゃ盛りだとか、そのくらいしか書いた覚えはないのだが」
薔薇の皇帝は気まぐれで知られる。そこにさして理由もないのだろうと、彼らは突然の訪問を不思議に思いながらも、この世界を統べる支配者の歓迎の準備を始めた。
後にフェルザードはロゼウス本人から、その時エヴェルシードを訪れた理由を聞く。国王がたまたま手紙にゼファードの髪と瞳の色を書いたのに興味を持って、ゼファードを見に来たらしい。――ゼファードの髪と瞳の色は、彼の想い人によく似ているからと。
その頃のフェルザードは、まだロゼウスという人物を知らなかった。
彼の中にある皇帝の印象は漠然としすぎていて、実体を伴った肖像にはなっていなかったのだ。美しく冷酷な大輪の薔薇のような皇帝。
フェルザードは自分の容姿に自信がある。老若男女どんな相手でも惹きつけ、手玉に取ることも容易い。だから美しい男だという世の中の皇帝評に対して興味もなければ、違和感も覚えたりはしなかった。端麗な容姿も残酷な性格も、フェルザードにとっては無意味な記号でしかない。
美しさなら自分の方が上だろうし、残酷さだってそうだろう。
二十の国家と一つの民族からなるこの世界を統べる皇帝は、世界を支配しながらもその構成国家の一つ一つに足を運ぶことは滅多にない。お忍びでどこそこに出かけるというのはよくあるらしいが、公式の訪問として王都にやってくることは少ないのだ。国王同士なら友好国の祝い事に際して開かれる夜会などに訪れることもあるだろうが、まさか皇帝を招く程の宴を気軽に開けるような国家はなかった。
フェルザードもその時すでに十七歳の若者であったが、皇帝との面識はなかった。この世界は確かに皇帝によって支えられているが、だからこそ皇帝の手を必要としない安定した国々にまで彼はいちいち視察に来たりはしない。それは逆に名誉なことでもある。
国王の戴冠式くらいには皇帝も顔を出すらしいが、フェルザードは父が国王となってから生まれた。だからそういった機会にロゼウス帝と顔を合わせたこともない。彼と似たような年頃の若者たちもそうだ。
エヴェルシード全体が皇帝の行幸に浮かれている中、フェルザードは非常に冷めた気持ちでいた。
この時点ですでに皇帝に匹敵する力を手にしていたフェルザードにとって、自分が生まれた時から遥か高みに存在していた皇帝の存在など疎ましい以外の何ものでもなかった。現在王太子である分にはともかく、いつか自らが国王になった際には、頭を下げなければいけない相手だというのも不快だ。
だからと言って、そもそも神の託宣などという実体のない選定基準によって定められる皇帝という座を見も知らぬ相手から奪うことに情熱を傾けられるほど、玉座に執着があるわけでもない。
要するに、興味がなかったのだ。とはいえこの頃のフェルザードは、皇帝の存在だけでなくこの世の全てに関心がなかったと言っても過言ではない。思い通りにならないことはないと思っていたが、そもそも思い通りにしたいという欲求そのものが存在しない。
善良さや温厚さでできているわけではない。だからと言って、フェルザードは殊更横暴でも傲慢でもない。
全てを人並以上に万能にこなし、才能の一つがそれに心血を注いだ専門家よりも余程上等な結果を出す。幼い頃より彼はそうだった。そして完璧すぎるからこそ、彼は他人に共感できないし、他人も彼に共感できない。
だから次第に関心を失っていった。この世界に対しても、家族や知人に対しても、自分自身に対しても。それを孤独とすら感じないほどに、ただただ生に対して無関心になっていく。それを嘆くほど傷ついたこともないから、死にたいという思いすら湧き上がらずひたすら心が死んでいく。
どこで何をしようときっと何も変わらない。自分の心を動かすものは何もない。
学友たちからはならばせめて女の一人や二人作れと言われたが、そういう気分にもなれなかった。例え王子という身分を隠して下町に出かけても、フェルザードに口説けない相手はいなかったからだ。身分を知っている貴族令嬢に対してはなおのこと。
どうでもいいような女を口説き落とすのは簡単で、そうでない相手を弄ぶのは自分としても気分が悪い。けれど何があっても振り向かせたいと思うほど、手に入りにくい相手もいなかった。強いて言えば賢い女ほど、フェルザードが自分に本気でないのを知って、笑いながら立つ鳥跡を濁さず彼のもとから去っていく。彼女たちは、フェルザードが決して自分を追いかけてこないのを知っていたのだ。そしてフェルザードの方にも、そんな相手をくだらない駆け引きのためだけに利用する気にはなれなかった。
心の底から欲しいと思うものに出会えないまま、ただ漫然と生きていく。不満はない。そして充足もない。いつも心のどこかが空っぽだ。それでも生きていくには困らない。才能と資質だけなら自分どころか王として国ごと養う余力もある。
皇帝のエヴェルシードへの行幸が決まったのは、フェルザードがそんな虚ろを胸のうちに抱えていた頃だった。
身内には他人に無関心で冷たいと言われる男ではあるが、幸いにもフェルザードは、猫かぶりも完璧だ。度が過ぎると逆にややこしいことになるのである程度節制してはいるが、王城内の人間にはこのろくでもない本性がすでに明らかだった。他国の賓客の前では完璧な王子の仮面を被ってはいるが、城内の使用人や訪れる貴族たちには呆れられ、どこかで恐れられてもいる。
ちょうど良い。皇帝が何のためにまたぞろ気まぐれを起こしたのかは知らないが、こちらが足を運ぶまでもなく向こうが来てくれるというのなら歓迎しよう。
年季の入った猫かぶりに皇帝が騙されるようならそれまでのこと。もしもそれに気づいて、この生への倦怠に対する有力な手段を教えてくれるのならばそれでもよい。それを期待はしないが、もしもそれを教えてくれるようならば、皇帝という存在が伊達ではないことを認められて、自分は少しだけ楽に慣れるのではないか。フェルザードはそんな風に考えた。あるいは本当に自分は皇帝より優れた能力の持ち主で、皇帝に対して幻滅するのかもしれないが。
自分がこの世界で最も完璧な人間だと感じていたフェルザードにとって、張り合えるような相手は皇帝以外にない。
そういう意味では、彼は顔を合わせる前から皇帝という存在に期待をかけていたのだ。
そして、ついにその日はやってくる。
第三十三代皇帝にして、すでに四千年近くこの世界を支配する生ける伝説である薔薇の皇帝ロゼウスが、エヴェルシードに訪れる。
まずは父である国王が歓迎の言葉を述べ、続いてフェルザードが王太子として挨拶をしようと顔を上げたその時――。
「シェリダン……ッ?!」
驚愕の表情で、聞いたこともないような名前を自分に向けて呼ばれる。
何故かむしょうに、腹が立った。
◆◆◆◆◆
十七年の人生においてこれほどまでに怒りを覚えたのは初めてだった。
あの後、父王が立てた挨拶や歓迎の夜会は、全てが延期となった。皇帝についてきたリチャードというエヴェルシード人の帝国宰相が動揺して様子のおかしい皇帝に代わり、挨拶回りをそつなくこなしていたが、すでに噂は王城中に知れ渡っていた。皇帝が再び姿を見せるまでには、約一日を要した。
「すまなかったな。醜態を晒した」
「いえ、そのようなことは……」
なんでも皇帝領からの客人たちの言によると、フェルザードは皇帝のかつての知人であるエヴェルシード人に瓜二つ、生き写しなのだという。
あの時は皇帝だけでなく、その連れの帝国宰相もシルヴァーニ人の騎士も、皆が皆フェルザードと顔を合わせてまるで幽霊を見たかのような反応をしていた。知人と言葉を濁してはいたが、皇帝にとってそれは特別な相手だったのだろう。
そういえば、薔薇皇帝には男色家との噂がある。
それも、特にエヴェルシード人の線の細い美しい少年を好むのだとか。フェルザードが知る限りではそんなこともなかったので周囲も父王もすっかり忘れていたらしいが、千年ぐらい前までは皇帝は定期的にエヴェルシードの愛人を持っていたらしい。それも、皆王族かそれに近い血縁の人間だとか。
しばらくして気持ちの整理がついたのか、皇帝は――ロゼウス陛下はフェルザードにも笑顔を見せてくれるようになった。
けれどフェルザードはすぐに気づいた。
彼が見ているのは、ここにいるフェルザードではない。その容姿を通して、よく似た誰かを思い浮かべて笑顔になるだけなのだ。
顔か。
結局、顔だ。
人は容姿の美醜で相手の価値を判断するのは愚かな行為だという。フェルザードもそれはわかっているつもりだった。その上でなおかつ自分は面食いだという自覚もあるが、容姿の好みでその人物を不相応に扱ったりはしない。そうした意識は徹底している。下町の娼婦や下働きの侍女の容姿ですら、誰かが貶しているのを聞くと嫌な気分になる。倫理や道徳の問題ではなく、それがフェルザードの美学だからだ。
薔薇の皇帝も表向きにはそういう性格だ。むしろ彼は若干女好きとも言っていい男で、相手が女性であれば年端もいかぬ子どもから盛りをとうに過ぎた熟女にまで徹底的に紳士的な態度で接する。逆に男相手だとどんなに優秀で立派な人物でも明らかにつまらなそうに冷淡な態度だ。そういう意味では、わかりやすすぎるほどにわかりやすい。
そして彼は、フェルザードには少し距離を置いて接しているようだった。
父王たちも初日の態度で皇帝にまつわる男色とエヴェルシード愛人の噂を思い出したためか、フェルザードと皇帝を会わせることに否定的だった。フェルザードの容姿はロゼウスの好みどころか、彼が探し求め続けている相手の顔立ちそのままなのだから。
もとよりロゼウスの目的は、ゼファードを見に来ることだと言う。フェルザードと比べれば容姿も能力も数段落ちる平凡な王族である弟は、これまで興味の埒外だった。これから先弟がいくら努力しても、兄であるフェルザードを越えることがないのはすでにわかりきっていた。目障りになるほど自分の邪魔をしなければ生かしておいてやってもいい。フェルザードにとってはその程度の存在でしかなかった弟を、しかし皇帝は可愛がった。
ある日フェルザードは、中庭で皇帝と弟が遊んでいる様子を通りがかった回廊から見かけた。まだ大人の事情などわからない五歳の弟は、最高級の賓客に対する遠慮もなければ臆した様子もなく、皇帝ロゼウスに懐いた。
せがむ弟の小さな体を少女のように華奢な皇帝が抱き上げる。はしゃぐ幼子の額に、花弁のように紅い唇が優しく落とされた。
その光景にフェルザードは目を奪われ――同時に、焼けつくような想いを感じた。
初めて嫉妬という感情を覚えた。それも、年端もいかぬ、自分の敵にもならないような小さな弟相手に。
光と花の溢れる美しい庭。木々の葉が揺れて紡ぐ音楽。漂う甘い香り。風になびく白銀の髪。
何故――何故、あそこにいるのが自分ではないのだろう。
ロゼウスにとってフェルザードの容姿は特別なのかもしれないが、フェルザードにとってもロゼウスは特別だ。少なくともあんなに美しい人間が存在することを、これまでフェルザードは知らなかった。
見た目は想像以上、噂以上、出回る名画家の肖像画も及びもつかないほどに美しい。いくら賛美の言葉を尽くしても足りない程に美しい皇帝。
そして性格は――想像以上というよりは、予想外の性格だった。超然とした天秤の神のような男を思い浮かべていたのに、どちらかと言えば感情的で情緒不安定な年頃の少女と少年の中間のような性格をしていた。これがこの世界の支配者でいいのかと若干不安になるほどに。
けれどその落差こそが、彼の最大の魅力だった。
不安定で未完成であることは、そのものの価値を損なうのではなく、だからこそ人はその不完全さに惹かれるのだと。美術学で習うような言葉の本当の意味を初めて実感として理解する。
その数日後に晩餐の席で皇帝が弟を愛人として皇帝領に連れ帰りたいと言い出した時、フェルザードは青ざめる父王と卒倒しかけた王妃を無視して叫んだ。
「却下です!!」
「何故だ。いいだろう、第二王子なのだし。エヴェルシードには貴殿がいるだろう? 誰より優秀なフェルザード王太子」
フェルザードに近づきたくないがあまりに、この頃のロゼウスはフェルザードの本質など見ようともしていなかった。それはフェルザードにとって屈辱的なことだ。ロゼウスにとってはフェルザード=エヴェルシードという存在は、いくら能力的に優れていても顔以外興味のない路傍の石のような存在だったからだ。
皇帝ロゼウスにとって、フェルザードの優秀さは彼にとって都合よく利用できるものであって、それ以外の何物でもないのだ。羨望も嫉妬も憎悪も焦燥も何もない。
そしてそんな扱いに苛立ったり憤るほどには、フェルザードは出会ったあの瞬間からロゼウスに惹かれていたのだ。
「愛人になるなら私が! 私こそがあなたの愛人になりたいからですよ! 皇帝陛下!!」
「……は?」
「フェルザードぉおおおお!!」
両親は卒倒した。
そして翌日、ロゼウスは従者たちを連れて一言の挨拶もなく皇帝領に逃げ帰った。