薔薇の皇帝 17

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 そしてその後一年に渡り、なんとかロゼウスの愛人になれるよう努力したのだとフェルザードは思い返す。そう――言葉でかき口説くだけでは進展が見られなかったので、手足を縛ったり薬を盛ったりとそれはもういろいろと、涙ぐましい努力を重ねたものだ。
 常識人の弟あたりが聞いたら即座に「それは犯罪だ!」と喚き、両親はまたしても卒倒しそうな内容だが。
 悪夢のような晩餐は主催側の国王と王妃が倒れたことによってなかったことになるかと思われたが、フェルザードは諦めなかったのだ。次の機会にはもう打診ではなく決定事項として自分は皇帝の愛人になると告げ、エヴェルシードを飛び出した。
 エヴェルシードはフェルザードの本拠地だったが、皇帝領は四千年を生きた皇帝の本拠地。エヴェルシードを訪問していた時には皇帝の方もあれで相当猫をかぶっていたらしく、帰りついた途端その態度から遠慮という字が消えた。実力行使で迫るフェルザードを、臣民に対する手加減の欠片もなく本気で拒絶する皇帝。双方の実力とその拮抗故に尋常でない被害が阿鼻叫喚をもたらした。
 それでも最終的にロゼウスの方が折れることになった。
「まったく、お前という奴は」
 心底呆れたように笑いながらも、ロゼウスはついにフェルザードのことを認めてくれた。フェルザードはロゼウスに振り向いてもらおうと画策するうちに、そうした自分の行動が以前にはなかった変化なのだと気づく。
 恋をした。
 最初で、最後の恋だった。
 我を忘れてのめりこみ、醜態を晒し、それでもあきらめることのできないたった一つの想い。
『――と、いうわけです。つまり、神は私を三十三代皇帝よりも強い力を持つ皇帝候補として判断した』
 そして晴れて皇帝の“愛人”と認められた十年後、今、フェルザードは生まれ故郷であるエヴェルシード王国内の砦で、全国民に対して宣言する。
 呪具を破壊しに向かった砦から直接王城に帰還することが困難だと悟ったフェルザードは、作戦を変えることにした。本来ならば王城に戻ってから行うはずだった放送を、ここで行うことにしたのだ。
 幸いにも呪具の設置された砦からそう遠くない場所に、拡声装置を備え付けた、王国軍陣営の砦が存在した。簡単に事情を説明して一斉放送をしたい旨を告げると、砦の責任者は第一王子の意図に気づかず逆らわず、拡声装置を使わせてくれた。
 そこでフェルザードは、自身が次の皇帝であることをついに明かす。
 ロゼウスの力は強い。四千年間この帝国を支配し続けてきたのは伊達ではない。その力の衰えなどまだ誰も知らず、皇帝の退位など誰もが寝耳に水と言った様子だ。
 呆気にとられてフェルザードの言葉に耳を傾ける民たちに、フェルザードは一つずつ丁寧に、これからの自分の展望を語っていく。
 砦内部のざわめきが石床から足下に響くようだった。フェルザードは淡々と告げる。
『――以上が、私のこれからの展望。そして、このエヴェルシードの王位を継げない理由だ』
 皇帝と国王を兼任することはできない。それは初代皇帝の特権であり、フェルザードにはその意志がないからでもある。
 この世界の全ての民を平等に裁く皇帝にはなれても、他国を攻め滅ぼしてもエヴェルシードのことだけを考える、そんな国王には、フェルザードはなれない。それができるのはゼファードだ。だからフェルザードは弟を王太子としてずっと定めてきた。
 ゼファードを次期国王にと示したのはフェルザード。何故なら、ゼファードが国王として戴冠を迎えるのはロゼウスが退位し、世界皇帝がフェルザードの代になってからの話なのだ。ただそれを十年前から明かすわけにはいかなかったので、ロゼウスがゼファードを国王に「望んでいる」という曖昧な状態を造り上げた。
 ロゼウスはゼファードを国王に「望んでいる」。
 フェルザードにとっては、次期エヴェルシード国王はゼファード。
 決定事項だ。だからこそロゼウスも理由を曖昧にしながら、ゼファードが次の王であるという態度を崩さなかった。
 だがその取り繕った体裁も、もう必要ではなくなる。
 選定紋章印が現れてから遅くても数年以内に現皇帝は退位し、次の皇帝が即位する。
 その場合多くは先代皇帝の死という形で幕を閉じるが、ロゼウスは新皇帝フェルザードの選定者。フェルザードの治世が終わるまで死ぬことはない。
 もっとも、その性質も今となっては怪しいものだ。
 ロゼウスという先代皇帝の育んだ世界をゆりかごにして、次代皇帝は神の大地を飛び出す。フェルザードはすでにロゼウスの力を超えた。彼のために生まれた選定者皇帝の力をも超える。それはさながら、子が親の力を越えるように。
 本当はフェルザードという皇帝にとって、もうロゼウスは必要ではないのだ。それは彼に選定者が不要であるということ。
 この十年の間に、二人は帝国の将来について何度も話し合ってきた。そして、わかっていたことがある。
 だから、最初に約束をした。
『さて、ここからは私信になりますが、――三十三代薔薇の皇帝ロゼウス陛下』
 十年。
 約束の十年。ゼファードが国王を継ぐに相応しい力や人格へ向けて成長する十年。ロゼウスの手の甲に蒼い炎の選定紋章印が現れるまでの十年。
 その、十年が過ぎたら。

『別れましょう』

 世界から音が消える。
『フェルザード=エヴェルシードはロゼウス=ローゼンティアの愛人を辞めます。別れましょう』
 別の場所――恐らく王城で拡声装置を準備する雑音が流れてきた。すぐにロゼウスからの返答がある。
『ああ。さようなら、フェルザード。今まで楽しかったよ』
『ちょ、ま、待てよ! お前ら!』
 どうやらロゼウスと同じ場所にいたらしい、動揺しきりのゼファードの声が割り込む。
『別れるって、だってフェザーは……!!』
 十年前の騒動は、今回の謀反を除けばエヴェルシード国民の記憶に最も新しい大騒動だ。
 誰の目から見ても能力的に完璧な(人格はともかく)王太子が、よりにもよって四千年を生きる世界皇帝という同性の愛人になりたいなどと言いだして、国を飛び出したのだ。
 しかも最初は断られたというのに、後に執念で本当に愛人の座に収まってしまったのだからなおさらだ。
 その立場を、フェルザードは捨てる。
『フェザーはロゼウスが好きなんだろ! 皇帝とか王子とか関係ない! 嫌いあってるわけでもない! なんで今更別れるなんて言うんだよ!』
『――それが必要なことだからだ』
 言ったのは、フェルザードではなくロゼウスの方だった。

『俺が望むのは、安定と維持。できる限りの平穏をそのまま守り続けること。進化も発展もいらない。危険な技術や思想は抑制し、今の日常を続けさせることが俺の願い。三十三代皇帝としての決意。そして、帝位とは関係ない俺自身の生き方』

 平穏な日常を他者の手で奪われ、ある日突然足下の地面がなくなったかのような恐怖を知るロゼウスにとって、変化とは忌むべきもの。もう何も喪わない、奪わないために、彼は時計の針を留める停滞の皇帝となった。
 けれど。

『私が望むのは、進歩と革命。今ここにある世界から、よりよいものを生み出し発展させ続けること。時に痛みや嘆きを伴おうとも、前に進むことをやめないこと。それが私の生き方であり、三十四代皇帝として、この世界の全ての人々と共有していきたい願い』

 ロゼウスの望んだ平和で停滞した世界で生まれ育ち、その閉塞の中で生きたフェルザードにとって、何も進化しない発展しない世界では充足できない。

『ロゼウス=ローゼンティア陛下。私は今を生き、未来を望みます。だから過去を見つめ、過去に留まり続けるあなたとは、一緒にいられない』

 皇帝の居城の地下にある部屋。薄暗い氷室の中の硝子の棺。
 誰も彼を超えることはできない。
 だから、別れるしかないのだと。
『――ああ。そうだな。フェルザード。お前は私の皇帝。お前を皇帝にするのが、選定者たる私の存在理由。そしてお前が無事に皇帝として即位するようになれば』
 ロゼウスが静かに笑う。皇帝はこの日が来ることを、ずっと前から知っていたのだ。
『私はもはや、この世界に不要の存在だ』
 全知全能といっても過言でない。歴代の皇帝の中でも群を抜いて優秀だとされる薔薇の皇帝。
 しかしその存在は、もうこれからの世界には必要ない。

『――さようなら、私の皇帝陛下』

 拡声装置のある部屋にはフェルザード一人だった。
 身を切るような想いで、その言葉を吐きだすと同時にフェルザードは装置の接続を解除する。

 滑らかな白い頬を一筋、光の滴が滑っていった。

 ◆◆◆◆◆

 装置の接続を解除してから、ロゼウスはそう呟いた。
「さようなら。フェルザード。……愛している」
「ろ、ロゼウス。お前……」
 王弟の確保を駆け付けた部下に託し、ここまでロゼウスについてきたゼファードが声をかけようとする。だが彼が口にできるのは意味もないような単語の羅列だけであって、言葉をかけると称せられるまでにはいたらなかった。
「なんで、どうして……」
 自分の方が泣きそうなゼファードに、ロゼウスは淡く微笑みかける。
「フェザーのこと、もう好きじゃなくなくなったのか」
「そうではないよ、ゼファー。俺は今でも彼のことが好きだよ。でも、だからこそ。フェルザード帝が彼の望む帝国を造り上げるために、俺はこの世界から消えなければならない」
「そんなの、わかんないよ!!」
 いつもより更に子どもっぽい言動で、ゼファードはロゼウスに抱きついた。さして身長の変わらない少年を、ロゼウスはあやすようにその背を軽く叩きながら慰めた。
 そしてこの十年に想いを馳せる――。

 恋をした。
 今までとは全く違う恋を。
 これまで何度も人を好きになってきたし、今でも愛している人もたくさんいる。
 王子時代の婚約者への親しみや自らが初恋だと感じたカミラへの愛情。兄やシェリダンへの執着。その全てが偽りだったなどという気はない。
 けれどこれほどに甘く美しく、胸が締め付けられるような想いは初めてだ。そしてこれで最後だろう。
 始まりは突拍子もなかった。彼に別の人物を重ねて見ていたことも否定しない。けれどあんなにも個性的な人物の性格をいつまでも無視できるものではない。ロゼウスはすぐに、フェルザードを“シェリダンによく似た人物”ではなく、“フェルザード=エヴェルシード”として見ることになった。
 フェルザードはもちろん自分に四千年前の王を重ねられることに当初から不快感を示したが、だからそれをやめろとは言わなかった。彼は、すぐに自分という人間をロゼウスに認めさせると朗らかに笑った。
 自信家で残酷で傲慢。それがフェルザード=エヴェルシード。その命はロゼウスにも、四千年前の知人たちにもない生命力に溢れている。
 愛人なら何人も持った。数えきれないほどの相手と肌を重ねてきた。一番に欲しい相手は今でも別の男。それでも。
 恋、と言えるものをしたことはなかった。四千年前のあれは、そう綺麗に言い表せる感情などではない。だから醜い感情を相手に押し付けるままに、悲惨な結末を迎えざるを得なかった。
 でも今、ロゼウスはフェルザードの手を離す。
 愛している。愛している――だから、彼にこんなところで潰れてほしくない。
 だから、……別れるしかないのだ。
「私はフェルザードの選定者、私は彼のために生まれてきた。フェルザードだけが、私の皇帝」
 自分の、自分だけの皇帝。
 自らが皇帝として生きてきた時間の長いロゼウスには、自分がそんな風に想う時が来るなど思いもしていなかった。
 だけど今、彼と共に過ごした十年を思い返しながら考える。

 恋をした。
 最初で、最後の恋だった。
 親愛なる私の皇帝陛下。私のフェルザード=エヴェルシード。
 お前だけが、最初で最後の恋人だ。

 フェルザードが次の皇帝だと知り、ロゼウスはようやく、自らの生を否定することを辞めた。
 自分がこれまでみっともなく生き永らえてきたその理由がフェルザードを皇帝にするためだったと知って、ようやくこの命を認めることができた。今なら四千年前、自分に殺されたあの男が、最終決戦の直前にかけた言葉の意味もわかるような気がする。
 愛している。愛している。――だから、別れの言葉も受け入れられる。それが彼のためになるのならば。
「さようなら、私の皇帝陛下。――これで、良かったんだよ」
 泣き出したゼファードをあやすロゼウスの手の甲には、蒼い炎の紋章がしっかりと浮かび上がっている。

 時計塔の歯車が廻り、針を動かす。時を刻み続ける。止まらない運命。終わりへと向かう、自分という名の物語。

 ――いずれ世界は変革を迎える。