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その時、アドニスことハデスは変化を解き、シェリダンと話をしていた。
「そう、やはりそういうものなんだ」
いつかのようにローラやリチャードが茶の支度をし、主人が寛げる空間を整える。さすがにいつまでも謁見の間に居座るのも居心地悪かろうと、近くの部屋を提供され、彼らはそこで話をしていた。
「ではやはり皇帝が口にする“神”というのは――」
「ああ、お前の推測で恐らく正しいと思うぞ」
ハデスがシェリダンと始めた会話は、魔術のことも死後の世界もさっぱりな三人の従者にとっては、到底ついていけるようなものではなかった。だからこそ彼らは遥か昔の「以前」のように、従者としての働きに徹していた。
シェリダンもといルルティスの肉体を治療したハデスは、その際に現在のシェリダンの状態がいかに特殊かをも把握していた。と、言うよりも、その知識がなければシェリダンの治療をすることはできなかっただろう。前世の人格であるシェリダンが目覚めている状態のルルティスは、常人に魔術をかけるのとは違う話になる。
この四千年間、ハデスは何もただロゼウスの使い走りに終始したわけではない。アドニスと変装偽名を使い各地を旅していたのは、新しい魔術の知識を得るため。
もともとシェリダン・ロゼウスたちより百歳近く年上だったハデスがその百年でも得ることのできなかった禁術を探して、この四千年間あらゆる土地を廻り、試行錯誤を重ねた。そしてそこには現在この世界を支える“理”を解する必要があり、それにはシェリダンの現状がまたとない鍵となるのだという。
「いくら僕でもそんな知り合いは君くらいだからね。前世、現世、来世と三人分の人格を披露して、あまつさえ来世の中に前世が出てきてくれるような友人は」
「そういえばそうだな。一瞬とはいえ以前初代皇帝に意識を乗っ取られたことを考えれば、私は三代分の人間としての顔をお前に見せたことになるのか」
「そう、一人の人間が生まれ変わる遍歴を」
魂には前世がある。魂は生まれ変わる。
ロゼウスはそれを知っていて、シェリダンの魂が再び人間として生まれ変わることに賭け、もう一度会いたいという望みで自分を支えてこれまでの四千年間を生きてきた。
しかしそもそも、転生も来世も現実に存在することを、ロゼウスたちはどうやって知ったのか。それは彼らが過去に経験した事実に遡る。
ロゼウス=ローゼンティアとシェリダン=エヴェルシードは、そもそも彼ら自身が初代皇帝とその選定者とされる二人の生まれ変わりだった。四千年前の皇位を巡る事件の中で前世の人格が蘇り、二人と関係者一同はその事実を知った。
もちろんロゼウスはロゼウスで、シェリダンはシェリダンだ。彼らの人生に前世は関係ない。しかし“神聖なる悲劇”と呼ばれる惨劇を経て帝国を成立させた男たち――特に皇位を奪われ殺された選定者こと皇帝候補にとっては、生まれ変わったくらいで忘れられる恨みではなかったらしい。
紆余曲折を経て、初代皇帝と選定者は和解し、その生まれ変わりたちの中で大人しく眠りについた。その時にロゼウスも自身のシェリダンへの想いの激しさを自覚するとともに、人は死んで生まれ変わっても前世の記憶を保持しているという事実を知ったのだ。
とはいえ、もともとシェリダンの前世である初代皇帝は極限までその人格を表出することはなかった。前世の人格に乗っ取られて実の弟を殺したロゼウスと比べた際に、前世の人格の強引さなのか現世の意志の強さなのかは、どちらも性格だけでなく殺した者と殺された者という立場の違いがあって単純に比較することができない。
人は生まれ変わる。それも強い意志を持てば、前世の人格が現世の肉体に蘇ることもある。
それは狂気に蝕まれ望まずシェリダンを手にかけたロゼウスにとっては、たった一つの希望だった。
現世の人格を殺してでもシェリダンを取り戻す。それによって彼に恨まれても――。その目論見は、意外にもシェリダンの方が現世の人格と入れ替わり再びこの世に舞い戻ったことで転機を迎えた。
ルルティス=ランシェット。
皇帝領にやってきたその当初から、シェリダンによく似た容貌で周囲を惑わせたその少年。
同じエヴェルシード人であり同じくシェリダンに酷似した容貌のフェルザードは付き合えば付き合うほどシェリダンとの違いをはっきりとさせた。だがルルティスは、彼を知れば知るほどに、全く違うはずの二人の少年の中に共通する面影を探させずにはいられない人物だった。
正直なところを言えば、ロゼウスもその従者でありシェリダンの元部下であるローラたちも、シェリダンの生まれ変わりを探すことを半ば諦めていた。
星の数ほどの人々の中からたった一人、かつての彼とはすでに違う人間として生きている生まれ変わりを探し出す。いくらロゼウスたちが四千年という時間を生きているとしても、それはあまりにも途方もない願いだった。
はじめの百年は本気だった。その後五百年経ってもまだ希望は捨てなかった。千年を経過してももしかしたらという期待は存在していた。
けれど二千年、三千年と時を経るうちに、夢見たものがあまりにも遠大な野望だったと思い知らされた。
三千年頃はそれでもまだ微かに縋る気持ちがあった。皇暦前に死亡した初代皇帝の選定者とその後数百年を生きたとされる初代皇帝が生まれ変わったのは、皇暦三千年を過ぎたロゼウスとシェリダンの時代。皇位も三十代以上の継承を繰り返した大地皇帝の頃。
けれどそれから更に千年。シェリダンと似ているのに似つかない次代の皇帝フェルザードの登場により、ロゼウスは無限の終わりを感じていた。
次の皇帝が即位すれば、その選定者であろうとも本来先代皇帝はこの世界に用無しだ。シェリダンの生まれ変わりを見つけるよりも早く、ロゼウスの寿命の方が先に来たのだ。
もう自分が生きて彼と会えることはない。同じように会えるとは思っていなかった弟たちの生まれ変わりと会えただけで十分。それが運命だと、受け入れようとした矢先のこの出来事だった。
「――ロゼウスはさ、お前のことを探していたよ。ずっとずっと」
話の継ぎ目に、ハデスがぽろりと口にした。彼自身どうしてそんなことを言ってしまったのかわからないという顔で、それでもここにいないロゼウスの胸の内を僅かなりとも明かす。
今この瞬間の空気が、何か異質だということは皆がわかっている。けれどそれを厳密に形にするのが怖くて、誰も口に出せない。出さない。
「知っているさ。私を殺した本人が、どの面下げて会いに来るつもりだったのか」
さらりときついことを言うシェリダンは、その言葉とは裏腹にとても幸せそうだった。シェリダンの口が悪いのは元からだ。それよりも「ルルティス」がその顔でそんな表情を浮かべているのを見たことがない彼らは、どこか意外な気持ちでそれを眺めていた。
――ああ、そうだ。
笑っている顔はよく見かけるのに、ルルティスは本当に心の底から幸せだという表情を浮かべることがないのだ。彼の笑顔はそればかりでもないのだろうがほとんど対外的なもので、素の感情をそのまま表現したとは言えないように思う。
好奇心に瞳を輝かせ、恐れるものなど何もないという行動力を持つルルティスだが、ふとした瞬間に見せる素顔は意外にも静かで冷たいもの。
それがかつてロゼウスと出会う前の、彼と出会ってからもしばらく不機嫌な冷たい表情で人を寄せ付けなかったシェリダンと重なって彼らはまったく印象の違う二人の少年を結びつけずにはいられなかった。
本当はわかっている。
「お前は会いに行かないのか。シェリダン」
「行くとも。もう一度眠る前にはな。だが向こうはどうにも忙しそうだ。それに私も、せっかくこの時代に一瞬でもこうして目覚めたのだから、少しこの世界を見てみたいしな」
きっとみんなわかっている。
「シェリダン、お前――」
誰もそれを恐れて何も言わない。ローラもエチエンヌもリチャードも、わかっていて口を噤む。
シェリダン=エヴェルシードは死者。誰よりもそれを自覚しているのは彼自身なのだ。周囲が彼を現世に引き留めようとする意志などものともせず、シェリダンはさっさと元に戻る気満々だ。
そしてそのシェリダンを、現世に押しとどめている唯一の執着がロゼウスの存在。
彼と二人で心行くまで話せば、シェリダンにはもう未練はない。そもそも生まれ変わりを経た時点で、死を超えてこの時代に残るほどの執着は彼の方にはないのだろう。
愚かで甘い夢想だった。
魂の転生先を見つければ、その前世を取り戻せるなどと。
そうして彼はまるで当然のような顔で、彼らにもう一度彼を喪わせるのだ。
「……いや、君は本当に、何度死んでも本当に酷い男だよ」
「そこまで詰られると、男冥利に尽きるな」
「嘘つけよ女性恐怖症」
室内に満ちる空気は空虚。
これは偽りの時間。幸福な幻。
わかっていても縋りたいのだ。その執着の強さは、言い換えればこの束の間の現実が夢のように脆いということの裏返し。
もしもロゼウスが彼自身の望み通りに即座にシェリダンの生まれ変わりを見つけ出し、現世の人格を殺してでもシェリダンを取り戻そうとしたらどうなっていただろう。
その時はきっと――。
コンコン、と部屋の扉を誰かが叩いた。
「はい、どなたですか?」
エチエンヌが小姓らしく誰何の声をかける。礼儀正しくノックなどするから誰かと思えば、相手は本当に馴染みのない名を名乗った。
「え、でも……あっ、シェリダン様! ちょっと!」
困惑の声を無視して立ち上がったシェリダンが自ら扉を開き、その訪問者を迎え入れる。
◆◆◆◆◆
「アドニス! ……何やってんだ? お前ら」
「ああっ! ゼファード殿下! 元はと言えばあなたの部下でしょう、止めてくださいよあれ!」
友人の魔術師を探して過去の王とその従者たちが休む部屋に礼儀を無視して突入したゼファードは、予想外の光景に目を丸くした。彼に声をかけてきたのも彼が探していた友人ではなく、皇帝の小姓の方だ。
「あの人、シェリダン様の部下にしてくれってしつこいんです!」
「しつこいっても、あの人が来たのはついさっきよ、エチエンヌ」
よく似た双子は対照的な表情を浮かべ、部屋の奥の長椅子に一人悠然と腰かける主人と、その足元に跪いて懇願する男を見つめる。
「シェリダン様ったら相変わらず男たらしなんですもの。魅力的な主君を持ったんだから仕方ないわ」
「感心してる場合じゃないでしょ! 姉さん!」
焦るエチエンヌと動じないローラ。困惑しながらも穏やかに見守る様子のリチャードと、予想外の成り行きに途方に暮れているハデス。
そして彼らの問題の元となっている男は、どちらかと言えば彼らよりもゼファードにとって馴染み深い相手だった。
つまり、彼の部下。
「――何をやっているんだ、ウェントワース」
「で、殿下!」
本来崇めるべき主君の入室に気づかなかったらしき男は、冷ややかなゼファードの目に声を裏返らせた。
ウェントワースはゼファードの部下、そして誰あろう、シェリダンことルルティスと共に呪具破壊を任され見事その任を果たして生還した部隊のまとめ役、そう、あの部隊長だった。
ルルティスの負傷後、彼と入れ替わりに指揮を振るったシェリダンの采配に感銘を受けた部隊長は、ぜひとも彼の下で働かせてほしいと、忙しい時間の最中をぬってシェリダンに会いに来たところらしい。
「へぇ、ふーん、そう。俺の部下をやめてその男のもとに、ねぇ」
ここに来るまでも執務室でロゼウスたちと色々あったゼファードの声が氷点下の如きになる。
これまで侮られていたとはいえ、一応王太子扱いだったゼファードの特殊任務の隊長を務めたくらいだから、ウェントワースは城の重鎮の一人だ。今日まさに政敵である叔父を下して王国内で安泰の地位を築いた王子の側近の地位を、軽々しく捨てるような男でもない。
その男が、正式な王太子となったゼファードの部下の位を返上してまでシェリダンの下につきたがった。その意味。
「――ゼファード殿下、お許しください。殿下に不満があるわけではないのです。ただ、私は……」
部隊長の言い分を、とりあえず一通りゼファードは聞いてやった。
武人らしく簡潔な説明に終始した部隊長の短い言葉は、それ故に昨日――厳密に言えば今日初めて出会ったはずの元国王への強い信望を窺わせる。
それが、ゼファードのこれまで押さえつけていた感情を爆発させた。
「ああもう! アドニス!」
「うわっ、そこで僕に振るの?!」
話の流れを無視していつもと姿の違う友人に呼びかけたゼファードの言葉に、ハデスはうっかりと反応してしまった。
「ハデス様、今は――」
気づいたローラが諌めようとしてももう遅い。黒の末裔の姿に戻ったハデスは、アドニスとの呼びかけに応えてしまった。ハッと口元を押さえるハデスの驚いた顔に、ゼファードは痛みを堪えるような表情を向けた。
「お前、ずっと俺を騙してたんだな。お前だけは、皇帝領で、俺やフェザーをその男と比べたがる他の連中とは違うと思ってたのに」
「違う! ゼファード、僕は……!」
ハデスがアドニスであること。それはロゼウスたち皇帝領の面々にとってはごく当たり前のことだった。しかしゼファードにとっては違う。そして少年の気持ちのために、彼らはこれまで、その事実を黙っていた。
しかしついにそれが知られてしまったのだ。しまったという顔をするハデスと、裏切られたような表情のゼファード。それは図らずしも過去本当に友人を裏切り、もう友を裏切るような真似をしないと誓ったハデスを何よりも切り裂いた。
そしてゼファードの怒りは、もともとの対象へと戻る。ロゼウスが当座の生贄として突き出したハデスだけでは、もうこの場を収めることはできない。
「――全部、原因はあんただ」
「ゼファード殿下! おやめください!」
部屋の中にも関わらず、ゼファードは剣を抜いた。広い室内なので調度や人に被害を出すことはなかったが、剣を抜くという行為そのものが敵意を示すには十分だった。
そしてその切っ先は、紛うことなくただ一人にまっすぐ向けられている。
「シェリダン=エヴェルシード! この俺、ゼファード=エヴェルシードと勝負しろ!」