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「さてさて、そろそろ僕も混ぜてもらおうかね」
しばし窓際で主従の感動の再会を傍観していたハデスが、ローラやエチエンヌの涙も一通り落ち着いた頃と見て話に入ってきた。
「本当に久しぶりだ、シェリダン。とは言っても、今の君は純粋にあのままの君ってわけじゃないんだろうけど」
「え?」
その言葉に強い反応を見せたのは、シェリダン本人よりも彼の周りを固めている従者たちの方だった。ローラとエチエンヌは敵意を、リチャードは不安を抱えた瞳でハデスの方を見る。
元よりこの元皇弟は、彼らの主人を一度は裏切った人間だった。今は皇帝ロゼウスとの契約によりその償いのために生かされているにすぎず、土台信用する方が無理な話。
ハデス自身もそうわかっているから何も言わない。シェリダンという人物の前では、彼らの心は容易く過去に――四千年前、彼らがまだ皇帝領の住人ではなかった頃に戻る。
だが、いつまでもそのままでないことは彼らにもわかっていた。誰も口には出さないが、これは限られた時間だけに実現する夢の逢瀬。
そうでなければ、失われる人がいる。
「今の君は、その“魂”に刻まれた記録の一部がルルティス=ランシェットの精神の傷から表出している状態にすぎない。だから不安定で、いつ消えるかもわからない」
七千年以上前、この帝国が成立した時から罪人として在り続ける黒の末裔は魂を見抜くことができる。
「そして今の君は――」
◆◆◆◆◆
普段使わないが一応存在している「ゼファードの執務室」は何故か今日に限って満員御礼だった。
「なんでみんな俺のとこに来るんだ! 狭いだろーが!」
「えー、だってここが一番居心地いいんだもの」
部屋の主であるゼファードの抗議に、すぐさま切り替えしてきたのがアルジャンティアだ。本来部外者であるはずの少女は健気にも、自分が関わった部分だけでもいいから手伝うと、ドレスの袖を腕まくりしてまで書類仕事を買って出ている。
「う、そ、それなら――」
「そうだよゼファード。みんなお前の傍が一番居心地がいいんだよ」
「お前は自分の部屋に帰ればいいだけだろーがよっ! フェザー!!」
アルジャンティアの言葉は許容しても、次代皇帝であることを暴露した兄王子の悪ふざけにまで寛大にはなれない。ゼファードはぎゃあぎゃあ喚くが、もちろんフェルザードがそんな様子を気にするはずもなし。
「それに私たち全員がこれ見よがしにばらばらの場所でさも忙しい素振りで仕事をしていたら、城内が余計に不安に陥るだろう。私たちは今執務ができる状態でない陛下の代わりに、集まって無駄口を叩く傍ら余裕で作業を進めるくらいでちょうどいいんだよ。今はどうせ非常事態の続き兼異常事態なんだから」
「あ……」
父親の話題になり、ゼファードは目に見えてしゅんとした。
「そう、だな」
現エヴェルシード国王。彼はフェルザードとゼファード兄弟の父親にして、シアングリード公爵の兄。
謀反のこと、王太子と弟の決闘のこと、次代皇帝となることを宣言した第一王子のこと。彼が頭を悩ませる要素などいくらでもあるが、それだけではなく。
彼は、ゼファードと決闘し、ルルティス(シェリダン)に殺された男の兄なのだ。反逆者であるために盛大な葬儀などは執り行われないが、今回の場合は見せしめとして死体を晒す必要もない。ただ、王族の扱いとも思えぬ小さな牢獄のような部屋に安置された遺体の傍で、国王は弟の死を悼んでいる。
決して仲の良い兄弟ではなかったが、二人はそれでも兄と弟であった。この辺りが甘いと言われ、息子たちに才能で圧倒的に劣ると言われている国王だが、その甘さがなければ自分たちはこのように育たなかっただろうと彼の王子たちは知っている。
自分に反逆し、息子と敵対して彼らを殺そうとした弟の死を、彼はどのような想いで見つめていることだろう。
それについては、戦いを始めたその時から自らの死とは別に覚悟しておくべき事柄だった。そしてこの国は今の時点でもう十分に、フェルザードやゼファードと言った次代の中核となる面々頼りで動いている。
弟を殺した少年――今はルルティスの体に復活したシェリダンのことを、国王は何も聞かなかった。それは、すでに事情を知っている様子の息子たちと現皇帝ロゼウスに任せるべき事柄だろうと、取り乱すこともなく事実を受け止めた。
だからその息子たちも、父親の内面に踏み込むことはできない。今頃は王妃が寄り添って夫を慰めていることだろう。
だからこそゼファードたちはここで書類仕事なのだ。父親が悲しみに浸る時間を捻出することくらいは、彼ら兄弟の役目だ。
「それにしても、まさかお父様がフェザー王子の選定者だなんて」
一番書かなければいけない書類の量が少ないアルジャンティアが、ペンを止めてまじまじと父親であるロゼウスをを見つめる。他の者たちは彼女の十倍は書かねばならない書類があるので、ペンは止めないまま口を開く。
ロゼウスは一度披露した“フェルザード帝の選定者”の衣装から、いつも通りの皇帝の衣装に戻っていた。しかし、その手の甲にある青い選定紋章印は露わにされたままだ。もう隠す必要もないから、片手袋をやめたのだ。
「皇帝兼選定者って、そんなのアリなの?」
「アリと言われても、現にそうだからなぁ……ああ、そうそう。世間一般には知られていないけれど、世の中の皇帝にはもう一人“皇帝兼選定者”がいるよ」
「え?! 嘘! そんなの知らないわよ! ねぇ、誰っ、誰なの? お父様!」
初めて耳にする話に、アルジャンティアはその特徴的な目を丸くして驚いた。彼女は父親が皇帝であり自身も皇帝領で育っただけあって、歴代皇帝に関する知識は豊富な方だ。しかし、皇帝と選定者を兼任する例があったなどとはこれまで一度も聞いたことがない。
「お兄様、そのことは……」
「ああ、話すと長くなるな。だから今日はここでおしまいだ。また今度聞かせてあげるよ」
「えー! いつもそう言ってごまかしてばかりじゃない」
実際初代皇帝となるはずだったシェスラート=ローゼンティアがロゼッテ=エヴェルシードに殺され、彼が皇帝“シェスラート=エヴェルシード”として即位した際にすでに亡くなっているにも関わらず選定者とされたことなど、詳しく話せば長くなりすぎる。
それに、言葉は悪いが彼らの話はすでに終わったのだ。もともと皇帝たる資格を持っていたローゼンティアではなく、彼を愛したエヴェルシードがその命ごと資格を奪いながら、立派に帝国の初代皇帝を勤めあげたこと。それがこの帝国の指針を決め、実際に皇帝たる選定者よりなお優れた皇帝が生まれるという輪が、ロゼウスとフェルザードの代になって実現した。
神の思惑の捩じれは正され、そして人類はようやく解放される。
とはいえいきなりこれらのことを話せば周囲が混乱するのは間違いないし、何より帝国の成立に関することは繊細な話題だ。諌めるようにそっと耳打ちしてきたジャスパーに応えて話題を打ち切ろうとしたロゼウスだったが、この人がキレた。
「だー!! やっぱうるせぇよお前ら! 気が散る!!」
「ゼファードだってうるさいじゃない」
部屋の主であるゼファードは、兄の説得もあって集まって執務を容認していた。しかしここまで意味深な話題をさらりと流された上にアルジャンティアが暇そうに騒ぐとあっては、やはり集中するものもできない。
「そもそも、なんでロゼウスまでこんな仕事してんだよ。俺、普段はお前が書類仕事してる姿なんて見ないぞ」
「ああ、それはリチャードが……」
つい口に昇らせた名に、室内の空気が一変する。
帝国宰相リチャード。彼は今、シェリダンの面倒を見るためにと宰相としての責務を放り出してそのそばについているのだ。
あえて避けていた話題に見事ぶちあたってしまったことを感じて、全員が内心で溜息をついた。これを気にしないままでいろというのも難しい。
「……何やってんだよ、あの人は」
「そう言ってやるな。もともとリチャードはシェリダンの従者だったんだ」
「でも今は、あんたの宰相だろ」
「シェリダンがいなくなった後、無理に彼らを引きとめたのは俺の方で」
「でも“今”は、あんたの宰相だろ!」
ゼファードは立ち上がり、机に手のひらを叩きつけた。紙の山が宙へと舞い上がり、公的重要書類が何枚もひらひらと床に落ちる。
「どうしてそんな風なんだよ! どうしてお前は何も言わないんだ!」
「ゼファード、やめなさい」
フェルザードが兄として弟を止めようとするが、ゼファードはまっすぐにロゼウスを睨み付けたまま、その眼をそらすことはない。
朱金の瞳。黄金の琥珀の中で炎が燃えているかのような、とても美しい色。四千年の昔からロゼウスの胸を焦がす。その瞳と同じものを持って生まれた少年は、けれど彼とはまったく違う強さを持っている。
「あの男は、あんたの好きな相手なんだろ! なのにどうして、あんたたちは抱き合うことも、涙を流すこともしないんだ! 四千年間ずっと待ってたくせに!」
「……ゼファード。俺は――」
「さっさと会って、恨み言でもなんでもぶつけて、そうしてあいつが消えるのを惜しんでやれよ! それで早くあいつを元のルルティスに戻して、皇帝領の連中もいつも通りに戻してやれよ!」
ゼファードはそれが正しいとなんら信じて疑わない。そして実際に、それは正しい。
四千年前に死んだ人間を待ち続けていたという彼らの方が異常なのだ。
「ゼファード、陛下には陛下のお気持ちがある」
「じゃあ俺たちの気持ちはどうなるんだよ!」
宥めようとする兄の手を振り払い、ゼファードは叫んだ。
「俺はシェリダン=エヴェルシードなんて知らない! 俺が知っているのはルルティスだ! 俺の友人のルルティス=ランシェットだ! 俺はルルティスに頼みごとをして死ぬほどの怪我を負わせたのに、まだあいつに会ってない! 謝罪も感謝も、何も伝えられてない!」
半分涙目になって言い募るゼファードの言葉に、ロゼウスは胸を衝かれた。
そう、そうだ。
ロゼウスたちがシェリダンのことを想うのと同様に、ルルティスのことを想う者も当然いる。それどころか、シェリダンを想う者よりはルルティスを大切に想っている者の方が確実に多いだろう。
この時代に生きているのはシェリダンではなく、ルルティスなのだから。
本当にルルティスが戻ってくるのか、ゼファードたちだって不安なのだ。しかしロゼウスやローラたちがあまりにもシェリダンの復活を喜ぶから、その喜びに水を差すことはしなかった。
アルジャンティアがそっと近づいて、俯いて顔を覆うゼファードをそっと抱き寄せた。彼女は父母から寝物語にシェリダンの話を聞かされて憧れていたが、心情としてはゼファードに近い。憧れのシェリダン=エヴェルシードには会ってみたかったが、それがルルティスの命と引き換えであるくらいなら、夢物語は夢のままで構わなかった。
大切な人がいる。
その二人は別人だ。
だが完全な別人ではない。生まれも性格もまったく違うが、魂だけは共通にして共有。
二人が同時に存在することはない。
「……ゼファード」
「会いたいんだ、ルルティスに。でもお前たちがずっとずっと、あの男に会いたがってたのも知ってる」
そして問題は膠着状態に陥る。
いずれは解決しなければならない問題ではあるが、今解決できるようなものではない。これまでの四千年間に比べれば瞬く間に過ぎる日々であろうが、それでも数日は猶予があると。
その時までには決めなくてはならない。
シェリダンか、ルルティスか。
それとももう全てを諦めるか……?
フェルザードという次代皇帝がいる以上、ロゼウスは恐らく今なら死ぬことができる。とはいえフェルザードは七千年続く帝国の、四千年を治めた皇帝の後を継ぐ男だ。その苦労は並大抵の苦労とは比べ物にもならないだろう。退位してももう少しだけ選定者としてフェルザードの手伝いをしてから消えようと考えていたロゼウスだが、それも今はわからなくなった。
強い誘惑が自分を支配している。その誘惑から、どうやっても逃れることができない。
不真面目の代名詞皇帝でもあるロゼウスは、とりあえず結論を後回しにすることにした。具体的には槍玉にあげられる生贄を突っ込んで、この状況を打開しようとしたのだ。
「ところでゼファード、アドニスに会わなくていいのか? あいつもこちらに戻ってきているぞ」
その生贄とはもちろんハデスである。現時点で他にこいつならどうなってもいいという相手はほとんどいない。状況が違えばジャスパーもその役目を任されることがあるだろうが、今は違う。
父親に賛同するわけではないだろうが、折しもアルジャンティアが爆弾となる事実を明かす。アドニスと同じ頃に王城に戻ってきた彼女は、金髪碧眼の少年が黒髪黒瞳の魔術師となるところを確かに目撃していたのだ。
「そういえば、あの人って――」
その結果。
「シェリダン=エヴェルシード! この俺、ゼファード=エヴェルシードと勝負しろ!」
なんでそうなった、と全員が頭を抱える事態となった。