薔薇の皇帝 18

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「久しぶりだな」
 真紅の瞳を愕然と見開いて、信じられない面持ちで彼の名を呼ぶ。
 見慣れた顔の亜麻色の髪の少年が、今はもっと見慣れた相手にしか見えなかった。
「シェ、リダン?」
 まさか。そんな馬鹿な。そんなことが――。
 混乱するロゼウスを我に帰したのは、ゼファードの悲鳴だった。
「叔父上!」
 亜麻色の髪の少年に縋るようにして支えられていたシアングリード大公の体が崩れ落ちる。力を失った指先が自然と彼の服から離れ、滑り落ちたのだ。横倒しになったその体に生気はなく、静かに事切れている。
「……殺したんだな」
「ああ」
 再会を認識してからの第一声は、そうして酷く殺伐としたものとなった。
「ルルティス! お前にここまでしてくれなんて頼んでない! そもそもどうして――」
 まだ事態のわかっていないゼファードは血濡れの剣を引っ提げたままのシェリダンに詰め寄りかけたが、途中で様子のおかしいことに気づいたようだ。まじまじとその顔を見つめたあげく、どこか間抜けな問いかけを発する。
「……誰?」
 同じ朱金の瞳が相対し、一方には困惑が、一方には無関心が浮かぶ。
「お前は、誰だ。ルルティスの顔してるけど……ルルティスじゃ、ない?」
「そうだ。私はルルティス=ランシェットではない。この体の正当な持ち主である彼の意識は今、深手を負って眠っている」
 自分の胸ぐらを掴むゼファードの手を、軽く振り払った。平素のルルティスは浮かべそうもないその鋭い目つきに、ゼファードがますます困惑する。
 何せ皇帝や王子がそのような態度なので、周囲の兵士たちも迂闊に動けない。睨み合う三者と事切れた王弟の死体。しなければならないことは山ほどあるはずなのだが、誰一人として身じろぎすることもできなかった。
 亜麻色の髪の少年は、彼のものではない口調と目つきで、堂々と言い放った。

「私はシェリダン=エヴェルシード。かつてそこのロゼウス=ローゼンティアに殺された、エヴェルシードの王」

 ◆◆◆◆◆

 詳しい話は関係者一同が全て戻ってきてからということになった。
 何より今はしなければならないことが多すぎる。王弟を旗印とした謀反は一応の収束を迎えたが、まだまだやらなければいけないことは山積みだ。ゼファードがいろいろと質問したい気持ちを抑え込んで周囲に指示を出す間、ロゼウスたち皇帝領の面々とシェリダンは、謁見の間に押し込められた。
「――はい、これで外傷は完璧に治療したよ」
 あの後、すぐさま呼び戻されたアドニスことハデスは、自分の方こそ今にも死にそうな顔でシェリダンもといルルティスの肉体の治療を始めた。
 どれだけ脳内に嵐が吹き荒れていても、とりあえず仕事に手を付けられるのが皇帝領の面々の長所である。しかしロゼウスやローラ、リチャードたちにとって、今はこれといった仕事はない。エヴェルシード王城内は混乱状態が続き彼らの能力をもってすればできることはいろいろあるだろうが、それはしない方がいいと皆がわかっている。今この混乱はあくまでもエヴェルシード王国の人間が、自分たちの手で片づけるべき問題だからだ。
 そういうわけでロゼウスたちは、遠慮なく「シェリダン」として復活した「ルルティス」の対応に向き合うことができた。
 ハデスに治療させた怪我との関連もあり、シェリダンは何故今こういった状況に陥っているのかを一通り説明する。
 ルルティスが呪具破壊任務に向かった先で瀕死の重傷を負い、それを救うために魂の深層からシェリダンが出てきたこと。
 それはつまり、ルルティス=ランシェットこそがシェリダン=エヴェルシードの生まれ変わりであるという事実を明かすことであった。
「……薄々、そうじゃないかとは思っていたけど」
 不親切で要点しか明かさない短い説明を聞き終えて言葉を失う面々の中、まず最初に言葉を発したのはハデスだった。
「だろうな。お前にはばれていると思っていた」
「僕はこれでも魔術師だからね。でも、言わずに済むなら、それでいいと思っていたよ」
 玉座に主のいない謁見の間で、四千年の時を経て彼らはついに再会する。ローラもエチエンヌもリチャードも涙ぐんでいて、今にもシェリダンに飛びつきそうだ。
 ジャスパーは不機嫌な顔つきで立っている。
 アルジャンティアはここにはいない。皇帝の娘は紛れもなくロゼウスの血縁だが、四千年前の出来事よりはこれからのエヴェルシードや帝国の未来に携わるべき人間なので、皇帝領の面々では唯一エヴェルシード内の仕事に関わっているのだ。
 それと本来はハデスもアドニスとしてゼファードを助ける予定だったのだが、シェリダンの治療のために駆り出された。
 シェリダンが意志と若干の反則技で抑え込むにも限界だった傷の方は、確かに致命傷と言えた。深手を負ったルルティスの肉体を癒すためには、ただの医者ではなく治療のできる魔術師が必要だった。
 ようやく傷の治療が終わり、シェリダンの方も血まみれの衣装を脱いでまともな服に着替えたところで、あらためて彼らは「再会」した。
「シェリダン様……!!」
 ローラがその胸に飛び込む。リチャードは涙ぐみながらかつて失ったはずの主人を見つめ、エチエンヌも姉に続いて飛びつきたそうにしているが、何かを躊躇しているようでロゼウスから離れない。
「シェリダン様! シェリダン様! シェリダン様……ッ!!」
 一番感情表現の激しいローラがシェリダンにしがみつき、何度も何度もその名を呼ぶ。苦笑を浮かべてそれを受け止めていたシェリダンが、ふいにスッと青ざめた。
「……ローラ。少し離れてくれ」
「シェリダン様? どうしたのです? お顔の色が――。や、やはり先程の傷がまだ治りきっていないのでは!」
 顔色の悪い主の様子に、その元侍女は酷く動揺した様子でおろおろと彼の体調を確認する。その台詞に「ちゃんと治療したってば失礼な」と小さな声でぶつぶつぼやくハデスには、シェリダンが突然体調を崩した理由がすでにわかっているようだった。
 ロゼウスにも薄々察しはついている。というか、“それ”しか思い浮かばない。
「いや、お前あの頃と違って成長した姿だから胸が――というか、全体的な“女らしさ”が……気持ち悪い」
 やはり“それ”であった。口元を抑えてしゃがみこむシェリダンにローラとエチエンヌの双子がそっくりな様子でがっくりと床に崩れ落ち、身を乗り出しかけていたリチャードも前のめりになる。
「ってシェリダン様! 昔から知っている容姿の私でも駄目なのですか! ああもう! 世の男どもはこの顔で笑えばころっと騙されてくれるというのに、あああなたって人は――!!」
 復活したローラがきーきー喚く背後で、ハデスとロゼウスはどうにも気の抜けた会話を交わす。
「あー、やっぱりね」
「お前も気づいていたか」
「あいつ本当に胸のある女駄目なんだよね。前に娼館連れて行こうとしたときに店の門くぐる前に吐いた」
「公的な場所ではしっかりと対応してたように見えたのに、男としては本当に残念な奴だな……」
 悪友の語るいかにもありがちなエピソードに、ロゼウスは苦笑しながら溜息をついた。
「でも――そうだな。あれは間違いなくシェリダンなんだな。ルルティスじゃない」
 思い返せばチェスアトール人の少年学者には、シェリダンのシェリダンらしさの真髄でもあるこの「女嫌い」という性質がなかったのだ。ルルティスは男女問わず誰とでも喋り、仲良くしていた。ロゼウスの愛人志願者ではあったが、別に女性に興味がなかったわけでもなさそうだ。人を選ぶを通り越して選んだ人間も近寄らせないようなシェリダンとは違う。
 だからあれは、本当にシェリダンなのだ。もう間違いようもない。
「それにしても、あの姿でもないに等しいようなローラの胸でも駄目かぁ」
 女性の好みはどちらかと言わずとも巨乳美少女が好きなロゼウスとしては涙を禁じ得ない。ハデスもそこは巨乳の姉を持つシスコンなので、ツルペタの幼女、というより女らしさのない女でないと傍に立つのすら嫌だというシェリダンの感覚は理解しがたいらしい。
「なんかあなた方さっきからさりげなく失礼なことおっしゃってませんっ?!」
 振り返ったローラにキッと睨み付けられる。そのまま彼女はずんずんとロゼウスに近づくと、何かを求めるように手を差し出した。
「戻してください。あの時の姿に」
「はいはい、わかってるよ」
 四千年前、ローラとエチエンヌの双子は十五歳の少年少女だったが、幼い頃に乱用された薬の影響で見た目は十二歳相当にしか見えなかった。少年であるエチエンヌと見分けがつかないような姿だったローラだからこそ女嫌いのシェリダンでも傍においていたという事情があるが、双子は心の中では大人として成長した外見をも欲しており、その願いはシェリダンがいなくなり、ロゼウスが皇帝になってから半分だけ叶えられた。
 今、ローラはシェリダンの近くに寄るために、あれだけ欲した女性らしい外見をあえて捨てる。一時的な処置ではあるが、その忠誠心は確かなものだ。
 身長が縮み、体の柔らかさが変化して、未発達な子どもの肉体に変わる。ついでに衣装の方もあの頃エヴェルシード王の小間使いとして来ていた服に変化させた。
 四千年を過ごした狂王妃の姿から幼い外見に戻ったローラを見て若干体調の戻ったらしいローラが、今度こそ遠慮なくシェリダンに抱きつく。シェリダンも今度は気分を崩さずにその突進を受け止めることができた。
「エチエンヌ」
 ロゼウスは彼らの近くで姉とかつての主君の様子をじっと見ていた双子の片割れに声をかけた。
「お前も昔みたいに気兼ねなくシェリダンに構われたいんだろう。姿を戻してやる」
「で、でも」
 誰が見てもそう思っていることは一目瞭然なエチエンヌはしかし何かを躊躇うようにロゼウスの手から逃れた。
「僕まであっちに行ったら、お前が一人になっちゃうよ」
 エチエンヌはロゼウスの護衛こと“碧の騎士”。シェリダンのことを気にしているのはもちろんだが、それでも彼はロゼウスを守らなければならない。それでこれまで姉のようには駆けて行かずに留まり続けたのだと、この四千年間傍にいた面差しで訴える。
 だがロゼウスは、そんなエチエンヌの気遣いや躊躇いを振り払った。自分とほとんど目線の変わらぬ金髪の頭を撫でるようにして告げる。
「気にするな」
 エチエンヌの姿も縮み、今よりも更に姉とそっくりだった子ども時代へと変化した。
「皇帝である私は最初から独りであり、そして最後まで独り。それが宿命だ」
 微笑んでロゼウスはエチエンヌを前に押し出し、ついには彼もシェリダンのもとへ駆けて行った。
 エヴェルシードの謁見の間の様子は四千年前とほとんど変わっていない。シェリダンの髪の色が違うことを除けば、まるであの時から変わっていないような光景が目の前に広がる。
「いいのか?」
「ハデス、お前こそ行かないのか?」
「僕を彼らと一緒にしないでくれ。落ち着いたらゆっくり話す。それで十分だ。でもお前は……」
「お兄様……」
 ハデスとジャスパー、二人分の気遣う視線に見送られ、ロゼウスは踵を返す。
「いいんだ。俺だってそういう柄じゃない。何より、俺とあいつの間は因縁だらけだ。一度話し出すと長くなるだろう。それに、いろいろとやることもあるし」
 ロゼウスは謁見の間の入り口を振り返った。そこには一通り作業を終えたらしい三人の姿があった。
 アルジャンティアにゼファード。それからいつの間にか戻ってきたらしいフェルザード。三人共事情を聞かされた上に、今のやりとりの一部始終も見ていたのだろう、複雑な顔をしている。
「ろ、ロゼウス。お前……」
 彼ら現代組にとっては、シェリダンという男は「ロゼウスの想い人」なのだ。しかし実際のシェリダンはかつての恋人を放って従者や小間使いたちの方を気遣っている。彼らもそれが当たり前のようで、平然と後回しにされたロゼウスに見向きもしない。
 それはゼファードやアルジャンティアには理解できない光景だ。
「別れるの、あと一週間くらいあとにしておくべきでしたかね」
 ハデスに次いで遠出を単身で行い、とんぼ返りで王城に戻ってきたために疲れているはずのフェルザードがロゼウスに声をかける。
「……そうすれば、私は今もあなたの恋人として、そんな顔のあなたを独りにさせることはなかったのに」
「俺、今どんな顔をしてる?」
「いつもと変わりません。――とても四千年越しに想い人と再会できた人の顔ではありません」
「そうだろうな」
 微笑みながらロゼウスは彼らの横を通り過ぎ、扉から外に出た。フェルザードが帝位継承者として次代の皇位を宣言したとはいえ、いまだこの帝国の玉座は彼のもの。エヴェルシード勢が落ち着いてきて皇帝の訪問を受け入れる体勢が整えば、やるべきことはいくらでもあった。
 仕事の残っている彼らは、謁見の間を後にする。
 ロゼウスの後ろ姿を、シェリダンは一瞬だけ視線を上げて見ていた。けれど誰もが、それに気づかない振りで静かに扉を閉めた。